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第五十八話 ハンガリー占領の裏で

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 ワラキアからヴラド率いる正規軍の本隊が到着したという事実は、ハンガリー貴族の最後の希望を打ち砕いた。
 それはマルクトのように傀儡政権とはいえ間接統治にするのではなく、ヴラド自身がハンガリーの直接統治に臨むという何より雄弁な証であったからである。
 ヴラドの到着を待っていたかのように、マルクトによって失脚させられていた有能な官僚たちが次々とヴラドに召し出されていく。
 これに対して不満を抱く貴族もいるにはいたが、ヤーノシュ亡き今王都を実質的に掌握するワラキア軍と、北部でにらみを利かせるヤン・イクスクラの北部ハンガリー軍を相手に実力で反抗できるものなどいるはずがなかった。

「すでにハンガリーの貴族の7割は掌握したといってもよいでしょう。一部神聖ローマ帝国の支援を受けようとするものもいるようですが、泳がせておいても害はありますまい。所詮あのフリードリヒ3世にわれらを相手に剣をとる気概はありませぬ」
 訥々と無表情のまま語り続けるシエナの報告に俺はうなづいた。
 婚姻政策によってハプスブルグ家全盛の切っ掛けをつくったフリードリヒ3世だが、その政治手腕も軍事的才能もお世辞にも有能なものとは言えないからだ。
 史実では弟のアルプレヒト6世によって首都ウィーンから追放の憂き目を見ており、その後ハンガリー国王にオーストリア国王の地位とウィーンを奪われるという屈辱を味わっている。
 ただ人並み外れた忍耐力と、寿命と運が備わっていたことも事実であり、そうした意味で不測の事態の警戒を怠ることはできない相手でもあった。
 それでも今回に限って言えば、ハンガリーに対する神聖ローマ帝国の軍事的脅威は無視してもよいレベルなのは間違いあるまい。
「それでヤーノシュの側近であったギシーを捕らえたところ、ヤーノシュの遺児が見つかったとこのとですがいかがなさいますか?」
「マーチャーシュか?」
「そんな名であったと記憶しておりますが」
 マーチャーシュ・コルヴィヌス――――のちの正義王もこの時点では6歳の幼子にすぎない。殺してしまうことも僧院に入れることも造作もないことだが。
「手数をかけるが叔父上のお力をお借りするとしよう。モルダヴィアに使者をたてよ。12歳になったらワラキアの士官学校に入れる」
「よろしいので? ハンガリーの貴族どもが担ぎ出さぬとも限りませんが?」
「12歳になってもその程度の判断ができんなら、所詮俺の役には立たんと言うことだろう」
「御意」
 史実であればマーチャーシュは義兄と呼んだ男である。
 ワラキアから逃れてきたヴラドを監禁したとはいえそれはあくまでもハンガリーの国益を考えての行動であり、同じフニャディ・ヤーノシュに育てられた弟子同士として互いに敬意を払い力を認め合った仲でもあった。
 最終的に妹イローナを嫁がせて、ヴラドをワラキアに送り出したのもマーチャーシュである。
 結果的にオスマンとの戦いで疲弊しきったワラキア貴族にヴラドは暗殺されてしまったことを考えれば、マーチャーシュが匿ってくれていたおかげでヴラドは45歳までの生を全うできたとも言えるだろう。
 ハンガリーばかりかオーストリア大公位を継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝まであと一歩と迫ったマーチャーシュの政軍両略の才能は、いくら評価しても評価しすぎることはない。
 ここで失わせるにはあまりに惜しい才能である。
 温厚で愛情深いモルダヴィア公のもとで成長するならば、いずれワラキアの一翼を担わせることも不可能ではないはずであった。
「すでにブダにもワラキアと同様の士官学校と官僚学校の建設を進めております。ワラキア法典の施行も準備は滞りなく」
「うむ」
 ハンガリーもワラキア同様貴族の連合政権であり中央の権威が低い封建国家である。
 貴族を中央に取り込み庶民から官僚を育成するには、王立の学校を利用するのが一番てっとり早いのだ。
 ワラキア法典はローマから輸入したローマ法大全のリニューアル版である。
 ユスティニアス1世によって制定されたローマ法大全はハンムラビ法典、ナポレオン法典と並んで世界三大法典の一つとされている。
 のちの欧州世界にの民法典にも大きな影響を与えており中世から近世にさしかかろうとしている15世紀にあってはこれ以上に体系化され、かつ形骸化せずに通用する法典は存在しなかったといってよい。
 国王と貴族の恣意的な無法がまかり通る野蛮な東欧で文治を根づかせるにあたって慣習法の一部を取り入れたワラキア法典はすでにワラキアとトランシルヴァニアで施行されていた。
 軍事力を背景にしようとも一度法典が受け入れられてしまえば、あとはそれ自体が既得権となって守ろうとする勢力が生まれるはずであった。
 なぜなら法典は貴族の力を制限するものではあるが、同時に王権や外敵から身を守るためのものでもあるからだ。
 予想以上に順調なハンガリー占領政策はベルドの成長に負うところも大きいが、シエナが掌握する情報組織の影からの支援なしにはありえなかったであろう。
 好き嫌いではなく、才幹という意味で俺がもっとも信頼する部下は間違いなくシエナである。
 俺が思い描く新たなワラキアの運営計画において、シエナの力は欠かすことのできないもっとも重要な要素なのだ。

「例の件は進んでいるのか?」
 俺は無意識のうちに声が一段と低くなるのを自覚した。
「ハリル・パシャにはすでに話を通しておりますが――――スルタンの意向までは読めません」
 今こそおそらく最後の機会なのだ。
 ラドゥをオスマンから連れ戻す機会はこの機会をおいてほかにない。
「ハンガリー統治のために俺はもう手一杯だ。ワラキアとトランシルヴァニアを任せスルタンに奉仕するためにはラドゥの存在が絶対に必要になる。そうだな? シエナ」
「御意」
 長らく敵対してきた宿敵ヤーノシュを葬ったことで、スルタンはことのほか機嫌のよいことだろう。
 ヤーノシュという英雄はオスマンにとってそれほどの人物だった。
 そして再びハンガリーがキリスト教勢力に取り戻されるのをスルタンは望むまい。
 何度計算してみても、ラドゥをワラキアに迎え入れられる可能性は、今を逃せば奇跡のような確率に頼らざるをえないのが実情であった。
「すでにオスマン宮廷までもぐりこませた間者を使い、最善を尽くします」
「―――――頼む」
 命令ではなく依頼しか言えない。
 それほど難しく、利の薄い作戦であった。
 ――俺をこの世界に転生させた神がいるのならどうか聞いてくれ。
 俺にあの可愛い弟を見捨てさせないでくれ。
 瞑目して天に祈るヴラドの姿からシエナが表情を隠すように視線をそらしたのをブダの青い月だけが見つめていた。
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