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第五十五話 悪魔の落とし前

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「トゥルゴヴィシテが危ない?」
 使者の言葉を聞いた俺は、情ないことに呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

「必ず勝って帰ってこい。汝は我が誇りだ」

 勝気なヘレナの双眸がよみがえる。
 そのヘレナが 
「だから……早く妾のもとに戻ってきてくれ、我が夫よ」
 ヘレナの命が危ない!?
 そう考えたらもういてもたってもいられなかった。
「ベルド、あとを任せる。全ての責任は俺が取るから自由にやってみろ」
「御意」
 気がついたときにはもうすでに駆け出していた。
 君主として失格かもしれない。
 大主教として背教ですらあるかもしれない。
 しかしそれ以上に大切なことがある。
 おそらくヘレナという家族を失えば、完全に自分の人格がヴラドの怨念に飲み込まれてしまうであろうことを俺は本能的に察した。
 史実のヴラドが妻イローナを失って変わってしまったように。
 彼女こそは自分にとって、この世界に自分を繋ぎとめるよすがのひとつなのだ。

 もちろんベルドに君主の命に否やなどなかった。
 誰よりもヴラドの近くで、ヴラドを知る自分だからこそ託されたという自負があった。
「ゲクラン殿、精鋭の中隊を率いて殿下を追って下さい。残りの者は私とともにブダへと向かいます」
「承知した、殿下の手法を誰よりも真近で見てきた貴殿だ。きっとやれる」
「私もそう信じています」
「マルティン! フーバー! グレッグ! オレの後に続け!」
 馬を飛ばしてトゥルゴヴィシテを目指すヴラドの後を、ゲクラン率いる常備軍の精鋭が疾風のように追った。
 所詮不平貴族の戦力などたかが知れている。
 全ては時との勝負だった。
 裸同然のトゥルゴヴィシテ城が陥落する前に間に合うかどうか。
 ヘレナ姫が無事であるうちに到着できるかどうか。
 近臣としていつもヴラドの傍に仕えていたベルドは知っていた。
 半ば神がかった敬愛する万能の主君が、あの小さな少女に、いかに心のもっとも柔らかな部分を委ねていたかということを。
 その事実はベルドにとってどこかほろ苦いものであったけれど。


 泣き疲れて眠ってしまったヘレナをベッドに横たえると、いつの間にか現れたサレスが深々と俺に向かって頭を下げる。
「本当によく間に会ってくださいました」
「お前が時間を稼いでくれたおかげだ」
 明らかに不穏な暗殺者のいでたちに身を包んだ侍女を問い詰めようとは思わなかった。
 ヘレナが信を置いているというだけで、彼女を信じるには十分な理由であった。 
 東の空に日が昇り始める。
 その山際で腕木が味方の勝利を告げているのが見えた。
 不眠不休で幾頭もの馬をつぶし、手近な馬を強奪してまで駆け付けたヴラドとゲクランの精鋭は腕木通信の速度すら上回ったということらしい。

「―――――この貸しはでかいぞ、ザワディロフ」


 夜明けとともに、城壁からの反撃が急速に弱まったことにザワディロフは気づいた。
 手を焼かせてくれたがようやく力尽きたか。
 そもそもここまで戦えたこと自体が戦力比を考えれば奇跡のようなものだ。
 総攻撃を命じようとしたザワディロフの前で半ば崩れ去った城門がゆっくりと開き始めた。
「ふん、今さら降伏などしても……」
 許さんと言いかけてザワディロフの舌は凍りついた。
 決してそこにいてはいけない男が、鬼気迫る憤怒も露わにザワディロフを睥睨していた。
「た、大公殿下……ハ、ハンガリーへ赴かれたはずでは?」
 ようやくザワディロフはそれだけを言った。
 本物の串刺し公を前にして、戦意など遠い彼方へと吹き飛んでいた。
 所詮ザワディロフの勇気とはヴラドの留守に寝込みを襲うだけのものにすぎなかったのである。
 ありえない。
 ありえない。
 十字軍は三万を数えるはずではなかったか。
 オスマンを相手に一歩も引かなかった名将ヤーノシュがそれを率いているのではなかったか。
 しかも軍勢を率いてこの男はハンガリーに出征したはずではないか!
 どうやってこの男は城に入ることが出来たのだ? まさかワラキア公は真実悪魔であるとでも??
 信じられない現実を受け入れられず、うろたえるザワディロフを俺は薄く嗤った。
 どうやら怒りも限界を超えると笑顔になるというのは本当らしかった。
「貴様は俺の禁忌に触れた」
 ただトゥルゴヴィシテが攻められたというだけであれば、ここまで心が乱されることはなかっただろう。
 そこに触れられたら命のやり取りをするしかない、という禁忌にこの男は土足で踏み込んだ。である以上一辺の温情も与える必要を俺は認めなかった。
 恐怖のあまり舌先を凍らせてザワディロフはブルブルと震えた。
 こうして目の前にしてようやくヴラドこそは、貴族で串刺しの森を作りあげた大量虐殺者であることを実感したのである。
 歯向かうべきではなかった。
 後悔とともにいかに許しを乞うべきであるか必死に言いわけを模索しているザワディロフに無情な言葉が投げつけられた。
「太古の王が言った言葉に、目には目を歯には歯をという言葉があるというが、ここは余も王のひそみに倣うとしよう」
 目には目を、家族には家族を。
「余に逆らった不心得者たちよ。名誉回復の機会を与えよう。ザワディロフとその一族を殺した者には特赦を与えるぞ」
 ザワディロフを取り囲む兵士たちの気配が、殺気へと変わったことをザワディロフは感じた。
 彼らにとっては逃れえぬ死地が転じて恩賞の機会となった瞬間だった。
「ま、待て! 待ってくれ!」
 ザワディロフの懇願もむなしくザワディロフの弟が、息子が魂切る悲鳴をあげて兵士たちに首を刈り取られていった。
 さらに甥が、従兄弟が抵抗するも無惨に切り刻まれて断末魔の悲鳴をあげる。
 自分たちの血統が地上から失われる恐怖は、自らの死に対する恐怖に勝るものであった。
「頼むから一族のものにまで手は出さないでくれ! こんな非道を神が許すと思うか?」
 ザワディロフの魂切る絶叫にも地獄絵図が治まることはない。
 なぜなら地獄の支配者こそは悪魔であり、彼はただの地獄に落ちた哀れな亡者のひとりにすぎないのだから。
「おのれ悪魔(ドラクル)め! 許さん! 貴様の所業、決して許しはせぬぞ!」
 絶望・悔恨・悲哀・憤怒、様々な感情に翻弄されながら、ザワディロフは憎しみで人が殺せたらと言わんばかりにヴラドを睨みつけている。
 だが、彼の決断こそが一族をこの悲劇へと追いやったのだ。
 ザワディロフの目の前に首を積み上げると将来を期待していた息子の変わり果てた姿にザワディロフは嗚咽を漏らして叩頭した。
 全てはもう取り返しがつかない。失われた命が決して戻ることはない。
 なんということをしてくれた。
 なんということをしてしまったのだ。
「おお……」
 嘆くことにも疲れ切った老人が、もはや憎む力すら失って絶望に身を浸して座りこんだ。
 ゆっくりとザワディロフが壊れて逝く光景を見物した俺は、ゲクランから銃を受け取ると無造作に引き金を引いた。

「…………その顔が見たかった」
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