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第五十三話 ヘレナの戦い5
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薄暗い貧民の集うあばら屋でトゥルゴヴィシテ市民にもザワディロフにも忘れ去られていた深い闇がわだかまっていた。
かつてルーマニアにおいて商業利権を独占してきたサス人の一団がそれだった。
ヴラドが大公に即位したつい二年ほど前までは絶対的といってよい価格決定権を持ち、我が世の春を謳歌してきた彼らも、ヴラドの改革によって利権の全てを失いその力のほとんどを喪失してしまっていた。
彼らにもルーマニア人と同様の保護を与えられたため、資産の取り崩しながらなんとか商人としての看板を保った者も多いが、利権に頼りすぎて真っ当な商売が出来ず、人夫や物乞いにまで成り下がっている者も数多くいたのである。
彼らは一様にかつての栄光の日々を懐かしみ、ヴラドに対して怨念に近い感情を抱いていた。
その彼らにとってふって湧いたような福音が訪れたのだ。
恩賞の一万ダカットといえば彼らが一生遊んで暮らせるだけの金額である。
日々の食事にさえ事欠くまで困窮した彼らにとっては、喉から手が出るほど欲しいものだった。
しかもヴラドの政権が崩壊することこそ彼らの悲願、かつての栄光への復権への一歩である。
これに協力しないという選択肢はありえなかった。
ただヴラドがかつて行った民衆蜂起とは逆に、人口的に絶対少数であるサス人は迂闊に活動すれば、圧倒的多数であるルーマニア人によって袋叩きに会う可能性があったのである。
「夜が更けるまで待とう。見つかれば終わりだ」
日中であれば素人の集団である彼らでは、ルーマニア人の自警団に叩きのめされるのが関の山である。
幸いにして戦いは夜を徹して行われて、もともと少ない警戒の人数は城壁付近に集中していた。
そして、圧倒的多数のザワディロフとの戦闘のために全兵力がかかりきりになっている現在、ヘレナが住まうワラキア宮殿は無防備な姿を彼らの前にさらけ出しているはずであった。
――――――深夜
七十に達しようかという老執事は、自ら志願して寝ずの番を行っていた。
若かりし頃戦場の最前線を駆け巡った経験のある彼は戦闘が継続中である以上、万が一に備えて寝るなどということが贅沢を許すことができなかった。
しかしその彼の心がけは無駄ではなかった。
数十人に及ぶサス人の一団が、鎌やナイフを手に宮廷の塀を乗り越える様子を見逃さずにすんだのだから。
「起きろ! 敵襲だ! 姫様を逃がせ!!」
「くそ! 死にぞこないの爺め、邪魔をしやがって!」
すっかり寝静まっていると思い込んでいたところに、大声をあげて警鐘を鳴らした執事にサス人たちの理不尽な怒りが集中した。
「死ね!!」
数え切れない刃物で膾のように切り刻まれて、年老いた執事はたちまち絶命した。
それでもなお、執事は抱きつくようにして刃物を体内深く埋没させ、わずかでも主人のための時間を稼いだ。
誇り高い騎士のごとく、老執事は自らの職務を全うして満足とともに死んだのだった。
「お逃げください! 姫様!」
「無駄じゃな。回廊のなかに入りこまれたらここは袋の鼠じゃ」
逃亡を促すサレスの言葉に、ヘレナは静かに首を振った。
ヘレナの居室は宮廷の一番奥深くにあり、そこに至るには回廊を必ず通らなければならない。
途中の部屋に隠れてやりすごすという手段もあったが、見つかった場合時間を稼ぐことすら出来ずに殺される可能性が高かった。
邸内に響く悲鳴を聞けば、彼らが途上の部屋をしらみつぶしに調べていることは明らかであった。
「これからこの部屋を封鎖する。サレスは外に出て時間を稼げ」
「姫様! それでは……」
「このままではジリ貧じゃ。残念ながら我らの手持ちで奴らの戦力を削れるのはお前以外におらぬ」
「ううっ」
理性ではヘレナの正しさを認めながらヘレナのもとを離れたくないと言う感情にサレスは苦渋に唇を噛みしめた。
もともとサレスはイスラム世界で暗殺者として鍛えられている。
暗殺者の本領は奇襲によって相手を闇から闇へ葬ることであって、戦場で正面から無双することにはない。
サス人が素人であることを考えても、サレスが相手にすることが出来るのは数人がいいところだ。
なら遊撃としてヒットアンドアウェイでサレスの技能を生かすのが、ヘレナにとってもっとも生存確率をあげる手段であるのである。
だが自分がいない間にヘレナが殺されてしまってはサレスの腕をふるう甲斐がなかった。
ヘレナはサレスにとってただ主であるだけではない。
暗殺する機械として育てられたサレスに初めて生きるということの喜びを教えてくれた恩人でもあるのだ。
感極まって涙ぐむいつもは生意気なはずの侍女をヘレナは笑って尻を叩いた。
「妾は我が君に会うまで死ぬつもりはない。そのためにはお前の力が必要なのじゃ」
「死んだら許しませんよ?」
「心配するな。妾が約束を破ったことがあったか?」
「割りとたくさんあったと思いますけど」
そういいつつもサレスは子供のわがままに困ったように苦い笑みを浮かべた。
ここ一番というところで、ヘレナが賭けに勝利し続けてきたことをサレスは知っていたからだ。
信頼すべきヘレナの腹心は、優雅にヘレナに向かって頭を垂れると慣れ親しんだナイフを取りだした。
わずかな躊躇もなく確実に命を奪う暗殺者としてサレスはヘレナに背を向ける。かつての人形ではなく、今度こそはサレス自身の意思をもって。
「くそっ! ここにもいねえぞ!」
「魔女の部屋は城の奥だ! さすがに悠長に眠っちゃいねえだろうが……絶対に見逃すんじゃねえぞ!」
彼らにとってヘレナの命こそが勝利の絶対条件である。
いくら城内で人を殺しても、ヘレナを逃せば朝日が昇るとともに今度は彼らが殺戮の対象になるであろう。
万が一にもヘレナを逃がさぬために、見つけた侍女や使用人は一人残らず殺されていた。
城内には濃厚な血臭が立ち込め回廊には、哀れな死体が無造作に転がされ絨毯にその血を吸わせていた。
「全く、度し難い馬鹿ものですわね」
「誰だ??」
苦々しい女性の声に男達が叫ぶと同時に暗闇から白銀の光が煌めく。
鋭く空気を切り裂く音とともにドスッという鈍い男が響いた。
声もなく倒れる男の姿に、抵抗らしい抵抗も受けずにきた男達は敵が反撃してきたという事実にようやく気付いた。
「手前! 殺してやる!」
「女だと思って油断するな!」
侍女のエプロンドレスを脱ぎ捨て、漆黒の暗殺者服に身を包んだサレスの姿を捉えることは素人には至難の業だった。
バタンと扉の閉まる音がしてそこに殺気立った男達が殺到する。
しかし紐で細工されただけの部屋にサレスの姿はない。
無防備な男たちの背中に向かって新たなナイフが突き刺さる。
疾風のようにしなやかな黒い影が走り抜け、いともたやすくサレスは包囲網を突破した。
サレス1人が逃げるだけなら、何の苦もなく彼らの魔手を逃れることが可能であったろう。
姿を秘匿し相手の目を晦ますことこそが暗殺者の本領である。
しかしサレスにとって自らの命以上に大切なのは主にした家族以上の存在であるヘレナであり、今はその生存のために剣をふるわなければならなかった。
「そのテーブルを動かせ! 椅子も積み上げて紐で固定しろ!」
おそらくサレスの能力をもってすれば、十や二十の素人を屠ることは容易いだろう。
問題は城に入りこんだ、おそらくはサス人であろう男たちの人数がどれほどになるかである。
軍隊でもそうだが、味方の3割が失われると兵士は戦線に踏みとどまろうとする士気を喪失することが多い。
まして仲間の数も時間も制限されているサス人であればなおのことである。それまで踏みとどまることが出来れば生き残る目はある。
しかしその確率が決して高くないことをヘレナの冷めた理性は熟知していた。
ザワディロフの攻撃が続いている以上、城壁で奮戦する兵士たちが城内の異変に気づく可能性は低い。
下手をすれば朝になっても市民たちが城の異変に気づかない可能性すらあった。
いくらサレスが凄腕の暗殺者であっても、襲撃に来たサス人を全滅までさせることは不可能だ。
―――――だが妾は死ぬわけにはいかぬ! 妾の生まれてきた天命はこんなところで果てるようなものではない!!
脳裏にヴラドの大きな瞳とはにかんだような笑顔が浮かんで、ヘレナは唐突に泣きだしたい衝動にかられたが、ヘレナは初めて感じる胸を衝く痛みの理由に気づくことはなかった。
ただ泣きだしたい衝動とともに生きなければならない使命感が湧くのを感じて、ヘレナはその思いにすがりつくことでなんとか死の恐怖から踏みとどまっていた。
城内に侵入したサス人のなかにレナリスという男がいた。
彼はかつて富裕な商人であったころに傭兵を指揮した経験があり、ほかの素人よりは少なくとも戦闘というものを知っていた。
彼らの戦術目標は非常にシンプルであり、応援が来るまでにヘレナを殺すことが出来るかどうかに尽きる。
万が一にも失敗しないために捜索を優先してきたが、あの手練の女が逃げもせずこちらの戦力を削りにくるということは、目指すヘレナがいまだこの宮廷の奥に存在するという証左にほかならなかった。
「固まってあの女の挑発に乗るな! ただひたすら守りを固めて女の足を止めろ! 若い奴らだけ5人ほど俺についてこい!」
間違いなく女(サレス)の目論見は時間稼ぎである。
わざわざその思惑に乗る必要はない。
ただただ我々はワラキアの新たな体制の象徴であるヘレナとヴラドを倒すことだけに専念すればよいのだから。
サレスに対する抑えを残し、精鋭でヘレナを殺害に向かうという選択は朝までなんとか時間の引きのばしを図ろうとするヘレナにとって最悪の選択であった。
「――所詮は女の浅知恵ということだ。こんな馬鹿に選ばれし我々が虐げられてたまるものか」
ほんの2年前までリナレスは百人を超える使用人を雇い、傘下の商人を合わせれば千人以上に影響を及ぼすことのできる大商人であった。
だが、だからこそサス人の特権が失われた時に身代の大きな彼の商会が蒙る被害も巨大であった。
しかもヴラドの政策に反対するためにヴラドの政敵と通じた彼の商会は、政敵の敗北とヴラドによるトランシルヴァニアの占領と同時に武力で解散を余儀なくされたのである。
生まれながらに特権階級であるサス人としてルーマニア人の上に君臨してきた彼にとって、現在の不遇は到底我慢できるものではなかった。
たとえザワディロフが賞金を賭けなくとも個人的な怨念によってヘレナを殺害したいという渇望にも似た欲求に突き動かされてリナレスは動物のように唸った。
「ぐっくくっ……!!」
狂気に身を委ねたリナレスと数人の男たちが、ヘレナへと向かっていくのに気づいたサレスは惑乱したと言っていい。
サレスが稼ぎだした時間はわずか30分にも満たない。
このままでは日が昇るまでヘレナの居室は持たないに違いなかった。
「そこをどきなさい!」
手持ちの少なくなってきたナイフを投擲して再び1人の男を倒す、が回廊に固まった数十人の男たちの壁は揺るがない。
むしろサレスがヘレナを助けに向かうことを妨害しようと結束を高めたかにさえ見えた。
唇を噛んでサレスはもどかしそうに身をひるがえした。
彼女の暗殺者としての本能は、あと倒せるのはせいぜい5・6人程度であろうと告げている。
しかしそれではヘレナを救うことができない。
だからといって正面から特攻することもできなかった。
それでは5・6人さえ殺すことが出来ずに、サレスは果てることになるであろうからだ。
暗殺者としての冷めた計算とヘレナの家族としての感情が、サレスのなかでせめぎあう。
こんな感情を自分が抱くことになるなんて。
「ああ神様、いいえ神でなくても、悪魔でもいいから! 誰か、誰か姫様を助けて!」
かつてルーマニアにおいて商業利権を独占してきたサス人の一団がそれだった。
ヴラドが大公に即位したつい二年ほど前までは絶対的といってよい価格決定権を持ち、我が世の春を謳歌してきた彼らも、ヴラドの改革によって利権の全てを失いその力のほとんどを喪失してしまっていた。
彼らにもルーマニア人と同様の保護を与えられたため、資産の取り崩しながらなんとか商人としての看板を保った者も多いが、利権に頼りすぎて真っ当な商売が出来ず、人夫や物乞いにまで成り下がっている者も数多くいたのである。
彼らは一様にかつての栄光の日々を懐かしみ、ヴラドに対して怨念に近い感情を抱いていた。
その彼らにとってふって湧いたような福音が訪れたのだ。
恩賞の一万ダカットといえば彼らが一生遊んで暮らせるだけの金額である。
日々の食事にさえ事欠くまで困窮した彼らにとっては、喉から手が出るほど欲しいものだった。
しかもヴラドの政権が崩壊することこそ彼らの悲願、かつての栄光への復権への一歩である。
これに協力しないという選択肢はありえなかった。
ただヴラドがかつて行った民衆蜂起とは逆に、人口的に絶対少数であるサス人は迂闊に活動すれば、圧倒的多数であるルーマニア人によって袋叩きに会う可能性があったのである。
「夜が更けるまで待とう。見つかれば終わりだ」
日中であれば素人の集団である彼らでは、ルーマニア人の自警団に叩きのめされるのが関の山である。
幸いにして戦いは夜を徹して行われて、もともと少ない警戒の人数は城壁付近に集中していた。
そして、圧倒的多数のザワディロフとの戦闘のために全兵力がかかりきりになっている現在、ヘレナが住まうワラキア宮殿は無防備な姿を彼らの前にさらけ出しているはずであった。
――――――深夜
七十に達しようかという老執事は、自ら志願して寝ずの番を行っていた。
若かりし頃戦場の最前線を駆け巡った経験のある彼は戦闘が継続中である以上、万が一に備えて寝るなどということが贅沢を許すことができなかった。
しかしその彼の心がけは無駄ではなかった。
数十人に及ぶサス人の一団が、鎌やナイフを手に宮廷の塀を乗り越える様子を見逃さずにすんだのだから。
「起きろ! 敵襲だ! 姫様を逃がせ!!」
「くそ! 死にぞこないの爺め、邪魔をしやがって!」
すっかり寝静まっていると思い込んでいたところに、大声をあげて警鐘を鳴らした執事にサス人たちの理不尽な怒りが集中した。
「死ね!!」
数え切れない刃物で膾のように切り刻まれて、年老いた執事はたちまち絶命した。
それでもなお、執事は抱きつくようにして刃物を体内深く埋没させ、わずかでも主人のための時間を稼いだ。
誇り高い騎士のごとく、老執事は自らの職務を全うして満足とともに死んだのだった。
「お逃げください! 姫様!」
「無駄じゃな。回廊のなかに入りこまれたらここは袋の鼠じゃ」
逃亡を促すサレスの言葉に、ヘレナは静かに首を振った。
ヘレナの居室は宮廷の一番奥深くにあり、そこに至るには回廊を必ず通らなければならない。
途中の部屋に隠れてやりすごすという手段もあったが、見つかった場合時間を稼ぐことすら出来ずに殺される可能性が高かった。
邸内に響く悲鳴を聞けば、彼らが途上の部屋をしらみつぶしに調べていることは明らかであった。
「これからこの部屋を封鎖する。サレスは外に出て時間を稼げ」
「姫様! それでは……」
「このままではジリ貧じゃ。残念ながら我らの手持ちで奴らの戦力を削れるのはお前以外におらぬ」
「ううっ」
理性ではヘレナの正しさを認めながらヘレナのもとを離れたくないと言う感情にサレスは苦渋に唇を噛みしめた。
もともとサレスはイスラム世界で暗殺者として鍛えられている。
暗殺者の本領は奇襲によって相手を闇から闇へ葬ることであって、戦場で正面から無双することにはない。
サス人が素人であることを考えても、サレスが相手にすることが出来るのは数人がいいところだ。
なら遊撃としてヒットアンドアウェイでサレスの技能を生かすのが、ヘレナにとってもっとも生存確率をあげる手段であるのである。
だが自分がいない間にヘレナが殺されてしまってはサレスの腕をふるう甲斐がなかった。
ヘレナはサレスにとってただ主であるだけではない。
暗殺する機械として育てられたサレスに初めて生きるということの喜びを教えてくれた恩人でもあるのだ。
感極まって涙ぐむいつもは生意気なはずの侍女をヘレナは笑って尻を叩いた。
「妾は我が君に会うまで死ぬつもりはない。そのためにはお前の力が必要なのじゃ」
「死んだら許しませんよ?」
「心配するな。妾が約束を破ったことがあったか?」
「割りとたくさんあったと思いますけど」
そういいつつもサレスは子供のわがままに困ったように苦い笑みを浮かべた。
ここ一番というところで、ヘレナが賭けに勝利し続けてきたことをサレスは知っていたからだ。
信頼すべきヘレナの腹心は、優雅にヘレナに向かって頭を垂れると慣れ親しんだナイフを取りだした。
わずかな躊躇もなく確実に命を奪う暗殺者としてサレスはヘレナに背を向ける。かつての人形ではなく、今度こそはサレス自身の意思をもって。
「くそっ! ここにもいねえぞ!」
「魔女の部屋は城の奥だ! さすがに悠長に眠っちゃいねえだろうが……絶対に見逃すんじゃねえぞ!」
彼らにとってヘレナの命こそが勝利の絶対条件である。
いくら城内で人を殺しても、ヘレナを逃せば朝日が昇るとともに今度は彼らが殺戮の対象になるであろう。
万が一にもヘレナを逃がさぬために、見つけた侍女や使用人は一人残らず殺されていた。
城内には濃厚な血臭が立ち込め回廊には、哀れな死体が無造作に転がされ絨毯にその血を吸わせていた。
「全く、度し難い馬鹿ものですわね」
「誰だ??」
苦々しい女性の声に男達が叫ぶと同時に暗闇から白銀の光が煌めく。
鋭く空気を切り裂く音とともにドスッという鈍い男が響いた。
声もなく倒れる男の姿に、抵抗らしい抵抗も受けずにきた男達は敵が反撃してきたという事実にようやく気付いた。
「手前! 殺してやる!」
「女だと思って油断するな!」
侍女のエプロンドレスを脱ぎ捨て、漆黒の暗殺者服に身を包んだサレスの姿を捉えることは素人には至難の業だった。
バタンと扉の閉まる音がしてそこに殺気立った男達が殺到する。
しかし紐で細工されただけの部屋にサレスの姿はない。
無防備な男たちの背中に向かって新たなナイフが突き刺さる。
疾風のようにしなやかな黒い影が走り抜け、いともたやすくサレスは包囲網を突破した。
サレス1人が逃げるだけなら、何の苦もなく彼らの魔手を逃れることが可能であったろう。
姿を秘匿し相手の目を晦ますことこそが暗殺者の本領である。
しかしサレスにとって自らの命以上に大切なのは主にした家族以上の存在であるヘレナであり、今はその生存のために剣をふるわなければならなかった。
「そのテーブルを動かせ! 椅子も積み上げて紐で固定しろ!」
おそらくサレスの能力をもってすれば、十や二十の素人を屠ることは容易いだろう。
問題は城に入りこんだ、おそらくはサス人であろう男たちの人数がどれほどになるかである。
軍隊でもそうだが、味方の3割が失われると兵士は戦線に踏みとどまろうとする士気を喪失することが多い。
まして仲間の数も時間も制限されているサス人であればなおのことである。それまで踏みとどまることが出来れば生き残る目はある。
しかしその確率が決して高くないことをヘレナの冷めた理性は熟知していた。
ザワディロフの攻撃が続いている以上、城壁で奮戦する兵士たちが城内の異変に気づく可能性は低い。
下手をすれば朝になっても市民たちが城の異変に気づかない可能性すらあった。
いくらサレスが凄腕の暗殺者であっても、襲撃に来たサス人を全滅までさせることは不可能だ。
―――――だが妾は死ぬわけにはいかぬ! 妾の生まれてきた天命はこんなところで果てるようなものではない!!
脳裏にヴラドの大きな瞳とはにかんだような笑顔が浮かんで、ヘレナは唐突に泣きだしたい衝動にかられたが、ヘレナは初めて感じる胸を衝く痛みの理由に気づくことはなかった。
ただ泣きだしたい衝動とともに生きなければならない使命感が湧くのを感じて、ヘレナはその思いにすがりつくことでなんとか死の恐怖から踏みとどまっていた。
城内に侵入したサス人のなかにレナリスという男がいた。
彼はかつて富裕な商人であったころに傭兵を指揮した経験があり、ほかの素人よりは少なくとも戦闘というものを知っていた。
彼らの戦術目標は非常にシンプルであり、応援が来るまでにヘレナを殺すことが出来るかどうかに尽きる。
万が一にも失敗しないために捜索を優先してきたが、あの手練の女が逃げもせずこちらの戦力を削りにくるということは、目指すヘレナがいまだこの宮廷の奥に存在するという証左にほかならなかった。
「固まってあの女の挑発に乗るな! ただひたすら守りを固めて女の足を止めろ! 若い奴らだけ5人ほど俺についてこい!」
間違いなく女(サレス)の目論見は時間稼ぎである。
わざわざその思惑に乗る必要はない。
ただただ我々はワラキアの新たな体制の象徴であるヘレナとヴラドを倒すことだけに専念すればよいのだから。
サレスに対する抑えを残し、精鋭でヘレナを殺害に向かうという選択は朝までなんとか時間の引きのばしを図ろうとするヘレナにとって最悪の選択であった。
「――所詮は女の浅知恵ということだ。こんな馬鹿に選ばれし我々が虐げられてたまるものか」
ほんの2年前までリナレスは百人を超える使用人を雇い、傘下の商人を合わせれば千人以上に影響を及ぼすことのできる大商人であった。
だが、だからこそサス人の特権が失われた時に身代の大きな彼の商会が蒙る被害も巨大であった。
しかもヴラドの政策に反対するためにヴラドの政敵と通じた彼の商会は、政敵の敗北とヴラドによるトランシルヴァニアの占領と同時に武力で解散を余儀なくされたのである。
生まれながらに特権階級であるサス人としてルーマニア人の上に君臨してきた彼にとって、現在の不遇は到底我慢できるものではなかった。
たとえザワディロフが賞金を賭けなくとも個人的な怨念によってヘレナを殺害したいという渇望にも似た欲求に突き動かされてリナレスは動物のように唸った。
「ぐっくくっ……!!」
狂気に身を委ねたリナレスと数人の男たちが、ヘレナへと向かっていくのに気づいたサレスは惑乱したと言っていい。
サレスが稼ぎだした時間はわずか30分にも満たない。
このままでは日が昇るまでヘレナの居室は持たないに違いなかった。
「そこをどきなさい!」
手持ちの少なくなってきたナイフを投擲して再び1人の男を倒す、が回廊に固まった数十人の男たちの壁は揺るがない。
むしろサレスがヘレナを助けに向かうことを妨害しようと結束を高めたかにさえ見えた。
唇を噛んでサレスはもどかしそうに身をひるがえした。
彼女の暗殺者としての本能は、あと倒せるのはせいぜい5・6人程度であろうと告げている。
しかしそれではヘレナを救うことができない。
だからといって正面から特攻することもできなかった。
それでは5・6人さえ殺すことが出来ずに、サレスは果てることになるであろうからだ。
暗殺者としての冷めた計算とヘレナの家族としての感情が、サレスのなかでせめぎあう。
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ルークは失っていた日常を段々と取り戻していく。
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