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第四十六話 煉獄の戦い1
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トランシルヴァニアとハンガリーの国境の街、オレディアを西に向かうとフォルデスという小さな町がある。
緩やかな丘と平野に囲まれたそこは平時であればのどかで豊穣な大地に他ならなかったろう。
しかし、今やそこは東欧における戦乱の中心であり、東西のキリスト教徒が血で血を洗う闘争を繰り広げる運命の場でもあった。
後の世にフォルデスの戦いと呼ばれることになる一連の戦いは、近代にいたるまでの数百年を全く別の名で呼ばれていた。
煉獄の戦い、と。
「ずいぶんとまた気張ってくれたものだな」
「二万ってところでしょうか」
ヤーノシュは総勢三万余に膨れ上がった遠征軍を二手に分けた。
あえて戦力分散の挙に出たのにはわけがある。
寡兵であるワラキア軍が十字軍に勝利するためには、野戦築城の防御力によって戦力差を覆す以外にはない。
しかし前回苦杯をなめた野戦築城に対し、正面から攻撃を仕掛ける愚を犯すつもりはヤーノシュには毛頭なかった。
いかにワラキア軍が工兵能力に優れていたとしても、進撃する全ての戦力において築城をこなすのは不可能であろう。
結局のところワラキア軍は巣穴から出て迎撃に転じざるをえない。
そうでなければ十字軍は有力な防御施設はあえて素通りし、警戒の兵だけを残してトランシルヴァニアの首都を目指すだけだ。
圧倒的多数の兵力を擁するヤーノシュにとって、それが最良の戦略であるはずだった。
これに対し、ヴラドは分派されたドイツ騎士団を主力とする支軍にタンブル率いる一千を当て、残る全軍をヤーノシュ率いる主軍に向けた。
立てこもっても相手にされないならば、打って出るしかないというのはヤーノシュの想像した通りであった。
しかしヴラド側に全く勝算がないというわけではない。
すでに北部で南下の構えを見せているヤン・イスクラに備えるため、ヤーノシュは本国に五千の兵を待機せざるをえなかったし、ヴラドの大司教就任の報を聞いたドイツ騎士団は戦意のあがらぬこと著しかった。
要するにヤーノシュの本隊さえ撃破できれば、容易く勝利を得ることは可能であったのだ。
ヤーノシュ率いる十字軍二万はオーソドックスな諸兵科連合である。
ハンガリーの誇る重騎兵に加え、軽騎兵と歩兵がバランスよく配置されているが、歩兵の中核は傭兵でありその結束力は弱かった。
対するワラキア軍は常備軍の銃兵を中心にネイ率いる竜騎兵部隊が両翼を固める。その数は四千程度で十字軍の三分の一にすら満たない。
フォルデスの平野で両者は睨みあった。
「ふん、ヴラドよ、今度こそは逃がさんぞ」
ヴラドの本隊を捕捉したヤーノシュは、この機会に絶対にヴラドの命を奪うつもりでいた。
戦いに勝利するのはもちろんのことであるが、ヴラドの命さえ奪うことができればワラキア軍などいくら逃げだしても問題はない。
もとより小国で豪族の連合体にすぎなかったワラキアなど、ヴラドという支柱が倒れれば自然に崩壊することは確実なのだ。
今回はあの厄介な鉄線も壕も柵もない以上、兵力の差がそのまま戦力の差になるはずであった。
――唐突に戦場に調べが流れ出す。
天にまします我らが父よ
汝が子らに祝福を与えたまえ
そして汝に徒なす悪魔に罰をくだし、
我らが勝利の喜びを分かち合うことを許したまえ
Amen
ゾクリと本能的に背筋が震えた。
戦闘の開始前に讃美歌を歌うのはフス派の十八番である。
教会騎士団も聖歌隊を連れてくることはあるが、全軍で賛美歌を合唱するということはない。
まさかそれをワラキア軍が始めるとは。
「あ、悪魔だ―――――」
「俺たちはまだ死にたくねえ!」
「串刺しになるのはいやだ!」
もともと戦意の低い傭兵たちに恐慌が生じたのはそのときである。
彼らはフス派の団結の強さとその狂信的な粘り強さを、数々の戦場で目の当たりにしてきた。
1431年8月――――精強をもってなる教会騎士団を含めた十字軍が、天地に響けとばかりにこだまするフス派の讃美歌を聞いただけで戦わずして解体してしまったことは彼らの記憶にも新しかった。
ワラキア軍はおおいに士気を向上させ、十字軍が目に見えて委縮するのを見てとったヤーノシュは、この恐慌が壊乱に移らぬうちに戦局を動かす必要があることを長年の戦場勘で感じた。
「悪魔を恐れるな! 神の祝福は我らにこそあるのだ!」
幸い主力であるハンガリー軍はヤン・イスクラと何度も戦った経験があり、突然の讃美歌にも動揺した様子は見られない。
ヤーノシュはたのもしそうに頷くとともに、信頼すべきハンガリー軍の突入を命じた。
「区々たる戦術は必要ない。蹂躙しろ」
「来ましたな、シェフ殿」
「ま、ここで来なけりゃ向こうが負けるしな」
さすがに傭兵たちが逃亡する前に出撃を決断したヤーノシュの采配は正しかった。
しかしそれはワラキア軍にとっても想定もうちであり、ゲクランはもとより野戦指揮官としてのヤーノシュを過小評価してはいなかった。
スルスルと軽装の歩兵が突撃するハンガリー騎兵の前に進み出る。
密集槍歩兵でもない彼らが騎兵の前に姿をさらすのは自殺行為以外の何物でもないため、ヤーノシュは不審に思ったものの、突撃に移った騎兵を止めることは今さら不可能である。
(いったい何をするつもりだ?)
ヤーノシュの不審をよそに、わずか五十名ほどの歩兵はどうやら陶器らしい壺を棒のようなものにくくりつけたものを、いっせいに前方に向かって投擲した。
これを見て馬上の騎士たちは嘲笑う。
槍や長弓、場合によっては投石でも重装の騎士が傷を負うことはあるがいくらなんでも陶器ごときでは傷ひとつつくまい。
悪魔の知能は所詮その程度のものということか。
彼らの嘲笑が、大音響とともに凍りつくまでなお数秒の時間が必要であった。
ドゴオオオオオオ!!!
耳をつんざく爆裂音とともに、騎士たちの鼻面で紅蓮の花が咲いた。
棒にくくりつけられた壺にしか見えなかったそれは、旧ドイツ軍が使用し連合軍に恐れられたポテトマッシャー型の手榴弾に酷似していた。
大音響と爆風、そして破片によって無防備な馬が相次いで崩れ落ちる。
落馬した騎士たちはその重装備が徒となって、しかかたかに身体をうちつけ呼吸困難になって悶絶した。
さらに追い打ちをかけるように整然と進み出た銃兵が一斉射撃で騎士たちをなぎ倒す。
史上初めて戦線に投入された手榴弾によって、一気呵成にワラキア軍を蹂躙しようとした騎兵の突撃は完全に停止した。
「取り乱すな! 見かけほどの力はないぞ!」
咄嗟に最前線で混乱する兵を掌握する手際は、さすが名将の名にふさわしいものだったが、実のところヤーノシュもまた動揺に叫び出したい衝動にかられていた。
悪魔め
悪魔め
どこまで崇高な戦争を変えてしまえば気が済むのだ!
いかに策をめぐらし、相手の意表をつき、伏兵の罠にはめようともそこにはともに命を賭けるだけの価値が存在した。
しかし騎士の誇りを全て嘲笑うような、あのヴラドの戦い方はその価値を貶めるものだ。
戦いの主役が騎士ではなく、農民でも容易く扱うことのできる武器に変わってしまう。
思えばフス派の連中の戦い方も同じ延長線上にあった。これだから異教徒の考えることは度し難いのだ!
「左右の両翼を伸ばせ! 奴らに兵の湧きだす魔法の壺はないぞ!」
そう、わずか四千程度の小勢。
どれだけ華々しい武器で目をくらまそうとその事実だけは動かない。
いくら兵どもが死のうとも、ヴラドさえ殺せれば最後の勝利者は自分だ。
悪魔よ、我の前に屍をさらして余の栄光の糧となれ!
緩やかな丘と平野に囲まれたそこは平時であればのどかで豊穣な大地に他ならなかったろう。
しかし、今やそこは東欧における戦乱の中心であり、東西のキリスト教徒が血で血を洗う闘争を繰り広げる運命の場でもあった。
後の世にフォルデスの戦いと呼ばれることになる一連の戦いは、近代にいたるまでの数百年を全く別の名で呼ばれていた。
煉獄の戦い、と。
「ずいぶんとまた気張ってくれたものだな」
「二万ってところでしょうか」
ヤーノシュは総勢三万余に膨れ上がった遠征軍を二手に分けた。
あえて戦力分散の挙に出たのにはわけがある。
寡兵であるワラキア軍が十字軍に勝利するためには、野戦築城の防御力によって戦力差を覆す以外にはない。
しかし前回苦杯をなめた野戦築城に対し、正面から攻撃を仕掛ける愚を犯すつもりはヤーノシュには毛頭なかった。
いかにワラキア軍が工兵能力に優れていたとしても、進撃する全ての戦力において築城をこなすのは不可能であろう。
結局のところワラキア軍は巣穴から出て迎撃に転じざるをえない。
そうでなければ十字軍は有力な防御施設はあえて素通りし、警戒の兵だけを残してトランシルヴァニアの首都を目指すだけだ。
圧倒的多数の兵力を擁するヤーノシュにとって、それが最良の戦略であるはずだった。
これに対し、ヴラドは分派されたドイツ騎士団を主力とする支軍にタンブル率いる一千を当て、残る全軍をヤーノシュ率いる主軍に向けた。
立てこもっても相手にされないならば、打って出るしかないというのはヤーノシュの想像した通りであった。
しかしヴラド側に全く勝算がないというわけではない。
すでに北部で南下の構えを見せているヤン・イスクラに備えるため、ヤーノシュは本国に五千の兵を待機せざるをえなかったし、ヴラドの大司教就任の報を聞いたドイツ騎士団は戦意のあがらぬこと著しかった。
要するにヤーノシュの本隊さえ撃破できれば、容易く勝利を得ることは可能であったのだ。
ヤーノシュ率いる十字軍二万はオーソドックスな諸兵科連合である。
ハンガリーの誇る重騎兵に加え、軽騎兵と歩兵がバランスよく配置されているが、歩兵の中核は傭兵でありその結束力は弱かった。
対するワラキア軍は常備軍の銃兵を中心にネイ率いる竜騎兵部隊が両翼を固める。その数は四千程度で十字軍の三分の一にすら満たない。
フォルデスの平野で両者は睨みあった。
「ふん、ヴラドよ、今度こそは逃がさんぞ」
ヴラドの本隊を捕捉したヤーノシュは、この機会に絶対にヴラドの命を奪うつもりでいた。
戦いに勝利するのはもちろんのことであるが、ヴラドの命さえ奪うことができればワラキア軍などいくら逃げだしても問題はない。
もとより小国で豪族の連合体にすぎなかったワラキアなど、ヴラドという支柱が倒れれば自然に崩壊することは確実なのだ。
今回はあの厄介な鉄線も壕も柵もない以上、兵力の差がそのまま戦力の差になるはずであった。
――唐突に戦場に調べが流れ出す。
天にまします我らが父よ
汝が子らに祝福を与えたまえ
そして汝に徒なす悪魔に罰をくだし、
我らが勝利の喜びを分かち合うことを許したまえ
Amen
ゾクリと本能的に背筋が震えた。
戦闘の開始前に讃美歌を歌うのはフス派の十八番である。
教会騎士団も聖歌隊を連れてくることはあるが、全軍で賛美歌を合唱するということはない。
まさかそれをワラキア軍が始めるとは。
「あ、悪魔だ―――――」
「俺たちはまだ死にたくねえ!」
「串刺しになるのはいやだ!」
もともと戦意の低い傭兵たちに恐慌が生じたのはそのときである。
彼らはフス派の団結の強さとその狂信的な粘り強さを、数々の戦場で目の当たりにしてきた。
1431年8月――――精強をもってなる教会騎士団を含めた十字軍が、天地に響けとばかりにこだまするフス派の讃美歌を聞いただけで戦わずして解体してしまったことは彼らの記憶にも新しかった。
ワラキア軍はおおいに士気を向上させ、十字軍が目に見えて委縮するのを見てとったヤーノシュは、この恐慌が壊乱に移らぬうちに戦局を動かす必要があることを長年の戦場勘で感じた。
「悪魔を恐れるな! 神の祝福は我らにこそあるのだ!」
幸い主力であるハンガリー軍はヤン・イスクラと何度も戦った経験があり、突然の讃美歌にも動揺した様子は見られない。
ヤーノシュはたのもしそうに頷くとともに、信頼すべきハンガリー軍の突入を命じた。
「区々たる戦術は必要ない。蹂躙しろ」
「来ましたな、シェフ殿」
「ま、ここで来なけりゃ向こうが負けるしな」
さすがに傭兵たちが逃亡する前に出撃を決断したヤーノシュの采配は正しかった。
しかしそれはワラキア軍にとっても想定もうちであり、ゲクランはもとより野戦指揮官としてのヤーノシュを過小評価してはいなかった。
スルスルと軽装の歩兵が突撃するハンガリー騎兵の前に進み出る。
密集槍歩兵でもない彼らが騎兵の前に姿をさらすのは自殺行為以外の何物でもないため、ヤーノシュは不審に思ったものの、突撃に移った騎兵を止めることは今さら不可能である。
(いったい何をするつもりだ?)
ヤーノシュの不審をよそに、わずか五十名ほどの歩兵はどうやら陶器らしい壺を棒のようなものにくくりつけたものを、いっせいに前方に向かって投擲した。
これを見て馬上の騎士たちは嘲笑う。
槍や長弓、場合によっては投石でも重装の騎士が傷を負うことはあるがいくらなんでも陶器ごときでは傷ひとつつくまい。
悪魔の知能は所詮その程度のものということか。
彼らの嘲笑が、大音響とともに凍りつくまでなお数秒の時間が必要であった。
ドゴオオオオオオ!!!
耳をつんざく爆裂音とともに、騎士たちの鼻面で紅蓮の花が咲いた。
棒にくくりつけられた壺にしか見えなかったそれは、旧ドイツ軍が使用し連合軍に恐れられたポテトマッシャー型の手榴弾に酷似していた。
大音響と爆風、そして破片によって無防備な馬が相次いで崩れ落ちる。
落馬した騎士たちはその重装備が徒となって、しかかたかに身体をうちつけ呼吸困難になって悶絶した。
さらに追い打ちをかけるように整然と進み出た銃兵が一斉射撃で騎士たちをなぎ倒す。
史上初めて戦線に投入された手榴弾によって、一気呵成にワラキア軍を蹂躙しようとした騎兵の突撃は完全に停止した。
「取り乱すな! 見かけほどの力はないぞ!」
咄嗟に最前線で混乱する兵を掌握する手際は、さすが名将の名にふさわしいものだったが、実のところヤーノシュもまた動揺に叫び出したい衝動にかられていた。
悪魔め
悪魔め
どこまで崇高な戦争を変えてしまえば気が済むのだ!
いかに策をめぐらし、相手の意表をつき、伏兵の罠にはめようともそこにはともに命を賭けるだけの価値が存在した。
しかし騎士の誇りを全て嘲笑うような、あのヴラドの戦い方はその価値を貶めるものだ。
戦いの主役が騎士ではなく、農民でも容易く扱うことのできる武器に変わってしまう。
思えばフス派の連中の戦い方も同じ延長線上にあった。これだから異教徒の考えることは度し難いのだ!
「左右の両翼を伸ばせ! 奴らに兵の湧きだす魔法の壺はないぞ!」
そう、わずか四千程度の小勢。
どれだけ華々しい武器で目をくらまそうとその事実だけは動かない。
いくら兵どもが死のうとも、ヴラドさえ殺せれば最後の勝利者は自分だ。
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