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第四十三話 傭兵ゲクラン

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 まだ整備の途上であるワラキアの常備軍は五千であるが、うち二千名はまだまだ経験の少ない新兵である。
 ヴラドに協力的な諸侯の兵三千ほどを加えた八千名が、ワラキアの動員兵力の全てである。
 その気になればさらに五、六千ほど増員することも可能だが、ヴラドは新兵器、新戦術を忠誠心の怪しい諸侯へ与える気はないのだった。
 対する十字軍の総兵力は、乾坤一擲に投入されたハンガリー王国軍やドイツ騎士団を含め、およそ三万名に達しようとしていた。
「こりゃ手荒くしんどそうですねぇ、シェフ殿」
「戦なんざどこでもたいがいはしんどいもんだったろうがよ」
「そりゃまぁ、そうなんですがね」
 ゲクランが傭兵団を立ち上げたときからの古参であるレーブは、今度ばかりはワラキア軍も危ないと感じていた。
 確かにワラキア公の改革と見識は素晴らしいものがあるが、いくらなんでも今回の数的劣勢を覆すのは不可能に思われたのである。
 もともとが傭兵であるレーブは、負け戦に下手にこだわるのは死を招くだけだと知っている。
 負け戦となれば真っ先に逃げ出すのはいつの時代も傭兵だ。
 彼らのほとんどは金のために戦うことはあっても、その金のために自ら死を選ぼうなどとは考えない。
 ゲクランの指示があるならば、レーブはワラキア公には悪いがこのまま逃亡するのもやむを得ないかとごく自然に思考しており、当然ゲクランもそれを承知していると思っていた。
「なあ、覚えてるかレープ、俺たちが旗揚げしたあの日を」
 珍しく湿っぽい声で呟くゲクランの背中を見ながら、レーブはもはや数十年が経過した遥か遠い記憶に思いを馳せた。
「忘れられるはずがありませんや。シェフ殿が領主の息子にこっぴどく折檻したってんで、殺される前に慌てて逃げるように飛び出しましたっけ」
 ………あれはもう何年前になるだろうか。
 若いころから粗暴な腕自慢として有名だったゲクランは、村の子分の恋人に手を出そうとした領主の息子の顔を、鼻が折れるほど殴りつけてそのまま子分を引き連れて逃走した。
 故郷を捨てた根なし草の彼らが、異国で生活していくためには方法は2種類しかなかった。
 すなわち山賊になるか傭兵になるか、である。
 ゲクランが傭兵を選択したのは、傭兵ならば戦功次第では出世の道が開けることもあるというごく打算的な目論見があったからだが、生まれつきの天性があったものか、ゲクランの傭兵団は行く先々の戦場でしばしば大きな手柄を立てていった。
 ゲクラン率いる手長団と言えば、一時は傭兵の中でも精鋭として各所で重宝されたほどであった。
 しかしどれほど手柄を立てようと、ゲクランが騎士として登用されることはなかった。
 それどころか報奨もそこそこに激戦区に投入されることが多くなり、団の損耗も無視できぬものになっていったのである。
 結局傭兵などいくらでも替えのきく駒にすぎず、貴族たちにとって戦が終われば邪魔になる傭兵を早目に使いつぶしてしまうことは、戦後を見据えた当然の方策ですらあった。
「あんとき俺は言ったよなぁ。俺たちゃ故郷を捨てて一旗あげるんだって」  
「まあ言いましたね、今考えりゃ若かったでさあね」
 敵兵を殺すだけで運がよけりゃ一国一城の主も夢じゃない、なんて今じゃとてもとても考えられない。
 若さゆえとはいえ、それを信じる希望があった。夢があった。
「そうじゃねえ、そうじぇねえんだ。本当はわかってたんだ。俺達は故郷を捨てるんじゃねえ、捨てられるんだって」
「シェフ殿……」
 まるでゲクランの巨体がふたまわりも小さくなってしまったような頼りなさを感じてレーブは目を剥いた。
 思春期以来の長い付き合いの中でも、こんなゲクランを見るのは初めての経験であった。
「本当は一人じゃ寂しいんでお前らまで付き合わせた。すまなかったな」
 レープにとっても初めて聞く話である。
「お前ぇ信じられるか? 俺が殴ったあの領主のバカ息子な、実は俺の義弟だったんだぜ? あいつが生まれねえうちに下女だったお袋が孕んだってんで、領主(おやじ)は口止め料を渡してその日のうちに屋敷から叩きだしたのさ」
 ようやくレーブはゲクランがはつて荒れていた理由に思いあたった。
 そして手に職も畑ももたないゲクランが、貧しくとも食うに困らぬ生活を送っていたわけも。
 幼い少年ゲクランにとって、無法こそが自分を見てほしいという慟哭であり、暴力こそが自分を見捨てた父に対する抵抗であったのだ。
「傭兵になった後もよぅ。みんなどいつもこいつもが俺たちを捨てていったっけ。そりゃ俺達も忠誠を尽くすなんて柄じゃなかったが、それでも給金分の働きはしてきたはずだ。いったいあの地獄の戦場で俺たちぁ何度死にかけた? あげく休戦するために敵とグルで邪魔な傭兵をハメやがったてよ! チェニスもガルドもみんな死んじまった! あのくそみてえな馬鹿貴族のために!」
 セルビア軍に雇われていたゲクラン達は、戦果をあげすぎたためにオスマンとの休戦にあたって生贄として差し出されたのである。
 ヴラドがゲクランを助け出したとき、傭兵団の半数以上がすでに処刑されていた。
 この世界全てを破滅させたいようなやるせない赫怒を、ゲクランもレーブも今でも忘れていない。いや、忘れられるはずがなかった。
「でもよ、殿下は俺を命がけで拾ってくれたんだよ。生まれたときからずっと捨てられた同士だった俺を拾って、俺が必要だって言ってくれたんだ。だからよ、殿下を捨てるのは俺には無理だよレーブ。だってよぅ、ここで殿下を捨てたら俺達を捨てた奴らを笑えねえじゃねえか」
 ゲクランが見かけよりずっと繊細で優しい男であることを知っているレーブは、こうなったらゲクランが死ぬまでヴラドのために戦いぬくであろうことを容易に想像することができた。
 ならば自分もゲクランに付き合い命果てるまでつき従うだけだ、とレーブはあっさりと思い定めた。
 それが鉄の結束の傭兵、手長団の生き残りたるの矜持であるはずだった。
「それによう。俺はここで負けるなんざこれっぽっちも思っちゃいねえよ。殿下はいざとなったらあの神に仕える気違いどもよりよ、っぽど残酷で容赦のないお人だからよ」
「シェフ殿の予想が当たったら、こりゃあえらいことになりますぜ? 下手をすると若いときの夢が現実になっちまうかも?」
 東欧の雄ハンガリー王国の総力をはねのけてその戦力を吸収したとなれば、ワラキアは東欧世界に唯一といってよい超大国に成りあがるであろう。
 ゲクランはそのワラキア公国軍の中核なのである。
 一国一城の主の座も夢どころか十分に現実的な話であった。
 その相手があのヴラドならばなおのこと。
「夢を見れるってことは大事なことだぜ、レープ? 俺ぐれえの年齢(とし)になると特にな」
「 へっ! 違えねえ」
 ようやくゲクランとレーブの顔に、歴戦の傭兵らしい不敵な笑みが戻ろうとしていた。
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