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第四十一話 悪魔となりて

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 カトリックの異端に対する弾圧の歴史は古い。
 フランス南部のカタリ派を殲滅した、アルヴィジョア十字軍に従軍した司教はこう叫んだという。
「殺せ! 全て1人残らず殺し尽くせ! あとは神が見分けたもう!」

 例え異教徒ではない無辜の民草が中にいたとしても、それは裁きの日に神が見分けてくださる。だから気にせず殺してしまえという暴論であるが、それがまかり通るところがこの時代の宗教戦争というものであった。
 中世史上に悪名高い、幾百万の無実の人々を死に追いやった魔女狩りは1487年に刊行された「魔女に与える鉄槌」によって神学的な裏づけが与えられたことにより、15世紀から17世紀にかけて猛威を振るうことになるが、しかしそもそもの起源はおよそ9世紀以前に遡る。
 異端に対する近親憎悪的な、ある種変質的な恐怖と敵意はカトリックの宿唖としかいいようのないものであった。
 カトリックが寛容と慈愛の精神をもって、異端への蛮行を自戒するにはフランス革命以降の近代合理主義の発展を待たなくてはならないのだ。
 後年になるが血液循環説を唱えたミシェル・セルヴェが、生きたまま火刑に処せられたように、ごく真面目な医学者が異端とされた例も多い。
 ゆえにこそ暗黒期と呼ばれる中世の医学は停滞どころか衰退した。
 ペストや天然痘の流行を魔女やユダヤ人の仕業として大虐殺を行ってからいまだ半世紀しかたっていないのに、俺の教えた種痘法はカトリックにとってさぞ胡散臭いものに映ったであろう。
 全ては主の御心のままに………彼らにとって運命とは受け入れるものであって、自ら切り開くものではない。
 おとなしく従順な仔羊こそ、彼ら教会が求める理想の信者の姿なのだから。
 しかも衰退しきったローマ帝国を吸収合併する形でとりこもうとしたフィレンツェ公会議から数年、今更ローマ帝国がワラキアの支援を受けて息をふきかえすような事態は、カトリック教会にとってとうてい歓迎しえない痛恨事でもあった。
 俺がやろうとした正教会の権威復興は、カトリック教会側から見ればオスマン以上に忌々しい獅子身中の虫であったのである。
 教皇の受けのよいハンガリー王国と交戦し、さらにフス派残党のヤン・イスクラと結んでいることからも、信仰上の敵と言われかねない要素はすでに出揃っていた。
 ただ、俺が勝手に宗教指導者の理性を過信していた、それだけのことだった。
 そして現在のワラキアは、各国にとっても垂涎の宝の山である。
 欧州全体に広まろうという画期的な医療法
 製法の知れぬ様々な保存食品群
 士官学校の創設と独創的で旧来にない新戦術
 謎のベールに包まれた新技術による新世代の兵器たち
 どれをとっても血で贖う価値がある、と各国の君主が判断するだけのものがあろう。
 出る杭は打たれるの格言通りに、各国は教皇の独断を黙認という形で認めることを選択したのであった。

 神は語る。
 誰かが汝の右の頬を打つなら左の頬を向けよ。
 神は諭す。
 汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。

 だが神よ、それではあなたは何をした?

 誰も否定の出来ぬ甘言の裏で、神こそが人を貪っている。
 神こそが人を嬲る。
 神こそが人を妬む。
 神こそが人を殺す。
 殺して殺して殺して殺して殺して――――流された幾万の血を飲みほして神はようやく自らの渇きを癒すのだ。
 我々は神の食糧か?
 我々の人生は神の玩具にして生贄でしかないのか?
 否、断じて否!
 丹田のあたりから、かつてヴラドであったものの怨念が溢れだして脳が灼けそうに熱い。
 ああ、神よ。
 なぜそれほどに儚き子らを憎むのか?
 神の愛は寛容であり、情け深く、決して妬むことをしないとは貴方の言葉ではなかったか? 
 どうしてこの世界は、親が子を見捨て、子が親を裏切り、優しく生きようとするものが不幸にされてしまうのか。
 狂おしきヴラドの咆哮を耳朶に刻みながら、俺は怨念の奔流に対する抵抗を止めた。
 ああ、そうとも! 今こそ俺たちは同じ悪魔(ドラクル)となろう!

「………シエナ」
「御前に」
「セルビア貴族の調略を急げ。ドイツ諸侯と騎士団の不和を煽れ。金はいくら使っても構わん」
「御意」
 セルビアはコソヴォの戦い以後国力の低下が著しい。
 勇猛をもってなるステファン・ラザレビッチ侯はともかく、老獪な政治家ジュラジ・ブランコビッチは理性的な判断を下してくれるはずだった。
 少なくとも彼は今ある戦力が失われれば亡国は避けられない、という戦力保存主義の徒であったとオレは彼を理解している。
 セルビアが同じ正教徒であることからいっても、彼らの戦力化は至難を極めるであろう。
「デュラム」
「御前に」
「全ての販路を動員して穀物を買い占めろ。財政の許容する範囲で穀物の価格を吊り上げるのだ」
「御意」
 戦争という行為は国家にとって非常に体力を消耗する不経済な行為である。
 キリスト教国家がオスマン朝の侵攻に対して必ずしも好戦的でない理由がここにある。
 戦争による体力の消耗を国家経済が許容できないのである。
 いかに強国ハンガリーといえども、合流した諸侯を含めた兵站を維持することは並大抵の労苦ではない。
 常備軍が普及しておらず、傭兵が戦力の大きな部分を占める現状では特にそうだ。
「イワン」
「御前に」
「コンスタンティノポリスの総大主教猊下に勅命を要請しろ。正教徒の信仰を守護するために、ワラキアに神ご加護をお願いするのだ」
「御意」
 先ごろ病死したヨハネス8世の後を受けたコンスタンティノス11世は、いまだ東西の教会合同に熱心だが、すでに宰相ノタラスや総大主教は正教会の影響力維持に舵をきっている。
 ここでワラキアが敗滅することは、彼らにとっても不都合極まりないはずだった。
 再びローマ帝国が東欧で繁栄を取り戻すためには、正教会国家の真の意味での連帯が必要不可欠であり、現在のところその主軸になりうるのはワラキア公国以外には考えられなかった。
 正教会の支持さえあれば、ワラキアの支配圏の大半を占める正教徒の士気を保つには十分だ。
「ヤン・イスクラにも使者を送れ。ヤーノシュの背後で嫌がらせをしてくれるだけで構わない、とな」
「御意」
 あまりに熾烈な怒りのせいか、怒るよりも不思議と口元が笑ってしまう。
 異端を狩るつもりの奴らに、自らが狩られる恐怖を与えてやろう。
 異端から富を奪うつもりの奴らに、自ら奪われる失意を与えてやろう。
 異端を殺すつもりの奴らに、自らが殺されこの悪しき世界から解き放たれる絶望を与えてやろう。
 奴らの信じるカトリック(普遍のものの意)などこの悪しき世界には存在しないのだということを教育してやる。
 そう考えるだけでたまらぬ愉悦がこみあげるのがわかる。
「我が夫(つま)―――――」
 ヘレナが顔を蒼白にして俺の顔を覗いていた。
 怖がらせてしまったかもしれない。しかし理不尽な抑圧に対する狂おしいほどの激情………それこそが俺がヴラドである証であり、偽らざる俺の本性でもある。
「こんな俺は嫌いか? ヘレナ―――――」
 そう言われると、不安そうな表情から一変してヘレナは怒りに顔を紅潮させた。
「妾を見くびるな!我が夫の怒りは妾の怒りであり、我が夫の運命は妾の運命じゃ! ええい、こうなったらまとめて踏み潰せ!」
「くっくっ………さすがは豪気だな、我が妻よ」
 ―――――素晴らしい。
 さすがはローマの血をひく娘だ。同じキリスト教徒を敵にすることにいささかの迷いもない。
 いい女だ。俺だけの女だ。

 さあ、神の代理人たちに地獄を見せよう。
 阿鼻叫喚の絶望の業火に身を焦がして踊らせよう。
 いかに救いを求めようと、友も家族も財産も捧げようとも、神は人を救いなどしない。
 この地上に破壊と殺りくをもたらすのも、救いと希望をもたらすのも、結局は人の業にすぎぬからだ。
 神よ。もういつまでも貴様の好きにはさせぬ。
 神よ。お前に本当に力があるのなら、俺の暴虐と理不尽から貴様の信者を救って見せろ。
 神よ。お前は本当は人の生みだした虚構の偶像にすぎぬ。この地上を支配するのは………ただ人の意思あるのみ。
 だが人が神を騙り、その力を行使しようとするならば、それを阻み破滅の鉄槌をくだすのもまた人である―――――――

「俺(ドラクル)の役目だ」
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