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第四十話 悪魔(ドラクル)を討て

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 このところのワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアの三国の経済発展は目覚ましい。
 加工食品やワインの蒸留などの高級嗜好品を中心にした産業の発展は、既に農業人口を圧迫しつつあるほどだ。
 人口密度の低いルーマニアならではといったところだろうか。
 特に陶器を使った瓶詰は、高温殺菌など想像もできない欧州各国で爆発的な売れ行きを示していた。
 流石に缶詰をつくるには冶金技術が追い付かなかったのだが、とりあえず陶器でも代用としての性能はかろうじて確保できた。
 さらに巨費を投じて各国から技術者まで招いた精密加工業については、とうとう火打石式銃(フリントロック)の試作に成功している
 同じフリントロックのなかでも、1543年スウェーデンで開発されたスナップハンスロック式である。
 もともと構造自体は旧来の火縄銃と変わらないため、製造は容易であったがそれでも当たり金と火蓋の信頼性を確保する必要から、量産に難があるのが問題ではあったが。
 火縄銃の欠点はまさにその名のとおり火縄を用いることにある。
 生の火を使うことから、湿気るとよく不発を起こし、雨中ではしばしば使用不可能になるなど、火縄から派生する問題は多かった。
 そして以外に知られていないことだが、火縄銃の発砲の際には風下にむかって約1mほどにわたって無数の火の粉がはじけ飛ぶ。
 そのため射手と射手の間隔を広くとらざるを得ず、どうしても銃兵の密度は低いものにならざるをえないのだ。
 しかし火打石式銃にはそうした問題点はない。
 ほぼ長槍兵と同様の密度で火力網を形成することが可能だ。
 火打石式銃には銃剣もまた標準装備されており、ワラキアの常備大隊が世界に名を馳せる日は近いと思われた。

 1449年に入りさすがにオスマン帝国への貢納金が増額されたが、もはや二年前のワラキアとは経済基盤が違うのでなんとか許容範囲に収まっている。
 蒔かれていた種はようやく芽吹き始めていた。
 士官学校の生徒や大学の生徒が、ワラキアの新たな官僚層を形成するまでそれほど長い時間はかからないだろう。
 ネーデルランド式の常備大隊も、五個大隊五千名に増員されていた。
 そう、全ては順調だったのだ。今日このときまでは。
 顔色を変えたシエナが執務室に飛びこんできたのはそんなときであった。
 「――――大公殿下に急報がございます!」
 「シエナか。どうした? ハンガリーに動きでもあったか?」
 シエナはごくりと唾を飲み込んでゆっくりと首を振った。
 常には動揺など決して見せぬ男が、珍しく顔面を蒼白にして焦りの色を浮かべていた。
 ヤーノシュの侵攻すら顔色ひとつ変えなかった男だ。絶対に尋常な事態ではない。
 不吉な予感が胸を衝く。
 ……いったいオレは何を見過ごしたというのだろう?
 「バーゼル公会議の教皇フェリクス5世聖下が十字軍の編成を命じられました。ローマ教皇ニコラウス5世聖下は、廃位の花道としてフェリクス聖下の決断を支持するお考えです」
 お飾りと化した骨董品が余計なことを。
 なるほど、どうせ退位するから政治的冒険に打って出たってわけか。
 それなら失敗してもローマ側の損害は少なくて済むからな。
「しかし本当にそれで動く国があるか? フェリクスの妄言につきあう義理はないだろ?」
 シエナの顔が苦しそうに歪む。
 もう少し早くこの情報を入手していれば、ヴェネツィアを介して阻止することも可能だった。
 その自責の念が感情を表さぬシエナをして、眉間のしわを深く刻ませていた。
「十字軍戦力の中心はハンガリー王国、さらに今後ドイツ騎士団をはじめ各国から義勇兵が合流する予定です。十字軍の総指揮官はフニャディ・ヤーノシュそして――」
 くそっ、完全に出しぬかれた。
 ハンガリー王国だけを警戒していた自分に俺は歯噛みする。
 このときの屈辱をシエナは後年まで教訓として、羊皮紙に刻み胸に持ち続けたという。
 教皇庁対策をおろそかにしたつもりはないが、これが自分とヤーノシュとの間にある経験の差ということだろう。

「―――――十字軍はオスマンの先兵たるこのワラキアを目指しています」

 港を一望する瀟洒な屋敷の一室で、ジョバンニは怒鳴り出したい衝動をかろうじて抑えつけていた。 
 まさかこんな急に十字軍が発動されるなど、彼にとっても想像の埒外であったのだ。
 ワラキアの情報を統括するシエナのもとに、ことの成り行きを知らせるための早馬を飛ばしたのは誰あろうジョバンニ本人であった。
「―――すまん。だが教会の分裂を一刻も早く解消したいうえに、もとより十字軍で異教徒を駆逐することは教会累代の悲願。それをフェリクス5世が退位の条件とした以上これに反対するのは私にとっても自殺行為であったのだ。わかってくれ」
 そう言って枢機卿であるアルフォンソは、モチェニーゴ家の当主に深々とその長身を折って頭を下げた。
 彼が枢機卿の座を射止めることができたのも、一介の学僧であったころに学費を負担してくれたのもヴェネツィアの元老院の後押しがあったからこそである。
 だからこそ彼は彼なりにヴェネツィアの利益を代弁してきたのだが、今回のワラキア出兵は彼の工作で防げる範疇を超えていた。
「――――仮にこの出兵が失敗に終わったとしても、派兵を主導したのはフェリクス5世であると言い訳もできる。さらに成功すればフェリクス5世の退位とともに功績を横取りすることができるとなれば―――わかるだろう? 教皇聖下にとってもこれは低下した教会の影響力を取り戻すリスクの少ない機会であるのだ」
 元老院にも名を連ねヴェネツィアの政治を担うものとして、ジョバンニは枢機卿の考えは理解できる。
 しかし商人にして、またワラキアの同盟者でもあるジョバンニ・モチェニーゴとしてはとうてい同意することのできぬ話であった。
 ヤーノシュは優秀な政治家であり軍人であるが、ヴラドほど経済に精通しているというわけではない。
 彼にワラキアを支配されるのはヴェネツィアにとっては現状の悪化でしかないのだ。
「この十字軍が成功すれば教皇聖下はハンガリー王国宰相フニャディ・ヤーノシュに正式にハンガリー王位継承を認める予定でおられる。いや、そればかりか役に立たぬ神聖ローマ帝国すらヤーノシュに渡してしまいたい、とお考えでも不思議ではない。我々に出来ることはヤーノシュが敗北した後の巻き返しを準備しておくことぐらいしかないのだ」
「―――――ヤーノシュが敗北すれば、その後は余計な影響は排除できますな?」
「うむ、西欧の各国が当てにならぬ以上、ヤーノシュさえいなくなればもはや十字軍などという冒険に出れる世俗君主などおりはせぬよ」
 そういうアルフォンソの言葉に頷いて、苦渋の表情とともにジョバンニは当面の十字軍の制止を諦めざるをえなかった。
 ヴェネツィアは確かに教皇庁に強い影響力を持つが、それはフィレンツェやミラノのようなライバルも同様であり、迂闊な真似はヴェネツィアの政治的孤立を招きかねぬものであったからである。
 己の不甲斐なさに歯を食いしばり、ジョバンニは拳を机に叩きつけた。
(申し訳ありませんヴラド殿下―――――せめて殿下が勝利なさった後だけでも万難を排してまとめてみせます――――どうか、どうかご武運を!)
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