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第三十四話 モルダヴィアの狸

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 コンスタンティノポリスで交渉にあたっていたイワンから、ローマの使者とともに帰国する旨の先触れがあったのはつい先日のことである。
 それにしてもあの陽気な伊達男としたことが、どうにも奥歯にものの挟まったような不可思議な返答をよこしていたのが気にかかる。
 幸い総大主教庁を仲介とした和平交渉は大成功を収めたのだから、種痘や羅針盤の情報開示くらいは見返りに請求されたのかもしれない。
 あるいはローマ使者というのも、楽天家のイワンが恐縮する程度には大物であるという可能性もある。
 内陸国家であるワラキアは、海との接点をモルダヴィア領内のキリアに頼らなくてはならず、使者の出迎えと、今後のワラキア・モルダヴィア両国の連携の構築のため、久しぶりに俺はモルダヴィア公国首都であるヤシを訪れていた。
「いらっしゃいませ! ヴラド兄様!」
 ブンブンと振られる尻尾を思わず幻視してしまう勢いで、幼なじみのシュテファンが飛んでくる。
 史実においてヴラドが唯一心を許したと言われるこの幼なじみの懐きようは、どこか在りし日のラドゥを彷彿させて俺の胸を痛ませた。
 それにしても―――――。
 モルダヴィアの英雄シュテファン大公といえば、今でもモルドヴァで語り継がれる救国の英雄である。
 北をポーランド王国、南をオスマン帝国に挟まれた立地的条件はワラキアと同様かあるいはそれ以上に過酷であるはずだ。
 しかしよく家臣を掌握し、ヴラドとは違い独立と生を勝ち取った手腕はどれだけ賞賛しても足りない。
 1475年のヴァルスイの戦いでオスマンに勝利した大公は、ローマ教皇から「キリストの戦士」と讃えられ、スカンデルベグ亡き後のキリスト教世界の希望の象徴でもあった。
 しかし今の彼はふくよかな丸顔の可愛らしい貴種の少年以外のものではない。
 正直イメージと現実のギャップを感じざるをえないほどだ。
「久しぶりだな、シュテファン」
 それでもこんなふうに、無条件に慕ってもらえることがうれしくないわけがない。
 赤みがかったシュテファンの金髪をくしゃりと撫でつけ、俺はこの腕白そうな幼なじみに二本の金属細工を手渡した。 
 現代の子供たちが良く遊ぶ知恵の輪である。
「いつか言っていたおもちゃだ。壊さないように二本を別々にわけてみなさい」
「ふえ? 簡単だよ、そんなの?」
「まあ簡単にできたら新しいお菓子でもごちそうするさ」
「やった! 約束だよ!?」
「ちゃんと壊さないでできたら、な」
 大公のもとに向かう俺の背後で、甲高い変声期前の少年のうなり声が響いてきた。
「この! こいつ! ふんぬううううっ!」
 聞かなかったことにできないだろうか?
 壊しても新しいのは渡さないぞ? シュテファン

 ボグダン二世は兄のヴラド二世に似ず温和な内政家である。
 正直彼が叔父であるというのが信じられないほど、好々爺然とした親しみのもてる風貌は、その実堅実な政治力によって裏打ちされていた。
 ヴァルナの戦い以降も、衰退するキリスト教圏のなかでモルダヴィアが豊かで比較的安定した平和を維持しているのは間違いなく彼の功績であろう。
 しかし戦乱の巷である現在、いささか内政に偏ったきらいのあるボクダン2世を、モルダヴィアの主権者として不安視する向きが貴族内に存在するのもまた事実であった。
 史実では南北に強敵を抱え富国政策を急ぐボクダン2世は、利害の対立した貴族によって1451年に暗殺されてしまう。
 その後のモルダヴィアはシュテファン大公の晩年、オスマンに対する屈服を余儀なくされたものの、小国にすぎぬモルダヴィアがワラキアより遥かに長い期間に渡ってオスマンに対する抵抗を続けられたのも、ボクダン2世による国力増進のおかげといっても過言ではあるまい。
「叔父上、ご壮健そうで何よりです」
「うむ、しばらく会わぬうちに化けたものだな、ヴラドよ。お前の噂を聞かぬ日はなかったぞ」
「お恥ずかしい。目の前のことに必死だっただけです」
 実際本当に目の前の問題をかたずけることで精いっぱいだった。
 ワラキアに帰還してからというもの、何も考えずにただ楽しむために費やした日は一日もなかったような気がする。
 もし落ちついて戦争のことなど考えなくていい日が来たら、歴史オタクの成れの果てとして、意地でも名所旧跡を見学に行くのだが。
「コンスタンティノポリスから使者が来るそうだな?」
「はい」
「やはり―――――オスマンと戦うか?」
「力をつけねばいいように使い潰されて自滅します。しかし力をつければオスマンはその力を削ごうとするはず。いずれにしろ戦いは避けられないでしょう」
 史実のヴラドやシュテファンもそうだが、小国がオスマンのような大国と正面切って戦うことは不可能である。
 したがってその戦略は、多くの場合国土を犠牲にしたゲリラ戦に頼らざるを得ない。
 敵を国内に引き入れて戦う焦土戦略は、いわば己の腕を斬り落として食する共食いのようなものである。
 寡兵をもって大軍に対抗するには便利だが、犠牲に矢面に立たされる国民や土着貴族からすれば、忠誠を誓った君主に生贄として敵に差し出されるに等しい行為であるため多くの場合離反して己の権益を守るために敵国に通じる。
 彼らにも守るべき生活があるのだ。
 そんな絶望的な戦をするつもりは俺にはない。
 だからといってワラキアが大国化すれば、現在のこう着した東欧のバランスを大きく左右するのは必然である。
 ワラキアとオスマンが連合すれば、あるいは史実よりも早くウィーンを包囲し、さらには落城させることも不可能ではないだろう。
 しかし国民の大半、というよりほぼ全てがキリスト教徒であるワラキアがオスマンの傘下でキリスト教世界と戦うという選択肢はありえない。
 そんなことをすればたちまち離反者が続出して、結局史実のように誰かに暗殺されるだけの結果に終わってしまう。
 ヴラドの代は大丈夫でもその次の代で破綻するのは確実だ。
 といっても形式的にはオスマンに従属しているワラキアが積極的に協力しないことが明らかになれば、オスマンは国力を増したワラキアを潜在的な敵国として認識するであろう。
 いや、むしろセルビアやブルガリアのような従属国に対する見せしめ的な意味で真っ先に討伐の対象とする可能性が高かった。
 すなわち、どのような選択肢をとろうとも将来的に戦いになることだけは避けられないのだ。
「それでわしに何を望む…………?」
 さすがは老練な政治家だ。俺の意図を完全に見抜いている。
 わざわざ俺自らモルダヴィアに出向いた理由は、何もローマの使者を出迎えるためだけではない。
「キリア港の租借と駐留権を」
「………租借はともかく兵を駐留させようとは………」
 ボクダン2世は、予想以上にヴラドの要求が厳しいことに動揺を表情に出さないために精神力を振り絞らなければならなかった。
 キリアはワラキアの世界戦略上必須の地である。
 この地にある程度の経済的基盤を所有することを、ヴラドが望むであろうことは予想していた。
 しかしまさかいかに友好国であるとはいえ、一足飛びに兵の駐留権まで要求してくるとは――――――。
 ワラキアには海がない。
 これがワラキアの最大にして致命的な地政学上の欠点である。
 少し南に下ればブルガリアの巨大港湾都市コンスタンツァがあるが、こちらはすでにオスマンの統治下にあって手出しはできない。
 貿易取引量も増え、ローマ帝国とも外交関係を結ぼうとする今、流通の拠点となる港湾はワラキアにとってなくてはならない存在だった。
 しかし現実的に運用可能な規模の港湾都市といえば、それはモルダヴィアのドナウデルタ以外の立地はありえない。
 ワラキアとモルダヴィアをドナウの大河で結ぶこのモルダヴィア最大の貿易港は、史実においても両国の間で深刻な領土問題を引き起こしていた。
 とはいえモルダヴィアに武力行使するという選択肢は俺のなかにはない。
 ワラキアの主要物産をキリアから積み出すことで、両国にはすでに密接な経済交流が出来始めている。
 せっかくの友好をだいなしにしてまでモルダヴィアを占領して、わざわざポーランドと国境を接するのは間尺にあわないというのが俺の考えである。
「…………キリアはモルダヴィアにとっても生命線に等しい港だ。ワラキアには渡せんぞ」
「ワラキアのものにするつもりはありません。しかしもはや叔父上が望むと望まざるとにかかわらずキリアは紛争の要となります」
 ワラキアの輸出する数々の先進加工品がキリアに集中し、それにつられるようにしてヴェネツィアやフィレンツェの交易船がキリアに入港しつつある。
 取引高は年々上昇して留まるところを知らないほどだ。
 当然長年キリアを狙ってきたポーランド王国なども、またぞろ食指を動かしても不思議ではなかった。
 軍事的には弱小国であるモルダヴィアが、果たしてこの先キリアを守り抜くことができるか? ヴラドがそう言っていることをボクダンは正しく理解した。
「見返りは?」
「モルダヴィアに安全と平和を」
 今後キリア港がワラキアの資本投下によってさらに拡張され、ワラキアの海軍とその兵力が常駐すれば、港湾の物資の消費量と安全保障は格段に進化するだろう。
 人と流通が増えれば金が回るのはいつの世も変わらぬ真理なのである。
 それにワラキアからの流通量がドナウの河川交通を利用して倍増すれば、キリア全体としての取引数量も加速度的に増加するのは必然であった。
 その結果モルダヴィアの国庫に収まる税収も、莫大なものになるに違いないだろう。
 租借金の納入・税収の増加・貿易量の増加・治安の向上・軍事的抑止力の駐留という俺の提案でモルダヴィアの損になる要素は実のところひとつしかない。
 すなわちそれはワラキアの駐留権を認める以上、軍事的にワラキアと命運をともにすることになる、という要素である。
 そう、この提案の行き着く先は、軍事経済両面に渡るワラキア=モルダヴィアの連合なのだ。
 今ボグダン二世が迫られているのは、近い将来にそれを受け入れる決断なのであった。
「まったく………出来の良い甥を持つと苦労するのぅ」
 ボクダンはヴラドの予想の正しさを認めないわけにはいかなかった。
 もはやキリアはどの周辺国にとっても垂涎の的だ。
 遠くない将来の軍事的衝突は避けられない。
 最悪の場合ポーランド・オスマン・ワラキアの全てを敵に回しかねないのだが、軍事的にモルダヴィアがそんな無謀な戦いを維持することは不可能である。
 もっとも危険の少ない同盟相手を探すとすれば、それはモルダヴィアと衝突すればせっかく順調に増加している交易量を損ないかねないワラキアということになるだろう。
 いまさらワラキアとの貿易量を制限したり禁止すると言う選択肢はない。
 そんなことをしてもキリアは魅力的な貿易港であるし、ワラキアとの交易で莫大な利益を得ている商人や地元貴族が反対するのは明らかであるからだ。
 それにワラキアとの交易は、モルダヴィアの公室財政にもすでに少なからぬ影響があるのである。
―――――つまりはワラキアの交易戦略に巻き込まれた時点で詰んでいたということか。
 ヴラドにしてやられたという感はあるが、ボクダンはそれを不快には思わなかった。
 むしろよくぞここまで、とヴラドを賞賛してやりたい気持ちすら感じる。
「…………では租借地の区画と租借料について検討するとしようか」
「お手柔らかに………」
 ワラキアとの同盟関係が避けられないとしても、そのなかで最大の利益を追求する義務が国主のボグダンにはある。
 一筋縄ではいかない叔父の老獪な笑みに、俺は頬をひきつらせて笑うしかなかった。
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