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第三十三話 少女の夢
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マルマラ海を東へ向かう船上で、ヘレナは甲板の手すりにしがみついてはしゃいでいた。
「………見よ! サレス! まるで鳥の羽根に手が届きそうだぞ!」
「すいませんが私には姫がどの鳥を見ているのかもわからないのですが」
「むっ? そうか………しかしとんでもない代物だな、これは!」
そう言ってヘレナが手にしているのは、イワンから贈られた望遠鏡である。
対ワラキア貿易の拠点となっているモルダヴィア領キリアに向けて出発した船のなかで、ヘレナのテンションは留まる事を知らなかった。
これほどはしゃぐ性格であったろうか? とヘレナを良く知るサレスでも首を傾げたくなるほどだ。
ヘレナ自身もそうサレスに思われていることも自覚しているし、自分でもはしゃぎすぎていると思わなくもないのである。
しかしどうにも湧きあがる歓喜を抑えることができない。
ワラキア公に嫁ぐという唐突な宣言は、ヘレナの人生最大の賭けであった。
おそらくイワンからワラキアの要望として切りだされていたらヨハネス陛下は断っただろう。
冷静に考えるならばワラキアはハンガリーとの戦いに勝ったとはいえ、その国力はまだまだ小国の域を出るものではない。
しかも対外的にはオスマンに臣従した従属国であり、ワラキアがハンガリーという大国を独力で征服できると考えるのは、都合がよすぎる願望と言わざるをえなかった。
だからヘレナはワラキアの開発した先進的な発明を強調することによって、将来のワラキアに対する皇帝たちの期待を極大化してみせたのだ。
もしかしたらワラキアならば、絶望的な状況を覆す何かをもたらしてくれるのではないか?
いわば皇帝や宰相たちは、己の欲望願望によって目をくらまされたと言えるのかもしれない。
暗く濁ったローマ帝室の血はすでに生殖能力の衰えとなって現れていたが、かわりに途轍もない天才を生み出すことがあった。
ヘレナもまたそうしたローマの古い血が産んだ早熟の天才の一人である。
しかし彼女のその才能に父ソマスでさえも、なんら関心を示そうとはしなかった。
彼らにとって女性とは子孫を残すための道具であって、政治を指導すべき存在ではなかったからであった。
そんな環境に強い不満をヘレナが抱いていたことを、側近であり、護衛であり、親友でもあるサレスだけが知っていた。
「さあ、そろそろ船室に戻りませんと………潮風は身体の毒ですよ?」
「むぅ……サレス! 妾を子供扱いするでない!」
「姫はまだ12歳の子供でいらっしゃいますから」
何も知らない人間が発育から推測するならば10歳と言われてもおかしくないほどにヘレナの身長は小さく、その身体は女性らしい凹凸と無縁であった。
頭脳だけは大人顔負けに発達したヘレナにとって、色気の乏しい身体だけが唯一のコンプレックスだった。
だからこそ子供扱いされることに強い抵抗を感じてしまうのだ。
「12歳といえば大人じゃ! 子供だって産めるのじゃぞ!」
「残念ながら姫様はまだ御子を産めるお身体ではございません」
「ぬぐぐぐ……」
そうなのだ。
ヘレナは今年12歳の誕生日を迎えてもなお初潮を迎えていない。
あるいはこのまま石女になるのではないかと、ひそかにサレスも危惧してしまうほどである。
思わぬ自爆に膨れっ面でそっぽを向くヘレナを、無理やり抱きよせてサレスはその小さな身体を抱え上げた。
幼女特有のやわらかな肉の感触と、くすぐったいようなミルク臭い匂いがサレスの鼻をつく。
まるで愛玩動物を撫でまわすようにサレスに抱きすくめられ、頬を擦りつけられてヘレナは暴れた。
しかしイスラムの戦士として鍛えられたサレスの剛力の前には、ヘレナのか弱い抵抗など何の意味ももたない。
不本意さを隠そうともしないが、観念して抵抗することを止めたヘレナを満面の笑みで弄びながら、サレスは船内へ我儘な姫君を連れ戻すことに成功した。
サレスが侍女としてパレオロゴス帝家に潜入したのは、サレスが15歳になったばかりの時であった。
ブルガリアに生まれたが両親が落ちぶれた下級貴族であったサレスは、6歳になったばかりの頃に両親に口減らしとして売られた。
行き先は幼いころからスパイとして英才教育を施す、とあるイスラム教の寺院であった。
7歳で殺人を覚え、8歳で毒と麻薬を覚えた。
育成された子供たちのなかでも優秀であると認められたサレスは、礼儀作法から学問まで必要な知識を詰め込まれ、オスマンにとって重大な敵国への間諜としての役割が期待されたのである。
しかしその期待は任務について早々に、一人の少女によって撃ち破られたのだった。
「お主、どうして間諜などしておる?」
「で、殿下何を…………」
「よく訛りを似せてはいるが、妾の耳はごまかせぬよ」
任務に失敗したことを悟ったサレスは、何の迷いもなく死が訪れることを疑わなかった。
失敗する者には死を。
それが幼いころから師によって骨の髄まで教え込まされてきた真実であったからだ。
しかしイスラムのスパイであることを見破った少女は、莞爾とした微笑とともにサレスの思いもかけぬ言葉を投げつけた。
「死んでどうなる?」
「知れたこと! アラーの御許に参るまで!」
「誰がそれを見たのだ? お前は何故それを信じることが出来る?」
少女に問われてみて、サレスは初めて死後の世界を見たものが師のなかにもいないことに思い当った。
奴隷として教団に買われて以来、一方的な教えを受け入れることしかできなかったサレスにとって、まだ両親のもとで平凡な暮らしをしていたころには当たり前にもっていた疑うという感情が蘇った瞬間だった。
「………妾はまだまだ無知じゃが、それでもそなたよりは世界を知っておるぞ?」
だが知るだけでは足りない。
妾はその世界で、何かを成したいのだ。
そういってヘレナという少女は、サレスに手を差し出して満面の笑みで告げたのである。
「妾とともに誰も見たことのない世界を見て見るつもりはないか?」
無意識のうちにサレスはヘレナの小さい手を押し頂くように取っていた。
もし世界がヘレナの言うとおりに広いのなら、死ぬまでの間はその可能性を探ってもよいように思われたのである。
どうせ死ぬのはいつでもできるのだから。
「…………せっかくうるさい城から抜け出せたのに………」
ブチブチと不平を呟くヘレナの様子にサレスは目を細める。
遂に少女は籠を抜け出したのだ。
誰でもない少女の閃きと才覚によって。
そしてサレスにこれからも新たな世界を見せてくれるのだろう。
まだ世界の誰も見ていない領域を見るために、少女はとうとう第一歩を踏み出したのである。
きっとこの少女なら成し遂げると信じていたが、その時期はサレスが考えていた以上に早かった。
「まずは身体を休ませてくださいませ。―――――もう貴女を縛る籠は存在しないのだから」
サレスの言葉にヘレナは意外そうに目を瞬かせると、大きく頷いて破顔した。
「そうじゃな。うむ、そのとおりじゃ!」
「………見よ! サレス! まるで鳥の羽根に手が届きそうだぞ!」
「すいませんが私には姫がどの鳥を見ているのかもわからないのですが」
「むっ? そうか………しかしとんでもない代物だな、これは!」
そう言ってヘレナが手にしているのは、イワンから贈られた望遠鏡である。
対ワラキア貿易の拠点となっているモルダヴィア領キリアに向けて出発した船のなかで、ヘレナのテンションは留まる事を知らなかった。
これほどはしゃぐ性格であったろうか? とヘレナを良く知るサレスでも首を傾げたくなるほどだ。
ヘレナ自身もそうサレスに思われていることも自覚しているし、自分でもはしゃぎすぎていると思わなくもないのである。
しかしどうにも湧きあがる歓喜を抑えることができない。
ワラキア公に嫁ぐという唐突な宣言は、ヘレナの人生最大の賭けであった。
おそらくイワンからワラキアの要望として切りだされていたらヨハネス陛下は断っただろう。
冷静に考えるならばワラキアはハンガリーとの戦いに勝ったとはいえ、その国力はまだまだ小国の域を出るものではない。
しかも対外的にはオスマンに臣従した従属国であり、ワラキアがハンガリーという大国を独力で征服できると考えるのは、都合がよすぎる願望と言わざるをえなかった。
だからヘレナはワラキアの開発した先進的な発明を強調することによって、将来のワラキアに対する皇帝たちの期待を極大化してみせたのだ。
もしかしたらワラキアならば、絶望的な状況を覆す何かをもたらしてくれるのではないか?
いわば皇帝や宰相たちは、己の欲望願望によって目をくらまされたと言えるのかもしれない。
暗く濁ったローマ帝室の血はすでに生殖能力の衰えとなって現れていたが、かわりに途轍もない天才を生み出すことがあった。
ヘレナもまたそうしたローマの古い血が産んだ早熟の天才の一人である。
しかし彼女のその才能に父ソマスでさえも、なんら関心を示そうとはしなかった。
彼らにとって女性とは子孫を残すための道具であって、政治を指導すべき存在ではなかったからであった。
そんな環境に強い不満をヘレナが抱いていたことを、側近であり、護衛であり、親友でもあるサレスだけが知っていた。
「さあ、そろそろ船室に戻りませんと………潮風は身体の毒ですよ?」
「むぅ……サレス! 妾を子供扱いするでない!」
「姫はまだ12歳の子供でいらっしゃいますから」
何も知らない人間が発育から推測するならば10歳と言われてもおかしくないほどにヘレナの身長は小さく、その身体は女性らしい凹凸と無縁であった。
頭脳だけは大人顔負けに発達したヘレナにとって、色気の乏しい身体だけが唯一のコンプレックスだった。
だからこそ子供扱いされることに強い抵抗を感じてしまうのだ。
「12歳といえば大人じゃ! 子供だって産めるのじゃぞ!」
「残念ながら姫様はまだ御子を産めるお身体ではございません」
「ぬぐぐぐ……」
そうなのだ。
ヘレナは今年12歳の誕生日を迎えてもなお初潮を迎えていない。
あるいはこのまま石女になるのではないかと、ひそかにサレスも危惧してしまうほどである。
思わぬ自爆に膨れっ面でそっぽを向くヘレナを、無理やり抱きよせてサレスはその小さな身体を抱え上げた。
幼女特有のやわらかな肉の感触と、くすぐったいようなミルク臭い匂いがサレスの鼻をつく。
まるで愛玩動物を撫でまわすようにサレスに抱きすくめられ、頬を擦りつけられてヘレナは暴れた。
しかしイスラムの戦士として鍛えられたサレスの剛力の前には、ヘレナのか弱い抵抗など何の意味ももたない。
不本意さを隠そうともしないが、観念して抵抗することを止めたヘレナを満面の笑みで弄びながら、サレスは船内へ我儘な姫君を連れ戻すことに成功した。
サレスが侍女としてパレオロゴス帝家に潜入したのは、サレスが15歳になったばかりの時であった。
ブルガリアに生まれたが両親が落ちぶれた下級貴族であったサレスは、6歳になったばかりの頃に両親に口減らしとして売られた。
行き先は幼いころからスパイとして英才教育を施す、とあるイスラム教の寺院であった。
7歳で殺人を覚え、8歳で毒と麻薬を覚えた。
育成された子供たちのなかでも優秀であると認められたサレスは、礼儀作法から学問まで必要な知識を詰め込まれ、オスマンにとって重大な敵国への間諜としての役割が期待されたのである。
しかしその期待は任務について早々に、一人の少女によって撃ち破られたのだった。
「お主、どうして間諜などしておる?」
「で、殿下何を…………」
「よく訛りを似せてはいるが、妾の耳はごまかせぬよ」
任務に失敗したことを悟ったサレスは、何の迷いもなく死が訪れることを疑わなかった。
失敗する者には死を。
それが幼いころから師によって骨の髄まで教え込まされてきた真実であったからだ。
しかしイスラムのスパイであることを見破った少女は、莞爾とした微笑とともにサレスの思いもかけぬ言葉を投げつけた。
「死んでどうなる?」
「知れたこと! アラーの御許に参るまで!」
「誰がそれを見たのだ? お前は何故それを信じることが出来る?」
少女に問われてみて、サレスは初めて死後の世界を見たものが師のなかにもいないことに思い当った。
奴隷として教団に買われて以来、一方的な教えを受け入れることしかできなかったサレスにとって、まだ両親のもとで平凡な暮らしをしていたころには当たり前にもっていた疑うという感情が蘇った瞬間だった。
「………妾はまだまだ無知じゃが、それでもそなたよりは世界を知っておるぞ?」
だが知るだけでは足りない。
妾はその世界で、何かを成したいのだ。
そういってヘレナという少女は、サレスに手を差し出して満面の笑みで告げたのである。
「妾とともに誰も見たことのない世界を見て見るつもりはないか?」
無意識のうちにサレスはヘレナの小さい手を押し頂くように取っていた。
もし世界がヘレナの言うとおりに広いのなら、死ぬまでの間はその可能性を探ってもよいように思われたのである。
どうせ死ぬのはいつでもできるのだから。
「…………せっかくうるさい城から抜け出せたのに………」
ブチブチと不平を呟くヘレナの様子にサレスは目を細める。
遂に少女は籠を抜け出したのだ。
誰でもない少女の閃きと才覚によって。
そしてサレスにこれからも新たな世界を見せてくれるのだろう。
まだ世界の誰も見ていない領域を見るために、少女はとうとう第一歩を踏み出したのである。
きっとこの少女なら成し遂げると信じていたが、その時期はサレスが考えていた以上に早かった。
「まずは身体を休ませてくださいませ。―――――もう貴女を縛る籠は存在しないのだから」
サレスの言葉にヘレナは意外そうに目を瞬かせると、大きく頷いて破顔した。
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