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第三十二話 予感

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 ゾクリと背筋を走る寒気に俺は思わず周囲を見渡した。
 いったいどうしたのだろう、とベルドが疑問の視線を向けてくる。
 戦は完全な勝利に終わり、反抗した貴族はまともに戦うことすら出来ずに着の身着のまま逃走したはずなのに。
 蛇に睨まれた蛙のような悪寒が消えない。
「何か気になることでもござますか?」
「いや………なんだか寒気がしただけだ。俺としたことが、気の迷いか?」
「それはいけません! 幸い領民や兵士の大半は領主より殿下に心を寄せている様子。今日は早々にお休みくださいませ!」
「う……うむ」
 刺客に襲われて以来、ベルドが過保護すぎる。
 しかしその心配も決して杞憂と言えないところが哀しい現実であった。
 なぜならこうして帰国早々、ワラキア軍はハンガリーに呼応したと思われる国内貴族の反乱鎮圧に向かわなければならなかったからだ。
 幸いなことにコンスタンティノポリス総大主教庁は、目論見通りワラキア優位な裁定を下し、ブラショフとシギショアラを結ぶトランシルヴァニア中央部までをワラキア領として認めるかわりに、トランシルヴァニア西部は引き続きフニャディ・ヤーノシュが領有すること。
 そして捕虜にしたヤーノシュの二人の息子を無償で返還することなどを両国に対して通告した。
 おそらくは断腸の思いであっただろうが、たとえトランシルヴァニアの過半を諦めることになろうとも、ヤーノシュは年齢的にも最後の子である二人の息子を諦めることが出来なかった。
 強引な手段でハンガリー宮廷を制圧した今、ヤーノシュにとっては血族の団結こそが何よりも重要であった。
 必要であれば、表面上はオスマンの属国であるワラキアにはいつでも攻め込める大義名分は出来る。
 ならば今は宮中を掌握し、息子を取り戻して近いうちに訪れるであろう再戦のための準備をするために、不本意でも不利な講和を結ぶのは許容の範疇内というべきであった。
 そうしてハンガリーとの間に和平が成立したのがつい先日のことである。
 ところがまたしてもというべきか、ワラキアを離れトランシルヴァニアでハンガリーと対峙しているのを奇貨として国内貴族が蠢動していた。
 これがもしもっと早く大規模なものであれば、和平自体どうなっていたことかわからない。
 しかしトゥルゴヴィシュテに残してきた警戒部隊と、とってかえしたワラキア軍によって反乱貴族は分断されあっさりと各個撃破されていった。
「――――――それにしても思ったより便利なものだったな。これ…………」
 俺が見上げる視線の先には巨人の腕を思わせる建造物が鎮座している。
 ワラキアからトランシルヴァニアを結ぶ街道の結節点に整備されたその施設の名を腕木塔と呼んだ。
 腕木通信とは、要するに巨大な三本の柱を操ることによって手旗信号と同じような形で遠距離の仲間と意志の疎通を図ることにある。
 これは電信が普及する前のナポレオン時代にフランスにおいて整備されたもので、この時代以前によく使用されていた狼煙などよりも遥かに細かい意志伝達が可能であった。
 手旗では二本の腕しかつかえないが、腕木は三本の柱を使用するため、ほぼ会話に匹敵するだけの情報量を伝達することができたという。
 反乱の状況と兵力を正確に把握していたワラキア軍は、帰国するやほとんど電光石火の勢いで反乱軍を鎮圧した。
 征伐された貴族にしてみれば、いったい何が起こったのかわからぬままに悪魔が現れて命を刈り取られたように感じたであろう。
 悠長にお互いの騎士同士を派遣して、協力の打ち合わせなどをしていたのがそのいい証拠であった。
 戦力はともかく、心理的な準備がまるでできていなかったのである。
「―――――殿下、ルペニ卿から降伏の使者が参っておりますが………」
「追い返せ。俺は二度目は許さんと言ったはずだ」
 ルペニ卿はヴラディスラフとの戦いにおいて、中立を保ったワラキア西部の中堅貴族である。
 防衛戦ならばともかく、速成のワラキア軍がトランシルヴァニアに侵攻して勝利するとは考えられなかった貴族は多かったらしく、ルペニ卿もその一人であった。
 中立派がトゥルゴヴィシュテを訪れたときに、俺は二度目はないことをはっきりと宣言しているにもかかわらず、謝罪すれば許されると考えているとすれば恐るべき度胸だ。
 離合集散は貴族の習いとでも思っているのだろうか。
 そんな貴族の協力は俺には必要はないし、せめてワラキア軍の敗報を聞くまでの我慢もできないような馬鹿には敵としての価値すらない。
 ただただ除くべき塵芥として淡々と処理するまでのことだ。
「―――――殿下」
「シエナか」
 相変わらずの無表情で、冷徹な策士が俺の前にゆっくりと膝を折った。
「コンラル、パシェトゥはすでにハンガリーへ逃亡したようです。セルグイはどうもまだワラキア軍の勝利を信じ切れていないようで、いまだ抗戦の構えを崩していません」
「ちょうどいい機会だ。馬鹿には消えてもらうとしよう。どうせ潜り込んでいるものがいるのだろう?」
「配下の騎士数名がこちらに内通を確約しております」
「できるだけ惨たらしく殺してやれ。戦わずに逃げる貴族が多ければそれだけ手間がはぶける」
「御意」
 今回の討伐がこれほど早期に終了したのは腕木通信の情報伝達速度もあるが、それ以上に内偵を済ませていたシエナの功績によるところが大きい。
 組織者として有能であるばかりでなく、シエナは謀略の仕掛け人としても一級の腕を誇っている。
 愚かにも命を失った貴族の幾人かは、シエナの工作によって潜入した間諜によって、トランシルヴァニアでワラキア軍が敗勢であるという偽情報を掴まされていた。
 実のところ先刻のルペニ卿もその騙された者の一人である。
 だからといって一向に同情には値しない。
 この程度で裏切るほど底の浅い連中などいるだけ迷惑でしかないのだから。
「―――――もうひとつご報告が」
「なんだ?」
 わずかだが鉄面皮のシエナが言い渋る気配を感じて俺は首を傾げた。
 少なくとも俺の記憶にあるかぎり、この男が俺の前で遠慮などしかことはなかったはずであった。
「ラドゥ殿下ですが、このたびセルビアにて初陣を済ませられイェニチェリの一員に抜擢されたようで」
「…………そうか」
 ドキリと心臓が不自然な跳ねかたをしたのが自分でもはっきりとわかった。
 近いうちにラドゥが、オスマン帝国の組織に取りこまれるであろうことは予想していた。
 しかしあまりに早すぎる。
 ラドゥは今年でようやく12歳のはずだ。
 初陣を飾るにしても早すぎる。もしものことがあったらムラト2世はどうするつもりなのか。
「…………ラドゥは無事なのか?」
「はい。どうやら戦線の後方で守られていたようでございます。オスマンも今は殿下を大事に扱っております。将来の有為な人材として」
 ラドゥは真面目な秀才タイプの男である。
 他国人の官僚を育成するオスマンからすれば、確かに魅力的な人材であることは間違いないだろう。
 しかしそれは俺の思惑にとっては逆効果にしかならない。
 折りを見て俺は占領地の拡大を理由に、ラドゥの返還を要求するつもりであったからだ。
 いずれ俺がオスマン帝国に反旗を翻す日のために。
「引き続きラドゥの情報を集めてくれ」
「御意」
 短くそう言って引きさがったシエナは、その秀麗な美貌の知性的な広めの額に小さく皺をよせた。
 主君は気づいていないようだが、これはシエナが深刻な決意を固めたときの癖だった。
 彼がいったいどんな決意を固めたのか。
 それは間違いなく合理的な理由があり、ワラキアのためになる決意であることなのは確かだが、それが情理とは無縁であることもまた確かなことであった。
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