29 / 111
第二十九話 帝都の姫君
しおりを挟む金角湾の波止場では、荒くれの船乗りでごった返す桟橋にはあまりにも不似合いな少女が、目を輝かせて一人の船乗りの話に聞きいっていた。
年の頃は十を少し超えたところであろうか。
ビスクドールのような白磁の肌にさくらんぼのような愛らしい小振りの唇が、幼い少女の愛らしさをこのうえなく強調していて、荒くれものの船乗りもこの可愛らしさには目尻を下げてしまうしかなかった。
この世に天使がいるとすればこんな少女であるのかもしれない。
船乗りの男は、半ば本気で同量の黄金よりも美しく輝く少女の見事な髪に目を奪われながらも、少女の歓心を買おうと必死で言葉を紡ぎ出した。
「そりゃあ俺達だって一流の船乗りだ。星を読み、風を読んで船の場所を探ることだって出来らあ。だけどよ、都合よく星が拝めるなんで保障ありはしねえんだ。現に3日に一度は星の読めねえ闇夜にぶつかる。そしたら錨を下ろしてその夜は店じまいさ。なぜかって? お嬢ちゃん、一晩で船がどれだけ進むか知ってるかい?風向きにもよるがへたすりゃ5・60キロはもっていかれる。それが北なのか南なのか、東なのか、西なのかもわからないとなりゃ最悪目的地に着くまでに水と食糧が尽きちまうんだ。嵐が何日も続いたりした日にはとても生きた心地がしねえもんさ………ところが今はワラキアのおえらいさんが考え出したらしい新型の羅針盤があってな。この羅針盤ってなあ方角を示すカラクリなんだが、今までのは水に浮かべてるだけなんで嵐の日にゃ使いものにならなかったさ。それがもうどんな嵐でも暗闇でもきっちり方角のわかる羅針盤のおかげで船旅が何日も短縮できて大助かりよ」
「すごいわね。それじゃこれから港に入る船はもっと増えるかしら」
無邪気に笑う少女に船乗りの男はますます調子にのって話し出した。
不思議なことだが、少女を喜ばせるためにはどんな話をしたらいいか必死に考えている自分がいる。
もともと男は話好きな男であったが、傍から見ればまるで惚れた女の気を惹こうとしている埒もない男のようでもあった。
あるいは幼女嗜好の変態に見られたかもしれないが。
「ああ、間違いなく増える。それにこれからの航海は絶対に長足………遠くて長い航海が当たり前になる。さっきの羅針盤だけの話じゃねえんだ。味は酸っぱくて俺の好みじゃねえんだが、一年は保存がきいて壊血病に罹らずに済む魔法の食べ物をそのワラキアのおえらいさんが作ってくれたんでな。おかげで腐って食べられない不良品を掴まされることも少なくなって、食い物のためにいちいち寄港する必要もなくなったのさ。ありゃあきっと本当に聖アンセルムスの化身なんだろうぜ」
「ふふふ…………きっと船乗りのおじさんに神様がご褒美をくれたのね」
珍しい話を聞かせてもらった、と目を丸くして驚いてみせる少女に船乗りは照れたような苦笑を浮かべていたが、もう少し観察力のある人間なら少女の目が決して笑っていないことに気づいただろう。
実際に少女の内心は驚きと恐れで嵐のように荒れ狂っていたのだ。
なんじゃ? なんなのじゃ? その非常識な発明のオンパレードは?
壊血病ってあの船乗り殺しの呪いみたいな病気のはず。それが食べ物で予防できるものなのか?
だいたいいったいどうやったら干物以外で一年以上も食べ物が保存できる?
「おいこらっ! いつまでも余所もんと食っちゃべってるんじゃねえ!!」
大きな手振り身振りで盛んに少女に話しかけようとする部下に業を煮やしたのか、中年の航海長が船から桟橋に下りてきた。
興味は尽きぬがどうやら潮どきが来たらしいことを少女は悟った。
「お嬢ちゃん、こんな男の話を聞くより家に帰って習いごとでもしたほうが何倍も将来の役に立つぜ?」
「おやっさん、そりゃねえでしょう?」
「あほぅ! 子供相手だと思って余計なことまでペラペラしゃべりやがって! 今度しゃべったら沖で鮫の餌にするぞ!」
「へ、へえっ………すいやせん………」
航海長の言葉に脅し以上のものを感じ取った男は目に見えて萎縮した。
彼が漏らしたことの内容は、実際に公になれば処刑されても文句は言えない類のものであることを男もようやく思いだしたのである。
「お願い、おじさん。叱らないであげて? 私小さいからあまりよくわからなかったけど、お兄さん私にいろいろ面白い話を聞かせてくれただけなの!」
「ああ、嬢ちゃん、こいつのヨタ話は忘れて親の言いつけをちゃんと聞きな。今でもそれだけ可愛いんだ、この先年頃になればきっとえらい美人になっているだろうぜ?」
「………そうね、ありがとうおじさん…………」
にこやかに笑う少女の瞳に、少女らしからぬ鋭い知性の光が宿っていることに船乗りたちは気づかなかった。
甲板へと姿を消していく男たちを見送って、少女は振り返ると胸の高鳴りに頬をほころばせて船着き場から一本入った裏路地で待つ侍女のもとへと足を向けた。
「どうやら収穫がおありでしたようですね?」
「ふふふ……最近羽振りのいいヴェネツィアの船と思って探りを入れてみたら大収穫じゃ。妾もまさかこれほどとは思わなかったわ」
先ほどまでの無邪気な様子とは打って変わって、少女は適齢期の女性のような大人びた笑いを浮かべた。
やれやれと言いたげに侍女が肩をすくめて嘆息する。
これさえなければ姫はどこに出しても恥ずかしくない完璧な令嬢なのだが。
そう考えながらも、侍女は彼女がその生まれもった性質のままに生きられることを望んでいた。
侍女の名をサレス・マジョラスと言う。
長身でスラリと伸びた手足は、良く見れば鍛え上げられ刃物を扱うための筋肉が無駄なくついていることが窺える。
もともとは彼女はオスマンからコンスタンティノポリスに送りこまれたスパイであった。
ひょんなことから少女に素性を暴かれて一時はサレスも死を覚悟したのだが、なぜか今では侍女兼護衛として少女に雇われる身となっていた。
しかしそんな環境がなぜかとても心地いい。
――――――サレスにとって、少女はまたとない命を託すに足りる主人であったのである。
少女の名をヘレナ・パレオロギナ。
数奇な運命を背負って生まれてきた、ローマ帝国でも数少ない帝家の姫君だった。
0
お気に入りに追加
127
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
うちの冷蔵庫がダンジョンになった
空志戸レミ
ファンタジー
一二三大賞3:コミカライズ賞受賞
ある日の事、突然世界中にモンスターの跋扈するダンジョンが現れたことで人々は戦慄。
そんななかしがないサラリーマンの住むアパートに置かれた古びた2ドア冷蔵庫もまた、なぜかダンジョンと繋がってしまう。部屋の借主である男は酷く困惑しつつもその魔性に惹かれ、このひとりしか知らないダンジョンの攻略に乗り出すのだった…。

帰って来た勇者、現代の世界を引っ掻きまわす
黄昏人
ファンタジー
ハヤトは15歳、中学3年生の時に異世界に召喚され、7年の苦労の後、22歳にて魔族と魔王を滅ぼして日本に帰還した。帰還の際には、莫大な財宝を持たされ、さらに身につけた魔法を始めとする能力も保持できたが、マナの濃度の低い地球における能力は限定的なものであった。しかし、それでも圧倒的な体力と戦闘能力、限定的とは言え魔法能力は現代日本を、いや世界を大きく動かすのであった。
4年前に書いたものをリライトして載せてみます。

俺が死んでから始まる物語
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていたポーター(荷物運び)のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもないことは自分でも解っていた。
だが、それでもセレスはパーティに残りたかったので土下座までしてリヒトに情けなくもしがみついた。
余りにしつこいセレスに頭に来たリヒトはつい剣の柄でセレスを殴った…そして、セレスは亡くなった。
そこからこの話は始まる。
セレスには誰にも言った事が無い『秘密』があり、その秘密のせいで、死ぬことは怖く無かった…死から始まるファンタジー此処に開幕

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる