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第二十二話 罠

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 ブラショフへのワラキア侵攻の報は、公都であるシギショアラのトランシルヴァニア宮廷に激震を走らせた。
 火器の発達が未熟で都市の防御力というものが高いこの時代、わずか一夜で都市が陥落するということは珍しいことであったし、先代のヴラド二世の時代にはハンガリーの属国化さえしていたワラキア風情が、まさかこのトランシルヴァニアに侵攻してくるなど驚天動地というほかはないものであったからである。 

「おのれヴラド! あの慮外者め!」
 留守を預かるフニャディ・ラースローは、若干15歳らしい清冽な激情とともに叫んだ。
 父のいない国は自分が守らなくてはならない。
 フニャディ家の次期当主としての自覚と、若さゆえの純真な使命感がラースローの戦意を熱く滾らせていた。
「セスタス、今兵はどれほど残っている?」
 ラースローは父が残していった歴戦の腹心に問いかける。
 トランシルヴァニアはワラキアと違い、いまだ常備軍を用意していない。
 軍役を負った貴族の半ばは父ヤーノシュとともに上部ハンガリーの地にあるから、現在どれほどの動員が可能かはラースローには判断がつかなかったのだ。
「おそらくここ数日ということに限れば五千に届くまいかと」
 セスタスはざっと遠征に参加していないトランシルヴァニアの貴族の主だった顔ぶれを思い出してラースローに告げた。
 同時にラースローが血気にはやらぬよう忠告することも忘れない。
「ブラショフが落とされた以上、もはや東部の諸侯は当てにはなりますまい。大公殿下の援軍を待つが上策と心得ます」
 ブラショフはトランシルヴァニアの臍のような都市だった。
 この都市の陥落は、すなわちトランシルヴァニアを東西に分断されたに等しい。
 十分な兵力を期待できない以上、危険は犯さず万全を期すべきだとセスタスは考えていた。
 しかしラースローはセスタスの消極策にはあからさまな不満を隠さなかった。
 侵略者ヴラド三世当年とって16歳、自分とたった一年しか変わらぬ若い年齢である。
 16歳のワラキア君主にできることが、15歳の次代トランシルヴァニアを担う自分にできないことがあるだろうか!
 このままおとなしく父の帰還を待って、無辜の民の怨嗟を放置していてよいものか!
 それにラースローは父が上部ハンガリーから帰還するころには、ヴラドは悠々とワラキアに略奪品を満載して凱旋しているであろうと考えていた。
 現在父ヤーノシュが上部ハンガリーに率いている兵は二万を超えており、残存する駐留兵を合わせると二万五千を越える大兵力になるはずであったからだ。
 今を逃したら手柄を立てる機会は失われる。
 ラースローがセスタスの諫言を聞かずに、出撃の陣触れを出したのにはそうした焦りが存在した。
 弁舌に定評のあったラースローの檄文とともに、伝令の兵があわただしく国内を往来し、数日後には北部と西部の残存貴族からほぼ五千の軍勢が参集したのである。 

 このとき、セスタスもまたラースローと同様にワラキア軍が近いうちにブラショフを離れワラキアへ帰還することを疑っていなかった。
 いかにワラキア公が戦上手といえどカルパチア山脈を越えてブラショフを維持するのはいかにも小国のワラキアには荷が勝ちすぎるはずであったからだ。
 しかもブラショフを出て、このシギショアラへ向かい雌雄を決しようとしているという偵察の報も聞かない。
 である以上セスタスの想像は軍事的にいって全く妥当なものであった。
 ならばあえてわずかでも出陣を遅らせることで、ラースローの軽挙を防止することができる。
 そんなセスタスの思惑はたった一人の伝令によってもろくも崩壊した。
「公子様! ワラキア公はブラショフを恒久的に占領するつもりでおります! 一刻早くお助けを!」
 ブラショフから命からがら逃れてきたという騎士がもたらした情報は驚愕に値した。
 ワラキア公ヴラドは、ブラショフの主だった支配者を処刑すると、ルーマニア人から代表者を選んで都市の行政に組み込み始めている。
 さらに屈辱なのはシギショアラのラースローは積極的に出撃はしないだろうと、軍勢を分割し東部諸侯の討伐に派遣したらしいということだ。
 現在ブラショフに残るワラキア兵は千名を超える程度であるという。
 そしてヤーノシュが戻るころに合わせて、オスマンから大量の援軍が派遣されてくる手はずになっているとのことだった。
 騎士の言うことが事実ならば、これほどヴラドが強気で強引な戦略をとっていることにも納得がいく。
「もはや一刻の猶予もない!今があの悪魔を倒す好機ぞ!」
「………お待ちください。いくらなんでもシギショアラを放置して東部に軍を派遣するのはおかしい……どんな罠があるかしれませぬ」

 しかしその場に参集した貴族たちにとって、ワラキア兵がわずか一千でブラショフにいるというのは、まるまると肥え太った獲物を目の前に晒されたのに等しかった。
 彼ら自身も上部ハンガリーへの遠征に参戦できなかったこともあって武勲に飢えていたのである。
 もちろん相手にするなら勝ちやすい相手と戦いたいのは当然の心理であった。
 万全な状態のヴラドと戦わずにいられるならそれにこしたことはない。
「ワラキアのひよっこなぞなにほどのことやある!」
「今こそ我らが武威を背教の徒に見せつける時!」
「我がトランシルヴァニアの力見せてやりましょうぞ!」
 勇ましい言葉を一身に浴びて、ラースローは頼もしそうに頷くと意気揚々として抜剣した。
 教皇庁にすら一目置かれる父のような英雄となる夢が今、現実になろうとしていることを考えると、まるで自分が無敵にでもなったような昂揚感を押さえることができなかった。
「我れフニャディ・ラースローは主に誓う。暴虐なヴラドに主の裁きを! そしてトランシルヴァニアに勝利と平和をもたらさん!」
 もはや慎重論を唱えるセスタスが口を挟む暇もなく、瞬く間に軍議は出戦に決した。
 手柄を立てるのは今だと言わんばかりに、我先に貴族たちが己の兵を叱咤して東へ東へと軍を進め始める。
 勝ち戦を信じて疑わぬその姿に、セスタスは一抹の危うさを覚えずにはいられなかった。
 確かに常識的に考えればこちらの勝利は動かない。
 これで味方が劣勢であるなどと言えば、セスタスは臆病者のそしりを免れないだろう。
 だがワラキアが隠している切り札がほかにあるのではないか、という疑いは晴れることなくセスタスの胸に沈殿していた。
(かくなるうえはこの命を以ってラースロー殿下をお守りするよりほかあるまい…………)
 それにまだ何かあると決まってわけではない。
 むしろ何もない可能性のほうが高い、高いはずだ。 
 ヴラドの動向に不自然さを感じるセスタスではあるが、ではヴラドが何をしようとしていくのかと問われれば全く想像がつかぬのもまた事実であったのである。
 ――――――しかしラースローより直々に褒賞を受け取ったブラショフの騎士が、ルーマニア人であったことに注目したものは誰一人としていなかった。
 そして褒賞を受けた後、いずこともなく姿を消したこともまた……………。
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