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第十四話 アドリア海の風

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 布告からまもなく全国で種痘が開始された。
 とはいえ精神的抵抗が大きかったのか、各所で摂取を拒否する国民が続出した。
 日本人は肌の白いは七難隠すなどというが、人間の肌に対する信仰にも似た憧憬の思いは現代もなお無くなってはいない。
 天然痘はその肌が腐り、膿が生じることから、その死亡率以上に人々に忌み嫌われてきたのである。
 その一部を摂取するというのだから、拒否反応が生じるのはむしろ当たり前なのかもしれなかった。
「見よ! これで我々は永久に天然痘の恐怖から解き放たれるのだ!」
 しかしトゥルゴヴィシュテの大広場で、俺自ら種痘を受けてからは徐々に風向きが変わり始める。
 さすがに為政者が自ら摂取するのだから身体に害はないと信じたのである。
 一ケ月が経ち、俺の健康になんら異常がないことを知ると今度は爆発的に種痘を希望するものが増加した。
 それはそうだろう。
 誰もがいつ感染するかもしれない天然痘の恐怖を身近に感じていた。
 それほどに天然痘は人々に恐れられた病であった。
 家族の一人でも感染すれば、下手をすると家族が皆殺しにされることすらあった時代である。
 その恐怖から解放されるのならば、一刻も早く解放されたいというのは人間の本能というものであろう。
 困った問題が発生したのはその後である。
 どこの誰が言い始めたのかわからないが、俺が聖アンドデレの生まれ変わりであるという噂が広がり始めた。
 兄シモン・ペテロとともにキリストに弟子入りした十二使徒のひとりであるアンデレは、ルーマニアとロシアの守護聖人とされていて、ワラキアでも馴染みの深い人物である。
 伝説では彼がビザンツの最初の司教であったとされ、コンスタンティノープルの総主教庁も正教会の初代総主教をアンデレであると認定している。
 そんな人物の生まれ変わりであるという噂に対し、ローマ教皇庁から問責の使者が訪れた。
「早すぎたかもな……」
 ここで教皇庁と正面から敵対するのはあまりにも得策ではない。
 かといって異端審問官などに国内で好き勝手されれば、俺の政治基盤を根底から覆されかねない。
 ただでさえ不満いっぱいの貴族たちに大義名分を与えるのは自殺行為だ。
―――――ことのからくりはわかっている。
 オスマンに対し十字軍を組織したいローマ教皇としては、期待の星であるフニャディ・ヤーノシュを助けたいのだ。
  ヤーノシュも自分の政治的苦境を逃れるために、教皇庁との太いパイプを利用したのであろう。
「殿下、ヴェネツィアから使者が参りました」
―――――ようやく来てくれたか。
 天祐といってよいタイミングに、俺は不覚にも人ならざるものの関与を疑って愁眉を開いた。


「私がですか?」
「うむ、貴君にとってもおそらく悪い話にはならんと私は考えている」
 共和国元首であるフランチェスコ・フォスカリから、ワラキアへの使者を依頼されたジョバンニはまるで厄介事を押しつけられた子供のように顔をしかめた。
 このところ話題にのぼってはいるが、ワラキアは所詮東欧の小国にすぎない。
 わざわざ十人委員会の一人でもある自分が出向くほどの相手ではないはずなのである。
 アドリア海の女王たるヴェネツィア……そのなかでも頂点に君臨する非公開の行政機関、十人委員会に名を連ねるということには、それだけの尊厳と責任があるはずだった。
「相変わらず腹芸というのが出来ぬ男だな、君は」
「まだまだあそこはオスマンとハンガリーの鉄火場でしょう? 大した儲け話があるとも思えませんがね?」
「私も最初はそう思っていたのだが……大公殿下からの贈り物を見て気が変わった」
 そう言ってフランチェスコは一本の筒をジョバンニに差し出した。
 喇叭のような形をしたそれがなんであるのかわからずに、ジョバンニは首をかしげて筒を手に取る。
 どうやら加工されたガラスが筒の両端についているようだった。
 ワラキアでガラス加工を始めたという話は聞かないが、あるいはボヘミアの職人でも呼び寄せたのか?
 しかしローナ教皇庁のおひざ元で、数々の教会のステンドグラスをはじめ幾多の複雑な加工を縦横に駆使するヴェネツィアのガラス職人を脅かすほどには見えない。
「これが?」
「筒の小さな方から外を眺めてみよ」
 はて? ガラス越しに外を眺めていったい何があるものか?
 狐につままれたような気持ちでジョバンニは、微妙な膨らみをもつガラスへとそのはしばみ色の瞳を押しあてた。

「うわっ!」

 茶色いチョッキの少年が袋いっぱいにオレンジを抱えて自分に向かって突進してくるのを見て、慌ててジョバンイは飛びずさった。
 しかし我に返って見ればそこはフランチェスコの執務室であり、少年の姿はどこにも見えない。
 いったいあの少年はどこに消えたものだろうか?
 おかしそうにくっくっと笑うフランチェスコにジョバンニは憤慨して声を荒げた。
「元首(ドーチェ)殿、これは何のいたずらだ?」
 真面目にジョバンニが怒る様がおかしいのか、ますます笑みを深くしながらフランチェスコは苦しそうに腹を押さえた。
 才気渙発でいずれドージェの跡を継ぐと言われている大商人ジョバンニ・モチェニーゴを一時的とはいえ、やりこめられたことがうれしくてたまらなかったのだ。
 海千山千の老政治家フランチェスコには、こうした遊戯に等しいいたずら好きな側面があった。
「いたずらではない。いたずらではないのだ、ジョバンニ。それは遠くのものを近くあるかのように見せてしまう道具なのだよ」
「これが道具ですと?」
 慌てて再びジョバンニは筒を取る。
 美しいヴェネツィアの街並みとサンマルコ広場を行きかう人の群れが手に取るように映っているのを見て、ジョバンニは無意識のうちに呟いていた。
「素晴らしい(ブラボー)」
 何の目印もない海を勘と経験を頼りに航海するヴェネツィア商人にとって、この何の変哲もない筒は万金にも代えがたい貴重なものであるということをジョバンニはいやというほど熟知していた。
 これがあるだけで寄港先の島を見つけ、あるいは漂流する仲間を助けるのがどれだけ容易になることか。
「どうだ? ワラキアに行きたくなってきたであろう? 元首でなければ私が自ら赴きたいところだぞ?」

 フランチェスコにしてやられた悔しさがないではないが、その意見にはまったくジョバンニも同意するほかはなかった。
 これだけの驚きの発明をあっさりと送りつける男に直接会って話を聞きたい。
 当年とって38歳になるジョバンニだが、未知のものへの好奇心を忘れるほど年をとったつもりは毛頭なかった。
 即日ジョバンニは船上の人となったのである。
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