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第十三話 上部ハンガリーの雄

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「じ~~つに素晴らしい! まだまだこの世は驚きに満ちている!」
 カルパチア山脈の東欧では珍しいブナの原生林を前に、感嘆の叫びをあげている男がいる。
 長身のスラリとした肢体に抜けるような整った鼻梁。
 名前からしておそらくスラブ系の血が入っているのであろう色素の薄い肌に深い湖のような蒼い瞳は、世の婦人達が騒ぎたてずにはおかない危うい魅力に満ちていた。
 本人いわく、芸術の守護者。
 ワラキアの誇る自称伊達男イワン・ソポロイはある一人の男に会うために険しい山道を越える途中なのであった。

 彼がヴラドに登用されたのは全くの奇蹟的な偶然によるものである。
 たまたまお忍びで巡幸中であったヴラドの前で、ある一人の婦人をめぐって決闘騒ぎが起こったのだ。
 どうやら美しい婦人を欲望のままに手籠めにしようとした貴族の若者を、一人の貴族の男が颯爽と現れて止めたらしい。
 これで相手が平民であったなら、有無を言わさずその場で斬り殺されていたかもしれない。
 颯爽と助けに入ったまではよかったのだが、残念なことにその白馬の騎士は腕っ節のほうはからっきしであったらしく、危うく殺されかかったところを慌ててヴラドの護衛が止めるはめになった。
 当然のことだがヴラドの治める公都で暴挙を働いた貴族の若者は、貴族の地位をはく奪のうえ国外追放とされた。
 すんでのところで命を助けられたイワンは、己の信じる美意識の命ずるままに、ヴラドへの忠誠と協力を申し出たのだった。
 当初身の程知らずのただの正義漢と思われていたイワンだが、意外にも商才があり、その豊富な資金でワラキアに芸術を振興しようとしていたことがシエナの調査でわかると風向きがかわる。
 東欧の片田舎にすぎないワラキアでは海外との接点が非常に少ない。
 芸術という貴族らしい趣味人として、海外の要人とも面識のあるイワンは一躍外交担当を任されるようになった。
 彼に求められているのは貴族という地位に加え、その陽気さと芸術家らしい損得を超えた誠実さによって相手の信頼を獲得することである。
 どれだけ交渉に長けている人物でも相手の信頼を得なければ交渉のテーブルにつくこともままならないのだ。
 そういう意味でイワンは偉大なる伊達男であった。
 秘密の任務を与える際に呼び出したイワンは、不安を欠片も感じさせぬ陽気さで現れた。
「悪いがイワン、上部ハンガリーに行ってきて欲しい………」
「ほう………ちょうどボヘミアの硝子細工が欲しいと思っていたところです」
「誰が硝子細工の話をしているか!」
「不肖このイワン・ソポロイ、このワラキアに美しき芸術と文化の華を開かせるまで努力と研鑽を惜しみません!」
「今は芸術と文化から離れてくれ。我が国にとっては喫緊の案件だ」
「お命じくださればいつなりと………すでにこの身は殿下にお捧げしたものでありますれば」
 そうだ、こいつはこういう奴だった。
 忠義と芸術のためには自分の身の危険とか主義主張とかいろいろと省みない男なのだ………。
 気を使ったのが馬鹿馬鹿しく思える潔さであった。
 なんとなれば彼の向かう先は、キリスト教異端としてたびたび教皇庁に十字軍を差し向けられているフス派の残党の拠点にほかならないのである。


 のみかけの酒が置かれた机に、だらしなく足を投げ出していた男のもとに、伝令が飛びこんできたのはちょうど昼寝の最中であった。
「何だと? ワラキアの小僧から使者が来たぁ?」
 内部分裂を起こして上部ハンガリーへの逼塞を余儀なくされて以来、孤立無援の度を深めていたフス派残党にとって、小国とはいえ一国の、しかも降伏勧告でない使者が訪れるのは久しぶりのことであった。
 だらしなく下半身を投げ出していた巨漢は、のっそりと起き上がって面白そうに瞳を瞬かせた。
 赤ら顔に鷲鼻で、顎は濛々たる無精髭に覆われている。
 酒臭い息を吐きながらししし、と歯を剥きだしに笑うこの男の名をヤン・イスクラと呼んだ。
「もしかしたらおもしれえことになるかもしれねえな…………」


 ヤン・イスクラ――――またの名をギシュクラ・ヤーノシュ。
 1461年にハンガリー王マーチャーシュ1世に敗北して傘下に降るまで上部ハンガリーを実効支配しつづけたフス派の傭兵隊長である。
 フス派とはルターやカルヴィン以前にウィクリフの教説に賛同してローマ教皇庁の腐敗を弾劾したヤン・フスの支持者を指すもので、宗教改革の先駆者的存在であった。
 ちなみにジョン・ウィクリフは13世紀の宗教家で、その聖書の序文に「この聖書は人民の人民による人民のための統治に資するものである」と記す。
 のちにエイブラハム・リンカーンが演説した有名な台詞は彼の聖書からの引用である。
 悪名高い免罪符に代表されるように、当時の教会は金を庶民から巻き上げるばかりで宗教的情熱を失っていた。
 罪を金で購うことはできない、という清廉なフスの教義はたちまち民衆の心を捕え、瞬く間にボヘミア全土にフスの信望者が続出したのである。
 折悪しく当時は教会大分裂のさなかであった。
 教会大分裂とは教皇がフランスのアヴィニョンとローマ、さらにはピサ選出の教皇まで現れて三人の教皇が並び立つ異常事態に陥った事件を指す。
 フスが改革を訴えたのはまさにその三教皇が、分裂状態を解消するために協議を重ねている最中であったのである。
 ただえさえ教会の影響力が大分裂のおかげで低下しているところに、教会の腐敗を糾弾する神父などいてよいはずがなかった。
 結果フスは火刑に処され、その教義は異端の烙印を押された。
 ここでおさまらなかったのは信者たちである。
 腐敗した教会の面子のために正しい教義が異端にされるいわれはない。
 しかもフス派の拠点であるボヘミアは、ルクセンブルグ家に支配され国語としてドイツ語を強制されるなど国民の間に不平不満が高まっていたことが火に油を注いだ。
 そしてついに1419年第一次プラハ窓外投擲事件を契機として、フス戦争が勃発する。
 本来これはごく平凡な平民の反乱として早期に鎮圧されて終わるはずと誰もが認識していた。
 精強を誇るドイツ騎士団に対して、フスの信者の大半は無力な農民や市民で戦の素人にすぎなかったからである。
 ところがここで一人の男の登場が戦争のありかたそのものを変えてしまう。
 ヤン・ジシュカ―――――無敵の神の軍隊を組織した隻眼の闘将、稀代の天才の登場である。
 彼は防御施設として移動も可能な戦車を作り上げ、これに平民を収容して徹底的に火力戦を戦うことでドイツ騎士に対抗した。
 動く城塞と化した戦車戦術の前に旧来の騎兵戦術は全く歯が立たず、連戦連敗したドイツ騎士団はついにはフス派が聖歌を歌うだけで敗走するまで恐怖したと伝えられる。
 しかし無敵を誇ったフスの軍隊も、カリスマ的指導者であったヤン・ジシュカがペストによって死亡するとその指導権をめぐって内部対立が表面化した。
 なんとか教義だけでも残したい穏健派と、戦って勝利を勝ち取るべきとする強硬派、さらに戦い続けることそのものを目的とする最強硬派も含め対立は激化し、ついには内部分裂の裏切りによって、フス派の主力軍隊は全滅に近い損害を受けるのである。
 リパニの兄弟殺しと言われるこの戦いを、ギリギリのところで生き延びた歴戦の指揮官こそがヤン・イスクラであった。


「おう、ワラキアの使者ってなあ、あんたかい?」
「ワラキア公国外務卿イワン・ソポロイと申す者。以後お見知りおきいただきたい」
 イワンを一瞥してフン、とヤンは鼻を鳴らした。
 とんだ優男をよこされたものだ。
 ワラキアの若僧め。俺たちがどういう存在か本当にわかっているのか?
 すでにフス戦争の大勢は決しているが、なおヤンたちは異端でありキリスト教の敵である。
 一時ポーランドと連帯したこともあるが、その後手ひどい裏切りにあったことから部下の間で国家との約束を信頼するものは少ないのだ。
 下手に同盟すればローマ教皇庁に異端認定されかねず、さらに約束の履行を信用するには危険すぎる存在。
 ゆえにこそ圧倒的な戦力を誇りながら、ヤン率いる黒衛軍は世界から孤立した存在として上部ハンガリーに割拠していた。
「知ってるぜ。まだ16の小僧がワラキアの大公になったってな」
「確かに若うございますが、我が君の識見はとても年齢で測れるものではありませぬよ」
「ほう………それで? あのいけすかねえヤーノシュを撃ち破ってくれたワラキアの英雄がこの俺なんかになんのようだい?」
 おそらくはヴラドが対ヤーノシュの軍事協力を申し出るものだとヤンは確信している。
 それはヤンとしても望むところではあった。
 軍事力だけで成立している彼らには、政治外交経済とあらゆる分野で人材が枯渇している。
 このままではじり貧だという認識はヤン以外の幹部も共有していた。
 ワラキアと結べるならありがたい。
 ただヤンがヤーノシュを引き受け、ワラキアが漁夫の利を得るというのはいただけなかった。
 それではこちらがワラキアのために血を流すだけで何の利もないからだ。
 もちろんある程度の支援はしてくれるのだろうが、ヤーノシュを破ったあとにまでワラキアが友好であり続けると信じるほどヤンは楽天家ではなかった。
(――――ただ力を貸してくれ、ってんならお断りだぜ?)
 それに対するイワンの言葉はヤンの予想を完全に覆した。
「我が主はヤン・イスクラ殿を友とすることを望んでおります」
「はあああああああああああ?? こういっちゃなんだが、正気か?」
「はっはっはっ! 我が主の酔狂さは天下一品でございますぞ!」
「…………酔狂か。酔狂で俺と友になりたいとほざきやがる、か」
 異端である自分を友とするのが、どういう意味を持つのか、ヴラドの頭を叩き割って覗きたい欲求を覚えるヤンであった。
 あるいは、ローマ教皇や神聖ローマ帝国の皇帝ですら恐れたこの男に間抜けな声をあげさせた時点で、勝負の行方は見えていたのかもしれない。
 この日………ヤン・イスクラとヴラド・ドラクリヤの間の個人的な契約として、対ハンガリー戦の同盟が成立したのである。
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