彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~ ヴラド・ツェペシュに転生したら詰んでます

高見 梁川

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第一話 プロローグ

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 大学の卒業旅行にルーマニアを選んだ俺――こと柿沼剛士はルーマニア鉄道の車窓から流れゆくブドウ畑を眺めた。
(…………ついにやってきた。憧れのドラキュラ生誕の地に)
 大陸性気候に分類されるルーマニアの夏の日差しはとても熱く厳しい。
 しかし目を刺すようなそんな暑い日差しも、俺にとってはまるで異国の歓迎のひとつのように思えるのだった。
 大学最後の夏休みを利用して、俺がここルーマニアを訪れたのにはわけがある。
 それは俺が大の竜公ヴラド・ツェペシュのファンであるからだ。ひとめその故地を踏み、同じ空気を吸い抒情をわずかなりとも感じたかった。

――俺は自他共に認める歴史オタクである。
 だからといってそれを職業にするほど傾倒しているというわけでもなく、専門的な深い造詣を持っているわけでもない。単純な話、下手の横好き(マニア)という奴だ。まあHOIとか大好きだけどな。
 デフレ不況の中、過酷な就職戦線を戦うこと一年半、某広告代理店に運よく営業として採用されたのはおよそ半月ほど前に遡る。
 残る大学生活も半年にさしかかろうとしていた。就職活動に一年半を費やしたことを考えれば、あまり大学生活を謳歌できたとも思えない。
 というより内定が出るまでの半年間は地獄だった。
 圧迫面接、容赦のないダメ出し、不採用、不採用、不採用、足を棒のようにして企業訪問を繰り返す日々はもう思い出したくもない。
 これから長い苦しいサラリーマン生活が始まる前に、せめてもの思い出に、と俺がバイト代をはたいて選んだ旅行先は、日本人にはなじみの少ない東ヨーロッパ、ルーマニアであったというわけだ。
 チャウシェスクの独裁を打倒し、民主化を成し遂げたものの貧困から抜け出すことができずにいる東欧の一国。
 一口に言ってルーマニアはマイナーである。
 東ヨーロッパはかつて共産圏であったためか、日本では非常に知名度が低く、また西欧に比べると治安水準が低いように思われている。いや、残念ながら治安が悪いのは事実だ。
 しかしそれを補ってあまりあるほど歴史的な文化遺産の数や、頑なに守る続けられてきた古き良き習俗などが保存され、体感できるという意味で、東欧は西欧を明らかに凌駕する。
 俺のように、メジャーなものでは満足できない腐りかけた歴史ファンには、非常に新鮮な魅力に満ちあふれた場所だ。
 口当たりのよい表現をするならば、通好みな場所と言ったところだろうか。
 例えばコソボの世界遺産にも指定されたデチャニ修道院やベーチ総主教修道院は派手さこそないが、まるでそこが中世で時を止めてしまったような深い趣がある。
 デジタル家電がほとんど普及していないそこは、日本人の常識からすれば不便極まりない生活だが、そこには時の流れに思いを馳せる何かがあった。
 まあ、こんなあたりが俺が腐った歴史ファンである所以なのだろう。
 実際、大学時代の某商社に就職を決めた要領のいい友人は、フランスのヴェルサイユ宮殿やルーブル美術館を旅行先に選んでいた。
 酔狂にも東ヨーロッパを一人旅するなどという冒険を志したのは俺だけだ。
 そして今日―――――俺はこの旅の最大の目的地であるルーマニアへと到着したのだった。
 ルーマニア……ローマ人の国を意味する古代ローマの属州であったその国名は、いかにも日本では知名度が低いと言わざるを得ない。
 道行く日本人百人にルーマニアの所在地を聞いても、その位置を正確に答えられるものはおそらく一人もいないと思われる。
 せいぜい新聞好きなお父さんたちの幾人かが、悪名高き独裁者チャウシェスク大統領がいたことを覚えているくらいだろう。
 だがトランシルヴァニアと言えば、下手をすれば小さなオカルト好きの小学生でも知っているはずだ。
 そこはあのドラキュラ伯爵の生誕の地と言われているのだから――――――。

 世界的に有名な「吸血鬼ドラキュラ」をブラム・ストーカーが一八九七年出版する以前―――彼の名は完全に歴史の隅に埋もれていた。
 わずかに「ワラキア公国とモルダヴィア公国の物語」などの古い文献のなかで、かろうじて串刺し公という二つ名が悪名とともに語られる存在でしかなかったという。
 ところが小説吸血鬼ドラキュラの大ヒットとともに、そのモデルがワラキア公ヴラド・ツェペシュであるという話が広がると、彼の名はにわかに脚光を浴びることとなった。
 冷酷無比な暴君として、あるいは民族独立の功績者として。
 俺が彼を知ったのは、大学二年の夏ごろの話になる。
 ハンガリー中興の祖であるマーチャーシュ一世について調べていたはずの俺は、偶然オスマン朝との戦いに散った彼を知り、たちまち彼の劇的な人生に魅せられた。
 ヴラドはものごころのついた少年時代を、オスマン帝国に臣従した父の命令で人質としてオスマン帝国首都アドリアノーポリで過ごした。
 ところが、一旦はオスマンに臣従したはずの父は、ヴラドと幼い弟のラドゥをオスマンに残したままオスマン帝国に対して反旗を翻す。
 もちろん、人質であるヴラド達が殺されることも承知のうえでのことであった。
 実の父に見捨てられたヴラドの胸にどんな思いが去来したか、想像するに余りある。
 つまりは父に見捨てられ、ほぼ処刑される運命であったということだ。
 しかし運命の皮肉か、ヴラドは価値のある人質として奇蹟的に命長らえたのと対照的に、ヴラドを捨てた父は味方のはずの貴族に裏切られて暗殺されてしまう。
 ヴラドはオスマン帝国の支援を受けて、貴国するやワラキアの君主の座に就く。
 しかし栄光もつかの間、フニャディ・ヤーノシュの支援を受けたヴワディスワフにワラキアを追われ、ヴラドはわずか二カ月という短い最初の治世を終えた。
 ここでヴラドはオスマンには戻らず、叔父の治めるモルダヴィアに亡命、そして叔父の死とともに、なんと自分を追放した宿敵フニャディ・ヤーノシュのもとへ身を寄せる。
 まるで関ヶ原の前に石田三成が徳川家康のもとへ保護を求めた逸話を思い起こさせる果断な決断であった。
 そして再びワラキアの君主に返り咲いたヴラドは、巨大なオスマン帝国に正面から抵抗し、圧倒的多数のオスマン軍を幾度も撃退した。
 捕虜数万を串刺しにして街道に並べたという、残虐な逸話はこのときのものと考えられる。
 しかし大国オスマンを相手に国力をすり減らしたヴラドの栄華は長くは続かなかった。
 味方貴族に見放されたヴラドは善戦空しく遂にオスマンの圧力に屈して、再びハンガリーへと逃亡することになる。
 ところが思わぬことに、ここでヴラドは盟友であるはずのマーチャーシュ一世によって、監禁生活を送ることとなった。
 オーストリアとの交戦を控え、オスマンとの全面対決を避けたいマーチャーシュにとって、ヴラドは野放しにしておくには危険すぎる人物であったのだ。
 ようやくヴラドが故国への復帰を許されたのは実に十二年後のことであり、すでに全盛期を過ぎていたヴラドは、またも味方の裏切りによってあっさりとその命を落とした。
 勝ち目のない絶望的な戦に挑む悲壮な姿が、日本人の判官びいきな好みを刺激したのかもしれないが――俺にとってヴラドは特別な英雄であった。
時は半日ほど前に遡る。
「――しかしお客さん、こんなところまで日本人が来るのは久しぶりだよ」
 いささか母音の強い英語で、駅で拾った観光タクシーの運転手は、人懐っこそうな笑みを浮かべた
 彼に言わせるとポエナリ城は、ドラキュラの銅像が立つトゥルゴヴィシュテに比べると全く人気のない場所なのだそうだ。
 アルジェシュ川の袂にそそり立つ城塞で、都市部から離れて交通の便もそれほど良くないうえに、付近に宿泊施設や観光場所が少ないのもその原因であるらしい。
 しかし俺に言わせれば、フランシス・コッポラ監督の名作「ドラキュラ」を観てこの城にこないというのはおかしい。
 むしろ冒涜であろうと小一時間問いただしたいところである。
 映画の冒頭、ドラキュラ最愛の妻エリザベータは、夫の戦死の誤報を受けて絶望のあまりこのポエナリ城のテラスから身投げして自殺してしまう。
 ところがキリスト教は自殺を禁じており、たとえどんな理由があろうともエリザベータの死は神に許されざる行為であった。
 そして司祭に自殺したものの魂は永遠に救われないと諭されたドラキュラは、あまりに理不尽な神の仕打ちとその教義を憎み、神を穢すことを誓い、ついにその魂を悪魔に売り渡す。
 吸血鬼ドラキュラ誕生の地はまさにこのポエナリ城であるはずなのである。
 たとえ史実ではないにせよ、ヴラドのファンを自称するならば避けて通ることはできないポイントだった。
「まあね、――――それに人は少ないほうが詩情に浸れるというもんさ」
 これは決して負け惜しみではなくそう思う。
 俺は観光客でごったがえした手あかのついた名所などに未練はなかった。
 異国の地で自分だけのドラキュラと向かい合う。
 それほどに俺は彼に惹かれていたし、まともなファンと同じレベルで旅を楽しむのは俺の腐った歴史ファンとしての矜持が許さなかった。
「確かにここは地元の人間でもなかなか近づかない場所だからね……お客さんは本当によくわかってらっしゃる。それでこそドラキュラファンの鏡だよ」
 そう言って運転手は笑った。
 押しの強そうな角ばった顔が満面の笑みを浮かべていたが、なぜか背筋が寒くなるような戦慄に俺は震える。
 無邪気で人好きのしそうな笑顔なのに、その笑顔が自分ではないどこか遠い世界に向けられているような……そんな寒々しい笑みだった。
「お客さんは本当に運がいい。何せ今日は満月だからね……きっとドラキュラ様もお客さんの来訪をお喜びになりますよ……」
 いや、別に夜までいる気は……そう言いかけて俺は意識が遠くなるのを感じた。
 貧血にでもなったか? 咄嗟に助けを求めようとした俺の伸ばした手を、運転手が仮面を脱いだかのように豹変した酷薄な顔で振り払うのを、愕然として見たのが俺の最後の記憶になった……。

「おおっ! 我が主よ! 尊き夜の王よ! この醜い世界に恐怖と安寧と秩序を与えたまえ!」
 意識を取り戻した途端、大仰な動作で始まる儀式を見てつけられた俺は、冷たい視線を注いで吐き捨てるように言った。
「いろいろとツッコミたいが、少なくともドラキュラがいたころより、よっぽど現代は安寧と秩序があるぞ」
 しかしそんな俺の言葉は赫怒の咆哮にかき消された。
「否! 断じて否! そんなもの少なくともこのルーマニアにはない! 神が見捨てたからこそ姉は死ななければならなかったのだ!」
 この瞬間、ようやく俺には男の抱えた闇がわかった気がした。
 チャウシェスクの死後、民主化されたルーマニアは硬直した社会経済の回復に手間取り、貧富の差はむしろ拡大している。
 東欧のなかでも治安水準は低く、犯罪が多発していることせいか、この旅行中、嘘か本気かはわからないが、立ち寄った店の主人に「うちの娘と結婚しないか? 」とよく声をかけられたものだった。
 白人の金髪美女が多くて、思わず誘惑に転びそうになったのはここだけの秘密だ。
―――――などと生命の危機を前に随分余裕そうに見えるかもしれないが、これはあくまでも内心の声であって、ようは単に現実逃避しているだけなのである。
 さっきからガチガチと歯の根は合わないし、手足も震えて失禁していないだけでも褒めてあげたいほど全身は恐怖に悲鳴をあげていた。
 そんな情けない俺を、哀れっぽく見つめた男は大仰に肩をすくめてみせた。
「哀れな少年よ、怯える必要はない。君はこれから永遠を手にするのだから」
「俺もヴラドも、一体になったところで無力なもんさ」
 ハンガリーとオスマンという大国に挟まれ、非協力的な貴族や宗教対立まで背負わされたヴラドはまさに四面楚歌の状態にあった。
 それにもしもヴラドが復活したとしても、彼が命を賭して守ろうとした妻も民も国も、すでにこの世には残されていない。

「まことに残念だな。―――――無知というものは」
「狂信に比べれば無知なんて可愛いもんだと思うね」

 サッと怒りに顔を青ざめさせた男が短剣を振りかぶるのが見える。
(ああ、つい余計なこと言っちまったな。ごめん、父さん母さん……せっかく育ててくれたのにこんなところで殺される息子を許してください)

 サラリーマンとして中間管理職の悲哀を味わっている父は、きっと表情を変えずにただ黙々と夜の酒量を増やすのだろう。
 母は泣いて泣いて泣きつくして、何もなかったかのように明るい主婦に戻るに違いない。
 幸いにして家族には出来のいい官僚の兄に可愛い女子校生の妹がいるから、俺が死んだことは―――時間が解決してくれるはずだ。
 本当はここで恋人でもいれば格好がつくのだが、生憎と家族以外にかけるべき言葉もない。

「ヴラド様!今生贄を貴方に捧げます!」

――――――阿呆が。ヴラドが串刺しの山を築いてまで望んだのはせめてもの秩序と恐怖だけなのに―――――

 まともな手段では戦うことさえおぼつかなかった。
 オスマンと言う巨人と戦い続けるために効果的に恐怖を演出した。
 その結果当然のように国は疲弊し、味方は櫛の歯が抜けるように零れおちていったけれど―――――。

 それでもなお殺される瞬間まで、ヴラドは戦うことを諦めようとはしなかった。
 勝ち目のないことはわかっていたはずだ。
 それでも憑りつかれたようにヴラドは戦いにその人生を捧げた。
 ゆえにこそ、俺は彼に―――――――――
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