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人民寺院集団自殺事件

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 1931年5月13日、のちに人民寺院の教祖として知られることになるジム・ウォレン・ジョーンズは、インディアナ州の郊外で生まれた。
 母親のリネッタは、地元のボランティア活動に積極的に参加して弱者救済に尽くした人であり、一人っ子の彼をボランティアに同行させた。「息子は生まれながらの聖職者だわ」と周囲に得意げに語っていたという。
 彼自身も幼い頃から母親が期待するとおり、立派な宗教家になろうと決めていた。

 8歳で聖書を暗唱し、12歳になる頃には、近所の子供たちに本物そっくりに説教を行い、うやうやしく洗礼まで施していた。
 そうしてちゃっかり子供たちからお布施までせしめていたため、ジムが小遣い銭に困ることはなかったという。

 ジムの父親はKKK(クー・クラックス・クラン)の狂信的信者で、筋金入りの人種差別主義者だったが、ジムが12歳のときに家族を捨て失踪した。
 wikipediaによれば、ジムは異常な動物好きで、しょっちゅう野良猫や野良犬を拾って帰ってきたという。
 が、奇妙なことに、彼が拾って帰った動物たちは、みんなすぐに不審な突然死を遂げてしまうのだった。それらの動物が死ぬたびにジムは涙を流し、自らの手で死骸を埋葬して、見よう見まねで葬儀を執り行なった。
 17歳の時、当時メソジスト派の牧師になるため実習生になっていたジムは、21歳の看護婦マルセリーヌと出会い、すぐに結婚した。そして直後、ジムは急にメソジスト派を脱退した。

 1957年26歳になり、訪問販売の仕事で資金を作ったジムは、自らを教祖とする教義を掲げ、教会を設立する。
 その看板には人民寺院 (People's Temple)と書かれていた。
 これが後に全世界に恐怖とともに名を知られる人民寺院の誕生だった。
      
 当時のインディアナポリスは、住民が白人から黒人へと急速に入れ替わりを見せていた時期だった。 
 そんな中、人民寺院は急速に町の人々の心を惹きつけていった。
 ジムは確かに精力的で演説の才能があり、不思議とカリスマ性を感じさせる男だった。
 とはいえ教団設立当初は資金難が続いた。「人種融和思想」が人々に受け入れられず、教団の運営はかなり苦しいものだったという。       
 1950年代末のアメリカでは、テレビやラジオは市民運動や黒人の社会参加に共鳴し、アメリカ全土がそういった風潮に揺れていた。この流れは、1960年代にマルコムXやキング牧師が暗殺されることでピークに達する。
 そうした時節をよみ、ジムは黒人住民へのアピールを考慮に入れたピーアールを展開して、自らを社会的な宗教活動家として世間に知らしめることに成功し、教会の規模は飛躍的に膨らんでいった。

 その後ジムはマルセリーヌとの間にもうけた2人の子供のほかに、黒人と韓国人の子供を養子にし、彼らが自ら「レインボウ・ファミリー」と呼んでいた家族を築きはじめる。
 ただし、10代の頃、ジムは父の影響を強く受けた完全な白人至高主義者だったという。
 はたして彼の変化は真実であったのか、演技であったのか。

 教会の名はますます有名になり、インディアナポリスの町中に人民寺院のポスターが貼られるようになった。
 そのポスターには、「ジムは偉大なる説教師にして預言者であると同時に、優れた心霊療法士でもある。」という宣伝文句が書かれていた。
 また人民寺院は、救済活動として恵まれない黒人たちにベッドと食事を与え、仕事を世話してやったりもしていた。
 そうすることで実は信者を安い労働力として巧みに利用して、ジムは人民寺院に金を流れ込ませるためのビジネス基盤を着々と築いていた。
 このあたりの手法はオウム真理教などのカルトでも常套手段となっている。


 こうした成功が、さらに多くの入信者を呼び寄せることになった。
 その中には裕福な白人たちも含まれており、人民寺院はみるみるうちに地域一の規模を誇る宗教団体に成長していった。
 ジムの教団は、聖歌隊だけで100人を超え、日曜の礼拝の際には流行に乗った多くの群集がつめかけた。
 人々はジムの行なう様々な活動に喜んで群がっていった。
     
 ジムは人種差別撤廃を訴えるデモを行い、新左翼の抵抗運動にも参加してメディアの注目を集め、市の人権委員会の議長に任命されるまでになった。
 しかし、人種問題を熱心に訴える活動ぶりとは裏腹に、彼の側近や教団の幹部連中は、全員白人で固められていた。
 教団の一般信者は、圧倒的に黒人の方が多かったにも関わらずである。
 このあたりのダブルスタンダードぶりは次第に彼の足かせとなっていく。 
 案の定、このジムの派手な資金集めや組織体制は、すぐに周囲の疑惑を呼びこむことになる。
 市の役人達は、ジムが心霊療法士として過剰な宣伝をしていることに注目し、彼を監視しはじめたが、ジムはその動きをいち早く察していたという。
 彼はつねに自分の身にふりかかるトラブルに対して、異常なほど神経を尖らせていた。
 承認欲求の強すぎる教祖などにありがちな傾向だった。    
 この頃を境に、ジムに精神分裂病(現在は統合失調症とも呼ばれる)の兆候が現れはじめる。

 「自分の教団が見えない敵の脅威にさらされている」という妄想に取り憑かれ始めた彼が敵と見なしたのは、連邦政府と脱会信者だった。
 ジムはそれらの脅威から身を守るために、身辺警護を強化し、元信者の自宅を見張らせた。「自分の命が狙われている!」と、警察に相談したが、取り合ってもらえずに無視されたこともあった。
 1963年にはマルコムX暗殺未遂事件が起きており、そうした黒人運動の指導者がテロの対象になっていることもジムの精神を不安定にした原因だった。

 ある日、ジムは突如、信者たちにこう告げた。
 「神のお告げが訪れた!世界のほぼすべてを焼き尽くす核の大殺戮がやってこようとしている。ただし、我々のような正しき魂をもつ者たちのために、世界に2箇所だけ安全な避難所が残されている。それは、カリフォルニア州ユキアと、ブラジルのベロ・ホリゾンテである!」
 
 これが後に致命傷となるジムの終末予言の始まりだった。

 1965年に当時、キューバ危機で核戦争の脅威を感じたことや、既存のキリスト教会などから攻撃を受けたため(これにはほぼジムの妄想と思われる)ジムは本拠地をカリフォルニア州ユキアに移し、忠実な信者達140人を連れてユキアへ移動した。
 しかし、なんの運命のいたずらか、そのユキアで彼はさらに成功することになるのである。
 ユキアに移った後、教団はさらに飛躍的に拡大し、全米各地から多額の寄付金が寄せられた。 
 活動の人種の融和、弱者の救済で、社会に適応できない人、失業者、前科者、麻薬中毒者などを積極的に支援した。規模の拡大につれ、信者には様々な義務が課せられた。 
     
 1970年ジムはサンフランシスコへ移動し、礼拝には何千人という聴衆がつめかけるまでになっていた。
 ジムはひたすら天罰を説き、病を治し、貧しい者たちへ食事と宿泊所を提供し、代わりに安い労働力を得た。
 ただし、その規模は以前とは比べものにならないほど大きなものであり、いまや大事業となっていた。
 彼は地域の委員会に参加し、政治家とコネをつくり、夜間学校の教師まで精力的にこなした。教団はますます拡大していった。
 ジムは大粒のダイヤを指に光らせ、鰐革の靴をはいて、キャデラックを乗りまわす豪勢な生活を送るようになっていた。
 遂には市長選挙のキャスティングボードを握り(ジョージ・モスコーニ市長はジムの支援で当選したと言われる)、国政に携わる政治家の訪問を受ける大物の仲間入りをした。
 地元メディアもそんな彼を熱狂的に支持していた。―― 少なくともこの頃まで、ジムはちょっとしたヒーローだった。

 しかしすでに、ジムは感情の起伏を抑えるために様々な薬物を服用するようになっており、妻のマルセリーヌは、不倫が激しくなったジムに愛想を尽かしていた。その頃、子供が睡眠薬を飲んで自殺を図る事件が起きた。
    
 この頃からジムは社会主義に傾倒する。
 洗礼も「聖なる社会主義の名において」行うようになり、「正義と平等を実現する社会主義は神の啓示」だというキリスト教共同体主義を説き、社会主義を通じてのみ人間は自由になれるとした。
 そう語るかたわら、「ガンが治る」、「目が見えるようになる」といった心霊治療を行っていた。
 そして、病気を治す力があるのは、彼がキリストの生まれ代わりだからだと言った。
 カルトは原始共産主義と相性が良い傾向がある。唯物史観とは相いれないはずなのだが、そのあたりの傾向が管理人には謎である。
    
 ジムは、「もっとも崇高な献身とは、すべての財産を教団に寄付し、教団内で生活すること」だとした。
 その教義に懐疑的、または反抗的態度を見せることは、「信仰がないから」で、「外界は悪意に満ちた世界だから、彼らの情報に耳を貸してはいけない」と説いた。
 これで騙される人間は数多いから恐ろしい。   
 偉大な心霊療法士であるジムは、また異様なほどの性欲の持ち主だったようだ。
 彼はバイセクシャルでもあり、一日に数人と交わったあとでも、まだ数十回自慰をしなければおさまらない体質だったという。
 そしてこの手の教団にありがちなことだが、信者内に自分の「ハーレム」を作っていた。彼は、ハーレムで相手をさせるのも全員白人で固めていた。
 その反面、彼は信者に禁欲を徹底させ、信者間の結婚の結びつきを弱めようとした。
 子供たちはできるだけ両親と一緒にいないように隔離された。
 家族の絆を弱くし、個人の意思と欲望を弱めさせ、より彼らの目が人民寺院だけに向けられるように仕向けた。その結果、信者達はあらゆるものを人民寺院に投げ出し、寄進した。
     
 段々と時が経つにつれ、しだいにジムは迫害の強迫観念に取り憑かれるようになっていた。
 彼は説教で宗教迫害と受難の話ばかりするようになり、トランスレーションという独自の理論をしきりに説くようになり、自分のことを父なる神と呼ぶように信者たちに強いるようになった。
 彼が説くトランスレーションとは、「最終的に信者全員が共に死に、その後の魂はひとつになって他の惑星で永遠の至福を得る」という支離滅裂なものだったが、ジムはこの考えに憑かれ、固執していった。
 「神のために死ぬ準備を怠ってはいけない!」と叫び、集団自殺に賛成していない信者のリストを作り、皆の前で名指しで糾弾したりしていた。
 このあたりのトップダウンによる総括、糾弾という図式もどこか連合赤軍を思わせるが、両者の共通点はいったいなんなのだろうか。

 信者の家族から損害賠償や身柄の引き渡しの裁判が起き始めると、教団へのバッシングが本格化する前に、ジムは教団本拠地を南米のガイアナに移転した。
 ラジオの全国放送を始め、教団は全国的に有名になり、1973年には入信者は2500人にまで増加していた。 
 ガイアナへ移るために巨額の費用が費やされた。その額は100万ドルを超えていたという。
 その資金をもとに購入したガイアナの300エーカー(124万平米)の土地に「ジョーンズタウン」という名のコミューン(集落)が建設される。
 ジョーンズタウンへの通信手段は、郵便と短波無線以外まったく隔絶されており、それらの通信手段ももちろん監視されていた。
   
 ジョーンズタウンは実質ジムの独裁国家だった。
 信者たちは男女別に分けられ、子供は親から隔離されたところに置かれ、劣悪な環境下でシラミや伝染病にあえいでいた。
 ジョーンズタウンは、事実上ジムと白人だけの少数の側近が支配する植民地だった。黒人信者たちは灼熱の熱帯で奴隷のように農業に従事させられた。
 朝から日が沈むまで農作業をしたあと、強制参加の集会が始まり、夜中2時~3時まで延々と行なわれたという。
 ルールは憶え切れないほど定められており、少しでも違反した者は容赦なく殴られた。
 そうした懲罰は日ごとに激しさを増し、拷問と呼べるものへと変貌していったという。
 しかしジムは 「私は、此処に居る我々が最も純粋な共産主義者であると信じている」と自画自賛していた。

 ジムは、長期に渡って興奮剤や精神安定剤を常用していたため、妄想はひどくなる一方だった。
 暴力によって支配され、外界と完全に隔絶されたジョーンズタウンで、彼の妄想に飲み込まれないで済む者は1人もいなかった。
 信者たちに禁欲を説いていたかと思えば、ある時は、性的自由のない結婚は反革命的だとし、配偶者の不倫に嫉妬すると公然と非難した。
 男女を問わずセックスについてあからさまに語るよう強要することもあったという。 

 人民寺院では、ガイアナへ移る前から、すでに集団自殺の模擬儀式のようなものが行われていた。
 最初にそれが行われたのは、1976年の1月である。
      
 その日ジムは、側近の30人を集めると、「今日は禁酒の規則を破って、大いに飲もうじゃないか」と、グラスを差し出した。皆が一気にグラスを空けた後、彼は、「実はこのワインには毒が入っていたんだ。我々はまもなく死ぬだろう」と知らせた。もちろん、それは嘘だったのだが、ジムはその嘘で側近たちの反応を試したのだ。
 その次からは、前もってグラスに毒が入っていると知らせてから飲ませるようになった。毒と知っていても、自分のために飲み干すことができるかどうか試すもので、一種の忠誠度チェックとして行われていたようだ。 
      
 そうした模擬集団自殺は、ガイアナに移ってからだんだん頻度を増していき、いつのまにか日常化していた。
 信者たちがサイレンで呼び集められ、ジムが「毒が入っている」フルーツ味のジュースを配り、信者は黙って飲み干す。そういうことが度々行われたのだ。
 ジョーンズタウン最後の年には、なんとこの予行演習は43回も行なわれていた。
 それにつれて、信者たちのあいだにある種のマンネリが生じてきていたのも事実である。
      
 実は自殺予行演習が行われる時、食事当番はいつも前もってはずされていた。
 予行演習が終わったら食事の用意をしなければいけないからだ。だから食事当番がいないことで、信者たちにはそれがただの予行演習だとわかったのだ。

 1977年この頃になって、ようやくジムの搾取と腐敗、救世主妄想に嫌気がさした信者たちから脱退者が出はじめた。
 
 それに続いて教団内の信者虐待が激しくなったため、さらに脱退者が続出した。
 元信者でジムの元愛人であったグレース・ストーンが、教団の実体を告発したのをきっかけに、マスコミの激しい攻撃が始まる。
 それに追い討ちをかけるように 元信者からの告訴や、信者が集団で脱走しアメリカ領事館に保護を求めるといった不祥事が続発した。
 また多くの元信者たちから洩れた証言で告発記事が次々に発表され、マスコミや大衆は一転してアンチ・ジョーンズ派に転じ、彼を非難しはじめた。 
 ジムが住宅公社の委員長の地位を利用してインターナショナルホテルのテナント立ち退き反対闘争を主導したり、シンバイオニーズ解放軍(ベイエリアの地上げ屋グループに近い)を支援したことなども非難に拍車をかけた。
   
 そんな折、カリフォルニア州選出のライアン議員のもとには、人民寺院の信者の家族や元信者たちから、「ガイアナの人民寺院の内部を捜査してほしい」、「教祖からひどい目にあわされているという肉親を取り戻してほしい」という請願書が続々と寄せられていたのである。
 ライアン議員はついに視察団と共にガイアナへ行くことを決定した。
 1978年11月14日、ついにライアン議員は、人民寺院の信者の家族、元信者、マスコミ関係者を含む総勢19人と視察団を結成し、ガイアナにある人民寺院の本拠地に向かった。 
     
 ライアン議員率いる視察団に対して、人民寺院側はなかなか門を開こうとしなかったが、このまま追い返しては余計な誤解が増すだけだと弁護士を交えて長時間説得された後、確かに得策ではないと判断したらしく、ライアン議員一行はようやく中に入ることを許された。
     
 そこで一行が見た人民寺院の第一印象は、予想外に明るいものだった。子供たちは遊園地で遊び、大人の男は大工仕事や農作業に精を出し、女は料理や洗濯など、楽しげに生き生きと従事しており、実にのどかで充実した生活を送っているように見えた。
   
 その夜はジョーンズ夫妻を中心に、一行の歓迎会まで開かれた。ジムは、コーヒーも野菜も果物も、みんなここの農場で収穫したものなんだと誇らしげに説明したという。
 
 信者たちの働く姿を見ていると、どう見ても無理やり労働させられているようには見えず、外出の自由もない奴隷のような暮らしだという人民寺院批判は、根も葉もない噂に過ぎないのだと思われた。
 彼らが見た信者の生活は、実に牧歌的なもので、とても演技をしているようには見えなかったのだ。

 しかし、それ以後4日滞在するうちに、一行の目には人民寺院の別の顔が見えはじめる。
 たとえそれらを見なかったとしても、考えてみればおかしなことはいくらでもあった。

 たとえば、最初の晩の歓迎会の時でさえ、一行がちょっとでも信者たちに突っ込んだ質問をすると、彼らは決まって気まずそうに目をそらして話題を変えていたし、教祖のジム・ジョーンズの印象も、やはり普通ではなく異様なものだったのだ。
 当時彼は糖尿病が悪化して高熱が続き、薬の副作用で精神のバランスを失っていたというが、一行の質問に急に興奮して激昂したかと思うと、次の瞬間には涙を流したり、狂ったように絶叫するなど、常人には考えられない異常な反応を見せていた。

 一行の一員であるレポーターが施設内を散歩している時に偶然に異様な小屋を見つけた。
 厳重に施錠された小屋の中を覗いてみると、病気の老人たちがカイコ棚の粗末なベッドに寝かされ、所狭しと詰め込まれていた。ひどい悪臭で、不衛生極まりなく、ハエが飛び回り、蛆がわく小屋は、まさしく記録映画にある収容所のようだった。
 その様子を写真に撮ろうとしていると、見回りをしていたガードマンたちに荒々しく止められた。
 それが、紛れもなく教団の本性を垣間見た瞬間だった。
 ライアン議員がその老人たちについてジムに指摘すると、彼はいきなりパニックに陥り、錯乱状態になってわめき出した。

 いよいよライアン議員一行がガイアナを発つ日がやってきた。
 この前夜、ライアン議員はジムに「帰りたいと希望する者がいるなら、帰国を許可してやってほしい」ともちかけた。
 この申し出にジムは初め、ひどくショックを受け、混乱したようだった。
 脱退者が帰国してマスコミに何を言いふらすかを考えると、許可したくはなかっただろう。中傷されるのは目に見えている。
 いまやジムが一番恐れているのは、人々からバッシングを受けることだった。
 しかしジムは、ライアン議員の提案を断わるわけにはいかなかった。
 断われば、「人民寺院は、束縛も搾取も差別もない。完全に自由な理想郷である」という彼の主張と矛盾することになり、人々は、「やはり人民寺院は人さらいだった」と、彼を糾弾するだろう。結局ジムはこの提案を受け入れた。
 こうしてこの日、ライアン議員が帰る時間までに16人の信者たちが帰国したいと申し出た。
 誰も帰りたがる者などいない、というジムの強がりはあっさり覆された。
 それがジムにとってどれほど屈辱であったかは想像するしかない。    
 そして一行が出発しようとしたその瞬間、最初の事件が起きた。
 信者の一人が、突然ナイフを手にライアン議員に襲いかかったのだ。
 議員はナイフで切られて傷を負ったが、脇にいたジムは止めようともせず、ただ真っ青な顔をして茫然と立っていた。
 急いで現場を離れたライアン議員一行が空港に着き、二機の小型飛行機に分乗したときに第二の事件が起きた。    
 帰国するふりをして一行についてきた信者の一人が、突然彼らにピストルを発砲したのだ!
 それと同時に、ジャングルの奥から人民寺院のトラクターがあらわれ、滑走路に浸入し、二機に近づいたところで一行に銃口を向け、一斉に撃ち始めた。 そのとき助かった記者は、のちにこう語っている。
    
 「弾丸が左肩を貫き、私は地面に放り出された。その後やっとの思いで飛行機の車輪のかげに這っていった。NBCのカメラマンのボブ・ブラウンは、勇敢にもそんな状況の中でカメラを廻し続けていた。しかし一人の男が銃を手に彼に近づき、ショットガンを彼の顔から数インチのところに当てた瞬間、ボブの頭は吹っ飛ばされた。 この瞬間に見た光景は永遠に忘れないだろう」
   
 このとき殺害されたのは、ライアン議員、NBCカメラマン、NBC記者、新聞記者、信者1名の合計5名だった。 目的を達成すると、トレーラーはジャングルの奥に消え去った。

 その惨劇から約40分後の午後5時頃に、ジムはパニックに襲われながら、最後の夜の集会を命じようとしていた。 
  
 収容所ではお馴染みのサイレンが鳴り響き、信者たちが召集された。
 ジムは信者たちを前にすると、「もはや最期のときがきた」と告げた。
 のちに公表された、人民寺院の最期の光景を録音したテープでは、ジムはこう語りかけている。
    
 「私は、あなた方一人一人を幸福にしようと、全身全霊を傾けてきた。しかし一部の心ない嘘つきな連中が、我々の未来を破壊してしまったのだ。彼らは我々をそっとしておいてはくれないだろう。今にもっと大勢の議員がやってきて、我々の居場所を奪うだろう。我々に生き残るすべはないのだ」
 「我々は、みな死ななければならない。そうでなければ我々は、外界から破壊されてしまうだろう」
    
 この日のサイレンは、いつもの予行演習ではなかったのだ。
 このあと人民寺院の医師と看護婦が、飲みやすいように果物の香りがつけてある強力なシアン化物の液体の入った大きな容器を運んできた。看護婦はその液体を注射器に入れていった。
   
 「まず子供たちが先だ。ただし子供たちに、死ぬのだということを悟らせてはいけない」
     
 子供を持つ親たちが素直に前に進み出た。
 本物の儀式が始まったのだ。

 生存者の証言によると、すべての信者が素直に集団自殺に従ったわけではないという。        
 当然ながら抵抗しようとした者もいたのだ。
 ある女性は、「死ぬのはいやだ」とハッキリ言ったが、彼女の言葉は、他の信者たちの非難やヤジの声にかき消されてしまった。
 またある者は、恐怖から半狂乱になり、その場から逃げようとしたが、周囲を固めるガードマンたちから羽交い絞めにされ、無理やり薬を飲まされた。
 オデル・ローズという生還者が事故後に語ったことによると、死んだ約900人のうち、200人ほどは子供だという。
         
「子供たちは泣き叫び、それを見てヒステリー状態になった親たちもいたが、全体的にはそれほどの騒ぎはなかった。とくに老人たちは、自分の番が来るのを待ちながら、ただ目の前の出来事を黙って見つめていた。大半の人がそうだった」
       
「みんな互いに抱き合い、別れの言葉を言ったあと、次々と薬を飲んだ。それから5分もすると、みんな目玉が飛び出したようになって苦しみもがき、地面をかきむしりながら死んでいった。私は、どうやってここを抜け出すか、そればかり考えていた」
         
 自殺を拒否して反抗的な態度に出た信者は銃殺されたが、脱走して難を逃れた者もいる。
 当時ジョーンズタウンにいたのは約1100人だが、167人が生き残った。           
 ガイアナの監察医は、死んだ915人のうち300人以上は他殺である可能性が高いと判断した。
 逃げようとして銃で後ろから撃たれたと思われるものや、自分では手の届かない体の部位にシアン化物を注射されている遺体が多数あったのだ。 
 現場に最初に到着した軍の関係者は、テレビのインタビューで、「逃げようとして後ろから撃たれたらしい遺体を数多く見た」とコメントした。

 のちに公表された人民寺院最期の瞬間のテープは、
 そのあまりの生々しさゆえに世間を震撼させた。
        
ジム: 「この自殺は敗北ではない!国家権力に対する抗議だ!革命的自殺なのだ!」
信者: (一斉に)「ダッド!(お父さん)」
信者: 「あなたと一緒に生きてこられたことに感謝します!」
信者: 「これは死じゃない!別世界への旅立ちなんだ!」 
       
 拡声器を通したような声。
 人々の阿鼻叫喚と共にバックに流れるオルガン音楽。
 それがいつしかすべて止み、シーンと静まりかえる。
 もう誰も生きていないのがわかる。
      
 熱帯の南米という悪環境で、915体の遺体はすぐに腐敗しはじめた。
 そのうち267体が18歳以下、つまり子供の死体だった。
 ジム・ジョーンズは祭壇の上で、右のこめかみに自ら撃ち込んだ一発の銃弾によって死亡していた。これについては、自殺か他殺か未だ不明だといわれているが、おおむね自殺と考えて間違いないだろう。
       
 当時アメリカ政府が8000以上の文書を公開していないために、事件の真相についてありがちな憶測が飛び交っているらしく、一部ではCIAのマインドコントロール実験説まであるが、それは飛躍しすぎというものだ。
 非公開文書は、単に政治家との癒着に関する証拠物件(票を集められるジョーンズに政治家が色々と取り計らってやった経緯や、またその逆の経緯なんかもあったので)をもみ消すための隠蔽工作だったのだともいわれている。 
       
 ナルシストで権威に弱い世間知らず、打たれ弱い性格で、ファザコンであったというジョーンズは、宗教バカ一筋に育ってきた。しかし一皮向けば俗物丸出しの奴隷使いだった自分に気付き、心のどこかでジレンマを感じてもいただろう。
 肥大したブライドと猜疑心で、放っておいても、どのみち分裂症を招いたであろうことは容易に想像できる。 ジョーンズは、金儲けに宗教を選んだのが間違いであった。成功に酔いしれるうちに、深みにはまりこんでいったのだ。
 彼は信者全員を道連れにすることで、彼らが救われると思ったのだろうか。
 彼は誰かを救いたいと、本当に心から願っていただろうか。
 彼は、本当に神を信じていたのだろうか?

 生存者のある黒人女性はこう言う。
 「ジム・ジョーンズは、私が家賃を払えなかったとき、立て替えてくれました。これまで私にそんなことをしてくれた人は一人もいませんでした。」
            
 別の生存者の男性はこう言う。
 「時間が十分にあったら、結果は違っていたはずです。皆、考える時間がほとんどなく、せかされるように薬を飲んだんですから」
          
 精神分析学者はこう言った。
 「事件がサンフランシスコで起こったのなら、何人かは逃げ出したでしょう。『死ぬのは一人じゃない。皆一緒なんだ』という一体感が決心を早める状況を作ったのかもしれない」
    
 カルト研究の専門家は言う。
 「信者たちは外界と隔絶されたジャングルの中にいた。新聞もニュースもない情報のないところで、彼らはごく簡単に一つの方向に導かれてしまったのでしょう」
       

 事件後、現場から800通近いパスポートと、老人たちの年金小切手に関する封書が多数発見された。それらから彼らの心理が読み取れるような気がする。
     
 ガイアナにいた信者たちは、持てるものすべてをジムに預けていたため、パスポートもID(身分証明書)も自分では所持しておらず、旅費も捻出できない状況にあった。
 人によっては、帰れる場所も帰りたい場所も持っていなかったかもしれない。
 彼らはジャングルの囚人であると同時に、その大半はジムに魂を明渡した依存者だった。
      
 テレビはガイアナから北米に帰国してきた生存者たちの姿を映し出した。
 空港に着いた彼らの多くは車イス姿だった。
 彼らは口々に、「これからどうやって生きていったらいいのか...」と、暗い表情で語った。
 遺体になって帰国した人々の多くも行き先に迷った。
 一家が全滅して引き取り手がない遺体もあった。
      
 集団自殺を拒否して逃げようとした信者がいたのは事実だが、教祖と共に死を選んだ者が多かったのも、また事実である。      
 彼らは、たとえ教祖ジム・ジョーンズがただの薬物中毒者で、妄想症のイカサマ詐欺師でも、この男に殉ずる以外、現実社会のどこにも、自分の生きていく場所を見出すことができなかったのかもしれない。
  事実、生き残り帰国した元信者の多くは、貧困のなかでジムの後を追うようにある者は病に倒れ、ある者は精神を病んで自殺した。
 貧困と差別がなくならないかぎり、こうしたカルトもまた形を変えて今後も存続していくに違いない。
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