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6巻
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しおりを挟むノルトランド帝国はマウリシア王国の北方に位置する、ハウレリアと並ぶ尚武の国である。
国土は山岳地帯が多く、気温も低いことから農業生産力は小さい。代わりに鉱業や林業、工業が発達していた。
隣国のガルトレイク王国とは長年の敵対関係にあり、国境に存在するレフトアース金山を巡っては、今なお小競り合いが繰り返されている。
初代の王イヴァンは、自らを新たな統一王朝の創始者になぞらえて「皇帝」の名を号した。
かつてアウレリア大陸を統べた統一王朝の後継は、一般にアンサラー王国と考えられているが、イヴァンはいつか自分の子孫が大陸を統一することに夢を託した。
以来、ノルトランド帝国にとって大陸統一は、どれほど未来であっても達成しなくてはならない国是であるのだった。
「このままでは、マウリシアの義父上のほうが早く大陸統一を達成してしまいそうだな?」
「ハウレリア王国すら占領できない父に、そのようなことできるはずがありません」
妻のにべもない返事に、男は楽しそうに口元を歪めた。
「占領することと支配することは似ているようで異なる。義父上はそのことをよくわかっておられるよ」
マウリシア国王ウェルキンを義父と呼ぶ男の名はグスタフ・アドルフ・ノルトランド。
今年二十六歳になるノルトランド帝国の皇太子であった。
金髪碧眼の貴公子らしい風貌に、武人らしい広く鍛え上げられた胸板は、まさに王族の風格である。
そしてその妻の名はベアトリス。
ウェルキンの長女で、三女マーガレットと同じく茶金の髪に鳶色の瞳を持つ。
性格をそのまま表した勝気な瞳が特徴的で、非常に肉感的でグラマラスな体形は、夫であるグスタフの心を捉えて放さない。
しかしその本質は妹たちとはかなり異なり、ベアトリスは父親の政治的腹黒さというより、王族の覇気のようなものを濃く受け継いでいた。
「日和見なんかしなければ恩の売りようもあったのに!」
「おいおい、いくらなんでもあれを予想しろというのは無理があるぞ」
マウリシアの王女が皇太子妃であるノルトランドは、マウリシアへ援軍を送る大義名分があった。ところが手をこまねいているうちに戦争が終わってしまい、ノルトランドはなんら分け前を要求することができなくなった。
ベアトリスはそれをなじっているのである。
しかしマウリシアとハウレリアの戦力差は圧倒的で、国内の貴族が足を引っ張っているのがわかっていた。負け戦に援軍を出すほどノルトランドは慈善国家ではない。
結果的に援軍を出していればハウレリアから一郡や二郡は奪い取れたかもしれないが、今となっては後の祭りである。
速やかにハウレリアと和平を結び、新国王ジャンを承認したウェルキンの判断はまさに卓見であったと言えるだろう。
おかげでノルトランドを含む周辺各国はハウレリアに対する手出しを禁じられた。
マウリシアが不利な間は見て見ぬ振りをしたのだから、今頃になって手を出すことは、ハウレリアとマウリシア二国を敵に回すに等しいのだ。
「ベアトリスは今回の英雄、バルド・アントリム・コルネリアス子爵を知っているのか?」
「私が嫁いだときにはまだ七つほどの子供ですよ? 知るはずがないでしょう」
「ふむ、どうも入ってくる情報が信用できなくてな」
あまりに出来過ぎた英雄譚を信用できないのは当然であろう。しかしその物語のようなことが、本当に事実であるから性質が悪い。
「……妹のレイチェルから、惚気混じりに同じ内容の手紙が届いてるわ。信じがたいけれど信じるほかないわね」
「ほう……レイチェル殿下は、かの男にご執心か」
「あれで一途な娘だから――父が放っておくとも思えないし」
レイチェルの想いもさることながら、今のバルドは王室に取り込むだけの価値が十分すぎるほどにある。ウェルキンとしては放置しておく理由がなかった。
「面白い……願わくば、簡単に取り込めるような男でないことを」
「……バルドの祝勝会か」
本来であれば万難を排して祝いに行きたい気持ちを、サンファン王国の王太子フランコはかろうじて抑え込んだ。
十日ほど前、かねてより体調の悪化していた父、国王カルロスが危篤状態に陥り、フランコは摂政の地位に就いていた。
久しく会っていない親友の祝賀に駆けつけたい気持ちはやまやまだが、それを許されるような状態ではない。
「テレサは行ってきてもいいんだよ?」
「私はサンファン王国の王太子妃だぞ? 陛下の不予を放って里帰りなどできるものか!」
親の死に目に会えないのが不幸とされるのは、世界共通である。今やサンファンの王族の一員となったテレサもその例外ではなかった。
「それはそうなんだがね……」
フランコはこのタイミングで行われる祝勝会の政治的理由について、ウェルキンの思惑を洞察している。ここでマウリシア王国との親密さを演出することは、サンファン王国にとっても、決して利なしとは言えなかった。
「――止むを得ん。ロドリゲス叔父と軍務卿ホセに代理を頼もう」
特にホセは、バルドにとって戦友にも等しい間柄だ。サンファン王国海軍とバルドの接点を見せつけるには相応しい人選だろう。
「ちょおおおおおおおおっと、待ったああああああああ!」
そこに、まるで暴風のように飛び込んできた一人の女性――マジョルカ王国海軍卿ウラカ・デ・パルマが猛然とフランコに詰め寄った。
「あ、あたしも同行する! バルドのことならあたしも無関係とは言えまい!」
困惑顔で頭を抱えたフランコは、悪戯っぽい笑みを浮かべてウラカの背後に佇む王妃マリアを恨みがましい目で見つめた。
「母上、よりにもよってウラカ殿にばらしましたね?」
「ニヘヘ……姉代わりとしては、ウラカちゃんの恋路を応援してあげなきゃ♪」
いささかカルロスの看病疲れで憔悴の跡があるものの、マリアの本性は健在であった。
ジジコンで有名であったウラカが、サンファンを訪れたバルドに惚れ込んでしまったのは公然の秘密である。そしてウラカの猛烈なアプローチがことごとく空振りに終わったことも。
フランコは遠く離れた親友の不幸を思った。
(ごめんよ、バルド。僕には止められそうもない……)
百年来の因縁にひとまずの決着がついたこともあって、マウリシア国民は祝賀ムード一色であった。
王都キャメロンでは祝勝会の開催に合わせて、大小様々な催しが執り行われており、戦役の英雄バルドは吟遊詩人のサーガによって知らぬ者はない有様である。
「なんとも盛況ではないか」
「……私がいたころでも、これほどの騒ぎは見たことがありませんわ」
馬車に揺られつつ、久しぶりとなるキャメロンの街並みを見つめたベアトリスは、興奮も露わに答えた。
この国で育った彼女にして驚愕に値する賑わいを見せている。
「……殿下、あまり身を乗り出されては安全が保たれませぬ」
謹厳な佇まいの騎士が、ベアトリスの視界を塞ぐように立ちはだかった。
貴人を射線から隠すのは要人警護の基本である。
さすがにベアトリスの母国で暗殺はないだろうが、ノルトランドはガルトレイクと現在も戦争中なのだ。ましてグスタフたちの希望でお忍びで入国している現状では、危険はゼロではなかった。
「エルンストは堅いな。表立ってではないが、マウリシアの王宮にも連絡はしてあるのだ。このあたりにも陰の手は及んでいよう」
エルンストと呼ばれた騎士は顔色ひとつ変えず、グスタフに向かって一礼する。
「これも騎士の職務にございますれば」
「よいのです。私が大人気ありませんでしたわ」
ベアトリスはにこやかに微笑むと、優雅に背もたれに身を委ねた。彼女自身、いささか実直すぎる騎士の性格が決して嫌いではなかったからである。
エルンスト・バルトマン。
鋼のような筋肉をまといながら四肢は伸びやかで、鈍重さは微塵も感じられない。
目を引くのはその頭部に乗った、大きく三角に尖った耳であろう。
灰銀の毛並みはまるで極上のビロードのような輝きに満ちて、特殊な性癖の持ち主であれば目を剥くほどに見事である。
犬耳族のなかでも稀少な狼の獣人であるエルンストは、ノルトランド帝国でも五指に入る戦士だ。
騎士としての位階はまだ高くはないが、将来は近衛騎士を束ねる人材として期待されている。
難を言えば融通が利かず、他人とコミュニケーションを取るのに向かないことか。
もう少し世間慣れしてくれれば、いつでも近衛騎士団長を任せられる器なのだが、とグスタフは思う。もっとも、そうでないところがエルンストの可愛さでもあるが。
ノルトランド帝国では、マウリシア王国ほど獣人に対する偏見がないから、彼らは政権の中枢にも数多く入り込んでいる。
それもそのはず、ノルトランドには大陸に存在する犬耳族の実に七割以上が集中しており、国民の三割以上を獣人が占めている国なのだ。
彼らを重職に登用するのはむしろ当然の話であった。
グスタフの側室にも獣人の女が一人おり、彼女がエルンストの姉という縁もあって、グスタフはエルンストを重用していた。
「確かにマウリシアの陰の気配はありますが、私ごときに気取られるようではあまり頼りにはなりますまい」
「お前にも気取られない陰がマウリシアに大量にいるほうが問題ではないか!」
困ったものだ、とグスタフは笑いながら首を左右に振る。
謙虚なのはいいが、彼ほどの武人にあまり謙遜されては、ノルトランドの武が軽く見られることにもなりかねない。
「まだまだ未熟にございます」
あくまでも頑ななエルンストに、ベアトリスは小首を傾げた。
「ふう……エルンストも身を固めれば、少しは柔らかくなるのかしら?」
ノルトランドでも有数の戦士で、絶世とまでは言わないが十分に美形であるエルンストは、ベアトリスの侍女の間でも人気の的だ。
特にベアトリスの可愛がっている侍女のクラウディアなどは、まるでアイドルに対するように、エルンストの細密画を片時も離さぬほどである。
また皇太子の寵臣であるエルンストが、いつまでも独り身というのも問題であった。
できれば似合いの相手を世話してやりたい。
「私のような未熟者には気の早い話でございます」
このストイックさこそがエルンストの人気を高めているのだが、本人にその気は全くなかった。
「ぶふっ!」
そのとき、こらえきれない、とでもいうようにグスタフが噴き出す。
明らかに自分が笑われたと感じてエルンストは顔を顰めるが、グスタフはなおくつくつと小さく笑い、驚くべき言葉を紡ぎ出した。
「そうだなあ。立派な騎士になったら彼女を迎えに行かなきゃならんものなあ?」
「なあああああああっ?」
隙のない凛然とした表情を仮面のように顔に張りつけている男が、真っ赤になってうろたえるのをグスタフとベアトリスは初めて見た。
「ど、どこでそれを……いったい誰が!」
「お前と同郷のディルクが、それは楽しそうに教えてくれたぞ?」
「――あの野郎! 後でぶっ殺す!」
珍しく感情を露わにして激昂するエルンストに、グスタフは引き攣れるようにして爆笑した。
まさかここまで素直な反応をするとは思わなかった。
ノルトランドで今をときめく青年騎士が、こんな純情青年だと誰が信じるであろう。
本人さえ望めばその辺の美女など好き放題につまめる男なのである。
「あなただけずるいわ! 早く私にも聞かせてくださいな!」
他人の恋話を目を輝かせて強請るあたり、ベアトリスもやはり乙女であった。
「グスタフ殿下……何とぞ……何とぞ! 後生でございます!」
「すまんな。私も妻には逆らえん」
無情にもエルンストの願いは一蹴されて終わった。
「む、むぐぅ……」
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「……セリーナ、と申します」
「ぶえええええっくしょんっっ!」
「ひゃあああっ! セリーナさん! 汚いですわ!」
王都キャメロンに向かう馬車の車内では、ちょうどセリーナの対面に座っていたアガサが予期せぬ唾の襲来に悲鳴を上げた。
マゴットの世話をするセイルーンをアントリムに残し、二人はバルドの付き添いとしてマウリシア王宮での祝勝会に参加することになっている。
獣人族であるセリーナは出席を辞退しようとしたのだが、バルドは頑として聞かなかった。
もしもセリーナを粗略に扱う者があれば、決闘状を叩きつけることも辞さない。
セリーナたちが戦役中に心の折れかけた自分を励ましてくれたことを、バルドは片時も忘れたことはなかった。
たとえ自分の立場がどうあれ、もう彼女たちへの愛情を我慢するつもりはない。
「風邪でも引いたんかなあ……背筋がゾクゾクするわぁ」
寒そうに両肩を抱えて震えたセリーナは、その感覚にどこか覚えがある気がして首をひねる。
風邪とは異なる、第六感に働きかけるような悪寒。
あれは確か――。
「おとんが何かやらかした時に似てるわ」
セリーナの父マスードは優秀な商人であると同時に、商売以外の部分では、肝心な時に大きな失敗をやらかす男だった。
妻リリアと一緒に死んでしまったのが、その最たる例である。
湖でボートに乗っては立ち上がって転覆し、料理をしては頭をこんがりとアフロに焦がす父に本能的な危険を感じたのか、セリーナはいつしか父がやらかすのを感知できるようになった。
今の悪寒は、その感覚に似ていたのだ。
「今頃になって……いったい何をやらかしたんや、おとん?」
セリーナは知らない。そんなマスードの血が、しっかりとセリーナにも引き継がれているということを。
バルドが異常すぎるだけで、セリーナも十分トラブルを巻き起こすフラグ体質なのであった。
「どうしてだろう? 僕も嫌な予感がする……」
そして、セリーナのトラブルがバルドに影響しないはずがなかった。
諦念とともに、バルドは来るべきトラブルに立ち向かう覚悟を決める。
――ゾクリ。
しかしどうやらそんな覚悟とは関係なく、バルド自身、すでに別のトラブルに巻き込まれていた。
「ロドリゲス殿はバルドの母上をご存じと聞くが?」
ウラカに水を向けられたサンファン王国第二の都市、マラガの太守ロドリゲスは、ありし日のマゴットを思い浮かべて莞爾と笑った。
今となっては遠い青春の記憶である。
あの颯爽とした戦場の女神がどうしているか、願わくば再会したいところであるが、残念なことにマゴットは出産のため療養中であるという。
密かな失望をロドリゲスは押し殺した。
「トリストヴィーと小競り合いをしていた折りに。まこと、戦場では鬼神のような方でおられた」
今でこそ銀光マゴットの名は大陸に轟いているが、まだ彼女がサンファンにいたころは「空飛ぶ乙女(ムチャチャ・ボランチ)」が通り名であった。
船から船へ飛び移るマゴットの姿が、まるで空中を遊泳しているかのように非現実的だった証左である。
バルド内に眠る岡左内が聞けば、源義経の八艘飛びを思い浮かべただろう。
その逸話を聞いたウラカは大きく首肯した。
「外海で落水すれば、一流の海兵でも助かることは少ない。戦闘行動中の船を飛び回るとはまさしく神の所業だな」
海から戦闘船に自力で這い上がるのは不可能に近い。味方がカッターを降ろすか命綱を投げてくれなければ、そのまま溺死するのが通常である。
まして風を掴むことで帆走する船はどう動くか予測が不可能であり、マゴットがいかに非常識な存在であるか、ウラカは身にしみて理解することができた。
ならばその息子バルドも――。
ペロリとウラカが妖艶に舌舐めずりをすると、ロドリゲスは本能的な恐怖に肌が粟立つのを抑えられなかった。
この感覚は間違いなく、妻ビアンカに外堀を埋められ、退くこともできずに追い詰められたときのものと瓜二つであった。
(バ、バルド殿――逃げろ! 超逃げろ!)
ことこのケースに限っては、どんな優秀な男もただの獲物と変わりない。女が天性の捕食者に変化することを、文字通り食われてしまったロドリゲスは知っている。
「ウ、ウラカ殿……わかっているとは思うが、我が国の外交使節としての節度を守るようお願いしますぞ?」
下手をすれば夜這いどころか、祝勝会の物陰に隠れて……などという暴挙に及びかねないと、ロドリゲスは冷や汗を流して釘を刺す。
「迷惑はかけないから安心おしよ。あたしだって、最近は行儀がよくなったと評判なんだぜ」
あえて「何もしない」とはウラカは言わなかった。やはり、絶対にバルドを押し倒すつもりでいる。
ロドリゲスは、馬車の中で一人熟睡中のホセを恨めしそうに見つめた。
道中での針のむしろを危惧したホセは、先刻から睡眠薬を服用して安らかな夢の中である。まさに智将の名に相応しい、鮮やかな危険回避術だった。
人としてどうかは、また別の問題ではあるが。
「う~~~~ん……迷うわ。あまり大人っぽく見られるのも癪だし……」
深刻な悩み顔で、レイチェルは鏡に映る自らの肢体を睨みつけた。
出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ見事なプロポーションは健在である。
しかし十八歳になったレイチェルは、王族としてはいささか薹が立っており、もうじき嫁き遅れ呼ばわりされることを懸念していた。
好きな男より年上なのはレイチェルにとって大きな悩みであり、コンプレックスだったのである。
「今日こそはしっかりアピールしないと……」
レイチェルにとって想定外なのは、シルクが立場を顧みずバルドにアタックしたことだった。
十大貴族ランドルフ家の一人娘であるシルクは、同じくコルネリアス家の一人息子であるバルドと結ばれるには障害が多すぎた。
しかし今回コルネリアス家に二人の嫡子が誕生したばかりか、シルク自身がそうした障害を乗り越えてバルドの懐に飛び込んでいったことに、レイチェルは衝撃を受けていた。
ふと思いつき、鏡の前で色っぽいポーズなどを取ってみて、レイチェルは人知れず赤面する。
こんなところをバルドに見られたら、恥ずかしすぎて死んでしまいそうであった。
「……姉さま、ドレスならともかく、さすがに下着姿はやりすぎかと」
「きゃあああああああああああああああああああああ!!!」
誰も見ていないと信じきっていたところに、突然妹のマーガレットから声をかけられ、レイチェルは悲鳴を上げた。
「見た? 見てたの? いつから?」
「姉さまが前かがみになって、胸を突き出したあたりかしら」
「いやあああああああああああっ! お願いだから忘れて!」
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