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6巻
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当然の結果として、当主を殺された反国王派は怒り狂った。
味方してやろうとわざわざ足を運んで出向いたら、皆殺しにされたのである。これで怒らないほうがどうかしているであろう。
ところがそのころ、ルイはすでにジャンによって謀反の疑いで逮捕されており、彼らが復讐しようにも手を出しようがなかった。
「余の命と引き換えに戦争を諦めさせ、国王に忠誠を誓わせろ。さすれば少なくとも五年程度は大人しくしているだろう」
「どうしてあなたがそこまでしなくてならないんです!」
身も蓋もないルイの言葉にジャンは思わず激昂した。
ジャンにとって、ルイは一度は忠誠を誓った主君である。
退位させたのも、残る人生を平穏に送ってほしいと思ったからこそだ。こんな自殺紛いのことをさせるつもりでは断じてなかった。
「――この国を頼む、ジャン。余を少しでも思ってくれるなら、余を亡国の王にだけはしないでくれ」
大陸でも有数の軍事国家だったはずのハウレリア王国は、今や各国からとんだ張子の虎だと思われている。
たかが一子爵に完敗したのだから、それも無理からぬ話だろう。相手が弱いと見れば嵩にかかってくるのが国際政治というものである。
一刻も早くマウリシア王国との和平をまとめなければ、ハウレリア王国は各国の草刈り場と化してしまう。
ただ、老獪なマウリシアの狸、国王ウェルキンがそれを望むはずがないことを、ルイは確信していた。
「先んじて余の首を送りつければ、それほど無理難題をふっかけてはくるまい。ウェルキンにとっても、ハウレリアに友好的な政権が出来ることは歓迎すべきことのはずだからな」
サンファン王国との同盟にも見られるように、ウェルキンの視線はトリストヴィーに向いている。
民の気質的に統治の難しいハウレリアを占領する気がないのは、ほとんど追撃らしい追撃を受けなかったことでも明らかであった。
淡々と己の命を捨てると語るルイに、ジャンは声を上げて嗚咽した。
「つらい役目を押しつけるが――すまん」
三日後、恭順してきた反国王派貴族が見守る中、前国王ルイは王都エリーゼの中央広場で、斬首の刑を執行された。
密蝋漬にされたルイの首は最終的にウェルキンのもとに送り届けられ、ウェルキンは宿敵の変わり果てた姿にしばし言葉もなかったという。
ルイの王としての覚悟に感じ入ったかどうかはわからないが、マウリシア王国はいくばくかの領土の割譲と賠償金と引き換えに、ハウレリア王国におけるジャン国王の正統性を認めた。
要するに、ジャンに対して反乱を起こしたり侵攻したりしたら、マウリシア王国が相手になるぞと宣言したわけである。
――そして最後に、マウリシア国内でのボーフォート公の反乱だけが残された。
ボーフォートの籠城がこれほど長期化したのにはわけがある。
もしもこれが開戦直後であれば、マウリシアの老将軍ラミリーズは、多少の損害に構わず攻め落としたであろう。
しかし今さらボーフォート公がどうなろうと、大勢に影響はない。
ラミリーズは敵味方ともに損害を最小限に食い止めるつもりでいた。
「わしは、ああはなりたくないものだな……」
広大な所領と代々の財物に裏打ちされたボーフォート軍の戦備は、ラミリーズの目から見てもなかなかのものと言える。
そもそもボーフォート公アーノルドは、若き日には王国を背負って立つと期待された新進気鋭の行政官であった。
彼の業績は現在の強固な城や兵備、豊富な物資を見てもわかる。
伊達に十大貴族の筆頭に君臨していたわけではなく、単体の実力で考えるなら今なお最大の十大貴族は間違いなくアーノルドである。
またボーフォート公領は税率も低く、治安も良好で、領民にとってアーノルドはとても優秀なありがたい領主であった。
官僚たちの大半はアーノルドが若き日に抜擢した有能な人材で、当然ながら忠誠心も厚かった。
双方にとって不幸なことに、人生が終わるまで必ずしも優秀ではいられないのが、この悪しき世界の時の流れである。
過去に優秀であった人間ほど、老いてからの衰亡が与える影響は大きい。
例えば日本では、戦国時代の大友宗麟などが良い例である。
老いて息子に先立たれてからは豹変し、家臣を殺して妻を寝とるわ、領民を奴隷にして外国に売り飛ばすわ、キリスト教に傾倒し、家臣たちが信仰する古刹を破壊して旧来の宗教勢力まで敵に回すわ……してしまった。
それでも高橋紹雲や立花道雪といった名将が見放さなかったのは、宗麟の若き日の英才ぶりが印象に残っていたからだろう。
三国志で有名な呉の孫権なども年老いてからは後継者の選定を誤り、無二の宝ともいえる陸遜を憤死させている。
やはり麒麟も老いては駄馬に劣るというのが、残酷な時の流れの必然なのかもしれない。
ボーフォート公もなまじ若き日に有能だったがために、家臣や領民を破滅の巻き添えにしようとしていた。
ラミリーズはそれを承知しており、早期解決を諦めたのである。
「ええいっ! まだハウレリアは現れんのか? 小僧一人討ち取れんというのか!」
いらだたしげにアーノルドは足を踏み鳴らして、バルコニーから眼下のマウリシア王国軍を睨みつけた。
形勢は控えめに言ってもじり貧である。
当初はボーフォート家の縁戚筋に当たる貴族や、周辺寄貴族も協力してくれたものの、勝利の天秤が国王に傾いたかと思うと、雪崩を打ったかのように手のひらを返していった。
もしも勝利した暁には、決して許してはおかないとアーノルドは思う。
それ自体がすでに妄想でしかないということを、今のアーノルドはわかっていない。
「まったく、どいつもこいつも不甲斐ない者ばかりじゃ!」
ボーフォート公爵軍を実質的に指揮している家臣パトリックは、アーノルドの狂騒を沈痛な思いで見つめていた。
息子たちが戦役で一人残らず亡くなってしまうまで、アーノルドは実に忠誠を尽くす甲斐のある主君だった。部下を信頼してある程度の裁量を任せるだけの度量があり、さらにより大きな観点から舞台を整えられる戦略性があった。
かつて王国の要たる十大貴族の筆頭に君臨したカリスマと力量は、パトリックをはじめとする家臣たちの誇りだったのである。
「せめてチャールズ様が生きていてくれれば……」
アーノルドの息子としては凡庸であったが、彼ならば手堅くボーフォート家をまとめたであろうし、アーノルドが精神の均衡を崩すこともなかったはずだ。
十余年前の戦役において、ボーフォート公爵軍は決して負けたわけではなかった。
アーノルドが鍛え上げた軍は、ほかの貴族とは一線を画した本格的な専業軍人の集団であった。
しかし味方であるはずの他のマウリシア貴族の無能さが、ボーフォート公爵軍を敵中に孤立させた。
砂の城のようにあっさりと崩れ去ったマウリシア軍のなかで、ボーフォート公爵軍だけが明確な指揮系統を保っていたのである。
ボーフォート公爵軍を突き崩さなければ追撃戦に移れないハウレリア軍の攻撃が集中し、偶然の流れ矢がチャールズの喉元を貫いた。
自分が身を呈して庇うことができれば、今のこの窮状はなかったかもしれない。
あの日目の前でチャールズを失った瞬間から、パトリックがその悔恨から解放されたことは一度としてなかった。
アーノルドを裏切ることは自分には決してできない。
しかしこのままウェルキンと戦い続けることがアーノルドのためになるのか。
パトリックは答えの出ない問いに悩み続けるのだった。
「――潮時じゃな」
ラミリーズは王都から届けられたある物を手に、深々とため息をついた。
かつてのアーノルドを知る人間としては忸怩たる思いがあるが、こうして正面から王国に反抗してしまった以上、引導を渡すのがラミリーズの役割である。
残念なのは、全てが手遅れになってしまったことだ。
ハウレリアがまだ戦力を保っているうちであれば交渉の余地はあった。ラミリーズも、ソフトランディングさせるため交渉の使者を幾度となく送っていた。
しかしハウレリアの敗北が確定した今、マウリシア王国がボーフォート公爵に譲歩しなければならない理由は何もない。
それはすなわち、アーノルドだけでなくその一族と家臣全てを排し、ボーフォート公爵家を断絶させることを意味していた。
建国の功臣にして十大貴族の雄、ボーフォート公爵家が断絶するということは、新たな十大貴族が誕生し政治勢力が塗り替えられることでもある。
その残酷な政治力学の中に放り込まれるであろうバルドを思うと、ラミリーズは憂鬱な気分に駆られるのであった。
「だからといって、放置しておくには大きすぎるしのう……」
今後のマウリシア王国において、中央集権化を進め貴族の統率を強化するのは既定路線である。
陰に日向に貴族に反抗され、対ハウレリア王国戦をほとんどバルド一人に押しつけてしまった鬱憤でウェルキンは爆発寸前であった。
しかし、その原因はウェルキンにもある。
封建体制における経済の発展は、しばしば貴族の忠誠を衰えさせる。
基本的に貴族は土地を基盤として収益を挙げるものだが、経済と流通の発展によって、金がより多くの者を支配することになる。
本来、国王と貴族を結ぶもっとも強固な絆は、領地所有権と安全の保障である。
金融の発展は、土地と密接な関わりを持つ貴族の基盤を揺るがしかねない可能性があった。
ハウレリアに対抗するため、国力を増強しようと経済を優先したウェルキンは、それを甘く見過ぎていたと言っていい。
ウェルキンは旧来とは違う視点を有しているがゆえに、足元をすくわれたのだった。
「――ボーフォート公に使者を送れ。これが最後通告だ」
ラミリーズがアーノルドに送りつけた物とは、ハウレリア前国王ルイの首であった。
かつてルイと顔を合わせたこともあるアーノルドは、その顔を見て卒倒した。一国の王の末路としては、あまりにも無惨な姿である。
同時に国王としての責務を果たした漢の顔でもあるのだが、王となったことのないアーノルドにはそれを理解することはできなかった。
ただルイの死に様を見て思い出してしまったことがある。
それは――アーノルドが忘れていただけで、死は以前からずっと自分の身近に存在する、ということだ。
どうして忘れていたのだろう。死がすぐそこに迫っているからこそ、アーノルドはあえて国に反旗を翻したのではなかったか?
頼みのハウレリア国王ルイは死んでいた。
なら自分はどうすればいい? 自分はあとどれくらい生きられる?
この現状でもし自分が死んでしまったら、ボーフォート公爵家は――。
死を本当に意識した瞬間、アーノルドを狂わせてきた妄執はアーノルド自身に凶暴な牙を剥いた。
腰が抜けたようにどさりと尻もちをつき、アーノルドは惑乱した。
不快な痛みが内臓を締め上げてくる。
小刻みに震える身体でただ心臓の音だけが、ひどく大きな音を響かせている気がした。
ラミリーズの思惑は完全に果たされた。
今こそアーノルドは死にゆく自分を思い出したのである。
もう引き返すことのできぬ泥沼に、首まで浸かってしまった今になって。
「おおおおおおおおおっ!」
アーノルドの魂を凍えさせるような慟哭が、何もかもが手遅れであることを雄弁に告げていた。
正気を取り戻したアーノルドとラミリーズの間で、和平交渉がスタートした。
しかし、責任をアーノルド一人に留めるというボーフォート側の主張は、事実上受け入れ不可能である。
家臣から領民まで組織的に王国に反抗したことが明らかな以上、もはやボーフォート家が存続するという選択肢はない。
議題の焦点は、アーノルドの孫であるジョージの処遇に移った。
ラミリーズも子供の遣いではないから、ウェルキンの決裁を仰ぐ前にある程度の落とし所は見つけておく必要がある。
「正直に申し上げるが、私にできるのはジョージ殿の助命を嘆願する程度。王国法に照らせばそもそも三族処刑ですゆえ」
「わしも長いこと貴族社会の中で生きてきた。その程度のことは承知しておるよ。貴族は建前さえ整えれば割りと融通が利くということも」
どうやらアーノルドは搦め手を考えているらしい。問題はそれが妥協に値するかどうかということなのだが……。
「ダドリー伯が養子を探していただろう。我が一門に連なる者ではあるが王家に対する忠誠は厚い。日付を遡って縁組させれば言い抜けることも可能なはずだ」
「ほう……ダドリー伯ですか」
アーノルドのセンスが衰えていないことにラミリーズは驚愕した。
「あれに恩を売るのは卿にとっても有益になるのではないか? 彼の伯は対トリストヴィーの最右翼でもあることであるし」
その言葉を聞いても一切の動揺を見せなかったラミリーズは、称賛されてしかるべきであろう。
「なんのことかわかりかねますな」
「ふむ、トリストヴィーから理由ありの母娘を連れてやってきた凄腕の傭兵というのが、卿に似ていると聞いたが勘違いであったか」
「……流れの傭兵など珍しくもないですからな」
「ふははは……まあ、そういうことにしておこうか」
愉快そうに含み笑いを漏らすアーノルドは、まさに貴族社会を生き抜いた一大の巨人であった。
その力を正しく王国のために使っていれば、今回の戦争も随分と様相を変えたことだろう。
「おそらく陛下は断らんと思うが……よしなに頼む」
「この身命に誓いまして」
ラミリーズほどの男が、背中を冷たい汗が滴り落ちるのを堪えることができなかった。この国で、まさか自分の過去に辿りついた者がいるとは思わなかったのだ。
一介の傭兵にすぎない自分の正体が知られていたということは、つまり……。
およそ十日の後、ボーフォート公アーノルドは家臣たちに見守られるなか、静かに冥府へと旅立った。
短く熱い、第二次アントリム戦役が終結した瞬間であった。
「可愛い、可愛すぎるよ、ペロペロ……」
「バルド様、さすがの私も引きますよ?」
マゴットの出産以来、ガウェイン城のバルドは暇さえあればすぐ、ナイジェルとマルグリットの様子を見に来ていた。
その溺愛ぶりにはセイルーンどころか、母親のマゴットですら一抹の不安を感じてしまうほどである。
小さな指でバルドの指先を握り、機嫌よさそうに笑うマルグリットに、バルドは目尻を下げて感激に身を震わせていた。
「――お前に娘が出来たときが怖くなってきたよ」
「そうですね……信じられないくらいの親馬鹿になりそうです」
マゴットとセイルーンは顔を見合わせ、ため息をもらすのだった。
難産後、大事を取ってマゴットがアントリムで療養することになったのに対し、イグニスは後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、コルネリアスへと戻っていった。
戦争が終わったとはいえ、コルネリアス領主としてやらねばならないことは山積していたからである。
長く危険な隣人であったセルヴィー侯爵家が断絶し、その巨大な所領は四つの貴族に分割して与えられることになっていた。
今後セルヴィー侯爵のように敵対関係に陥りたくないイグニスとしては、まず最初の折衝に失敗するわけにはいかなかった。
幸い、四人の貴族でもっとも大きな勢力であるアルトワ伯爵は新国王ジャンの派閥に属する穏健派で、コルネリアスの軍事的負担は大幅に軽減されることが期待されている。
そうした国内外の変化にもかかわらず、いまだバルドがアントリムでゆっくりしている理由は複雑であった。
かろうじてマティスやマゴットにも武名を挙げる機会があったものの、第二次アントリム戦役はほとんどバルドが一人でハウレリア王国を叩きのめしたに等しい。
これにどうやって報いるかについて、マウリシア宮廷の意見は真っ二つに分裂していた。
なかでも十大貴族の一角であるヘイドリアン侯爵やリッチモンド公爵は、バルドがボーフォート公に代わる存在となることに強硬に反対した。
国王と十大貴族という、マウリシア王国の絶対的な権力機構の権威が弱まることを危惧したためである。
ウェルキンはもちろん、一足飛びにバルドを十大貴族に引き上げるつもりはなかったが、近い将来に何らかの功績を立てさせてバルドを加える心算であった。
しかしヘイドリアン侯爵とリッチモンド公爵は、断絶した名門ノルマンディー公爵家を復活させて十大貴族とするべき、と主張していた。
一度別の人間が入ってしまえば、バルドを将来十大貴族に迎えるという構想が破綻する。
想定外ではなかったとはいえ、ウェルキンとしては頭の痛い問題であった。
貴族の中にも領主貴族と官僚貴族のふたつの主流があり、ヘイドリアンとリッチモンドは官僚貴族のトップである(宰相であるハロルドは中立のため除外)。
領主貴族の巨頭ボーフォート公が一族とともに没落したため、今こそ官僚貴族による王国の中央集権化を成し遂げようと、両家が動き出したのだった。
中央集権化の方針自体は、ウェルキンの構想に反していないところが厄介極まりない。
いくら優秀な国王でも、その権力を行使するためには良質な官僚機構が必要不可欠だ。国王が脳なら官僚機構は手足で、血流が資本と物資になるだろうか。
これまでは幸いなことに、マウリシア王国の経済的成長を主軸にしたウェルキンの政策が官僚機構と対立することはなかった。
むしろ領主貴族との間で、徴税権や王国法を順守させるために対立を繰り返していた官僚貴族は進んで王室を擁護していたと言える。
こうして真っ向から国王に反対してくるのは、ウェルキンとしてもいささか意表を突かれた形であった。
「――といっても、あいつに報いてやらんわけにはいかん」
ウェルキンの見るところ、官僚貴族はバルドの潜在能力を甘く考えすぎている。
バルドがハウレリアの大軍を相手に勝利したのは、ただ戦に強いからというわけではない。
戦馬鹿なら、中央の権力に近寄らせなければ心配ないかもしれないが、バルドが本気になれば、領主貴族を結集しサンファン王国の支援を受けて、王権に挑戦することすら可能なはずだった。
そうした意味で、ウェルキンにバルドを正面から敵に回すつもりはさらさらない。
あちらを立てればこちらが立たず。
物語の英雄のように、戦で勝利した英雄が天下万民から祝福され、めでたしめでたしで終わればどんなに良いことか。
「官僚としては優秀なのですが、世界を狭く考えすぎのように思われますね」
こめかみを揉むウェルキンと同様、こちらも困ったようにハロルドは苦笑した。
実際マウリシアの官僚組織は決して無能ではなく、経済規模が倍化した国内の流通や法務を大過なく運営している。
もっとも末端で腐敗が進みつつはあるが、少なくともハウレリア王国やサンファン王国よりは優秀と言ってもいいだろう。
しかしながら、官僚組織というものは自らの組織を何よりも最優先にする傾向がある。
組織の維持のためなら、あえて国益を損なっても構わないという独善性は、組織が巨大であればあるほどにむしろ強くなる。
今のウェルキンの権力をもってすればそうした官僚貴族を一掃することも可能だが、そうなっては規模の拡大した経済が立ち行かない。
有能な政治家は官僚を使い、無能な政治家は官僚と対立する、という政治的格言がある。
ウェルキンの構想する官僚機構の構造改革には、さらなる平民官僚の台頭が必須であり、現状で官僚貴族を敵に回すことは避けざるを得なかった。
「ひとつ、試してみたい手があるのですが……」
「もったいつけずに言え、ハロルド。せっかくハウレリアに勝利したのだから、こんな厄介事にはさっさとケリをつけたいのだ」
不機嫌そうに話を急かすウェルキンに、ハロルドは改めて深いため息をついた。
仕え甲斐はあるかもしれないが、仕えにくい主君を持ってしまった己の運命を密かに呪う。
「官僚のような国内組織は、えてして己の権力が及ばない外圧に対して弱いものです。ここは対ハウレリア戦の勝利を祝して大々的に諸外国の首脳を招待しては?」
バルドがこれを聞いたら泣いてやめてくれ、と哀訴するだろう。
無自覚のうちに、バルドを絶望のどん底に追い込んでしまったハロルドであった。
「なるほど。机上でしか物の量れぬ連中の目を覚まさせるにはいい機会か」
ウェルキンは妙案とばかりに破顔した。
確かに彼らを説得する材料として、友好国の意向は非常に便利な言いわけになるであろう。
「ならば盛大に祝勝会を開かなくてはならんな。今後のためにもマウリシアの力を見せつけておかなくては」
そうと決まれば、ただ単にバルドを称えるだけでこの祝勝会を終わらせるつもりはない。
今やマウリシア王国は南はサンファン王国と結び、東は長年の宿敵ハウレリア王国を降したという建国以来の好状況である。今後の発展と将来性をアピールするにはまたとない機会であった。
こうなってしまっては、もうウェルキンの暴走を止めることはできない。
おそらくは腹の中で、また碌でもないことを考えているであろうことを察して、ハロルドは天を仰いで嘆息するのだった。
味方してやろうとわざわざ足を運んで出向いたら、皆殺しにされたのである。これで怒らないほうがどうかしているであろう。
ところがそのころ、ルイはすでにジャンによって謀反の疑いで逮捕されており、彼らが復讐しようにも手を出しようがなかった。
「余の命と引き換えに戦争を諦めさせ、国王に忠誠を誓わせろ。さすれば少なくとも五年程度は大人しくしているだろう」
「どうしてあなたがそこまでしなくてならないんです!」
身も蓋もないルイの言葉にジャンは思わず激昂した。
ジャンにとって、ルイは一度は忠誠を誓った主君である。
退位させたのも、残る人生を平穏に送ってほしいと思ったからこそだ。こんな自殺紛いのことをさせるつもりでは断じてなかった。
「――この国を頼む、ジャン。余を少しでも思ってくれるなら、余を亡国の王にだけはしないでくれ」
大陸でも有数の軍事国家だったはずのハウレリア王国は、今や各国からとんだ張子の虎だと思われている。
たかが一子爵に完敗したのだから、それも無理からぬ話だろう。相手が弱いと見れば嵩にかかってくるのが国際政治というものである。
一刻も早くマウリシア王国との和平をまとめなければ、ハウレリア王国は各国の草刈り場と化してしまう。
ただ、老獪なマウリシアの狸、国王ウェルキンがそれを望むはずがないことを、ルイは確信していた。
「先んじて余の首を送りつければ、それほど無理難題をふっかけてはくるまい。ウェルキンにとっても、ハウレリアに友好的な政権が出来ることは歓迎すべきことのはずだからな」
サンファン王国との同盟にも見られるように、ウェルキンの視線はトリストヴィーに向いている。
民の気質的に統治の難しいハウレリアを占領する気がないのは、ほとんど追撃らしい追撃を受けなかったことでも明らかであった。
淡々と己の命を捨てると語るルイに、ジャンは声を上げて嗚咽した。
「つらい役目を押しつけるが――すまん」
三日後、恭順してきた反国王派貴族が見守る中、前国王ルイは王都エリーゼの中央広場で、斬首の刑を執行された。
密蝋漬にされたルイの首は最終的にウェルキンのもとに送り届けられ、ウェルキンは宿敵の変わり果てた姿にしばし言葉もなかったという。
ルイの王としての覚悟に感じ入ったかどうかはわからないが、マウリシア王国はいくばくかの領土の割譲と賠償金と引き換えに、ハウレリア王国におけるジャン国王の正統性を認めた。
要するに、ジャンに対して反乱を起こしたり侵攻したりしたら、マウリシア王国が相手になるぞと宣言したわけである。
――そして最後に、マウリシア国内でのボーフォート公の反乱だけが残された。
ボーフォートの籠城がこれほど長期化したのにはわけがある。
もしもこれが開戦直後であれば、マウリシアの老将軍ラミリーズは、多少の損害に構わず攻め落としたであろう。
しかし今さらボーフォート公がどうなろうと、大勢に影響はない。
ラミリーズは敵味方ともに損害を最小限に食い止めるつもりでいた。
「わしは、ああはなりたくないものだな……」
広大な所領と代々の財物に裏打ちされたボーフォート軍の戦備は、ラミリーズの目から見てもなかなかのものと言える。
そもそもボーフォート公アーノルドは、若き日には王国を背負って立つと期待された新進気鋭の行政官であった。
彼の業績は現在の強固な城や兵備、豊富な物資を見てもわかる。
伊達に十大貴族の筆頭に君臨していたわけではなく、単体の実力で考えるなら今なお最大の十大貴族は間違いなくアーノルドである。
またボーフォート公領は税率も低く、治安も良好で、領民にとってアーノルドはとても優秀なありがたい領主であった。
官僚たちの大半はアーノルドが若き日に抜擢した有能な人材で、当然ながら忠誠心も厚かった。
双方にとって不幸なことに、人生が終わるまで必ずしも優秀ではいられないのが、この悪しき世界の時の流れである。
過去に優秀であった人間ほど、老いてからの衰亡が与える影響は大きい。
例えば日本では、戦国時代の大友宗麟などが良い例である。
老いて息子に先立たれてからは豹変し、家臣を殺して妻を寝とるわ、領民を奴隷にして外国に売り飛ばすわ、キリスト教に傾倒し、家臣たちが信仰する古刹を破壊して旧来の宗教勢力まで敵に回すわ……してしまった。
それでも高橋紹雲や立花道雪といった名将が見放さなかったのは、宗麟の若き日の英才ぶりが印象に残っていたからだろう。
三国志で有名な呉の孫権なども年老いてからは後継者の選定を誤り、無二の宝ともいえる陸遜を憤死させている。
やはり麒麟も老いては駄馬に劣るというのが、残酷な時の流れの必然なのかもしれない。
ボーフォート公もなまじ若き日に有能だったがために、家臣や領民を破滅の巻き添えにしようとしていた。
ラミリーズはそれを承知しており、早期解決を諦めたのである。
「ええいっ! まだハウレリアは現れんのか? 小僧一人討ち取れんというのか!」
いらだたしげにアーノルドは足を踏み鳴らして、バルコニーから眼下のマウリシア王国軍を睨みつけた。
形勢は控えめに言ってもじり貧である。
当初はボーフォート家の縁戚筋に当たる貴族や、周辺寄貴族も協力してくれたものの、勝利の天秤が国王に傾いたかと思うと、雪崩を打ったかのように手のひらを返していった。
もしも勝利した暁には、決して許してはおかないとアーノルドは思う。
それ自体がすでに妄想でしかないということを、今のアーノルドはわかっていない。
「まったく、どいつもこいつも不甲斐ない者ばかりじゃ!」
ボーフォート公爵軍を実質的に指揮している家臣パトリックは、アーノルドの狂騒を沈痛な思いで見つめていた。
息子たちが戦役で一人残らず亡くなってしまうまで、アーノルドは実に忠誠を尽くす甲斐のある主君だった。部下を信頼してある程度の裁量を任せるだけの度量があり、さらにより大きな観点から舞台を整えられる戦略性があった。
かつて王国の要たる十大貴族の筆頭に君臨したカリスマと力量は、パトリックをはじめとする家臣たちの誇りだったのである。
「せめてチャールズ様が生きていてくれれば……」
アーノルドの息子としては凡庸であったが、彼ならば手堅くボーフォート家をまとめたであろうし、アーノルドが精神の均衡を崩すこともなかったはずだ。
十余年前の戦役において、ボーフォート公爵軍は決して負けたわけではなかった。
アーノルドが鍛え上げた軍は、ほかの貴族とは一線を画した本格的な専業軍人の集団であった。
しかし味方であるはずの他のマウリシア貴族の無能さが、ボーフォート公爵軍を敵中に孤立させた。
砂の城のようにあっさりと崩れ去ったマウリシア軍のなかで、ボーフォート公爵軍だけが明確な指揮系統を保っていたのである。
ボーフォート公爵軍を突き崩さなければ追撃戦に移れないハウレリア軍の攻撃が集中し、偶然の流れ矢がチャールズの喉元を貫いた。
自分が身を呈して庇うことができれば、今のこの窮状はなかったかもしれない。
あの日目の前でチャールズを失った瞬間から、パトリックがその悔恨から解放されたことは一度としてなかった。
アーノルドを裏切ることは自分には決してできない。
しかしこのままウェルキンと戦い続けることがアーノルドのためになるのか。
パトリックは答えの出ない問いに悩み続けるのだった。
「――潮時じゃな」
ラミリーズは王都から届けられたある物を手に、深々とため息をついた。
かつてのアーノルドを知る人間としては忸怩たる思いがあるが、こうして正面から王国に反抗してしまった以上、引導を渡すのがラミリーズの役割である。
残念なのは、全てが手遅れになってしまったことだ。
ハウレリアがまだ戦力を保っているうちであれば交渉の余地はあった。ラミリーズも、ソフトランディングさせるため交渉の使者を幾度となく送っていた。
しかしハウレリアの敗北が確定した今、マウリシア王国がボーフォート公爵に譲歩しなければならない理由は何もない。
それはすなわち、アーノルドだけでなくその一族と家臣全てを排し、ボーフォート公爵家を断絶させることを意味していた。
建国の功臣にして十大貴族の雄、ボーフォート公爵家が断絶するということは、新たな十大貴族が誕生し政治勢力が塗り替えられることでもある。
その残酷な政治力学の中に放り込まれるであろうバルドを思うと、ラミリーズは憂鬱な気分に駆られるのであった。
「だからといって、放置しておくには大きすぎるしのう……」
今後のマウリシア王国において、中央集権化を進め貴族の統率を強化するのは既定路線である。
陰に日向に貴族に反抗され、対ハウレリア王国戦をほとんどバルド一人に押しつけてしまった鬱憤でウェルキンは爆発寸前であった。
しかし、その原因はウェルキンにもある。
封建体制における経済の発展は、しばしば貴族の忠誠を衰えさせる。
基本的に貴族は土地を基盤として収益を挙げるものだが、経済と流通の発展によって、金がより多くの者を支配することになる。
本来、国王と貴族を結ぶもっとも強固な絆は、領地所有権と安全の保障である。
金融の発展は、土地と密接な関わりを持つ貴族の基盤を揺るがしかねない可能性があった。
ハウレリアに対抗するため、国力を増強しようと経済を優先したウェルキンは、それを甘く見過ぎていたと言っていい。
ウェルキンは旧来とは違う視点を有しているがゆえに、足元をすくわれたのだった。
「――ボーフォート公に使者を送れ。これが最後通告だ」
ラミリーズがアーノルドに送りつけた物とは、ハウレリア前国王ルイの首であった。
かつてルイと顔を合わせたこともあるアーノルドは、その顔を見て卒倒した。一国の王の末路としては、あまりにも無惨な姿である。
同時に国王としての責務を果たした漢の顔でもあるのだが、王となったことのないアーノルドにはそれを理解することはできなかった。
ただルイの死に様を見て思い出してしまったことがある。
それは――アーノルドが忘れていただけで、死は以前からずっと自分の身近に存在する、ということだ。
どうして忘れていたのだろう。死がすぐそこに迫っているからこそ、アーノルドはあえて国に反旗を翻したのではなかったか?
頼みのハウレリア国王ルイは死んでいた。
なら自分はどうすればいい? 自分はあとどれくらい生きられる?
この現状でもし自分が死んでしまったら、ボーフォート公爵家は――。
死を本当に意識した瞬間、アーノルドを狂わせてきた妄執はアーノルド自身に凶暴な牙を剥いた。
腰が抜けたようにどさりと尻もちをつき、アーノルドは惑乱した。
不快な痛みが内臓を締め上げてくる。
小刻みに震える身体でただ心臓の音だけが、ひどく大きな音を響かせている気がした。
ラミリーズの思惑は完全に果たされた。
今こそアーノルドは死にゆく自分を思い出したのである。
もう引き返すことのできぬ泥沼に、首まで浸かってしまった今になって。
「おおおおおおおおおっ!」
アーノルドの魂を凍えさせるような慟哭が、何もかもが手遅れであることを雄弁に告げていた。
正気を取り戻したアーノルドとラミリーズの間で、和平交渉がスタートした。
しかし、責任をアーノルド一人に留めるというボーフォート側の主張は、事実上受け入れ不可能である。
家臣から領民まで組織的に王国に反抗したことが明らかな以上、もはやボーフォート家が存続するという選択肢はない。
議題の焦点は、アーノルドの孫であるジョージの処遇に移った。
ラミリーズも子供の遣いではないから、ウェルキンの決裁を仰ぐ前にある程度の落とし所は見つけておく必要がある。
「正直に申し上げるが、私にできるのはジョージ殿の助命を嘆願する程度。王国法に照らせばそもそも三族処刑ですゆえ」
「わしも長いこと貴族社会の中で生きてきた。その程度のことは承知しておるよ。貴族は建前さえ整えれば割りと融通が利くということも」
どうやらアーノルドは搦め手を考えているらしい。問題はそれが妥協に値するかどうかということなのだが……。
「ダドリー伯が養子を探していただろう。我が一門に連なる者ではあるが王家に対する忠誠は厚い。日付を遡って縁組させれば言い抜けることも可能なはずだ」
「ほう……ダドリー伯ですか」
アーノルドのセンスが衰えていないことにラミリーズは驚愕した。
「あれに恩を売るのは卿にとっても有益になるのではないか? 彼の伯は対トリストヴィーの最右翼でもあることであるし」
その言葉を聞いても一切の動揺を見せなかったラミリーズは、称賛されてしかるべきであろう。
「なんのことかわかりかねますな」
「ふむ、トリストヴィーから理由ありの母娘を連れてやってきた凄腕の傭兵というのが、卿に似ていると聞いたが勘違いであったか」
「……流れの傭兵など珍しくもないですからな」
「ふははは……まあ、そういうことにしておこうか」
愉快そうに含み笑いを漏らすアーノルドは、まさに貴族社会を生き抜いた一大の巨人であった。
その力を正しく王国のために使っていれば、今回の戦争も随分と様相を変えたことだろう。
「おそらく陛下は断らんと思うが……よしなに頼む」
「この身命に誓いまして」
ラミリーズほどの男が、背中を冷たい汗が滴り落ちるのを堪えることができなかった。この国で、まさか自分の過去に辿りついた者がいるとは思わなかったのだ。
一介の傭兵にすぎない自分の正体が知られていたということは、つまり……。
およそ十日の後、ボーフォート公アーノルドは家臣たちに見守られるなか、静かに冥府へと旅立った。
短く熱い、第二次アントリム戦役が終結した瞬間であった。
「可愛い、可愛すぎるよ、ペロペロ……」
「バルド様、さすがの私も引きますよ?」
マゴットの出産以来、ガウェイン城のバルドは暇さえあればすぐ、ナイジェルとマルグリットの様子を見に来ていた。
その溺愛ぶりにはセイルーンどころか、母親のマゴットですら一抹の不安を感じてしまうほどである。
小さな指でバルドの指先を握り、機嫌よさそうに笑うマルグリットに、バルドは目尻を下げて感激に身を震わせていた。
「――お前に娘が出来たときが怖くなってきたよ」
「そうですね……信じられないくらいの親馬鹿になりそうです」
マゴットとセイルーンは顔を見合わせ、ため息をもらすのだった。
難産後、大事を取ってマゴットがアントリムで療養することになったのに対し、イグニスは後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、コルネリアスへと戻っていった。
戦争が終わったとはいえ、コルネリアス領主としてやらねばならないことは山積していたからである。
長く危険な隣人であったセルヴィー侯爵家が断絶し、その巨大な所領は四つの貴族に分割して与えられることになっていた。
今後セルヴィー侯爵のように敵対関係に陥りたくないイグニスとしては、まず最初の折衝に失敗するわけにはいかなかった。
幸い、四人の貴族でもっとも大きな勢力であるアルトワ伯爵は新国王ジャンの派閥に属する穏健派で、コルネリアスの軍事的負担は大幅に軽減されることが期待されている。
そうした国内外の変化にもかかわらず、いまだバルドがアントリムでゆっくりしている理由は複雑であった。
かろうじてマティスやマゴットにも武名を挙げる機会があったものの、第二次アントリム戦役はほとんどバルドが一人でハウレリア王国を叩きのめしたに等しい。
これにどうやって報いるかについて、マウリシア宮廷の意見は真っ二つに分裂していた。
なかでも十大貴族の一角であるヘイドリアン侯爵やリッチモンド公爵は、バルドがボーフォート公に代わる存在となることに強硬に反対した。
国王と十大貴族という、マウリシア王国の絶対的な権力機構の権威が弱まることを危惧したためである。
ウェルキンはもちろん、一足飛びにバルドを十大貴族に引き上げるつもりはなかったが、近い将来に何らかの功績を立てさせてバルドを加える心算であった。
しかしヘイドリアン侯爵とリッチモンド公爵は、断絶した名門ノルマンディー公爵家を復活させて十大貴族とするべき、と主張していた。
一度別の人間が入ってしまえば、バルドを将来十大貴族に迎えるという構想が破綻する。
想定外ではなかったとはいえ、ウェルキンとしては頭の痛い問題であった。
貴族の中にも領主貴族と官僚貴族のふたつの主流があり、ヘイドリアンとリッチモンドは官僚貴族のトップである(宰相であるハロルドは中立のため除外)。
領主貴族の巨頭ボーフォート公が一族とともに没落したため、今こそ官僚貴族による王国の中央集権化を成し遂げようと、両家が動き出したのだった。
中央集権化の方針自体は、ウェルキンの構想に反していないところが厄介極まりない。
いくら優秀な国王でも、その権力を行使するためには良質な官僚機構が必要不可欠だ。国王が脳なら官僚機構は手足で、血流が資本と物資になるだろうか。
これまでは幸いなことに、マウリシア王国の経済的成長を主軸にしたウェルキンの政策が官僚機構と対立することはなかった。
むしろ領主貴族との間で、徴税権や王国法を順守させるために対立を繰り返していた官僚貴族は進んで王室を擁護していたと言える。
こうして真っ向から国王に反対してくるのは、ウェルキンとしてもいささか意表を突かれた形であった。
「――といっても、あいつに報いてやらんわけにはいかん」
ウェルキンの見るところ、官僚貴族はバルドの潜在能力を甘く考えすぎている。
バルドがハウレリアの大軍を相手に勝利したのは、ただ戦に強いからというわけではない。
戦馬鹿なら、中央の権力に近寄らせなければ心配ないかもしれないが、バルドが本気になれば、領主貴族を結集しサンファン王国の支援を受けて、王権に挑戦することすら可能なはずだった。
そうした意味で、ウェルキンにバルドを正面から敵に回すつもりはさらさらない。
あちらを立てればこちらが立たず。
物語の英雄のように、戦で勝利した英雄が天下万民から祝福され、めでたしめでたしで終わればどんなに良いことか。
「官僚としては優秀なのですが、世界を狭く考えすぎのように思われますね」
こめかみを揉むウェルキンと同様、こちらも困ったようにハロルドは苦笑した。
実際マウリシアの官僚組織は決して無能ではなく、経済規模が倍化した国内の流通や法務を大過なく運営している。
もっとも末端で腐敗が進みつつはあるが、少なくともハウレリア王国やサンファン王国よりは優秀と言ってもいいだろう。
しかしながら、官僚組織というものは自らの組織を何よりも最優先にする傾向がある。
組織の維持のためなら、あえて国益を損なっても構わないという独善性は、組織が巨大であればあるほどにむしろ強くなる。
今のウェルキンの権力をもってすればそうした官僚貴族を一掃することも可能だが、そうなっては規模の拡大した経済が立ち行かない。
有能な政治家は官僚を使い、無能な政治家は官僚と対立する、という政治的格言がある。
ウェルキンの構想する官僚機構の構造改革には、さらなる平民官僚の台頭が必須であり、現状で官僚貴族を敵に回すことは避けざるを得なかった。
「ひとつ、試してみたい手があるのですが……」
「もったいつけずに言え、ハロルド。せっかくハウレリアに勝利したのだから、こんな厄介事にはさっさとケリをつけたいのだ」
不機嫌そうに話を急かすウェルキンに、ハロルドは改めて深いため息をついた。
仕え甲斐はあるかもしれないが、仕えにくい主君を持ってしまった己の運命を密かに呪う。
「官僚のような国内組織は、えてして己の権力が及ばない外圧に対して弱いものです。ここは対ハウレリア戦の勝利を祝して大々的に諸外国の首脳を招待しては?」
バルドがこれを聞いたら泣いてやめてくれ、と哀訴するだろう。
無自覚のうちに、バルドを絶望のどん底に追い込んでしまったハロルドであった。
「なるほど。机上でしか物の量れぬ連中の目を覚まさせるにはいい機会か」
ウェルキンは妙案とばかりに破顔した。
確かに彼らを説得する材料として、友好国の意向は非常に便利な言いわけになるであろう。
「ならば盛大に祝勝会を開かなくてはならんな。今後のためにもマウリシアの力を見せつけておかなくては」
そうと決まれば、ただ単にバルドを称えるだけでこの祝勝会を終わらせるつもりはない。
今やマウリシア王国は南はサンファン王国と結び、東は長年の宿敵ハウレリア王国を降したという建国以来の好状況である。今後の発展と将来性をアピールするにはまたとない機会であった。
こうなってしまっては、もうウェルキンの暴走を止めることはできない。
おそらくは腹の中で、また碌でもないことを考えているであろうことを察して、ハロルドは天を仰いで嘆息するのだった。
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