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5巻
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しおりを挟む「ヘイスティングス伯爵らと頻繁に連絡は取り合っているようですが……少なくとも軍に動きはないかと」
かの公爵が、謀反の先頭に立って決起する可能性は低いであろうと、ハロルドは考えていた。
そうしたリスクに立ち向かう気概から縁遠いからこそ、彼らは王国の発展についていけない守旧派となるのだ。
「おそらくは戦況を見て、去就を決めるつもりでしょう。緒戦に敗れると危険ですね」
彼らがマウリシア王国に対して、まともな忠誠心など持ち合わせていないことを、ウェルキンもハロルドも先の戦役で思い知らされていた。
あのときの無秩序な貴族たちの暴走を、ハロルドは忘れることができない。
そんな若き日の屈辱を二度と味わわぬために、様々な策を講じてきたつもりだが、それは甘くはなかったか?
迫りくる軍靴の音を前にして、ハロルドはそう自問せずにはいられなかった。
「危険なしに国を変えることなどできるものか。そう心配せずとも、あの戦役を繰り返すことなどありはせん」
「……根拠をお聞きしても?」
陰謀を企むことはあれど、内面は甘い夢想家である国王に、宰相としては問いただしておく必要がある。
「ハウレリアの第一手がアントリムであることは確実だ。考えてもみよ、アントリムの小僧がやすやすとハウレリアにいたぶられるか? ましてあの男には、敵も多いが味方も多いであろう?」
かつての戦役で一族郎党全て滅ぼされてしまった先代のアントリム子爵は、領民思いではあったが、指揮官としては無能であった。
だがバルドは、そうした平凡さとはもっとも縁遠い人物だ。
少なくともハウレリア王国軍のど肝を抜く程度のことは、軽くやってのけるに違いなかった。
細部まではわからなかったが、バルドがアントリムで進めている防備の拡充が、常識を一歩も二歩も踏み外したものであることは想像に難くない。
「過度の期待は禁物です。アントリムの兵力では、ハウレリアの精鋭を相手に善戦することはできても勝利することは難しいでしょう」
「相変わらずつまらん奴だな。十倍以上の敵を蹴散らして勝つかもしれんじゃないか」
「勝てなかった場合を考え、有能な家臣を無駄死にさせないのが我らの務めです。面白がるのは勝ってからにしてください」
演技とも本気ともつかぬ様子で肩をすくめる国王に、ハロルドは冷たい声で釘を刺すのを忘れなかった。
勝つための布石は打ってきたつもりでも、想定していたより開戦の時期が早くなりそうだ。
バルドという異分子の登場が、果たして吉と出るか凶と出るか。
戦うからには負けることは許されないのが、国王の懐刀としての使命である。
ハロルドにとっては眠れぬ夜が続きそうであった。
ハウレリア王国軍には七つの騎士団が存在する。
マウリシア王国が所有する四つの騎士団の、ほぼ倍の規模を誇る精鋭であり、ハウレリア王国がマウリシア侵攻のために鍛え上げてきた切り札的な存在でもあった。
そのひとつである蒼竜騎士団の団長を務めるのが、先の戦役で戦死したソユーズ将軍の息子、ボロディノ・ダンピエールである。
父に似て非凡な戦術眼を持ち、部下を心服させるカリスマに溢れた彼は、ハウレリア王国軍の次代を担う一人として期待を集めていた。
しかし彼が武の名門ダンピエール家の当主で、名将ソユーズの後継者であることを考えれば、その地位は不相応に低いものと言わざるを得ない。
騎士団長とは、将軍の地位から二段階ほど下の戦術指揮官である。
父ソユーズが次期軍務卿として、軍の最上位に立とうとしていたのに、なんという零落ぶりであることか。
それを思うと、ボロディノは腸が煮えくり返る思いだった。
あの運命の日、世界でもっとも物騒なコルネリアスのひと番によって首を落とされるまで、ソユーズはハウレリアに連戦連勝をもたらし、名将の名を欲しいままにしていた。
そんな父が誇らしく、自らも立派な軍人となることを志したボロディノは、入隊直後の訓練先の営庭で、父の死の報告を聞いた。
「嘘だっ!」
信じられなかった。誹謗中傷の類であってくれ、と祈りもした。
しかしソユーズが乱戦のなかで討ち取られ、味方が壊滅的な被害を被ったことは紛れもなく事実であった。
勝利の立役者として称賛と尊敬を集めてきた父は、一転して敗北した無能な指揮官となった。
これまで父に阿るようにまとわりついていた人間たちは、手のひらを返したようにボロディノを非難した。ソユーズは軍人としてあるまじき暗殺に手を染めたため、軍神の怒りを買ったのだ、と。
後日、父が銀光マゴットの暗殺を企図したことを聞いたボロディノは、父らしい合理的な策であると首肯した。味方を無駄死にさせることを何よりも嫌った父であればこそだろう。
作戦は奇をてらうことなく、あくまでも愚直に合理的。そして負けない戦を心がけることにかけて、父以上の指揮官をボロディノは未だに見たことがない。
すべてはあの銀光と、イグニス・コルネリアスがあまりに規格外すぎただけなのだ。
今こそ父の汚名を雪ぎ、因縁に決着をつける日がやってきた、とボロディノは信じた。
「腕が鳴りますな、団長殿」
副官のモーリスは、ボロディノの静かな闘志を誰よりもよく承知していた。
もともと彼は、ソユーズの代からダンピエール家に仕える古い部下である。
落ち目のダンピール家を人々が見捨てるなか、忠誠を尽くし続ける数少ない家臣でもあった。
「相手が息子というのが残念ではあるが……やるからには圧勝して格の違いを見せつけてやる」
語気も荒く断言するボロディノの宣言は、決して自信過剰というわけではない。
軍事力の再建を優先したハウレリア王国の軍は、質量ともに、経済復興を優先したマウリシア王国を明らかに超越している。
兵力の数や、士気の高さ、練度もさることながら、武装や馬の品種にいたるまで、その違いは様々なところにまで及んでいた。
「ソロバン勘定だけで戦争などできぬことを教えてやる」
一般的なハウレリア軍人の評価として、軍事費を削り、経済発展のため投資に予算を割いてきたマウリシア王国に対する採点は辛い。
経済力は国力の重要な指標ではあるが、軍事力の裏付けのない経済力は敵の餌にしかならない、というのが、一般的な常識であった。
せっかくの美味しい果実も、敵国に占領されてしまっては何の意味もないからだ。
「ダンピエール団長閣下、フランドル将軍より伝令です」
まだ十代の若々しい従騎士の少年が、ボロディノを指揮する上官の命令を伝えた。
今年四十八歳になる上官――フランドル将軍は、父ソユーズの副官を務めたこともある叩き上げの実戦指揮官である。
動員された新編の二個師団に加え、三つの騎士団を率いるアントリム侵攻軍の司令官として抜擢されただけあって、統率力と果敢さに定評のある人物であった。
「すぐに向かう」
復権を狙うボロディノにとって、同じ騎士団の団長たちは手柄を競うライバルである。まずは軍議でフランドル将軍の評価を得て、先鋒の栄誉を獲得しなくてはならなかった。
ハウレリア王国軍務省は、王都から北へ三キロほど離れた場所にある。
重厚な大理石をふんだんに使った巨大な建造物が発する威容は、下手をすると王宮よりも迫力を感じてしまうほどだ。
ボロディノが到着したときには、遠征軍の主要なメンバーはすでに軍務省内にある会議室に集まっていた。
フランドル将軍を中心に、その右に首席幕僚のバルノーが陣取り、二人の左右に白竜騎士団長と黒竜騎士団長が座っていた。
ただでさえ殺伐とした雰囲気のなか軍議の席に着いたボロディノは、フランドル将軍が思ったより険しい表情を見せていることに、内心で首をかしげた。
フランドル将軍は、本来陽気で攻撃的な指揮官である。
こうした軍議においても、自ら進んで積極的な運動戦を主張することを、かつて部下だったときもあるボロディノは知っていた。しかし――。
「今回の先陣だが……民兵に任せることになるだろう」
「そんな!? 承服できませぬ、将軍!」
激高して抗議の叫び声を上げたのは、白竜騎士団の団長であり、ボロディノのライバルでもあるマッセナ・ランパードだった。
久々の対外戦という晴れ舞台に、騎士団が民兵の後塵を拝するなどあってはならない。
ボロディノもまた、この点に関してはライバルに完全に同意する。
「アントリムの攻略は速戦即決が基本であったはず。一刻も早く突破しなくては渓谷の出口を塞がれますぞ!」
アントリムを攻略することは何も難しくない。
ボロディノもマッセナもそのことについて、いささかの疑いも持たなかった。
問題なのはアントリムの先にある隘路の渓谷を塞がれると、進攻が著しく困難となることである。
渓谷の出口はフォルカーク准男爵領であるが、そのすぐ背後に精強で知られるブラッドフォード子爵が控えているためだ。
「アントリムを以前のアントリムと思っていると、足元をすくわれるぞ。これを見ろ」
そういってフランドル将軍は、先ほど軍務卿から渡されたアントリムの資料をテーブルに放り投げた。
魔道具による鮮明な画像に、ボロディノたちは大きく息を呑む。
「こ、これは……」
「いつの間に……」
初めて見るとはいえ、アントリムの防御施設の脅威が理解できないほど、二人は愚かな指揮官ではなかった。
「……これを短期に突破するのは至難の業かもしれませんな」
そう言葉を発したのは、騎士団のなかでも最年長の黒竜騎士団長、ランヌ・ベルナールである。
口数は少ないが、どんな困難な任務でも黙々と果たす献身的な粘り強い用兵で、騎士団のなかでも一段高い信頼を得ている男であった。
「マウリシア王国との戦いは、時間が勝負となることは卿らも承知のことと思う。まして敵中に孤立したアントリムごときに苦戦した、ということになれば、マウリシアの士気は上がり、何より彼らに戦力を蓄える時間を与えてしまうだろう。我々は鎧袖一触にアントリムを占領せねばならぬ。たとえ敵がどれほど防御を固めていようと、だ」
華々しい先陣の名誉を与えられたかと思えば、それは達成の困難な茨の道であった。
フランドルにしてみれば、言い方は悪いが騙されたような思いなのだろう。
ボロディノにはフランドルの懊悩が理解できた。父ソユーズもそうであったが、勝利を期待されて敗北した指揮官に待っているのは屈辱と非難の嵐しかない。
ただ勝つだけではなく、短期間で、しかも圧勝しなくてはならないハウレリア軍は、圧倒的な戦力を有しながらも逆に追い込まれていた。
「民兵どもの数で押すしかありますまいな。この風変わりな防御陣地は厄介ですが、アントリムの兵力ではこちらの数に対抗するのは難しいでしょう」
「そのアントリムの兵力だがな。控えめに見てかつての倍以上、千人程度はいると考えてよい」
「あの田舎で賄える人数ではないように思えるのですが」
周りを敵に囲まれたアントリムは、一応子爵領だが、実質的には男爵領よりも収入は低いと見られていた。にもかかわらずそれだけの兵を動員しているとなれば、そこに何らかの理由があることは明らかだった。
「罠、という可能性もある。しかしこのまま手をこまねいてアントリムが要塞化されてしまっては、今後の対マウリシア戦略が根底から覆り、場合によってはマウリシアとの戦いそのものが不可能になりかねん。今しかないのだ」
軍人として培われた性質ゆえか、フランドルも戦いをやめ、マウリシアと修好を結ぶという選択肢は考えもしなかった。
いかにしてマウリシア戦に勝利するか。
それこそが今のハウレリア軍部の存在理由であり、諦めることなどできようはずがなかった。
「……しかし民兵の損害も馬鹿にならぬでしょうな……」
沈痛な表情でマッセナは呟く。
騎士団と違い、徴兵された練度の低い民兵は、失われても補充が容易くはある。
しかし一般民衆であるだけに、大きな損害を被ると、ダイレクトに世論に影響してしまうのだ。
封建国家であるハウレリア王国であっても、国民世論というのは馬鹿にならぬ影響があった。
「基本は陽動に徹するしかありますまい。隙を見て、ごく一部の部隊で一点突破を図れば、あるいは」
幕僚のバルノーが渋々といった様子で提言した。彼自身が、その策に満足していないことが明らかな口調である。
「魔法士を集めて、敵の魔法解除能力を上回る飽和攻撃をしてはいかがか。兵は集められても、魔法士はそうもいかぬはず」
ボロディノの提案にフランドルは深く頷いた。
「なるほど、数に頼るにしても、魔法を生かせば損害は減らせるであろう。私からも各隊に魔法士の拠出を頼んでおこう」
魔力程度ならば一晩寝れば回復する。
ようやく戦術の方向性に一定の目途がついたことで、フランドルはホッと胸をなでおろした。
「将軍閣下。我が蒼竜騎士団は、騎士団の中でももっとも魔法士の多い部隊でございます。なにとぞ民兵とともに先陣をお申し付け願いたい」
見事な駆け引きと言うべきであろう。ボロディノを見てフランドルは不敵に笑った。
どうしてボロディノが武功を立てなければならないのか、ソユーズの副官であったフランドルは痛いほどによく知っている。同時に、その高い戦意は非常に利用しやすかった。
「よかろう。見事手柄を挙げてみせよ」
バルドがアントリムに赴任して以来、隣のフォルカーク領はかつてない好景気に沸いていた。
当初はバルドを快く思っていなかった領主のアランの考えも変わった。
アントリムの人口が拡大し、様々な物産が流通するようになると、必然的に商隊はフォルカーク領を通らざるを得ず、結果的に多くの金がフォルカーク領に落ちることとなったのである。
税収が増え、懐が豊かになってくると、アランはバルドに対して抱いていた敵意も忘れて、ヘイスティングスら守旧派貴族と距離を置くようになっていた。
先日のバルドとアガサの婚約に際しても、アランは使者から求められたバルドに対する義絶を断っていた。しかもただ豊かになるばかりではなく、アントリムとの取引を通じて、王都でもなかなか手に入らない貴重な品まで手に入れている。
このままいけば、守旧派貴族に頼らずとも、アランは中央に返り咲けるかもしれなかった。
「――それはまことかっ!」
憤懣やるかたなくアランは叫ぶ。
ハウレリア軍が臨戦態勢に入ったことを部下に告げられたアランは、せっかく順調であった夢が瓦解していく音を聞いた気がした。
「矛先はほぼアントリムで間違いございません。すでに国境の村々からは若者が徴兵され、王都で編成に入ったと言われています」
冗談ではなかった。
アントリムがいかに栄えていようとも、ハウレリア王国との戦力差はいかんともしがたい。
瞬時にアントリムは蹂躙され、このフォルカークに敵が攻めてくるに違いなかった。
「あと少し……せめてあと二年あれば、我が宿願も叶ったものを!」
戦争は金喰い虫でもある。
食糧や武具、兵の宿泊費用を考えただけで、アランは目まいがする思いであった。
劣勢での防御戦である以上、何ら得ることなく戦費が出し損に終わることは明らか。
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「当主様、ヘイスティングス家から手紙が参っておりますが……」
「何っ? 早く見せよ!」
恐る恐る現れた使用人から、奪うように手紙をもぎ取ると、アランは貪るように手紙の文字を追った。
『アントリムわずかに兵員千名、対するハウレリア軍数万名、勝敗は自ずと明らかである。すぐにも勝利の勢いに乗ったハウレリア軍は、一気呵成にフォルカーク領を蹂躙するであろう。仮にブラッドフォード家がこれを押しとどめるのに成功したとしても、膠着した戦線を支える費用はフォルカーク家の財政を根幹から破壊することは間違いない』
手紙にはアランが想定した通りの予想が綴られていた。
やはりヘイスティングス伯爵もそう考えておいでなのだ、とアランは頷く。
『ならばいっそ渓谷を崩落させハウレリアの侵入を阻むべし。フォルカーク家が辺境から離れたいなら、これよりほかにその術なし』
さらに手紙は最後にこう結んでいた。
『フォルカーク家の将来はかしこき所に任せられよ』と。
そのかしこき所がボーフォート公爵を指すだろうことは、貴族であれば誰でも推測が可能な話である。
「――我が国を守るためだ。やむをえん」
絶望の淵で差し伸べられた手に、アランは一も二もなく飛びついた。
このところ利益をもたらしてくれたとはいえ、アントリムのためにアランが身を切ることはありえない。
バルドを見捨てることに、アランはなんらの良心の呵責を感じなかった。
ヒュン、と風を切る音とともに、刃のきらめきが宙に踊ったかと思うと、風に運ばれてきた木の葉が細切れにされて跡形もなく散っていく。
見事と言うほかはない光景なのだが、ひどく不満そうに眉をひそめて、マゴットはため息をついた。
彼女にとってその出来は、本来の十分の一どころか百分の一程度にしか思えなかったからだ。
大きく膨らんだ腹に手をやり、その愛おしさにいくぶん表情を和らげたものの、人生を武で切り拓いてきたマゴットにとって、自らの無力さは歯がゆくて仕方のないものであった。
「銀光ともあろうものが、戦を前にしてこの体たらくとはねえ……」
コルネリアスにも、いや、むしろコルネリアスだからこそ、ハウレリアとの再戦が近いという情報はたちまちのうちに広まっていた。
同時に、ハウレリアの第一目標はアントリムである、ということも。
もしもマゴットの体調が万全であれば、彼女はすぐにもアントリムに向かったであろう。
愛する息子が置かれた状況の深刻さがわからないほど、マゴットは戦略にうとくない。
かつてコルネリアスが陥落の一歩手前までいったときよりも、現在バルドが置かれた状況は過酷であるとマゴットは確信していた。
苦しみながら育て上げた、たった一人の息子である。
生まれたばかりのバルドを、その手に抱いたときの心を衝き動かす感動を、マゴットは片時も忘れたことはない。
本能で確かに感じる血の繋がり。
戦いのなかで死ぬだけだと思っていた自分が、人の親になったのだという実感。
そして愛するイグニスとの間に子供を為すことができたという安堵――。
「バルド……」
息子の強さを信じていないわけではない。
バルドはマゴットが知る限り、戦場でもっとも敵に回したくない有能な指揮官に育った。
問題はバルド自身の経験の少なさと、その手足となるべき兵の質と数である。
幕僚となるブルックスやネルソンにしても経験が足らず、ジルコを中心とした傭兵上がりは、経験こそ豊富だが忠誠心に疑問が残る。特に圧倒的な戦力差で侵攻してくるハウレリア軍を前にして、彼らが逃亡しない保証はどこにもなかった。
これまで気の向くままに殺しまくってきた兵士、暗殺者、傭兵……それらの無惨な死に様が、今になってマゴットにバルドの死を連想させた。
自分が本来の調子でさえあれば、アントリムを勝利させることは無理でも、バルドを無事脱出させることぐらいわけはないのだが……。
「ふがいない……息子一生の危機に、母として何もしてやれんのか」
闇雲に剣を振りまわし、肩で息をつくマゴットを、背後からたくましい腕が抱きしめた。
「……気は済んだかい?」
「済むわけがないっ! いいのかイグニス? あの子が死ぬかもしれないんだぞ!?」
一瞬、マゴットが訓練でバルドを殺す確率のほうが高かったんじゃ、とイグニスは思ったが、賢明にも口には出さず、愛する妻を抱きしめるに止めた。
「夜風はお腹の子に悪い……今は私に任せておけ」
口惜しそうに唇を噛みしめるマゴットに、舌先で舐め上げるようなキスをして、イグニスは微笑んだ。
もちろんイグニスも、バルドを無策のまま見捨てることなど考えてもいない。
しかしアントリムが落ちれば、次の戦場になることが確実なコルネリアスの守備に手を抜くこともまたできなかった。
いくら財政的に好転してきたとはいえ、戦争の準備には莫大な資金と人手が必要となる。
そこでイグニスが頼ったのは、親友であるマティスだった。
マティスのブラッドフォード子爵領はアントリムからほど近く、援軍を送りやすい。
またかつての戦友として、マティスの優れた戦術手腕をイグニスは深く信用していた。
ましてマティスにとってバルドは、娘テレサをサンファン王国の王太子妃に押し上げてくれた大恩人である。むしろ嬉々として援軍の準備を始めていた。
「今こそバルド殿に積年の恩を返すとき!」
そう叫ぶマティスは、十年ほど若返ったように見えたという。
「マティスは領内の全軍を挙げて支援することを約束してくれている。マティスの弟のギーズ男爵も協力してくれるようだ。ハウレリアにしても、アントリムだけに全軍を差し向けられる余裕はあるまいよ」
ハウレリアとしては、所詮アントリム侵攻は前哨戦であり、勝って当たり前の戦いである。
逆侵攻の拠点となりうるアントリムを制してから、コルネリアス攻略に本腰を入れるのがハウレリアの基本方針である以上、それほど多くの軍勢をアントリムに向かわせる理由がなかった。
この時点でイグニスは、アントリムの守備態勢が、ハウレリアで大いに警戒されていることを知らない。マティスとその近郊の諸侯で数千の援軍が駆けつければ、あとはバルドの采配で十分に勝算はあると考えていたのだ。
「甘い――甘いよイグニス」
力なくマゴットは頭を振った。
初めて見る妻の弱々しい少女のような表情に、イグニスは困惑を隠せない。
いつだって自力で道を切り開いてきたマゴットである。
性格は可愛らしく乙女なところはあるが、根っこのところは間違いなく一人の武人であった。
そのマゴットが、身も世もなく無力な少女のように泣いていた。
「私にはわかる……この戦の中心は間違いなくアントリムになる。下手をすると、コルネリアスには様子見にすらこないよ。あれほど感じられた兵気が全く感じられないんだ」
長年傭兵として戦争の最前線にいたマゴットには、理由はわからないが、不可視の兵気を察知する能力があった。
かつての戦役のとき、コルネリアスには、まるで南方のサイクロンのように凶暴な兵気が取り巻いていた。しかし今は晩秋の小春日和のように、穏やかな空気しかない。
対照的にアントリムで、巨大な竜巻のように悪意ある兵気が渦巻いているのが、マゴットにはわかった。
(バルド……無力な母を許してくれ……)
下腹部に感じる確かな生命の鼓動も、マゴットにとって愛しいものであることに変わりはない。
断腸の思いで、マゴットはイグニスの胸にすがりついて慟哭した。
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