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4巻
4-2
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耳まで真っ赤にして必死に弁解するレイチェルに、もはや年上の余裕めいた雰囲気は少しも感じられない。
どうやら素のレイチェルは、かなり初心で恥ずかしがり屋らしかった。
逆にコロコロと楽しそうに笑うマーガレットは、やはり相当父親の血を濃く引いていると考えざるをえない。
「――何か言ったかしらバルド様?」
「いいえ、とくに何も」
間違いない、この鋭さ。ウェルキンの血はこの美しい女性に間違いなく引き継がれている。
幸い火傷することなくようやく人心地ついたバルドは、すっかり冷めてしまった自分の紅茶に口をつけた。
初摘みらしいほのかに甘い香気がまだカップに残されていた。
「せっかくお姉さまを助けてくださったのに、逆に貧乏くじを押し付けられてしまったのね。もし良かったら、私たちからお父様に口添えするけれど」
せっかくの義兄候補が遠隔地に飛ばされるどころか、その命も危ういという事態は、マーガレットにとって望ましいものではない。
もっとも彼女の本音は、こんな愉快な遊び道具に去られるのは惜しいというものではあったが。
「そ、そうです! ただでさえ代官の成り手探しにも苦労しているというのに……」
「――ご心配はありがたいですが、すでに私は王命を拝受いたしました」
何やら余計な気を回しそうな王女二人に、バルドはきっぱりと言い切った。
撤回を願うくらいなら最初から固辞すればよい話であり、受けた以上はアントリムの民に対して責任がある。
さらに言うならば、アントリムは対ハウレリアの矢面に立ちがちな故郷――コルネリアスを支援することが可能な土地でもあった。
毅然としたバルドの佇まいに、二人は思わず見惚れた。
一言父には言っておかなくてはならない、という義務感に駆られたにせよ、もともと二人とも、自分たちの我が儘がウェルキンに通じると考えるほど世間知らずではない。
ウィリアムに言わせれば、このあたりが親友として尊敬できる反面、女誑しとして非難したくなる瑕疵なのだろう。
困難を知ってなお立ち向かえる、さらに乗り越える才覚を持つ男がどれだけ貴重か、王族として伴侶の品定めをしなくてはならない姉妹は誰よりもよく承知していた。
(……これは義兄にするんじゃなくて、私がもらっちゃってもいいんじゃないかしら?)
父の構想は年上のレイチェルを娶らせることだと知っているが、思わず実の姉からバルドを寝取ることを考えてしまうマーガレットである。
レイチェルのことはもちろん愛しているが、こと結婚問題に関しては純然たる競争であり、利害とタイミングによっては、他国の狒々親父の後添えになる可能性だってないとは言えないのだ。
せっかく目の前に優良株がいるのなら、誰だってその相手が望ましいに決まっている。
「そ、そういえば、バルド様にお聞きしたいことがあるのですが……」
レイチェルが思い切ったように口を開く。
「なんでしょう?」
「伝染病にかかられたときに看病していた侍女を妻にされると伺いましたわ。それにサバラン商会の方も」
「……お耳が早いですね」
未だ両親にさえ報告していないことなのに、女性のネットワークというものは侮れない、とバルドは冷や汗をかいた。
「ふん、やはりお前のような女誑しを姉上に近づけるわけにはいかないな!」
「お黙り」
「……はっ」
あっさりと撃沈されるウィリアム。なんというか、ここに来て株が下がりまくりである。
「お二人を娶られるということは、イグニス様のように、お一人に拘るおつもりはないのでしょうか?」
実は最初から、レイチェルはこれだけが気がかりだった。
バルドの父、漁色家として有名だったイグニスが傭兵マゴットと大恋愛の末に結婚し、その後ほかの女性と一切の繋がりを絶ったのは有名な話だ。
もっともその事情は決して純愛というだけで説明がつくものではないが(物理的体罰的に)、少なくとも外から見た場合、イグニスがマゴット以外の女性に見向きもしていないのは事実であった。
その息子であるバルドが幼馴染と結婚したならば、同じくほかの女性を遠ざける可能性は決して低くない。
唯一の救いはその幼馴染が二人とも平民であり、どうもバルドが正室や側室という区別をするつもりはないらしい、という噂だった。
「不実な男と思われるかもしれませんが――」
「本当に不実な男だ、貴様は」
「ウィリアム、今度余計なことを言ったら半径三メートル以内に近寄ることを禁止するわ」
「姉上、どうかお慈悲を!」
どこまでも姉に弱い男である。
しかしレイチェルの相手として自分が相応しい男でないことは、バルドも十分に自覚していた。
「情けないことですが、私には二人のどちらかを選ぶことはできませんでした。もちろん二人とも正妻同様に扱うつもりでおりましたが、これは二人ともに拒否されまして……」
「お二人が何か?」
「私の妻になるからといって、今の立場をほかの誰かに譲るつもりはない、と。だからコルネリアス家のための正妻には、それに相応しい女性を見つけるように、と」
セイルーンは侍女として、バルドの世話をほかの女性に任せるつもりなど毛頭なかったし、セリーナもまた、ようやく軌道に乗り始めたサバラン商会の会頭を降りるつもりはなかった。
そうした自分を捨ててバルドの、コルネリアス伯爵家の妻が自分に務まるとも思えなかった。
恋人としてバルドと想いを通わせるという夢を抱いていた二人ではあるが、結婚という現実を前にしては、マゴットのように道理のほうを引っ込ませる強さをまだ持ちえなかったのである。
そうして焼きもち焼きの二人は、意外にもあっさりと現実を受け入れた。
「確かにあの母の真似をしろというのが土台無理な話ですしね。そんなわけで、正室を迎えるまで式を挙げるつもりはありません」
「そう、ですか……」
なんて嫌らしい女だ、とレイチェルは自己嫌悪に陥りつつも、やはり安堵の念は隠せなかった。
バルドは二人とは別に、正室を迎えるつもりがあるらしい。
もっとも通常の貴族の感覚から言えばイグニスとマゴットが異常なのであって、側室を娶り、家の存続のため子を生しておくというのが普通なのだ。
もし万が一にもバルドが早逝するようなことがあれば、コルネリアス家は下手をするとイグニスの代で断絶することになる。
先祖から代々続く家名を絶やすということは、この世界共通の最大級の不名誉だ。
だからこそ族滅してしまったアントリム子爵家は王国中で忌み嫌われている、とも言える。
「きっとバルド様にお似合いの相手が見つかりますわ」
――例えば私なんかどうかしら? とはレイチェルは言わない。
これからバルドが赴くアントリム子爵領で領地経営のノウハウを積ませ、そこで実績を挙げた暁には娘と結婚させようというのがウェルキンの思惑であると、レイチェルも推察している。
すなわちバルドを辺境に追いやり、その命を危険に晒すのは間接的に自分なのではないか。
そう思うとバルドに対する罪悪感が増し、迂闊な言葉をかけることができなかったが――。
「それって、私なんかいいと思いません?」
「ええええっ! あなたがそれを言っちゃうの?」
物怖じしないマーガレットに、せっかくの決意をいろいろと台無しにされたレイチェルであった。
というか、まったく予想外のライバルの出現に、眉を跳ね上げて妹を睨みつける。
「少しお話する必要がありそうね、私たち」
「そうね。状況が変わったことについて確認する必要があるかしら」
険悪な二人の視線が不可視の火花を散らすのを幻視して、ウィリアムはぽつりと呟いた。
「だからこいつを姉上に会わせるのは反対だったんだ……」
――ちょうどそのころ。
時ならぬ暗雲が立ちこめ、轟々という風を巻く音が、雷とともに嵐をコルネリアスに運びつつあった。
まるで夜のように暗くなった空からは、閃光が走っては雷鳴を大地にこだまさせた。
それに紛れるようにして女性の高笑いが響く。
「あはははははははははははは!」
事情を知っている者には、その笑い声が世界の終わりを告げる天使の喇叭のように聞こえてならなかった。
「へえ……我が息子をアントリム子爵にねえ……」
王宮からの使者の口上を聞いたマゴットの声は、冷たくはあったがまだ冷静なものだった。
しかしそれを聞かされているイグニスや傭兵のジルコは、顔面を蒼白にしてガクブルである。
猛獣は獲物を捕食する直前にむしろ穏やかな顔をするという話があるが、今のマゴットはまさにそれだということを、二人は経験的に熟知していた。
(陛下、あなたはなんということを……!)
(終わった……今度こそ終わった……死ぬ前にもう一度大将のスイーツを食べたかっ……た!)
「これほど短期間に二度も陞爵するなど前代未聞の名誉でございます。まことに慶賀の念に堪えませぬ」
使者ベナリス・サザンプトンは、本心から祝いの言葉を述べた。
危険は伴うが、まさに男子の本懐というべきだろう。
伯爵家の嫡子とはいえまだまだ跡を継ぐには幼い少年が、歴とした領地持ちに成り上がるのである。
今後の働きによってはアントリムからコルネリアスまでの国境線を一体化したコルネリアス辺境伯、あるいは侯爵家が創設され、十大貴族の一角に肩を並べることさえ可能かもしれない。
一番の問題は、当人も父母もまったくそうした名誉を望んでいないということだった。
「名誉、か」
ふと、マゴットの声色が変わった。
ついに来るべきときが来てしまったことに、イグニスとジルコは絶望で身を硬くした。
「ふふふふふふ……あははははははははははは!」
壊れたように腹を抱えて哄笑するマゴットの豹変ぶりに、ベナリスは眉をひそめた。
いかに伯爵夫人とはいえ、彼女の態度は王宮の使者に対する礼儀を踏み外しているとしか思えない。
「あの土地がどんな場所で、どれだけの兵が死んだか知って言っているのかい、それは」
領民を逃がすためにあえて盾となった先代のアントリム子爵は一族ごと全滅して、今ではアントリムを名乗る者は誰もいない。
アントリムはハウレリアの王都を扼することのできる地政学的な性質上、両国が開戦となれば真っ先に攻め落とされる可能性が高い死地だ。
そんな場所に送り込まれることが褒美なのだとしたら、仕える価値などないというのが元傭兵たるマゴットの本音であった。
もしマゴットが現役の傭兵だったならば、今ごろ国王の首は飛んでいるだろう。
「――冗談じゃない。子供に対する大人の礼儀ってもんがなっちゃいないね。あんな子供に頼らなきゃいけないほどの無能かい? あの禿げ頭は」
「な、なんということを! いくらなんでも無礼でありましょう!」
ここ数年、ウェルキンの髪の生え際が後退して本人が気にしていることを、傍に仕える者たちは知っている。しかし、まさかそれを堂々と罵倒に用いる人間がいるとは、ベナリスには信じられなかった。
この女はいったい国王をなんだと思っているのか。
「無礼で結構。王族なんざ敬うだけ馬鹿を見るってもんさ!」
ベナリスは憤慨とともにマゴットに向かって剣を抜こうとして、杭で打ち付けられたかのように身体を硬直させた。
全身を悪寒ともつかぬ強烈な寒気が襲う。
ガチガチと歯が震え、他国の王に対しても委縮しないはずの男が油汗に塗れて逃げ出すことすらできずにいた。
――死がそこにいた。
理不尽で、暴虐で、微塵の容赦もなく、無造作に命を狩る死そのものが、じっとベナリスを睥睨していた。
もはやその視線をまったく傲慢だともベナリスは思わなかった。
死は国王であろうと平民であろうと平等に、誰も避けられぬ絶対の真実だからである。
「ひぃっ……うぐぁ……」
声にならない悲鳴が、まるで嗚咽のようにベナリスの口から漏れ出した。
死にたくない。そのためなら恥も外聞もなく土下座して命乞いをしても良い。
だから、頼むから私を殺さないでくれ。
誰も逆らえない死神には、人は祈り、許しを乞うことしかできない。
ベナリスは無意識のうちに滂沱と涙を流し、祈った。
「――そのくらいにしておいてやれ」
イグニスの声と同時に、ベナリスに対する無言の圧力が途切れた。
不可視の圧力が不意になくなったことで、ベナリスは脱力してがっくりと膝を突く。
「帰るがよかろう。これ以上我が妻を怒らせないうちに」
「ははは、はいっ!」
なぜマゴットが怒ったのか、どうして自分がこんな殺意を浴びなくてはならないのか、そんな疑問を抱く余裕はベナリスにはなかった。
ただ目の前の死神から一刻も早く離れたい。その一心で、ベナリスは振り返りもせず、必死に出口へと駆け出した。
「……悪いけど今日という今日は、ストレス発散で済ませるつもりはないわ」
ウェルキンの思惑もわからなくはない。考えようによっては、息子にかけられている期待を誇ってもよいくらいだ。
かつての戦役の際に、ウェルキンは側近であった若いハロルドを宰相に抜擢したという実例がある。
将来の宰相候補にすら近づくこの機会を、喜ぶべきだと思う者も確かにいるだろう。
しかし、そんなものはマゴットの知ったことではなかった。
否、それ以上に、王宮がその思惑を押し付けてくるという行為に、生理的嫌悪感すら抱いていた。
世の中は何も、政治的に正しければ全てが許されるわけではない。
もしもそのことを理解していないのなら、直接身体に覚えさせるというのがマゴット流であった。
いかにイグニスの武をもってしても、ここまで決意を固めたマゴットを一人で止めることはできない。
本気でマゴットを止めるにはジルコほかの精鋭を根こそぎ動員して、半数以上の犠牲を覚悟する必要があった。
イグニスはとある決意を胸に口を開く。
「今回の陛下のなさりよう、俺も思うところないわけではない……だが一番の問題は別にある」
さて、何のことだろう。マゴットは不覚にも怒りを忘れて、イグニスの言葉に首をひねった。
「本音はバルドがいなくて寂しくてしょうがないのだろう? そろそろ私たちには二人目の子が必要だと思わないか?」
「なああああああああああっ?」
完全に予想外の方向からの攻撃に、マゴットは顔を赤らめ、口をパクパクと動かして狼狽える。
こう見えてマゴットは情の深い人物である。
前世の記憶による混乱というハンデをしょった息子を、過保護すぎるほどに手をかけて見守ってきた過去も、深い愛情なしには語れない。
その彼女が息子離れするためには、確かに二人目の子供が必要なのかもしれなかった。
二人目はできれば娘が欲しい――そんな思いがマゴットにあったこともまた事実である。
「ご、ごまかされないぞイグニス! 私は本当に怒っているんだ!」
「誓って、こんなことをごまかしで言ったりしないさ」
そう言ったときには、すでにイグニスの手はマゴットの柳腰をしっかりと抱いている。
かつて王都キャメロンで、プレイボーイで鳴らしたイグニスの手管全開であった。
怒り狂ったあの銀光マゴットをあっさり丸め込んだその手腕に、ジルコは驚きを通り越して感涙を流す。
(すげえ! あんた漢だよ! 伯爵!)
抵抗しようとするマゴットを抱き寄せ、イグニスは熱く上気したマゴットの耳朶に囁いた。
「そろそろバルドも一人前だ。またあのころのように、君と二人で愛し合いたいというのは我が儘かな?」
「ううう……だ、だって私もういい年齢で……」
「私が一目見て心奪われたときからちっとも変らない――君は今でも最高の女神さ」
マゴットの細いおとがいを持ち上げて、イグニスは思考が混乱したままの彼女にとどめを刺すようにその唇を奪った。
「んんんっっ」
蕩けるような唇の感触に、マゴットは頭に甘美な霞がかかっていくのを自覚した。
これほど情熱的なキスを交わしたのは、いったいいつ以来になるだろうか。
(だ、だめだ。こんなことをしてる場合じゃ……)
わずかに残ったマゴットの理性は、桃色に溶けていく怒りを何とか持続させようとしたが、それもむなしい努力でしかなかった。
「ひやあ!」
ようやく離れてくれたと思った唇が、マゴットの柔らかな耳にかじりついたかと思うと、イグニスの右手が優しく背中をなぞっていく。
マゴットの身体の弱い部分を、イグニスは目をつぶっていてもわかるほどに熟知している。
高まりゆく刺激に、もう耐えられないというように、マゴットの両手がイグニスの首に回された。
「今だけは騙されておいてあげるから! それでもけじめはつけるんだからね!」
「無論、全力で君を愛そう」
弱々しくイグニスの胸に顔を埋めるマゴット。不器用なだけでなく実はチョロい女であった。
王宮で異変が起こったのは、コルネリアス家でそんな夫婦のやりとりがあってから一週間ほど後のことである。
起床したウェルキンの額に、誰が書いたのか大きく墨のようなもので、なんと「ハゲ」と書かれていたのだ。
就寝時まで異変がなかったのは、伽を務めた側室と後始末をした侍女が証言した。
ならばいったい、誰にこんな真似ができたというのか。
さっそく寝室を守る近衛騎士が増強され、伽を務めるのも腕に覚えのある元女騎士が選ばれた。
しかしその翌日、王の額には前日より大きくくっきりと「ハゲ」の文字が刻印されていた。
豪胆なウェルキンも、さすがにこの事態には恐慌をきたした。
目に見える脅威であればなんら恐れることなく、むしろ報復することに喜びを見出すウェルキンだが、目的も正体もわからぬ相手に生殺与奪の全てを握られているという事実は、心胆を寒からしめるものだった。
そう、この悪戯をしている者は、その気になればいつでもウェルキンを殺害できるのである。
蟻の這い出る隙間もないほど、実に五十名以上の騎士を動員して王の寝室を取り囲んでも、結果は変わらなかった。
たった三日ほどの間にウェルキンの頬はげっそりとこけ、目には深い隈ができていた。
いったいどうしたらこの悪戯を防げるのか見当もつかない。
しかしそこで恐怖してばかりではないところが、ウェルキンのウェルキンたる所以である。
今夜は寝ずに犯人を確かめる、とウェルキンは心に決めた。
ランプの明かりを煌々とつけ、ベッドにあぐらをかいたまま、ウェルキンは憎っくき犯人の登場を待った。下手に鉢合せをしたら命が危ないかもしれないが、そんなことは気にもしない。
ただ日々の安眠を奪った犯人を確かめたかった。
次第に夜が更け、まんじりともせぬまま夜が明けていく。
黒茶を呷り眠い眼を擦っていたウェルキンの目に、朝の日差しがカーテンから漏れるのが見えた。
いつの間にか朝になっていたらしい。
(ふん、恐れをなしたか! 余が起きているうちは現れぬとは!)
しかし、眠気覚ましに顔を洗おうと鏡を見たウェルキンは愕然とした。
ウェルキンの額には紛れもなく、デカデカと大きく「ハゲ」の文字が描かれていた。
自分は決して居眠りなどしていない。
起きていた自分が気づく間もなく落書きをされたという事実に、ウェルキンはそのまま後ろに昏倒した。
――その後、いったいどんな経緯があったのかは定かではない。
しかしウェルキンが、アントリムに赴くバルドに多額の支援金を渡し、今後はバルドの処遇に関して、事前にコルネリアス家に伺いを立てる旨の公文書を発行したことだけは事実である。
「さて、けじめも済んだところで責任を取ってもらおうか」
獣欲に濡れた瞳で、マゴットはイグニスの身体をベッドに押し倒した。
母性が強すぎるため近年はずっとご無沙汰ではあったが、バルドが生まれるまでマゴットは非常に閨に貪欲な女性であった。
若さを失った自分にどこまでマゴットを満足させることができるものかと、イグニスは悲愴な決意を固める。
こうなった以上、マゴットは妊娠するまで本気で搾り取る気だろう。
マゴットが妊娠するのが早いか、自分が干からびるのが早いか、命を懸けた勝負である。
(すまんバルド……父さんは……もしかしたら生きて会うことはできんかもしれん)
ベッドで乱れたマゴットが、実は戦場で会うよりも手ごわく恐ろしいということを、世界中でイグニスだけが知っていた。
「今夜は朝まで眠らせないよ」
「はは……お手柔らかに頼むよ」
(バルドよ。男には……男には、負けるとわかっていても戦わなければならない時があるのだああああああ!)
どうやら素のレイチェルは、かなり初心で恥ずかしがり屋らしかった。
逆にコロコロと楽しそうに笑うマーガレットは、やはり相当父親の血を濃く引いていると考えざるをえない。
「――何か言ったかしらバルド様?」
「いいえ、とくに何も」
間違いない、この鋭さ。ウェルキンの血はこの美しい女性に間違いなく引き継がれている。
幸い火傷することなくようやく人心地ついたバルドは、すっかり冷めてしまった自分の紅茶に口をつけた。
初摘みらしいほのかに甘い香気がまだカップに残されていた。
「せっかくお姉さまを助けてくださったのに、逆に貧乏くじを押し付けられてしまったのね。もし良かったら、私たちからお父様に口添えするけれど」
せっかくの義兄候補が遠隔地に飛ばされるどころか、その命も危ういという事態は、マーガレットにとって望ましいものではない。
もっとも彼女の本音は、こんな愉快な遊び道具に去られるのは惜しいというものではあったが。
「そ、そうです! ただでさえ代官の成り手探しにも苦労しているというのに……」
「――ご心配はありがたいですが、すでに私は王命を拝受いたしました」
何やら余計な気を回しそうな王女二人に、バルドはきっぱりと言い切った。
撤回を願うくらいなら最初から固辞すればよい話であり、受けた以上はアントリムの民に対して責任がある。
さらに言うならば、アントリムは対ハウレリアの矢面に立ちがちな故郷――コルネリアスを支援することが可能な土地でもあった。
毅然としたバルドの佇まいに、二人は思わず見惚れた。
一言父には言っておかなくてはならない、という義務感に駆られたにせよ、もともと二人とも、自分たちの我が儘がウェルキンに通じると考えるほど世間知らずではない。
ウィリアムに言わせれば、このあたりが親友として尊敬できる反面、女誑しとして非難したくなる瑕疵なのだろう。
困難を知ってなお立ち向かえる、さらに乗り越える才覚を持つ男がどれだけ貴重か、王族として伴侶の品定めをしなくてはならない姉妹は誰よりもよく承知していた。
(……これは義兄にするんじゃなくて、私がもらっちゃってもいいんじゃないかしら?)
父の構想は年上のレイチェルを娶らせることだと知っているが、思わず実の姉からバルドを寝取ることを考えてしまうマーガレットである。
レイチェルのことはもちろん愛しているが、こと結婚問題に関しては純然たる競争であり、利害とタイミングによっては、他国の狒々親父の後添えになる可能性だってないとは言えないのだ。
せっかく目の前に優良株がいるのなら、誰だってその相手が望ましいに決まっている。
「そ、そういえば、バルド様にお聞きしたいことがあるのですが……」
レイチェルが思い切ったように口を開く。
「なんでしょう?」
「伝染病にかかられたときに看病していた侍女を妻にされると伺いましたわ。それにサバラン商会の方も」
「……お耳が早いですね」
未だ両親にさえ報告していないことなのに、女性のネットワークというものは侮れない、とバルドは冷や汗をかいた。
「ふん、やはりお前のような女誑しを姉上に近づけるわけにはいかないな!」
「お黙り」
「……はっ」
あっさりと撃沈されるウィリアム。なんというか、ここに来て株が下がりまくりである。
「お二人を娶られるということは、イグニス様のように、お一人に拘るおつもりはないのでしょうか?」
実は最初から、レイチェルはこれだけが気がかりだった。
バルドの父、漁色家として有名だったイグニスが傭兵マゴットと大恋愛の末に結婚し、その後ほかの女性と一切の繋がりを絶ったのは有名な話だ。
もっともその事情は決して純愛というだけで説明がつくものではないが(物理的体罰的に)、少なくとも外から見た場合、イグニスがマゴット以外の女性に見向きもしていないのは事実であった。
その息子であるバルドが幼馴染と結婚したならば、同じくほかの女性を遠ざける可能性は決して低くない。
唯一の救いはその幼馴染が二人とも平民であり、どうもバルドが正室や側室という区別をするつもりはないらしい、という噂だった。
「不実な男と思われるかもしれませんが――」
「本当に不実な男だ、貴様は」
「ウィリアム、今度余計なことを言ったら半径三メートル以内に近寄ることを禁止するわ」
「姉上、どうかお慈悲を!」
どこまでも姉に弱い男である。
しかしレイチェルの相手として自分が相応しい男でないことは、バルドも十分に自覚していた。
「情けないことですが、私には二人のどちらかを選ぶことはできませんでした。もちろん二人とも正妻同様に扱うつもりでおりましたが、これは二人ともに拒否されまして……」
「お二人が何か?」
「私の妻になるからといって、今の立場をほかの誰かに譲るつもりはない、と。だからコルネリアス家のための正妻には、それに相応しい女性を見つけるように、と」
セイルーンは侍女として、バルドの世話をほかの女性に任せるつもりなど毛頭なかったし、セリーナもまた、ようやく軌道に乗り始めたサバラン商会の会頭を降りるつもりはなかった。
そうした自分を捨ててバルドの、コルネリアス伯爵家の妻が自分に務まるとも思えなかった。
恋人としてバルドと想いを通わせるという夢を抱いていた二人ではあるが、結婚という現実を前にしては、マゴットのように道理のほうを引っ込ませる強さをまだ持ちえなかったのである。
そうして焼きもち焼きの二人は、意外にもあっさりと現実を受け入れた。
「確かにあの母の真似をしろというのが土台無理な話ですしね。そんなわけで、正室を迎えるまで式を挙げるつもりはありません」
「そう、ですか……」
なんて嫌らしい女だ、とレイチェルは自己嫌悪に陥りつつも、やはり安堵の念は隠せなかった。
バルドは二人とは別に、正室を迎えるつもりがあるらしい。
もっとも通常の貴族の感覚から言えばイグニスとマゴットが異常なのであって、側室を娶り、家の存続のため子を生しておくというのが普通なのだ。
もし万が一にもバルドが早逝するようなことがあれば、コルネリアス家は下手をするとイグニスの代で断絶することになる。
先祖から代々続く家名を絶やすということは、この世界共通の最大級の不名誉だ。
だからこそ族滅してしまったアントリム子爵家は王国中で忌み嫌われている、とも言える。
「きっとバルド様にお似合いの相手が見つかりますわ」
――例えば私なんかどうかしら? とはレイチェルは言わない。
これからバルドが赴くアントリム子爵領で領地経営のノウハウを積ませ、そこで実績を挙げた暁には娘と結婚させようというのがウェルキンの思惑であると、レイチェルも推察している。
すなわちバルドを辺境に追いやり、その命を危険に晒すのは間接的に自分なのではないか。
そう思うとバルドに対する罪悪感が増し、迂闊な言葉をかけることができなかったが――。
「それって、私なんかいいと思いません?」
「ええええっ! あなたがそれを言っちゃうの?」
物怖じしないマーガレットに、せっかくの決意をいろいろと台無しにされたレイチェルであった。
というか、まったく予想外のライバルの出現に、眉を跳ね上げて妹を睨みつける。
「少しお話する必要がありそうね、私たち」
「そうね。状況が変わったことについて確認する必要があるかしら」
険悪な二人の視線が不可視の火花を散らすのを幻視して、ウィリアムはぽつりと呟いた。
「だからこいつを姉上に会わせるのは反対だったんだ……」
――ちょうどそのころ。
時ならぬ暗雲が立ちこめ、轟々という風を巻く音が、雷とともに嵐をコルネリアスに運びつつあった。
まるで夜のように暗くなった空からは、閃光が走っては雷鳴を大地にこだまさせた。
それに紛れるようにして女性の高笑いが響く。
「あはははははははははははは!」
事情を知っている者には、その笑い声が世界の終わりを告げる天使の喇叭のように聞こえてならなかった。
「へえ……我が息子をアントリム子爵にねえ……」
王宮からの使者の口上を聞いたマゴットの声は、冷たくはあったがまだ冷静なものだった。
しかしそれを聞かされているイグニスや傭兵のジルコは、顔面を蒼白にしてガクブルである。
猛獣は獲物を捕食する直前にむしろ穏やかな顔をするという話があるが、今のマゴットはまさにそれだということを、二人は経験的に熟知していた。
(陛下、あなたはなんということを……!)
(終わった……今度こそ終わった……死ぬ前にもう一度大将のスイーツを食べたかっ……た!)
「これほど短期間に二度も陞爵するなど前代未聞の名誉でございます。まことに慶賀の念に堪えませぬ」
使者ベナリス・サザンプトンは、本心から祝いの言葉を述べた。
危険は伴うが、まさに男子の本懐というべきだろう。
伯爵家の嫡子とはいえまだまだ跡を継ぐには幼い少年が、歴とした領地持ちに成り上がるのである。
今後の働きによってはアントリムからコルネリアスまでの国境線を一体化したコルネリアス辺境伯、あるいは侯爵家が創設され、十大貴族の一角に肩を並べることさえ可能かもしれない。
一番の問題は、当人も父母もまったくそうした名誉を望んでいないということだった。
「名誉、か」
ふと、マゴットの声色が変わった。
ついに来るべきときが来てしまったことに、イグニスとジルコは絶望で身を硬くした。
「ふふふふふふ……あははははははははははは!」
壊れたように腹を抱えて哄笑するマゴットの豹変ぶりに、ベナリスは眉をひそめた。
いかに伯爵夫人とはいえ、彼女の態度は王宮の使者に対する礼儀を踏み外しているとしか思えない。
「あの土地がどんな場所で、どれだけの兵が死んだか知って言っているのかい、それは」
領民を逃がすためにあえて盾となった先代のアントリム子爵は一族ごと全滅して、今ではアントリムを名乗る者は誰もいない。
アントリムはハウレリアの王都を扼することのできる地政学的な性質上、両国が開戦となれば真っ先に攻め落とされる可能性が高い死地だ。
そんな場所に送り込まれることが褒美なのだとしたら、仕える価値などないというのが元傭兵たるマゴットの本音であった。
もしマゴットが現役の傭兵だったならば、今ごろ国王の首は飛んでいるだろう。
「――冗談じゃない。子供に対する大人の礼儀ってもんがなっちゃいないね。あんな子供に頼らなきゃいけないほどの無能かい? あの禿げ頭は」
「な、なんということを! いくらなんでも無礼でありましょう!」
ここ数年、ウェルキンの髪の生え際が後退して本人が気にしていることを、傍に仕える者たちは知っている。しかし、まさかそれを堂々と罵倒に用いる人間がいるとは、ベナリスには信じられなかった。
この女はいったい国王をなんだと思っているのか。
「無礼で結構。王族なんざ敬うだけ馬鹿を見るってもんさ!」
ベナリスは憤慨とともにマゴットに向かって剣を抜こうとして、杭で打ち付けられたかのように身体を硬直させた。
全身を悪寒ともつかぬ強烈な寒気が襲う。
ガチガチと歯が震え、他国の王に対しても委縮しないはずの男が油汗に塗れて逃げ出すことすらできずにいた。
――死がそこにいた。
理不尽で、暴虐で、微塵の容赦もなく、無造作に命を狩る死そのものが、じっとベナリスを睥睨していた。
もはやその視線をまったく傲慢だともベナリスは思わなかった。
死は国王であろうと平民であろうと平等に、誰も避けられぬ絶対の真実だからである。
「ひぃっ……うぐぁ……」
声にならない悲鳴が、まるで嗚咽のようにベナリスの口から漏れ出した。
死にたくない。そのためなら恥も外聞もなく土下座して命乞いをしても良い。
だから、頼むから私を殺さないでくれ。
誰も逆らえない死神には、人は祈り、許しを乞うことしかできない。
ベナリスは無意識のうちに滂沱と涙を流し、祈った。
「――そのくらいにしておいてやれ」
イグニスの声と同時に、ベナリスに対する無言の圧力が途切れた。
不可視の圧力が不意になくなったことで、ベナリスは脱力してがっくりと膝を突く。
「帰るがよかろう。これ以上我が妻を怒らせないうちに」
「ははは、はいっ!」
なぜマゴットが怒ったのか、どうして自分がこんな殺意を浴びなくてはならないのか、そんな疑問を抱く余裕はベナリスにはなかった。
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「……悪いけど今日という今日は、ストレス発散で済ませるつもりはないわ」
ウェルキンの思惑もわからなくはない。考えようによっては、息子にかけられている期待を誇ってもよいくらいだ。
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しかし、そんなものはマゴットの知ったことではなかった。
否、それ以上に、王宮がその思惑を押し付けてくるという行為に、生理的嫌悪感すら抱いていた。
世の中は何も、政治的に正しければ全てが許されるわけではない。
もしもそのことを理解していないのなら、直接身体に覚えさせるというのがマゴット流であった。
いかにイグニスの武をもってしても、ここまで決意を固めたマゴットを一人で止めることはできない。
本気でマゴットを止めるにはジルコほかの精鋭を根こそぎ動員して、半数以上の犠牲を覚悟する必要があった。
イグニスはとある決意を胸に口を開く。
「今回の陛下のなさりよう、俺も思うところないわけではない……だが一番の問題は別にある」
さて、何のことだろう。マゴットは不覚にも怒りを忘れて、イグニスの言葉に首をひねった。
「本音はバルドがいなくて寂しくてしょうがないのだろう? そろそろ私たちには二人目の子が必要だと思わないか?」
「なああああああああああっ?」
完全に予想外の方向からの攻撃に、マゴットは顔を赤らめ、口をパクパクと動かして狼狽える。
こう見えてマゴットは情の深い人物である。
前世の記憶による混乱というハンデをしょった息子を、過保護すぎるほどに手をかけて見守ってきた過去も、深い愛情なしには語れない。
その彼女が息子離れするためには、確かに二人目の子供が必要なのかもしれなかった。
二人目はできれば娘が欲しい――そんな思いがマゴットにあったこともまた事実である。
「ご、ごまかされないぞイグニス! 私は本当に怒っているんだ!」
「誓って、こんなことをごまかしで言ったりしないさ」
そう言ったときには、すでにイグニスの手はマゴットの柳腰をしっかりと抱いている。
かつて王都キャメロンで、プレイボーイで鳴らしたイグニスの手管全開であった。
怒り狂ったあの銀光マゴットをあっさり丸め込んだその手腕に、ジルコは驚きを通り越して感涙を流す。
(すげえ! あんた漢だよ! 伯爵!)
抵抗しようとするマゴットを抱き寄せ、イグニスは熱く上気したマゴットの耳朶に囁いた。
「そろそろバルドも一人前だ。またあのころのように、君と二人で愛し合いたいというのは我が儘かな?」
「ううう……だ、だって私もういい年齢で……」
「私が一目見て心奪われたときからちっとも変らない――君は今でも最高の女神さ」
マゴットの細いおとがいを持ち上げて、イグニスは思考が混乱したままの彼女にとどめを刺すようにその唇を奪った。
「んんんっっ」
蕩けるような唇の感触に、マゴットは頭に甘美な霞がかかっていくのを自覚した。
これほど情熱的なキスを交わしたのは、いったいいつ以来になるだろうか。
(だ、だめだ。こんなことをしてる場合じゃ……)
わずかに残ったマゴットの理性は、桃色に溶けていく怒りを何とか持続させようとしたが、それもむなしい努力でしかなかった。
「ひやあ!」
ようやく離れてくれたと思った唇が、マゴットの柔らかな耳にかじりついたかと思うと、イグニスの右手が優しく背中をなぞっていく。
マゴットの身体の弱い部分を、イグニスは目をつぶっていてもわかるほどに熟知している。
高まりゆく刺激に、もう耐えられないというように、マゴットの両手がイグニスの首に回された。
「今だけは騙されておいてあげるから! それでもけじめはつけるんだからね!」
「無論、全力で君を愛そう」
弱々しくイグニスの胸に顔を埋めるマゴット。不器用なだけでなく実はチョロい女であった。
王宮で異変が起こったのは、コルネリアス家でそんな夫婦のやりとりがあってから一週間ほど後のことである。
起床したウェルキンの額に、誰が書いたのか大きく墨のようなもので、なんと「ハゲ」と書かれていたのだ。
就寝時まで異変がなかったのは、伽を務めた側室と後始末をした侍女が証言した。
ならばいったい、誰にこんな真似ができたというのか。
さっそく寝室を守る近衛騎士が増強され、伽を務めるのも腕に覚えのある元女騎士が選ばれた。
しかしその翌日、王の額には前日より大きくくっきりと「ハゲ」の文字が刻印されていた。
豪胆なウェルキンも、さすがにこの事態には恐慌をきたした。
目に見える脅威であればなんら恐れることなく、むしろ報復することに喜びを見出すウェルキンだが、目的も正体もわからぬ相手に生殺与奪の全てを握られているという事実は、心胆を寒からしめるものだった。
そう、この悪戯をしている者は、その気になればいつでもウェルキンを殺害できるのである。
蟻の這い出る隙間もないほど、実に五十名以上の騎士を動員して王の寝室を取り囲んでも、結果は変わらなかった。
たった三日ほどの間にウェルキンの頬はげっそりとこけ、目には深い隈ができていた。
いったいどうしたらこの悪戯を防げるのか見当もつかない。
しかしそこで恐怖してばかりではないところが、ウェルキンのウェルキンたる所以である。
今夜は寝ずに犯人を確かめる、とウェルキンは心に決めた。
ランプの明かりを煌々とつけ、ベッドにあぐらをかいたまま、ウェルキンは憎っくき犯人の登場を待った。下手に鉢合せをしたら命が危ないかもしれないが、そんなことは気にもしない。
ただ日々の安眠を奪った犯人を確かめたかった。
次第に夜が更け、まんじりともせぬまま夜が明けていく。
黒茶を呷り眠い眼を擦っていたウェルキンの目に、朝の日差しがカーテンから漏れるのが見えた。
いつの間にか朝になっていたらしい。
(ふん、恐れをなしたか! 余が起きているうちは現れぬとは!)
しかし、眠気覚ましに顔を洗おうと鏡を見たウェルキンは愕然とした。
ウェルキンの額には紛れもなく、デカデカと大きく「ハゲ」の文字が描かれていた。
自分は決して居眠りなどしていない。
起きていた自分が気づく間もなく落書きをされたという事実に、ウェルキンはそのまま後ろに昏倒した。
――その後、いったいどんな経緯があったのかは定かではない。
しかしウェルキンが、アントリムに赴くバルドに多額の支援金を渡し、今後はバルドの処遇に関して、事前にコルネリアス家に伺いを立てる旨の公文書を発行したことだけは事実である。
「さて、けじめも済んだところで責任を取ってもらおうか」
獣欲に濡れた瞳で、マゴットはイグニスの身体をベッドに押し倒した。
母性が強すぎるため近年はずっとご無沙汰ではあったが、バルドが生まれるまでマゴットは非常に閨に貪欲な女性であった。
若さを失った自分にどこまでマゴットを満足させることができるものかと、イグニスは悲愴な決意を固める。
こうなった以上、マゴットは妊娠するまで本気で搾り取る気だろう。
マゴットが妊娠するのが早いか、自分が干からびるのが早いか、命を懸けた勝負である。
(すまんバルド……父さんは……もしかしたら生きて会うことはできんかもしれん)
ベッドで乱れたマゴットが、実は戦場で会うよりも手ごわく恐ろしいということを、世界中でイグニスだけが知っていた。
「今夜は朝まで眠らせないよ」
「はは……お手柔らかに頼むよ」
(バルドよ。男には……男には、負けるとわかっていても戦わなければならない時があるのだああああああ!)
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