異世界転生騒動記

高見 梁川

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1巻

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 ――それは恐ろしく太い木剣ぼっけんであった。
 形だけは剣のように削り出してあるが、大の大人が握っても、親指と人差し指が付かないほどに太い。少年はそれを、かれこれ一時間以上振り続けていた。
 とうの昔に握力あくりょくはなくなり、かろうじて指の力だけで支えている状態だ。
 最後に残った力を振り絞り木剣を力強く振り抜くと、少年はばったりと仰向けに倒れる。
 ようやく日課である二千回の素振すぶりを終えたのだ。

「し、死ぬ……」

 これまで何度口にしたかわからない言葉をらしつつ、息も絶え絶えに空を見上げた。
 わずか十一歳の子供に身動きできなくなるまで木剣を振らせるのは、大陸広しといえどもおそらく我がコルネリアス家だけだろう、と少年は思う。
 現に父の付き合いで紹介された同じ貴族の子供たちは、家庭教師について日に何時間かの座学をしたり、せいぜい軽い遊びのような訓練を行ったりする程度であったはずだ。


「そうか、死ぬのか。随分ずいぶん短い人生だったね、我が息子バルドよ……あの世でも達者でな」
「それが母親の言う台詞せりふか! ど畜生ちくしょう!」

 天から矢のように降ってくる槍を、バルドと呼ばれた少年は身をよじり、かろうじてけた。
 ざっくりと音を立てて、つい先ほどまで自分が寝ていた大地に槍の穂先が突き立つ。
 それを見て、生存本能の命じるままにバルドは立ち上がる。
 もしよけなかったら致命傷を受けていただろう一撃だ。背筋に冷たいものを感じながら、バルドはみつくように怒鳴った。

「殺す気か!?」
「何だ、まだ動けるじゃないか? 若いのになまけるのは良くないね」
「動かなきゃ死んどるわっ!」

 息子の激高もどこ吹く風と笑い飛ばす母――マゴットは、トレードマークの月のような銀髪をかきあげ不敵にわらう。
 その獰猛どうもうな笑顔からはバルドに対する確かな愛情がうかがえるが、それを見て取れるのは、彼女をよく知る夫イグニスくらいのものだろう。
 もちろん当のバルドにとっては、その笑みはさらに過酷かこくな試練の前触れにしか見えなかった。


「ほらほら! どうした? 早く構えないと遠慮なくいくよ?」
「死ぬっっ! 今度こそ死んでしまううっっ!」

 素振りで疲労困憊ひろうこんぱいしたバルドを、槍から持ち替えたマゴットの木剣が襲う。
 バルドのものと同じく野太い木剣は、当たりどころが悪ければ人を殺してしまう凶器である。
 泣きそうになりながらも、バルドは自らの生存のために、母の息もつかせぬ連撃をさばき続けなければならなかった。
 握力を失った手に、やたらと太い木剣はきつい。
 完全に握りこめず、油断するとたちまち手からすべり落ちてしまう。だがそうなれば、マゴットの一撃を身体で受け止めなければならない。
 訓練であっても容赦ようしゃのない一撃で、これまでバルドは何度も打撲だぼくや骨折の痛みを味わってきた。
 思えば、いま命があるのが不思議なほどであった。
 あえて太い木剣を使うのは真剣の重さと衝撃に慣れるためだが、その負担に耐えるには、インパクトの瞬間まで理想的な脱力がなされていなければならない。
 たとえ体力があり余っていても、ずっと力いっぱい握りしめているのは不可能であるからだ。
 力と力でマゴットと打ち合えば、すぐに剣を弾き飛ばされてしまう――それがわかっているバルドは必要以上に力をこめず、適正な力で受け流すことに腐心した。
 ここでミスをすれば、手加減なしの打撃がバルドを見舞うことになる。

「そうだ。小指を基点に、握りこむ力そのものを受け流す力に転化しろ」
「そんな楽しそうに言われても、説得力がねえ!」
「ふはは! まあ、そう言うな。親子の楽しいスキンシップじゃないか」
「どこの世界に息子を殺しかけるスキンシップがあるんだよ!」

 わずか一瞬の油断が命取りになりうる――そんな死と隣り合わせの危険な修業が、コルネリアス家では恒例こうれいとなった朝の訓練風景であった。


 かろうじて木剣を支えてきた指先にすら力を入れるのが不可能になったころ、ようやく訓練は終わりを告げる。

「ああ、生きてるって素晴らしい……」

 今日もなんとか生きて訓練を終えられた、その感慨にバルドは天をあおいだ。

「お飲み物でございます、っちゃま」
「ありがとう、セイねえ

 茶金の髪を日差しに反射させた美しい侍女から差し出されたレモン水を、バルドは喉を鳴らしながら無我夢中で飲み込んでいく。
 冷やされたレモンのさわやかな酸味が、極限まで疲労した身体に染み渡るようであった。
 ぷはーっと親父臭い吐息を漏らすと、バルドはいささか照れくさそうに、二歳年長の幼なじみでもある侍女、セイルーンへコップを返した。
 クスリと笑ってそれを受け取ったセイルーンは、可愛らしいやんちゃな弟でも見るような目をバルドに向ける。

「もう一杯お飲みになりますか?」
「うん、お願い」

 微笑ましい二人のやりとりにマゴットは目を細めていたが、その愛情の深さを知らない者にとっては、剣呑けんのんな目でにらんだようにしか見えなかった。
 ――だがそれは、言わぬが華というやつだろう。

(楽しいねえ……まさか戦働いくさばたらき以外にも、こんな楽しいことがあるとは)

 愛する息子の成長を目の当たりにする。それも自分の手で自分好みに育てあげることがこれほどの悦楽とは思わなかった。
 二人を見守りながら、マゴットは戦場を股にかける傭兵ようへいだった自分が伯爵夫人になるという、数奇すうきな、と表現すべき半生はんせいを思い返していた。




 マウリシア王国の東部、ハウレリア王国との国境沿いには、広大な森林地帯が広がっている。その一帯を領有するのがコルネリアス伯爵家である。
 農地が少ない代わりに無尽蔵むじんぞうの森林資源や鉱物資源に恵まれ、水源も豊かだ。
 しかし国境に位置するという地政学的な宿命上、軍事費に財政を食いつぶされ、貧乏暇びんぼうひまなしというのが現状であった。
 現コルネリアス伯爵家当主のイグニスは、三十五歳の男盛おとこざかりである。
 若い時分はその美貌びぼう浮名うきなを流し、王都でも色事で名を知られた人物であったが、二十三歳のとき彼は運命に出会った。


 その運命の名はマゴット――なんと傭兵である。


 ハウレリア王国との関係が悪化し、大規模な軍事衝突が国境で発生したなかで彼女はコルネリアス領軍に雇われたのだった。
 流れるような銀髪に菫色すみれいろの瞳、そして何よりも余人よじん追随ついずいを許さない槍技やりわざと規格外の身体強化魔法によって、彼女は誰よりも目立つ戦場に咲く大輪の華となった。
 ハウレリア王国軍の主力とも言うべきセルヴィー侯爵軍を破り、老練ろうれんな大将軍を討ち取るという武勲ぶくんをイグニスが挙げられたのは、まさしく彼女のおかげであった。
 銀光マゴット。
 ハウレリア王国軍はその名を聞くだけで、悪魔に出会ったかのように恐れおののいたという。
 その彼女が紛争終結とともに新たな戦場へ移ると聞き、ハウレリア側は諸手もろてを挙げて歓迎した。これを機に自軍に勧誘しようとする者もいた。
 逆にマウリシア王国としては、どうにか自国の正規軍へ留めておきたいところであったのだが、イグニスの行動は周囲の予想の斜め上をいく。


「どうかわたしと結婚してくれ」

 この言葉を聞いたマゴットは、イグニスの正気を疑った。
 確かに容姿には自信があったし、傭兵としてではなく女として、横暴な貴族からとぎを要求されることもあった。
 もっともそうした連中が、命か、男として大事なものを失うはめになったのは言うまでもない。
 しかし、まさか堂々と貴族から婚姻を求められるなど、いかに破天荒はてんこうなマゴットからしても予想外の話というほかはなかった。
 マウリシア王国は平民の権利意識が高い国ではあるが、それでも貴族と平民との間にはおかしがたい壁が存在する。
 まして、傭兵として屍山血河しざんけつがの道を歩んできた自分に求婚する馬鹿貴族がいるとは、夢にも思わなかったのである。
 だが実際のところ、イグニスがマゴットにれていたのは紛れもない事実であった。
 戦場で疾駆しっくするマゴットの姿を一目見た瞬間から、イグニスは恋に落ちていた。
 そんなときマゴットをコルネリアス領に引きとめる必要性が生まれたため、これ幸いと乗じることにした、というのが事の真相である。
 もちろん結果として、親族や家臣から囂々ごうごうたる批判が湧き起こっただけでなく、貴族社会におけるコルネリアス家の評判は最悪なものとなってしまった。
 尊い貴族の血に、どこの生まれとも知れぬ傭兵の血を入れようとしているのだ。今後王国の社交界において、コルネリアス家が冷や飯を食わされるのは確実な情勢だった。
 その危険をおかしてでもあえてイグニスが自分に求婚してきたという事実に、マゴットも感じるものがあった。とはいえ貴族の奥方に収まる自分の姿など、まるで想像できない。
 そこで彼女はイグニスにひとつの提案をすることにした。
 世に言う〝コルネリアスの夫婦狩り〟である。
 それは狩猟の腕を競い合い、一日でより多くの獲物を仕留しとめたほうが相手の言うことを聞く、というものであった。
 マゴットがあまりに現実離れした力を持っているためかすんでしまうが、イグニス自身も騎士団に並ぶ者なしとうたわれ、武人として勇名をとどろかせた男であった。
 二人は森から獣がいなくなる勢いで猛然と狩り進んでいったが、日も暮れかけた夕刻、不可思議な出来事に遭遇そうぐうした。
 これまで一度もはずしたことのないマゴットの矢が当たらなかったのである。
 ここまで二人の狩った獣は同数であり、時間的にもここで数をかせいだほうが優位に立つことは間違いなかった。
 喜び勇んでイグニスが矢を放つ。だがこれもわずかに外れて草むらに落ちた。
 互いにもう一度ずつ矢を放ったが、信じがたいことに、今度は大きくれて明後日あさっての方向へ飛んでいった。
 これは武勇自慢の二人にとって、決してありえない話であった。
 マゴットたちはこの事実に天啓てんけいを覚えた。なぜなら二人が狙った獣はつがいの鳥であったからである。
 天は自分たちに結ばれろと言っている――期せずして彼らはそう確信した。
 一度決断すると、それからの行動は武人らしく果断なものであった。
 反対する親族をほとんど脅迫きょうはくするようにして鎮圧ちんあつし、王都から誘拐ゆうかい同然に大司教だいしきょうを連れてきて大々的な結婚式を開催した。
 しかもマゴットの傭兵時代の人脈から、なんと国王までも出席することになり、事実上誰も二人の婚姻に異を唱えることは不可能になってしまったのである。
 こうしてマゴットは正式にコルネリアス伯爵夫人として迎えられ、翌年一人の男の子を産み落とした。
 イグニス(今では完全にマゴットの尻に敷かれているが)に似て、将来女泣かせになりそうな美しい少年は、バルドと名付けられた――。




 いかにマゴットが傭兵あがりとはいえ、十一歳のバルドにこれほど厳しい修業をさせているのにはそれなりのわけがある。
 通常こうした訓練を、まだ理屈もわからない子供に課すのは難しい。
 子供は自分が把握はあくできないことに興味を持つのは難しく、訓練の意味もわからず、技術も身につかない場合がほとんどだからである。
 吸収の速い幼少期の鍛錬が有効だと知りながらも、なかなか実践できないのは、そういう理由なのだ。
 しかし、ことバルドに限ってはその心配がない。
 ないどころか、むしろその知識量はある面で一般の大人をはるかにしのぐ。
 そんなありえない話がコルネリアス家に降って湧いたのは、六年ほど前のことになる。


 バルドは普通の乳児に比べて発育こそよかったものの、なかなか言葉を覚えられずにいた。
 そのくせ時折、何かを思い出したかのように意味不明な声を上げる。
 普段はなんということもないが、体調が悪化したり何か大きなショックを受けたときには、特にその奇行きこう顕著けんちょであった。
 そして五歳の春、バルドは散歩中に負った傷がもとで深刻な感染症にかかる。
 意識不明で高熱にうなされていたバルドは長い長い夢を見た。人ひとりの人生に匹敵するような、とてもとても長い夢を。
 およそ二ケ月もの間生死のふちをさまよったバルドが目覚めて、最初に発した言葉は――。


『なんてこった』

 その言葉はマゴットたちの使うアウレリア大陸(マウリシア王国もその一部)の公用語ではなく、この世界では誰も知るはずのない日本語でつむがれていた。
 岡雅晴おかまさはる、それがバルドの前世における名であったという。
 高校という名の教育施設に通っていた彼は、ある日突然生命活動を断たれた。
 なんでも大学という高等教育機関の受験に向かうため、通りを歩いていたのが生涯しょうがい最後の記憶だそうだ。
 通り魔に殺されたか、心臓の発作で病死したか、お約束のようにトラックにでもねられたか……「トラック」と言われてもその正体がマゴットにはわからなかったが、少なくとも本人も気づかぬうちに死んでしまったというのは確からしかった。
 さらに問題なのはこの雅晴以外に、もう一人の人格までよみがえってしまったということだ。
 意識を失ってからずっと三人分の記憶が混在している脳が、膨大な情報の負荷にもかかわらず正常に復活したのは奇跡に近い、と診療に当たっていた治癒師ちゆしは言っていた。
 まだ自我が弱い幼児だからこそ、なんとか脳の同一性を保つことができたのだろう。
 その事実を知ったマゴットは、決然としてバルドを心身ともに鍛えようと決意した。
 たがが緩んだバルドという人格を再びひとつに統合するためには、つらい、苦しい、疲れたなどという個人が感じうる生の実感、そして何より、生きたいという生物としての本能を刺激することが一番であると判断したためだ。
 だがこの地獄のような訓練は予想外の結果をもたらす。
 それは最後に目覚めた記憶が、異世界の職業軍人のそれであったことが影響していた。
 めきめき腕を上げていく息子バルドの姿に、不覚にもマゴットの胸は躍った。
 このまま成長すれば、息子が王国一の武人となることも不可能ではないと確信したのだ。

(バルドが成長してからは滅多に表に出てこなくなったが……あれはあれで味のある人格であったな。確か……岡左内定俊おかさないさだとしと言ったか)

 七十歳を過ぎて大往生だいおうじょうしたというこの武人の記憶が、バルドの武才に大きな影響を及ぼしているのは間違いない。どうやら魔法の存在しない国の武術のようだが、その動きはどこまでも合理的で実戦的なものだ。
 最後は老衰ろうすいで死んだらしく、三人の人格のなかでもっとも成熟して自己主張の少ない男でもあった。
 しかし左内の本能とも言えるが、バルドの人生に少なからぬ影響を及ぼすことをマゴットはまだ知らずにいた。


 さて一方、雅晴がわずらっていた厨二病ちゅうにびょうという病は、男ならば誰でも一度は罹患りかんするものだが、雅晴の症状はいささか重すぎたと言わざるを得ない。

「もしも転生したら、やっぱ知識チートしたいよな」

 そんな理由でウィキペディアや百科事典をあさる高校生は、日本広しといえども雅晴くらいなものであろう。
 現実から逃避したいほど不満があったわけではない。
 成績は上の中の位置を維持していたし、運動能力も「運痴うんち」と言われるほど不足していたわけではなかった。むしろ所属していたバスケ部ではレギュラーの座を争っていた。
 充実した学生生活を送っていたと表現しても間違いはない。
 しかし、もしも異世界に行くことがあったら……もしも自分が何かの力に目覚めることがあったら……という妄想が、どうしてもやめられなかった。


「マヨネーズは定番だが……あー、せめてパソコンごと持ち込めたらなあ」

 雅晴のノートパソコンの秘密のフォルダには大量のデータが保存されており、その大半は特別な材料を必要とせずに再現可能な科学や医療、及び調理の情報だった。
 しかし、そんなくだらない妄想にひたる少年期にも、いつか必ず別れを告げなければならないのを雅晴は自覚していた。
 大学受験とともに将来の選択肢はせばめられ、就職すれば生き馬の目を抜くような競争が待ち構えているだろう。
 そこに〝もしも〟が介入する余地はない。
 現実というものがいかに厳しく夢のないものか、本当は雅晴も承知しているのである。
 だからこそ、今だけは甘い夢に身をゆだねていたかった。
 ケモ耳は正義であり、チートはロマンなのだ。そして血沸き肉躍る冒険と、背中を預けられる友がいればもう何も言うことはない。

「犬耳と猫耳はどっちが正義かなあ……」

 犬耳には何とも言えない愛嬌あいきょうと主人に忠実そうな健気けなげさがあり、猫耳には他の動物にはない気品とツンデレな美少女のようなアンビバレンスが存在する。
 自分がいかに堕落だらくしきった厨二病的思考をしているか自覚しつつも、雅晴は歩きながら瞳を閉じた。
 朝の大通りの喧噪けんそうが聞こえる。
 せわしなく歩くサラリーマンの靴音や、信号機の電子音声、そして自動車の無骨な排気音――そんなリアルのなかにあって、雅晴が理想とするケモ耳の映像がまさに完成しようとした、まさにそのとき。
 ブツン、というテレビの電源を落としたような衝撃音とともに、雅晴の思考は永久に停止したのだった。




 とこした老人の目の前に鮮やかな桜の花びらが舞っていた。
 猪苗代城いなわしろじょうの天守の眼下に植えられた桜から西をのぞむと、日本でも有数の面積を誇る猪苗代湖の青い湖面がある。
 この一帯は会津あいづ蒲生がもうの仙道支配の中枢として、一人の老いた戦国武将の手にゆだねられていた。
 男の名を岡左内定俊という。
 よわい七十を超えるまで、戦場を住処すみかとして戦い抜いてきた老将である。
 生涯のほとんどを戦に費やしてきた左内は、おそらくは最後の大戦おおいくさになるであろう大坂城おおさかじょう攻めを、己の死に場所にと思い定めていた。
 しかし家中かちゅうで内紛が絶えなかったことから、主である蒲生家は江戸留守居役えどるすいやく(江戸城の護衛)と決まり、武士の晴れ舞台から老将の出番は永久に失われた。
 自分を支えてきた何かがプツリと切れたのを自覚し、左内は運命の命ずるままに年老いた身体を横たえた。
 軽々と槍を振るった丸太のような腕も今はおとろえ、老将の人生をいろどった数々の武勇談も過去のものになろうとしていた。
 戦のない太平たいへいの世にもはや左内の居場所はない。
 死期の訪れを直感した左内は、全財産を主と知り合いに分与した。
 守銭奴しゅせんどとして名を知られた左内の財産は三万両を優に超える。これはちょっとした小藩の年間予算に匹敵するほどであったが、死を予感した左内は惜しみなくその全てを分け与えた。
 日頃の彼の守銭奴ぶりを知る者からは想像もできないいさぎよさであった。

(戦のためにこそ財産をたくわえてきた。いつでも戦に臨む財産を保持することが戦人いくさにんの心がけであった。しかしこれから先は、戦のない世のことわりが支配する時代となっていくだろう)

 まぶたを閉じれば脳裏に浮かぶ、忘れえぬ情景。


 天下分け目の関ヶ原せきがはらの裏で、奥州おうしゅうの支配権を争うもうひとつの戦いが、東北の小さな村を舞台に繰り広げられようとしていた。
 軍神上杉謙信うえすぎけんしんの後継者、景勝かげかつが支配する福島に、独眼竜伊達政宗どくがんりゅうだてまさむねが攻め入ったその戦いを、「松川の戦い」という。
 数的に劣勢であった上杉軍は勇猛な牢人ろうにんを多数召し抱えており、果敢かかんにも伊達軍に対して打って出た。
 槍を縦横じゅうおうに振るって伊達軍を蹴散らしていく騎馬武者のなかに、在りし日の左内の姿もあった。

「なんど、ええ敵がおるやさけ(なんだ、いい獲物がいるじゃないか)」

 見る者が見ればわかる見事な名馬にまたがった武者が、左内の眼前で槍をしごいている。
 地味な鎧に不釣り合いな名馬を前にして、左内はよき手柄首を見つけたと確信した。
 人馬一体じんばいったいというが、騎馬武者にとって馬は鎧よりはるかに重要なものであり、戦場では何より大事な己の半身であった。
 あんな名馬を操る武者は名のある武将に違いない。


「うおおおおおおおおおおおおっっ」

 大呼たいことともに左内は馬を走らせる。
 これは生涯忘れられぬ悔しい悔しい記憶だ。
 この名馬の主こそ、政宗であったことを、左内は後になって知らされ悲憤ひふんとともに歯噛みした。
 そうと知っておれば決して逃がしはしなかったものを!


「政宗殿、お覚悟っ!」

 そうとも、今度は逃がしはしない。この命果てるとも、必ずや政宗の首を――。


「……殿、お加減はいかがですか? 殿?」

 小姓こしょうが病身の主のもとへ薬を持参したとき、戦国時代の生き残り岡左内は会心の笑みを浮かべて静かに絶息していた。
 人生の大半を戦にささげた老将は、その死の瞬間まで戦野せんやを駆ける夢を見続けていた。


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