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Chapter11*こぼれたビールは戻らない。

こぼれたビールは戻らない。[1]―①

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「おかえりなさいませ」

分厚いガラス製のドアを押さえたドアマンからそう声を掛けられたわたしは、ピクリと一瞬肩が上がったもののなんとか口角を持ち上げて笑顔を作り、軽い会釈をしながら建物の中へと進んだ。

鏡面のように磨かれた美しい大理石は、絢爛華麗なシャンデリアの柔らかな灯りを移し込み、中央に置かれた猫脚の台座の上では、真っ白なカサブランカの大きな装花が格調高いロビーに華やかさを添えている。

(だ、大丈夫……あやしくないあやしくない……)

わたしはそう何度も心の中で反芻しながら、別世界のようなその場所をゆっくりと進んでいた。ゆっくりなのは、急ぐと足がもつれそうだから。
こんなラグジュアリーなロビーで転ぶなんてこと、二回もあってたまるもんですか!

エレベーターの前に立ち、ボタンを押す。
すぐに開かれたドアの中に人はおらず、わたしは小さなハコに乗り込むと、急いで【閉】ボタンを押した。

(なんだか悪いことをしに来たみたいな……)

場違いな所にもぐりこんだせいで、ヒヤヒヤそわそわしてしまう。
ううっ、やっぱり一人で来るんじゃなかったかも……。

初めて来たときはアキが一緒だったし、しかも何の因果か元カレ夫婦と出会ってしまったせいで精神的にいっぱいいっぱいになっていた。

まさかその場所に今度は一人で来ることになるなんて……!


数時間前、残業中に森から明日はバレンタインだと聞いたわたしは、慌てて残業を切り上げスーパーに駆け込んだ。

当たり前だけど、バレンタイン前日に良い商品なんて残っているわけもなく、催事コーナーの棚はスカスカ。明らかに義理と分かるようなものか、凝り過ぎて美味しいのかどうかイマイチ分からない変わった味のものしか残っていない。

今から電車に乗って百貨店に行っても閉店に間に合わない。
かといって、今目の前にあるビミョーな商品を買うもどうかと……。だって “やっつけ感”アリアリでしょ……。

もっと早く気付いていれば良かった――そう思っても後の祭り。
だって! こんなバレンタイン目前にして、年下のスイーツ御曹司と付き合うことになるなんて、夢にも思わなかったんだもの!

人生いつ何時なんどき何が起こるか分かんないものよね、うん。

縮小気味のバレンタインコーナーを、頭を抱えながらウロウロすること二十分。わたしはとある・・・コーナーの前ではた・・と足を止めた。

『そうだ! その手があったわっ!』

今の自分がなしうる最善の策を思いついたわたしは踵を返し、別の売り場へと急いで向かったのだった。


「えぇっと、これは……」

あの夜何が何だか分からないうちに連れ込まれた彼の部屋の前に立ち、ドア横のパネルをタッチする。
少し前に教えてもらった通りの番号を、ひとつひとつ間違えないよう慎重に押していく。「カシャン」という音にまたもやビクッと背中が跳ねる。

いやいや。今自分でロック解除したんだからね。

誰も訊いてないって分かってるのに、言い訳せずにいられない。
だって!! こんなラグジュアリーなホテルのスイートルームの暗証番号を自分で解除する日が来るなんて、夢にも思わないんだもの!

人生いつ何時なんどき何が起こるか分かんないものよね、うん。

三分の一ばかり開いた扉の間から、わたしは滑り込むようにサッと中に入った。

これじゃまるっきり泥棒じゃない!?
防犯ビデオチェックされたら、完全にアウトなやつ……!

「お、おじゃましま~す……」

この部屋には誰もいないことは分かっているのに、つい口に出してしまう。
そっとドアを閉めて部屋の中に向き直ったわたしは、思わず感嘆の声を上げた。

「わぁ…!」

急ぎ靴を脱ぎスリッパを履いて、小上がりになっているリビングを横断し、一気に窓辺に駆け寄る。そして、窓辺に置かれたソファーに膝を乗せ、窓ガラスに顔を寄せた。

窓の向こう側には、あの時と同じ、輝くようなネオンの中に黒く横たわる一級河川。

「きれい………」

それまでの緊張や場違い感なんて一瞬にしてどっかに行ってしまって、眼下に見える橋の夜景に見惚れてしまう。

前にこの夜景を観た時は、アキの腕の中で――。

いまだに思い出すだけで顔から火が出そうになる記憶ではあるけれど、でも今まで経験したことがないくらい胸が高鳴る幸せな時間でもあった。

そんなことを考えながらアキの気配を探して部屋を振り向いてみる。
当たり前だけど、そこには誰も居なくて、寂しさから胸がキュッと締め付けられた。

あーっ、ダメダメっ!
やだやだ。こんなおセンチ・・・・なわたし! 全然らしく・・・ない!

柄にもなくセンチメンタルになった自分が恥ずかしくて、思いっきり頭を左右に振った。その反動で隣にあるクッションがパタリと倒れ、ガサリと紙が曲がる音が。

「あ…! やばっ!」

慌てて倒れたクッションを持ち上げ、その下にある紙袋を救出。中に入っている箱を持ち上げた。傾けないようにそっと両手で箱を持ち上げて、外側をチェックする。

「良かったぁ…箱は無事ね……」

中身は“ガトーショコラ”

わたしはやっと自分がここに何をしに来たのか思い出した。

バレンタイン前日になってやっと、そのイベントに自分も該当するのだということに気付いたわたしが、スーパーに駆け込んで選んだもの。
それが“手作りチョコレート”だ。

今からでも揃えられる材料で、わたしが作れそうなもの。
それを検索した結果が、今ここにある“ガトーショコラ”なのだ。

甘いものは、食べるのは苦手だけど作るのは別に苦手じゃない。
なんたって昔のわたしは、可愛い女の子の皮を被ったただの “チョロい女”だったのだ。これまで付き合っていた相手にバレンタインチョコを作ったことも一度や二度じゃない。

だけど、これまで付き合ってきた男たちは、大抵『甘いものは食べれるけれどそこまで好きではない』というタイプばかり。だから“生チョコレート”か“トリュフ”を作って数個渡す程度にしていた。それならわたしが味見をしても渡す分は十分にあるし、わたしも相手も“手作り”という特別感を味わえればヨシ。

だけど今回は違う。

甘いものが好きな恋人に贈るなら、それなりのスイーツじゃなきゃ。
誰でも作れるようなものじゃなくて、もっとガッツリ食べれるものの方が喜んでくれそう。

そう考えたわたしは、“ガトーショコラ”をチョイスした。
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