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Chapter9*ビール売りの少女@三十路目前

ビール売りの少女@三十路目前[1]—③

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もうっ…、あのエロドラ御曹司めっ!

「静川。準備はいいのか?」

突然真上から降ってきた声に肩がビクリと跳ねる。見上げると同時に、頭の上にポコンと何かが乗せられた。

「あ、晶人あきとさん……」
「どうしたんだ?ぼうっとして。もうぼちぼち時間だぞ?」
「あ、……はい」

頭の上の紙束を両手で受け取ると、真ん中に大きく【工場見学ツアー企画コンペ資料】とある。それを見た途端、わたしは一気に現実に引き戻された。

(やっば!仕事中だったんだ……!)

昼休憩のあと、事務所の自席でデスクワークをしていたのだった。
それなのに目の前のモニターはいつのまにかスリープ状態になっていて、どれだけぼんやりしていたんだと冷汗が垂れそうになる。
これから大事な会議なのに!

年に一度、社内で募集される【工場見学ツアー企画案】。
そのプレゼンにわたしはこれから臨むことになっている。

例年だと、【トーマビールコミュニケーションズ】の中だけで企画を募集する社内コンペなのだけど、今年は【トーマビール】が東京五輪のオフィシャルサポーターを務めることから、【Tohma企画コンペ大会】と名を変えてグループ全社から大々的に募集するものとなった。

全国津々浦々の工場や支社から様々なアイディアが集まる。
そんなビッグなイベントに、なんとわたしの企画が関西工場内から選ばれたのだ。

それが去年末のことで、それからひと月以上の間アテンド業務の合間を縫って、上司と相談しながら企画をブラッシュアップさせてきた。

今日とうとう、その企画の関西代表を決めるプレゼンが行われる。わたしはこれから上司である結城課長を伴って、大阪支部に向かわなければならない。

そんな大事な時に、色ボケしている場合じゃないのよ、静!

わたしは両手で頬をペシペシと叩いて自分にかつを入れ、デスクから立ち上がった。

こんな大きなコンペに参加できること自体、もう二度とないかもしれない。
これから行われるプレゼンがもし通れば、【関西代表】の一人として、本社での最終プレゼンに臨むことになる。
万が一入賞すれば報奨金が出るだけじゃなく、今後の昇進の追い風にもなると聞いた。

これは千載一遇のビッグチャンス。

もう再来月には三十になるのだ。
しっかりと自分の足で立って生きていくにはお金がいる。綺麗ごとだけじゃ生きていけない。
だから色恋ごとに浮かれてないで、やるべきことはちゃんとやる!

いっときのふわふわとした甘いものに気を取られて、気が付いた時には路頭に迷っている――なんて絵に描いたような頭の弱い女には絶対戻りたくない!

マッチを売るよりビールを売れ、だ!

あ、実際に売るのはわたしじゃないけどさ。でもそこはほら、ものの例えってやつです。

「大丈夫か?静」
「へっ?」
「おいおい……しっかりしろよ。あれだけ時間をかけて念入りに仕上げたんだから、土壇場で緊張しすぎて真っ白、なんてことになるなよ?いつも通りのおまえなら、きっと行けるはずだ」
「え、……あ、ああ……。ありがとうございます……」

結城課長はわたしが黙りこくっていたのを、『緊張している』からだと思い込んだようだ。
まさかわたしが、頭の中でマッチ――じゃなくてビール売りの少女になっていたとは思ってもみないだろう。

結城課長と一緒に事務所を出ると、ちょうど通路の向こうから森がやってきた。

「あっ、静さん!今から行かはるところですかぁ?」
「うん。ちょっと留守にするから、その間しっかり頼んだわよ?」
「はぁい。静さんも頑張ってくださいねぇ!」

森の声援に「ありがとう。頑張るわ」と返して、足を踏み出してすぐ。「あっそうだぁ!――静さぁん!」と呼び止められた。

「なに?」

振り向くと、チワワのようにつぶらな森の瞳が輝いている。

「王子に会ったらぁ聞いといてもらえますやろかぁ?」

はい――?

「甘いものを食べはるかってこととぉ、来週は工場こっちはるんかどうかぁ」
「は……!?なんでそんなことわたしが聞かなきゃいけないのよ」

あの御曹司、甘いものはガッツリ食べはり・・ますけどね!

なんて心の中では答えたけれど、絶対口には出さない。そんなことわたしが知ってるなんておかしいでしょ。
浮ついた後輩をギロっと睨んで「無理」とひと言低い声で言うと、「ええ~」と不満げな声が返ってきた。

「『ええ~』じゃないわよ。こっちは遊びに行くんじゃないの。プレゼンなの!お仕事!」
「それは分かってますけどぉ、決戦は目の前やないですかぁ」
「だから決戦を前にして、なんでそんなことわざわざCMOに訊かなきゃいけないのよっ」
決戦コンペに集中しないといけないのに!」と言うと、森が「ちゃいますってぇ」と顔を横に振る。
「決戦いぅんは、バレンタインのことに決まってるやないですかぁ」

はい――?

「もうっ!静さんったら!来週の金曜日はもうバレンタインなんですよぉ!みんな何とかして当麻王子にチョコを渡そうって話で盛り上がってるんですってば。知らんのですかぁ」

そんなの知らないわ。
更衣室で化粧直しをしながらおしゃべりに花を咲かせているあなたたちの輪の中には、わたしは一切入っていないからね。

「盛り上がるのは勝手だけど、わたしをそこに巻き込まないで。そもそも知りたいなら自分で訊けばいいじゃない」
「もちろんチャンスがあればぁ、訊こうとは思うてますけどぉ、なかなかお会い出来ひんしぃ……。せっかく静さんが支部に行かはるならぁ、ちょっちょっ・・・・・・と訊いてもらわれへんかなぁってぇ」

おい森。先輩を小間使い代わりにするんじゃない!

だいたい、なにそれ。訊きたいことの中身もまるっきりプライベートじゃない!
こっちは本当に決戦に臨む心づもりなの。そんなものにかかずっている場合じゃないわ。
これ以上しつこく言ってくるようなら、先輩として年長者として適切な対応をするまでだ。

「森。あなたね――、」
「静さんって、当麻王子となんかありますかぁ?」

真顔で森を見据え、今まさにお説教をしようとしたわたしは、彼女の言葉に息を呑んだ。

「どういうこと……」

なんとか絞りだした声は上擦らなかったものの、語尾が震えてしまった。
森はそれに気付いたのか気付いていないのか。ただ何も言わず黒目がちな丸い瞳でじっとわたしを見つめている。
わたしたちの間に流れる奇妙な緊迫感に終止符を打ったのは、結城課長だった。

「静川、もう行かないと。本当に遅刻になるぞ」

少し先で立ち止まっていた結城課長がそう言ってわたしを呼ぶ。
わたしは森からそっと視線を外し、「行ってくるわ」とだけ言って課長のあとを追った。

森にはあとでちゃんと言って聞かせておかないと。プライベートのことは自分でなんとかしなさいって。
そもそもCMOはお忙しい。特にここ数日はきちんと休息を取っているのかすら怪しい。わたしだって全然会えていないんだから。

実は両想いになってから、アキと一度も会えていない。
彼はこの数日、会議だ視察だ会食だと、ご多忙を極めてる様子。夜遅くまで仕事が入っていて、わたしの家にも来ていない。
だから、支部に行ったところで会えるとは限らない。

会えるのならわたしだって会いたい。

アキ、今はどこで何をしているのかな――。

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