37 / 68
5.お弁当とイレギュラー***
[4]ー2
しおりを挟む
仕事のことかと思いきや、まさかの卵焼き⁉
そう言えば昼間そんな話をしていたなと、今になって思い出す。
「いえ、さすがにそれは……奥様もお忙しいことと存じますし……」
小さなお子さんがいて働いているのだから休みの日くらいのんびりしたはずだ。
「気兼ねしなくても大丈夫。彼女も乗り気になっていて、ぜひと言っている」
本当に彼女は卵焼きをレクチャーしてもいいと思っているのだろうか。彼女に取ったら私は一方的にひどい言葉を投げつけてきた相手なのだ。
「いいのか?『弁当おかもと』の出汁巻き卵は絶品だぞ」
「弁当おかもとの出汁巻き卵……」
一度だけ食べたことのあるその味を思い出した瞬間、口の中にじゅわりと唾液があふれた。あれは本当においしかった。ランチの配達を一度だけ頼んだときに、メインメニューが売切れてしまったからと言って店主が特別に焼いてくれたのだ。出来立ての卵焼きは、ひと口食べると中から出汁があふれてきて、卵のうま味と合わさって最高だった。家の近所にあれば毎日通いたいくらいだ。
「彼女は店主の孫娘だからな。ほかにもお弁当向けのメニューを教えてくれるだろう」
言われて昼間見た首席のお弁当を思い出した。彩りがよくて、パッと見ただけで栄養バランス満点だとわかるほどだった。
私もあんなお弁当を圭君に作ってあげたい。
『あんなお弁当』――私が数時間前に耳にしたその言葉には、憐れみと蔑みが込められていた。結城首席の奥様のお弁当とは正反対だ。
そんなふうに言われるような弁当しか作れない自分が情けなく、それを彼に持たせてしまったことも悔やまれる。彼が食べるときに嫌な思いをしたかもしれないと思ったら、胸が締め付けられる。涙がにじみかけたのをきゅっと眉を寄せてこらえた。
「いや、気乗りがしなければいいんだ。プライベートのことなのに、しつこく誘って悪かった」
申し訳なさをにじませた声に、ハッとする。
「いや違うんです。誘われたのが嫌とかじゃなくて、えっと……行きます!」
「え?」
「ぜひ行かせてください! 私においしい出汁巻き卵を伝授してください!」
突然前のめりになった私に、首席はまぶたを数回しばたたかさせてから、目元を緩めた。
「わかった。じゃあ、さやかにそう伝えておくよ」
「お願いします」
隣を歩きながら庁舎を出ると、外はほんのりと青みがかっていた。どうやら日没直後のようだ。夏本番がすぐそこに迫っているような熱気はあるが、照り付ける陽ざしがないぶん昼間ほどの暑さは感じない。
「首席こそ、今日はなにかお約束でも?」
私よりよっぽど多忙な彼が、こんなに早く帰るなんて珍しい。
「いや、約束というほどではないが……ここ数日は息子の寝顔しか見ていなくて。そのうえ、夕飯が妻の特製チキンカレーだと聞いたら、帰る以外の選択肢が思い浮かばなかったんだ」
至極真剣な表情で言われ、我慢しきれず小さく吹き出してしまう。
「それは早く帰りたくなりますよね」
息子さんへの溺愛はともかく、やっぱり胃袋をつかむのは大事なことだと証明された気がする。
「じゃあまた来週。お疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
駐車場へ向かう首席の背中を見送り、自分は門を目指して歩く。
やっぱり買い物して帰ろうかな。なにか簡単なものを一品くらい作ってみてもいいかもしれない。
そう思いながら門をくぐった瞬間。
「香ちゃん」
聞こえた声に反射的に振り向いた私は、両目を見開いた。
そう言えば昼間そんな話をしていたなと、今になって思い出す。
「いえ、さすがにそれは……奥様もお忙しいことと存じますし……」
小さなお子さんがいて働いているのだから休みの日くらいのんびりしたはずだ。
「気兼ねしなくても大丈夫。彼女も乗り気になっていて、ぜひと言っている」
本当に彼女は卵焼きをレクチャーしてもいいと思っているのだろうか。彼女に取ったら私は一方的にひどい言葉を投げつけてきた相手なのだ。
「いいのか?『弁当おかもと』の出汁巻き卵は絶品だぞ」
「弁当おかもとの出汁巻き卵……」
一度だけ食べたことのあるその味を思い出した瞬間、口の中にじゅわりと唾液があふれた。あれは本当においしかった。ランチの配達を一度だけ頼んだときに、メインメニューが売切れてしまったからと言って店主が特別に焼いてくれたのだ。出来立ての卵焼きは、ひと口食べると中から出汁があふれてきて、卵のうま味と合わさって最高だった。家の近所にあれば毎日通いたいくらいだ。
「彼女は店主の孫娘だからな。ほかにもお弁当向けのメニューを教えてくれるだろう」
言われて昼間見た首席のお弁当を思い出した。彩りがよくて、パッと見ただけで栄養バランス満点だとわかるほどだった。
私もあんなお弁当を圭君に作ってあげたい。
『あんなお弁当』――私が数時間前に耳にしたその言葉には、憐れみと蔑みが込められていた。結城首席の奥様のお弁当とは正反対だ。
そんなふうに言われるような弁当しか作れない自分が情けなく、それを彼に持たせてしまったことも悔やまれる。彼が食べるときに嫌な思いをしたかもしれないと思ったら、胸が締め付けられる。涙がにじみかけたのをきゅっと眉を寄せてこらえた。
「いや、気乗りがしなければいいんだ。プライベートのことなのに、しつこく誘って悪かった」
申し訳なさをにじませた声に、ハッとする。
「いや違うんです。誘われたのが嫌とかじゃなくて、えっと……行きます!」
「え?」
「ぜひ行かせてください! 私においしい出汁巻き卵を伝授してください!」
突然前のめりになった私に、首席はまぶたを数回しばたたかさせてから、目元を緩めた。
「わかった。じゃあ、さやかにそう伝えておくよ」
「お願いします」
隣を歩きながら庁舎を出ると、外はほんのりと青みがかっていた。どうやら日没直後のようだ。夏本番がすぐそこに迫っているような熱気はあるが、照り付ける陽ざしがないぶん昼間ほどの暑さは感じない。
「首席こそ、今日はなにかお約束でも?」
私よりよっぽど多忙な彼が、こんなに早く帰るなんて珍しい。
「いや、約束というほどではないが……ここ数日は息子の寝顔しか見ていなくて。そのうえ、夕飯が妻の特製チキンカレーだと聞いたら、帰る以外の選択肢が思い浮かばなかったんだ」
至極真剣な表情で言われ、我慢しきれず小さく吹き出してしまう。
「それは早く帰りたくなりますよね」
息子さんへの溺愛はともかく、やっぱり胃袋をつかむのは大事なことだと証明された気がする。
「じゃあまた来週。お疲れ様」
「はい。お疲れ様でした」
駐車場へ向かう首席の背中を見送り、自分は門を目指して歩く。
やっぱり買い物して帰ろうかな。なにか簡単なものを一品くらい作ってみてもいいかもしれない。
そう思いながら門をくぐった瞬間。
「香ちゃん」
聞こえた声に反射的に振り向いた私は、両目を見開いた。
1
お気に入りに追加
229
あなたにおすすめの小説
小野寺社長のお気に入り
茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。
悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。
☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。
☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。
一目惚れ婚~美人すぎる御曹司に溺愛されてます~
椿蛍
恋愛
念願のデザイナーとして働き始めた私に、『家のためにお見合いしろ』と言い出した父と継母。
断りたかったけれど、病弱な妹を守るため、好きでもない相手と結婚することになってしまった……。
夢だったデザイナーの仕事を諦められない私――そんな私の前に現れたのは、有名な美女モデル、【リセ】だった。
パリで出会ったその美人モデル。
女性だと思っていたら――まさかの男!?
酔った勢いで一夜を共にしてしまう……。
けれど、彼の本当の姿はモデルではなく――
(モデル)御曹司×駆け出しデザイナー
【サクセスシンデレラストーリー!】
清中琉永(きよなかるな)新人デザイナー
麻王理世(あさおりせ)麻王グループ御曹司(モデル)
初出2021.11.26
改稿2023.10
【完結】財閥御曹司は最愛の君と極上の愛を奏でる
雪野宮みぞれ
恋愛
ピアノ講師として働く三宅衣都の想い人は、四季杜財閥の御曹司である四季杜響。実らぬ初恋だと覚悟を決めていたはずなのに、彼が婚約すると聞いた衣都は……。
「お願いです……。今日だけでいいから……恋人みたいに愛して欲しいの」
恋人のような甘いひとときを過ごした翌日。衣都を待っていたのは、思いもよらない出来事で!?
「後悔しないと頷いたのは君だ」
貴方が奏でる極上の音色が、耳から離れてくれない。
※他サイトで連載していたものに加筆修正を行い、転載しております。
2024/2/20 完結しました!
完結*三年も付き合った恋人に、家柄を理由に騙されて捨てられたのに、名家の婚約者のいる御曹司から溺愛されました。
恩田璃星
恋愛
清永凛(きよなが りん)は平日はごく普通のOL、土日のいずれかは交通整理の副業に励む働き者。
副業先の上司である夏目仁希(なつめ にき)から、会う度に嫌味を言われたって気にしたことなどなかった。
なぜなら、凛には付き合って三年になる恋人がいるからだ。
しかし、そろそろプロポーズされるかも?と期待していたある日、彼から一方的に別れを告げられてしまいー!?
それを機に、凛の運命は思いも寄らない方向に引っ張られていく。
果たして凛は、両親のように、愛の溢れる家庭を築けるのか!?
*この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
*不定期更新になることがあります。
昨日、課長に抱かれました
美凪ましろ
恋愛
金曜の夜。一人で寂しく残業をしていると、課長にお食事に誘われた! 会社では強面(でもイケメン)の課長。お寿司屋で会話が弾んでいたはずが。翌朝。気がつけば見知らぬ部屋のベッドのうえで――!? 『課長とのワンナイトラブ』がテーマ(しかしワンナイトでは済まない)。
どっきどきの告白やベッドシーンなどもあります。
性描写を含む話には*マークをつけています。
Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~
汐埼ゆたか
恋愛
絶え間なく溢れ出る涙は彼の唇に吸い取られ
慟哭だけが薄暗い部屋に沈んでいく。
その夜、彼女の絶望と悲しみをすくい取ったのは
仕事上でしか接点のない上司だった。
思っていることを口にするのが苦手
地味で大人しい司書
木ノ下 千紗子 (きのした ちさこ) (24)
×
真面目で優しい千紗子の上司
知的で容姿端麗な課長
雨宮 一彰 (あまみや かずあき) (29)
胸を締め付ける切ない想いを
抱えているのはいったいどちらなのか———
「叫んでも暴れてもいい、全部受け止めるから」
「君が笑っていられるなら、自分の気持ちなんてどうでもいい」
「その可愛い笑顔が戻るなら、俺は何でも出来そうだよ」
真摯でひたむきな愛が、傷付いた心を癒していく。
**********
►Attention
※他サイトからの転載(2018/11に書き上げたものです)
※表紙は「かんたん表紙メーカー2」様で作りました。
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
お見合い相手はお医者さん!ゆっくり触れる指先は私を狂わせる。
すずなり。
恋愛
母に仕組まれた『お見合い』。非の打ち所がない相手には言えない秘密が私にはあった。「俺なら・・・守れる。」終わらせてくれる気のない相手に・・私は折れるしかない!?
「こんな溢れさせて・・・期待した・・?」
(こんなの・・・初めてっ・・!)
ぐずぐずに溶かされる夜。
焦らされ・・焦らされ・・・早く欲しくてたまらない気持ちにさせられる。
「うぁ・・・気持ちイイっ・・!」
「いぁぁっ!・・あぁっ・・!」
何度登りつめても終わらない。
終わるのは・・・私が気を失う時だった。
ーーーーーーーーーー
「・・・赤ちゃん・・?」
「堕ろすよな?」
「私は産みたい。」
「医者として許可はできない・・!」
食い違う想い。
「でも・・・」
※お話はすべて想像の世界です。出てくる病名、治療法、薬など、現実世界とはなんら関係ありません。
※ただただ楽しんでいただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
それでは、お楽しみください。
【初回完結日2020.05.25】
【修正開始2023.05.08】
【完結】となりに引っ越してきた年下イケメンの性癖は、絶対にヒミツです!?
高野百加
恋愛
篠田未央は32歳は、大手クッキングスタジオの講師。彼氏もおらず、毎朝寄っているコーヒースタンド「muse(ミューズ)」のイケメン店員、郡司亮介を遠くから愛でて満足する毎日。神々しい笑顔が尊いー!!
そんな亮介が、突然アパートの隣の部屋に引っ越してきたから大変! ドキドキ止まらない毎日が始まった!!
亮介はある性癖に関する秘密を抱えていて、ひょんなことからそれが未央にバレてしまう。
悩む亮介に、その悩みを解決するための練習をしようと提案する未央。
亮介の二面性に翻弄されながらも、毎晩の甘い秘密の練習にとろける未央。どんどん好きの気持ちが大きくなっていって……?
亮介の性癖に付き合ううちに、その沼にずぶずぶとはまっていく未央。いろんなシュチュエーションであんなことやこんなことを楽しむふたりのお話です。
※ この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません
エブリスタ様で連載していたものを、改題して転載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる