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5.お弁当とイレギュラー***
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セミナーが無事終了し本省へと戻った私は、課長に帰庁報告を済ませてすぐに報告書作成に取りかかった。
成果はまずまずと言ったところだろう。講演後の各部門に分かれた相談受付会では、私の担当する外務省ブースを含め、どのブースもひっきりなしに人が訪れていた。その中でもひと際賑わっていたのは、松崎法律事務所のブースだった。
そりゃあ、あの講演を聞いた後なら、間違いなく行きたくなるわよ。
圭君の――いや、〝朝比奈弁護士〟の講演はそれくらいすばらしかった。
〝法律事務所〟といえば敷居が高くお堅いイメージを持つ人も多いと思う。実際私も弁護士としてのスピーチは、アウトバウンドに必要な法務の話をメインでするのかと思っていた――が。
『それに関しては参考となる書籍を後ほどご紹介いたしますので、ここでは割愛いたします。ご質問などございましたら、講演の後ブースにお越しくださいね』
いつもの爽やかで親しみやすい笑みを会場に向ける。まるで敏腕営業部員の業だ。
自身の海外体験談を交えながら日本との法律の違いを語る。だれもがわかる語彙を使った軽快なトークに、多くの来場者が引き込まれていくのを、私は会場の片隅でひとり見惚れていた。
講演終了後に『彼の話をもっと聞きたい、相談に乗ってほしい』そう思った人が押し掛けたのも納得である。
顔を上げて課長席の後ろにある大きな掛け時計を見ると、定時を十分ほど過ぎている。
報告書の作成は先輩が途中まで作っていたものがあったため、比較的速やかに完成させることができた。代理業務は無事済んだが、本来業務がまだ残っている。今日は金曜日。週明けの業務開始をスムーズにするためには、今日中に片づけておくことがマストなものがある。
正直、今日はこの時間にしては集中力が足らない。いつもと違う神経を使ったからだろうか。
そういえば、今日は帰ったら料理の練習をしようと思っていたんだっけ。
そんなことをふと思い出し、どっと疲れが押し寄せた。
今日はもう無理だわ……。
今から帰って再び慣れないことを始めるのは得策ではない。おとなしく諦めて、冷凍庫にストックしてあるドリアでも食べることにしよう。こういう日は何もせず、お気に入りのアロマ入浴剤を入れた湯舟にゆっくり浸かるに限る。
そう決めたせいか集中力が増した私は、短時間で仕事を片づけ、荷物をまとめて席を立った。
退庁の挨拶をして課を出る。時刻は六時四十分。日が沈む前に退勤するなんて久しぶりだ。
茜色に染まる窓の外を見ながら廊下を進んでいると、室内から出てきた人と目が合った。
「あ……」
「北山。ちょうどよかった」
目が合うなりそう言ったのは結城首席だ。きちんとジャケットを羽織りカバンを持っているところを見ると、彼も退庁するところのようだ。
「なにかありましたか?」
首席が室長を務めるAPEC室とは、サミット関係で共同業務がある。急ぎの案件でも今ならまだ戻ってやれると一瞬でスイッチを入れたが、首席の口から出たのは思いも寄らない言葉だった。
「次の土曜、午後からは空いているか?」
「え?」
休日出勤の要請だろうか。それなら課長を通して通達されるはずなのだけど。
不思議に思いつつも頭の中にスケジュール表を思い浮かべる。明日からは海の日を含んだ三連休となっていて、その次の土曜日に予定は特にない。
「はい」と返すと、首席がふわりと表情を緩めた。
あ、珍しい。そんな顔をするなんて。
二年半ほど在米日本国大使館で一緒に働いていたときでも、今のような表情を見たことはない。物腰やわらかな人ではあるけれど、おそらく芯の部分はずっと〝外交官〟のままなのだ。彼が固く着込んだ外交官の鎧を外すのを、この外務省で見たことがある人はいるのだろうか。
「じゃあその日でいいか?」
「え?」
「卵焼き講習会」
「え!」
「さやかがその日なら空いていると言っていたから」
「ええっ!」
セミナーが無事終了し本省へと戻った私は、課長に帰庁報告を済ませてすぐに報告書作成に取りかかった。
成果はまずまずと言ったところだろう。講演後の各部門に分かれた相談受付会では、私の担当する外務省ブースを含め、どのブースもひっきりなしに人が訪れていた。その中でもひと際賑わっていたのは、松崎法律事務所のブースだった。
そりゃあ、あの講演を聞いた後なら、間違いなく行きたくなるわよ。
圭君の――いや、〝朝比奈弁護士〟の講演はそれくらいすばらしかった。
〝法律事務所〟といえば敷居が高くお堅いイメージを持つ人も多いと思う。実際私も弁護士としてのスピーチは、アウトバウンドに必要な法務の話をメインでするのかと思っていた――が。
『それに関しては参考となる書籍を後ほどご紹介いたしますので、ここでは割愛いたします。ご質問などございましたら、講演の後ブースにお越しくださいね』
いつもの爽やかで親しみやすい笑みを会場に向ける。まるで敏腕営業部員の業だ。
自身の海外体験談を交えながら日本との法律の違いを語る。だれもがわかる語彙を使った軽快なトークに、多くの来場者が引き込まれていくのを、私は会場の片隅でひとり見惚れていた。
講演終了後に『彼の話をもっと聞きたい、相談に乗ってほしい』そう思った人が押し掛けたのも納得である。
顔を上げて課長席の後ろにある大きな掛け時計を見ると、定時を十分ほど過ぎている。
報告書の作成は先輩が途中まで作っていたものがあったため、比較的速やかに完成させることができた。代理業務は無事済んだが、本来業務がまだ残っている。今日は金曜日。週明けの業務開始をスムーズにするためには、今日中に片づけておくことがマストなものがある。
正直、今日はこの時間にしては集中力が足らない。いつもと違う神経を使ったからだろうか。
そういえば、今日は帰ったら料理の練習をしようと思っていたんだっけ。
そんなことをふと思い出し、どっと疲れが押し寄せた。
今日はもう無理だわ……。
今から帰って再び慣れないことを始めるのは得策ではない。おとなしく諦めて、冷凍庫にストックしてあるドリアでも食べることにしよう。こういう日は何もせず、お気に入りのアロマ入浴剤を入れた湯舟にゆっくり浸かるに限る。
そう決めたせいか集中力が増した私は、短時間で仕事を片づけ、荷物をまとめて席を立った。
退庁の挨拶をして課を出る。時刻は六時四十分。日が沈む前に退勤するなんて久しぶりだ。
茜色に染まる窓の外を見ながら廊下を進んでいると、室内から出てきた人と目が合った。
「あ……」
「北山。ちょうどよかった」
目が合うなりそう言ったのは結城首席だ。きちんとジャケットを羽織りカバンを持っているところを見ると、彼も退庁するところのようだ。
「なにかありましたか?」
首席が室長を務めるAPEC室とは、サミット関係で共同業務がある。急ぎの案件でも今ならまだ戻ってやれると一瞬でスイッチを入れたが、首席の口から出たのは思いも寄らない言葉だった。
「次の土曜、午後からは空いているか?」
「え?」
休日出勤の要請だろうか。それなら課長を通して通達されるはずなのだけど。
不思議に思いつつも頭の中にスケジュール表を思い浮かべる。明日からは海の日を含んだ三連休となっていて、その次の土曜日に予定は特にない。
「はい」と返すと、首席がふわりと表情を緩めた。
あ、珍しい。そんな顔をするなんて。
二年半ほど在米日本国大使館で一緒に働いていたときでも、今のような表情を見たことはない。物腰やわらかな人ではあるけれど、おそらく芯の部分はずっと〝外交官〟のままなのだ。彼が固く着込んだ外交官の鎧を外すのを、この外務省で見たことがある人はいるのだろうか。
「じゃあその日でいいか?」
「え?」
「卵焼き講習会」
「え!」
「さやかがその日なら空いていると言っていたから」
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