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プロローグ

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 どうしよう。どうしたらいい?

 さっきからずっと同じ言葉が頭をグルグルと巡っている。

 なにを今さら。自分で言い出したことじゃないの。いいかげん腹をくくりなさい、香子(きょうこ)。

 この叱責も何度目になるだろうか。
 襖を開け放てば二十畳ほどにもなる広い部屋も、部屋の露天風呂から見える深緑の山々も、こんなときでなかったら大いに楽しめたに違いない。

 どうしてあのときの私は、あんな無茶な提案を彼に持ち掛けられたのだろう。竹細工の行灯に照らされた足元を見ながらじっと考える。

 旅先の解放感? 失恋のやけ? 初恋への未練?
 あるいはその全部。

 少しでも大人っぽく見られたくてさんざん悩んだ撫子柄の浴衣は、長い間握りしめていたせいでしわが寄ってしまった。握った手の上で小さな貴石がきらりと光る。数時間前にはめられたばかりの白金のリングは誓約の証。過去の自分はどうあがいても〝妹〟から抜け出せなかったが、十年以上の歳月を経てこれから彼と結ばれるのだ。

「お待たせ」

 聞こえた声にドキッと心臓が跳ねた。
 顔を上げてすぐ、目に飛び込んできたものに胸がもう一度大きな音を立てる。

 軽く頭を下げて鴨居をくぐって来た彼は、浴衣の胸もとをくつろげて、髪はしっとりと濡れたままにしている。
 つい数時間前の一分いちぶの隙も見当たらないときとは違う、匂いたつほどの色香にあふれていた。

 彼、朝比奈圭吾(あさひなけいご)は、彼は私の幼なじみだ。
 ほんのり茶色がかった黒い髪は、耳にかからずきっちりと切りそろえられていて清潔感がある。一方で、ほどよい厚みの唇には三十三歳という年齢に見合った大人の色香がにじみ出ていた。

 均一な幅の二重まぶたが縁取る大きなアーモンドアイ。額から鼻先までのカーブ。
 造形美というのはこういうことを言うのかと思えるほど完璧な顔立ちに、一八五センチの長身の彼は、当然ながら昔から周囲の人気の的だった。

 私も例に漏れずその内のひとりで、幼なじみというだけで他の人より近くにいるような気がしていたけれど、結局〝身内枠〟を破ることはないのだと大きくなるにつれて悟った。

 それなのに、まさかこんなことになるなんて――。

 黒羽二重くろはぶたえの羽織袴を凛と着こなす彼の隣で、何度『これは本当に現実なのか』と自問したことか。神主が朗々と詠みあげる祝詞のりとの中身なんてまったく覚えていない。

 そばまでやって来た彼が、ベッドに正座している私へと手を伸ばす。無意識にビクリと肩が跳ねる。次の瞬間、額にペタリと手のひらを当てられた。

「熱は……ないな」
「え?」

 思わずぽかんとする。輪郭を確かめるようにゆっくりと下りてきた手が頬を包む。

「顔が赤いから、疲れで熱でも出たのかと思った」

 親指の腹でスリスリと撫でられ、じわりと頬が熱くなる。彼より先に入浴を済ませている私の顔が赤い理由なんてひとつしかない。

 彼を待っている間、これから自分に起こるであろうことを考えないなんてどうやったって無理だった。なまじ〝途中経過〟を知ってしまったせいで、やけに生々しく想像してしまうのだ。

 彼はクスリと笑い、首をかしげてこちらをのぞき込んできた。

「それともこれからのこと想像してた、とか?」

 カッと顔が上気する。

「お、温泉効果でしょ」
「ああ、そういえば温泉の効用にあったな、血行促進」

 コクコクと首を振ると、彼が楽しげに口の端を持ち上げる。

「子授けにもいいらしい」
「こさっ!」

 両目を見張った瞬間、両肩を押された。
 ゆっくりと視界が傾いていく。思わずぎゅっと目をつぶった直後、背中がマットレスに沈んだ。
 彼の次の行動に身構えてまぶたを固く閉じたままじっとしているが、何も起こらない。どこにも触れらていないどころか、衣擦れひとつしない。

 もしかして〝また〟からかわれたの? まさかこんなときまで?

 恐る恐るまぶたを開けると、予想外に真面目な顔つきで彼がこちらを見下ろしていた。

「圭吾お兄――」

 人差し指が唇に押し当てられる。

「〝お兄ちゃん〟は卒業だろ?」
「……っ!」

 あの羽織袴のいったいどこに隠していたのかと問いたくなるほどの色香に、くらくらと酩酊しそうになる。

「さあ、あの夜の続きを始めようか」

 濡れた髪をかき上げながら、彼は見たことがないほど妖艶な笑みを浮かべた。



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