Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~

汐埼ゆたか

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5・オンとオフ

職場では「上司」?

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 図書館に駆け込んで急いで制服に着替えてから事務所に滑り込むと、就業二分前の滑り込みセーフだった。

 「お、おはようございますっ」

 事務所には美香と千紗子以外の早番メンバーは全員揃っていて、息を切らして入って来た二人に挨拶が次々に返ってくる。

 「木ノ下さんがギリギリなのは珍しいわね」

 「は、はい…すみません」

 「遅刻じゃないんだから謝らなくてもいいのよ」

 図書館員としてはベテランのパート職員の柴田さんににこやかに言われる。

 「河崎さんは珍しくないしね」

 「柴田さんっ、それは言わないでくださいよぅ」

 困った顔をした美香がそう言うと、周りがドッと笑った。

 和やかな雰囲気にホッとしながら自分のデスクの前に行って荷物を置いて顔を上げた瞬間、少し離れた場所のデスクに座っている雨宮と目が合った。

 「おはよう」

 「お、おはようございます」

 平然と挨拶を口にする雨宮とは反対に、千紗子の挨拶はつっかえ気味になった。
 挨拶を交わした後、ジッと雨宮が何か言いたげに見つめている。

 (な、なにか……)

 彼の言いたいことが分からずに、千紗子は動きを止める。
 デスクを立った雨宮がゆっくりと近付いてくるのと比例して、千紗子の心臓が早くなっていく。

 「木ノ下、これ、良く出来ていた。このまま今日の打ち合わせで使おう」
 
 雨宮の手には千紗子のUSBが握られている。
 千紗子のデスクにそれを置きながら、雨宮が千紗子の耳元で低く囁いた。

 「池に落ちてるかと心配したぞ」

 スッと離れていく彼の瞳が、眼鏡の奥で悪戯に細められている。

 「時間だ。ミーティングを始めましょう」

 千紗子の横を通り抜けた雨宮の背を呆然と見つめながら、千紗子は顔が赤くならないよう抑えるのに必死になった。


 ミーティングが終わると、いつもの業務に取り掛かる。千紗子は閉館中用の返却ポストに入っている図書を書架に戻す仕事を始めた。
  
 児童書コーナーで絵本を棚に戻していると、同じように絵本を数冊抱えた美香が千紗子の側に寄って来た。

 「ねぇ千紗ちゃん」

 「はい」

 美香の声が小さなものだったので、自然と千紗子の声も小さくなる。
 今は開館前で利用者がいないので、そんなに声を落として話す必要はない。千紗子が不思議に思っていると、美香が絵本を口元に寄せてから口を開いた。
 
 「雨宮さん、今日は遅番だったはずよね…急な会議でも入ったのかしら?千紗ちゃんは何か聞いてる?」

 「いいえ…何も………」

 『色々やっておきたいことがある』とは聞いていたが、『会議』だとは聞いていない。

 「そっか~。ま、雨宮さんはシフト前に来ることとかよく有るものね。さすがに遅番の時に開館前から居ることは珍しいから、何か有ったのかと思っちゃった」

 (やっぱり私を送る為に、早く出てくれたのかも………)

 美香の独り言のような台詞に、千紗子は雨宮の早すぎる出勤のことを思う。

 (私、雨宮さんの言葉に甘えすぎかもしれない…。これからはしっかり線を引かないと………)

 数日間だけ雨宮の家に世話になると決めたけれど、それ以降は千紗子一人でやって行かなければならない。このまま雨宮に頼りきってのは、のちのちの事を考えると良くないな、と千紗子は自分を戒めた。

 「…さちゃん、千紗ちゃん?」

 「は、はいっ」

 「どうしたの?大丈夫?何度か呼んだのだけど、ぼうっとしていたわよ?」

 「すみません……」

 「ううん、気にしないで。それよりも、大変なことがあったんだもの。あんまり無理しないでね」

 気遣わしげな美香の言葉に、千紗子は「はい」と小さく返事をした。


 それからは千紗子はいつも以上に仕事に集中した。
 少しでも時間が合うと、裕也のことが頭をよぎる。その度に胸が痛むから、思い出す暇がないように次々と業務をこなす。
 
 裕也のこととは別に、千紗子が仕事の手を止められない理由がもう一つあった。

 雨宮だ。

 同じ空間に雨宮がいると、なんとなく目で追ってしまう。千紗子の視線に気付いた雨宮と目が合って、千紗子は反射的に目を逸らす。
 幾度かそんなことがあって、千紗子は自分の変化に戸惑っていた。
 今まではそんなことはなかったのに、どうしても雨宮の存在を無視することが出来ない。
 そんな自分が千紗子は信じられなかった。

 (私、今までどうしてたっけ……)

 考えれば考えるほど分からなくなるので、千紗子はとうとう思考を手放すことにした。

 (よそ見なんて出来ないくらい仕事をすればいいのよっ)
 
 乱暴な方法だが、今の千紗子にはそれしか思いつかなかった。


 それからは一心不乱に仕事に集中した。 
 少しでも手が空けば、先輩の仕事を肩代わりしたり、困っている利用者がいれば自分から声を掛けた。

 ひと時も止まることなく働き続けた千紗子は、昼過ぎには体が重くなってしまっていた。
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