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5・オンとオフ
上司が「上司」になる前
しおりを挟む翌朝、いつもより早く目が覚めた千紗子は、静かに起き出して身支度を整え、朝食を準備に取り掛かった。
朝食、といっても、この家のキッチンにはほとんど食料がない。昨日のパンの残りの他に、かろうじで見付けたツナ缶とショートパスタを使って、千紗子は何とか食べれそうなものを作ることにした。
(今日は帰りにスーパーに寄って帰ろう)
ほぼ塩コショウのみのシンプルな味付けのパスタの味を見ようと、螺旋状になったパスタを箸で一つ摘み上げる。
(あ、菜箸も買わなきゃ)
調理道具も最低限の物すら揃っていないことを思い出しながら、千紗子は箸を口に持って行く。
けれど千紗子の口にパスタが入ることはなかった。
箸を持つ千紗子の手を横から大きな手が包んで、その向きを変えさせれたからだ。
「えっ!?」
千紗子が声を発したのと、箸の先が雨宮の口に入るのは、ほぼ同時だった。
「うん、うまいな」
「!!」
箸は雨宮の口からは離されたけれど、千紗子の手首はまだ彼に捕まったままだ。
「すごいな、うちにこんなふうに食べれる食材があったんだな」
あっけに取られている千紗子の隣で、雨宮は「感心する」というように頷きながら、もぐもぐと口を動かしている。
「雨宮さん、寝てたんじゃ………」
きっとまだ寝ているのだろうと思っていたのに、雨宮の格好は寝起きのそれではない。
黒いウインドブレーカーとハーフパンツ、膝下からは黒いタイツという出で立ちの雨宮は、汗を掻いたのか首から掛けたタオルで額を拭きながら千紗子を見下ろして言った。
「いや、少し走ってきた。毎朝ランニングをするのが日課なんだ」
「そうだったんですね。えっと、もう少ししたら朝食が出来ますので」
「ありがとう。じゃあそれまでにシャワーを浴びてくる」
キッチンから出ていこうとした雨宮が、なにかを思い出したように立ち止まった。
くるりと踵を返して千紗子の所まで戻ってきた彼は、腰をかがめて千紗子の耳元に顔を寄せる。そして「おはよう、千紗子」と囁いた後、こめかみにチュッとリップ音を立てた。
雨宮が立ち去った後、千紗子は耳とこめかみを掌で押さえて、しばらくその場で立ち尽くしていた。
千紗子の顔が真っ赤だったことは言うまでもない。
***
簡単な朝食を済ませた後、千紗子は準備を整えて雨宮に挨拶をしてから出勤しようと、雨宮がいる書斎のドアをノックした。
「どうぞ」
中から声が聞こえたので、千紗子は遠慮気味にドアを開けた。
「千紗子、もう用意は出来たのか?早番の時間より大分早いな」
扉の向こうの雨宮は既にスーツ姿で、腕時計をはめながら千紗子の方を見た。
白いワイシャツに、紺地にシルバーの細いストライプが入ったネクタイ。光沢のあるダークネービーのスラックスは、スラリと伸びた長い脚を引き立たせている。
掛けているシルバーフレームの眼鏡は、いつも職場で見るものだ。
雨宮は腕時計を付け終えると、ダークネイビーのジャケットを腕に掛ける。
あれを羽織れば、これまで一緒に仕事をしてきた『雨宮課長』の出来上がりだろう。
けれど、そんな仕事仕様の雨宮だが、職場で見せる隙の無い姿とは少し違う。
まだセットされて無い髪型や止まっていない首元のボタン、ゆるんだネクタイ。
そんなほんのちょっとの隙が、妙な色香を発していて、仕事仕様の姿に成りきる前の雨宮の姿は、千紗子が彼の私生活の中にいることをまざまざと見せつけた。
千紗子は無意識に彼の姿に見惚れていた。
黙ったまま入口に立ち尽くしている千紗子を不審に思ったのか、雨宮が千紗子の所までやってきた。
「千紗子?どうした?具合でも悪いか?」
千紗子の額に雨宮の手が当てられる。肩がピクリと跳ねた。
「千紗子?」
「あ、いえ、なんでもありません。私、もう行きますね」
一歩下がると、雨宮の手が額から離れた。
「では、また後ほど」
「あっ、待て千紗子」
軽く頭を下げて雨宮に背を向けた千紗子の腕を、雨宮はすばやく掴んだ。
「俺ももう出る。車で行くから一緒に行こう」
「えっ?雨宮さん、確か今日は遅番でしたよね………」
今の時刻は八時十分。早番の出勤時間は九時で、千紗子にとってもまだ早いくらいの時間だ。
けれど、ここから図書館まで歩いてどれくらいの時間がかかるかハッキリとは分からない。その為千紗子は早めに出るつもりでいたのだ。
「今日は遅番だけど、色々とやっておきたいことがあるからもう少ししたら出ようと思っていたんだ。車で行くなら、千紗子ももう少し遅くてもいいだろう?」
「でも………」
雨宮の申し出はありがたい。図書館までは少なく見積もっても徒歩二十分は掛かるだろう。車でだと十分とかからずに着くだろうから、ずいぶん時間短縮になるはずだ。
けれど千紗子は、そんな有り難い申し出に素直に頷くことが出来ずにいた。
(もし雨宮さんと一緒に出勤するところを誰かに見られたら………)
彼の人気度合を考えると、誰かに目撃されることがそら怖ろしい。
「有り難いんですが、やっぱり一人で行きます。雨宮さんは後でゆっくり出てください」
そう言って離れようとする千紗子の手首が、さっきより強い力で握られた。
「誰かに見られるのが怖い?」
「………」
少し黙った後、首を縦に振る。
「俺は別に構わないけど」
じっと黙ったままの千紗子に、雨宮は根負けして「ふ~~~っ」と長い溜息をついた。
「じゃあ、図書館の近くの人目に付きにくいところで千紗子を降ろすよ。まだ早い時間帯だから他の職員には出会わないとは思うけどな。それならいいか?」
「……はい。すみません」
「じゃあ、少しだけリビングで待ってて。出る準備をしてくるから」
足早にパウダールームに向かう雨宮の背中を、千紗子は黙って見送った。
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