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3・裏切りと告白
千紗子の決意
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パンを食べ終えてコーヒーの残りを飲み干した千紗子は、カップをテーブルの上そっと置く。そして両手を膝の上に置いてから、正面に座る雨宮に向かって頭を下げた。
「昨夜から本当にお世話になってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「俺が勝手にやったことだ。千紗子が頭を下げる必要なんてない」
頭を上げると、不満げな瞳をした雨宮と目が合う。
「お世話になったのは事実ですから…。このお礼はまた後日、きちんとさせてください。今日はもう帰ります」
もう一度頭を下げてから、千紗子は椅子を引いて立ち上がった。
ソファーの足元に置いておいた鞄を手に取って、玄関へ向かおうとドアを押したその時、ドアノブを持つ千紗子の手を上から大きな手が掴んだ。
千紗子の背中に熱が伝わる。後ろから香るラストノート。
その熱と香りに包まれた昨夜の記憶が甦り、千紗子の体は一気に熱くなった。
「あそこに戻るのか?」
手首を掴んだ腕と、大きな体。反対の腕が千紗子の腰に緩く巻きつく。
気付くと、千紗子はドアと彼の体の間に閉じ込められれていた。
離してくれる気配は無くて、掴まれた手首が火傷しそうなくらい熱い。
「は、はい………」
後ろを振り向くことも出来ずに、ドアを見つめたままそう答える。
(私の帰る家はあそこしかないもの………)
こんなことになってしまうまでは、裕也と同じ場所に帰ることが、千紗子にとって一番の幸せだった。
今となっては、『帰る』と言って良いのかすら分からない。
かと言って、他に行くあてもない。
自分は、あの部屋に帰るほか選択肢はないのだ。
「帰したくない、な」
耳元でバリトンの声が呟く。声と共に吐き出された熱い吐息が千紗子の耳元をくすぐって、背中がゾクリと震えた。
雨宮の腕にはほとんど力は籠められていない。千紗子の手首を掴んだ手も、腰に回る腕も、どちらもゆるく巻きつけてあるだけだ。逃げようと思えば簡単に抜け出せるだろう。
けれど千紗子は、雨宮の腕を振りほどくことが出来ずにいた。
もっときつく捕まえられていたなら、反射的にその腕を振りほどいて逃げ出していたと思う。
甘い捕縛は、まるで千紗子が嫌ならいつでも逃げられることを、教えているようだった。
(雨宮さん……)
このままぐずぐずと雨宮に甘えているわけにはいかない。
自分たちは職場の上司と部下で、それ以上の関係ではないのだ。
昨夜はあんなことになってしまったけれど、だからと言ってこれ以上彼に甘えてしまうのは良くない気がした。
自分に好意を寄せているというなら、尚更だ。
千紗子がそんなふうに考えていると、千紗子の手首を掴んでいた手が腰に回された。
とうとう千紗子は完全に後ろから抱きしめられて、身動きを封じられてしまった。
「あ、雨宮さん…放、」
「あんな男のいる家に、君を帰したくない」
「放して」と言いかけた千紗子の耳に切なげな声が届く。
「あんなふうに傷ついた千紗子を、俺はもう見たくない」
「雨宮さん………」
(さっきから私のことをばかり………)
雨宮の口から出るのは、どこまでも千紗子のことを案じるものばかり。
自分本位の欲望から出る言葉は一つもなかった。
雨宮が好意を告げたのも、彼が言っていた通り「誤解されたくないから」ということが真実なのだと分かる。
(雨宮さんの真摯な態度に、きちんと応えないと)
意を決した千紗子は、雨宮のゆるい腕の中で、クルリと身を反転させた。
突然自分の方を向いた千紗子に、雨宮は驚き目を丸くする。
本人の意思など無視して後ろから抱きしめていた相手が、こちらを向いて自分を見上げたのだ。
思いも寄らぬ千紗子の行動に、彼は瞳を揺らして彼女を見下ろした。
「雨宮さんが私のことを本当に気遣ってくださっているのは分かります。でも、このままでいるわけにはいきません」
腕の中で雨宮を見上げている千紗子の瞳には迷いがない。
「今この時間にはおそらく彼は仕事に行っているので家には居ません。だから今のうちに家に戻って、私に出来ることをしたいんです」
「出来ること?」
「はい。正直、彼とこれからも一緒に居れるかは分かりません。昨日のこと、私には許せることじゃないから………」
一瞬、千紗子の瞳が揺れる。雨宮は彼女がまた泣き出してしまうかと思った。
けれど、すぐに輝きを取り戻した瞳で千紗子は雨宮を見る。
「どうなるかは分かりませんが、このまま逃げ続けるわけにはいかないんです」
ハッキリと強い口調で告げる千紗子に、雨宮の目は釘づけになる。
(強いな…それに綺麗だ)
昨夜は嵐に打ちひしがれた花のように、儚げで今にも枯れてしまいそうだった彼女が、今は辛いながらも自分の意志で立ち上がろうとしている。
その粛然たる姿に、雨宮の心はどうしようもなく惹きつけられた。
「分かった」
雨宮が頷くと、千紗子の肩の力がゆるんだ。
雨宮は囲っていた腕を解いて、千紗子の頭をそっと撫でた。
「家まで送るよ」
「そんな……自分で帰れます」
「いや、それはさせて。万が一あの二人が家に居たらと思うと、俺が気が気じゃないから。俺の心の平穏の為に部屋の前まで送っていく」
「………ありがとうございます」
素直に返事をすると、雨宮が鍵と携帯などを取ってくるのを待って、一緒に玄関を出た。
「昨夜から本当にお世話になってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「俺が勝手にやったことだ。千紗子が頭を下げる必要なんてない」
頭を上げると、不満げな瞳をした雨宮と目が合う。
「お世話になったのは事実ですから…。このお礼はまた後日、きちんとさせてください。今日はもう帰ります」
もう一度頭を下げてから、千紗子は椅子を引いて立ち上がった。
ソファーの足元に置いておいた鞄を手に取って、玄関へ向かおうとドアを押したその時、ドアノブを持つ千紗子の手を上から大きな手が掴んだ。
千紗子の背中に熱が伝わる。後ろから香るラストノート。
その熱と香りに包まれた昨夜の記憶が甦り、千紗子の体は一気に熱くなった。
「あそこに戻るのか?」
手首を掴んだ腕と、大きな体。反対の腕が千紗子の腰に緩く巻きつく。
気付くと、千紗子はドアと彼の体の間に閉じ込められれていた。
離してくれる気配は無くて、掴まれた手首が火傷しそうなくらい熱い。
「は、はい………」
後ろを振り向くことも出来ずに、ドアを見つめたままそう答える。
(私の帰る家はあそこしかないもの………)
こんなことになってしまうまでは、裕也と同じ場所に帰ることが、千紗子にとって一番の幸せだった。
今となっては、『帰る』と言って良いのかすら分からない。
かと言って、他に行くあてもない。
自分は、あの部屋に帰るほか選択肢はないのだ。
「帰したくない、な」
耳元でバリトンの声が呟く。声と共に吐き出された熱い吐息が千紗子の耳元をくすぐって、背中がゾクリと震えた。
雨宮の腕にはほとんど力は籠められていない。千紗子の手首を掴んだ手も、腰に回る腕も、どちらもゆるく巻きつけてあるだけだ。逃げようと思えば簡単に抜け出せるだろう。
けれど千紗子は、雨宮の腕を振りほどくことが出来ずにいた。
もっときつく捕まえられていたなら、反射的にその腕を振りほどいて逃げ出していたと思う。
甘い捕縛は、まるで千紗子が嫌ならいつでも逃げられることを、教えているようだった。
(雨宮さん……)
このままぐずぐずと雨宮に甘えているわけにはいかない。
自分たちは職場の上司と部下で、それ以上の関係ではないのだ。
昨夜はあんなことになってしまったけれど、だからと言ってこれ以上彼に甘えてしまうのは良くない気がした。
自分に好意を寄せているというなら、尚更だ。
千紗子がそんなふうに考えていると、千紗子の手首を掴んでいた手が腰に回された。
とうとう千紗子は完全に後ろから抱きしめられて、身動きを封じられてしまった。
「あ、雨宮さん…放、」
「あんな男のいる家に、君を帰したくない」
「放して」と言いかけた千紗子の耳に切なげな声が届く。
「あんなふうに傷ついた千紗子を、俺はもう見たくない」
「雨宮さん………」
(さっきから私のことをばかり………)
雨宮の口から出るのは、どこまでも千紗子のことを案じるものばかり。
自分本位の欲望から出る言葉は一つもなかった。
雨宮が好意を告げたのも、彼が言っていた通り「誤解されたくないから」ということが真実なのだと分かる。
(雨宮さんの真摯な態度に、きちんと応えないと)
意を決した千紗子は、雨宮のゆるい腕の中で、クルリと身を反転させた。
突然自分の方を向いた千紗子に、雨宮は驚き目を丸くする。
本人の意思など無視して後ろから抱きしめていた相手が、こちらを向いて自分を見上げたのだ。
思いも寄らぬ千紗子の行動に、彼は瞳を揺らして彼女を見下ろした。
「雨宮さんが私のことを本当に気遣ってくださっているのは分かります。でも、このままでいるわけにはいきません」
腕の中で雨宮を見上げている千紗子の瞳には迷いがない。
「今この時間にはおそらく彼は仕事に行っているので家には居ません。だから今のうちに家に戻って、私に出来ることをしたいんです」
「出来ること?」
「はい。正直、彼とこれからも一緒に居れるかは分かりません。昨日のこと、私には許せることじゃないから………」
一瞬、千紗子の瞳が揺れる。雨宮は彼女がまた泣き出してしまうかと思った。
けれど、すぐに輝きを取り戻した瞳で千紗子は雨宮を見る。
「どうなるかは分かりませんが、このまま逃げ続けるわけにはいかないんです」
ハッキリと強い口調で告げる千紗子に、雨宮の目は釘づけになる。
(強いな…それに綺麗だ)
昨夜は嵐に打ちひしがれた花のように、儚げで今にも枯れてしまいそうだった彼女が、今は辛いながらも自分の意志で立ち上がろうとしている。
その粛然たる姿に、雨宮の心はどうしようもなく惹きつけられた。
「分かった」
雨宮が頷くと、千紗子の肩の力がゆるんだ。
雨宮は囲っていた腕を解いて、千紗子の頭をそっと撫でた。
「家まで送るよ」
「そんな……自分で帰れます」
「いや、それはさせて。万が一あの二人が家に居たらと思うと、俺が気が気じゃないから。俺の心の平穏の為に部屋の前まで送っていく」
「………ありがとうございます」
素直に返事をすると、雨宮が鍵と携帯などを取ってくるのを待って、一緒に玄関を出た。
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