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1・涙と唇
涙と唇
しおりを挟む「もう、我慢しなくていい」
耳元で低くそう囁かれた瞬間、千紗子(ちさこ)の目から涙が堰を切って溢れ出した。次々とこぼれ落ちる涙は、真っ白なシャツに染みを作っていく。
大きな腕にしっかりと抱きしめられ、厚い胸板に額を付け濡れた瞳を固く閉じる。
「うっ、ううっ………」
閉じた瞳からは次々と涙が滑り落ちていく。けれども反対に、その口からはかすかに呻くような声しか出てこない。
「声を…、何もかも我慢するな。大丈夫だから………」
柔らかなバリトンの声が耳元の空気を震わせる。
背中に回された大きな手が、千紗子の背中をあやすようにトントン、と軽く叩いた。
戦慄く唇をキュッと噛みしめて、目の前にあるYシャツを掴む。
まるで「大声を出してはいけない」と誰かに言いくるめられたこどものように、千沙子はかたくなに声を上げるのを耐える。
頬をすべり落ちる涙を流れるままにして、千紗子はきつく唇を噛んだ。
そんな彼女を守るように強く抱きしめていた二本の腕が、前触れもなく解かれた。
冷たい空気がすうっと体に流れ込む。濡れた頬が冷たくなるけれど、今の千紗子にはそんなことすら気にならない。
「声も出せないのか…可哀想に」
頬が温かなものに包まれる。
「そんなに噛んだら傷になるぞ」
その男性は、千紗子の両頬を包み込んだその手の親指で、そっと彼女の下唇をなぞった。千紗子はそれをぼんやりと見上げる。焦点の合わない瞳は、彼の姿を見ているのかも怪しい。
そんな彼女のまなじりにその男性は唇をそっと押し当てた。そして流れ出る涙を唇で吸い上げる。
リップ音を立てながら涙を吸っていた彼は、それでは間に合わないことに気付き、途中からペロリと舌で涙を拭い始める。それから音を立てて顔中にくちづけを降らせた。
彼は本来こんなことをするような人ではないし、そんな関係でもない。
だからそれがどうなのか、良いのか悪いのか、今の千紗子には全く判別できなかった。
否、しようとすら思わなかった。
辛すぎる出来事が彼女から感情と正常な判断を奪い、ただ目の前の出来事は、自分のことではなくてスクリーン越しに観る映画のようだった。
焦点の合わない瞳をぼんやりとさせていると、顔中に這っていた唇が千紗子の口の端をかすめた。
うかがうように唇の端を口くちづけた後、彼の唇が離れていく。
「そんな顔を見たいわけじゃないんだ。俺は君の笑った顔が好きだから」
低めの声がそう告げた時、千紗子の瞳が一瞬揺らいだ。
それまでは虚ろで何も映すことの無かったそこに、かすかな光が宿る。
でもそれは本当に一瞬だけのことで、すぐに彼女の瞳には薄い膜が覆った。
そんな千紗子を彼は切なげに見下ろす。
「君が望むなら、どんなことでも叶えてあげたい。君は何を望むんだ?」
しっとりと響く甘い声が、静かな部屋に落ちる。
千紗子の感情の見えない瞳がかすかに揺れる。彼女はそっと瞼を閉じた。
「なにも、かんがえたくない…全部わすれたい………」
閉じた瞳からは、留まることなく涙が滑り落ち続けている。
「ううっ………」
またうめくような嗚咽が口から漏れた。それを堪えようと千紗子は再び唇を噛みしめる。
と、その時―――
千紗子の唇がしっとりと温かいもので覆われた。
ただ重ねただけの唇をそっと離すと、かすかに唇同士が触れ合うほどの距離で、彼の唇が動く。
「こら、噛むんじゃない。血が出てる」
そう告げた後、彼はその舌先で血の滲んだ千紗子の唇の端を舐めた。
動物が傷を癒す時のように、何度か丁寧に舌で撫でられる。
本来なら性的な意味を持つその行為には全然いやらしさは感じられず、逆に労わりの気持ちが千紗子の中に流れ込んで来る。
ずっと全身を強張らせていた千紗子の体から、フッと力が抜けた。
その瞬間を狙ったかのように、熱い舌が千紗子の唇を割った。
「ふぁっ、」
初めて千紗子の口からうめき声以外の音が漏れる。
さっきまで労わるように優しく動いていた舌は、今は彼女の口内を蹂躙する獣のように荒々しく動き回る。
「んあっっ…んんんっっ……ふっっ」
激しい動きに息が苦しくなって、さっきまでとは違う意味の涙が浮かんでくる。
そのくちづけは、ただ荒々しいだけでなく、まるで千紗子のすべてを知っているかのように、彼女が敏感に反応するところを刺激した。
閉じた瞳からは涙が溢れ続ける。
それが精神的痛みからなのか、それとも肉体的な辛さからなのか、彼女には分からない。
「目を開けて。ちゃんと俺を見て」
少し離された唇が、くちづけの合間に囁いた。
千紗子は言われるがまま、泣いて重たくなった瞼をゆっくりと持ち上げる。
「今は何も考えなくていい…だけど、俺のことをその瞳にしっかりと映しておいて」
彼は千紗子の瞳の端に口づけると、そこから溢れ出る涙を吸い取った。
そこからの千紗子の記憶はおぼろげだった。
濁流にのまれていくような、
深海に落ちていくような、
霧の中を彷徨うような、
ただそんな感覚だけ。
熱い舌が彼女の弱点を探し出し、執拗に攻め続けて容赦なく千紗子を追い込んでいくのに、それとは逆に、その手は壊れ物でも扱うように優しく、千紗子の全身を癒すように撫で続ける。
段々と追い詰められた千紗子からうめき声とは違う声が漏れ出る。
その声すらも我慢しようとすると―――
「声を我慢するな。叫んでも暴れてもいい、全部受け止めるから。全部声と一緒に吐き出してしまえ」
彼はそう言うと、また彼女を容赦なく責め立てた。
唇だけでなく、その指までもが千紗子の柔らかな場所に触れる。
その感覚に、千紗子の口からとうとう声が出た。
すすり泣きと喘ぐ息が混ざりあった声が、口から漏れる。
その声は段々と大きくなり、すすり泣きは号泣へとに変わる。
慟哭と愉悦の入り混じった声が、二人きりの部屋に響き渡った。
「それでいい。千紗子の声をもっと聴かせて」
ちゅうっとリップ音を立てて、彼女の涙を吸い上げたその男性は、彼女の胸元にも唇で吸い付いて、赤い印を落とす。
何度も何度も、判を押すように体中にくちづけられて、赤い花があちこちに散った。
千紗子の全身を隅々まで触れるそのひとの、その表情がひどく切なげであることに、今の千紗子には気付く余裕すらない。
彼の唇と手によって何度も絶頂に押し上げられ、何度目かのその時にとうとう意識を手放し、深い眠りに落ちて行った。
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