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【番外編】男の矜持(プライド)と斜め上の彼女***
男の矜持と斜め上の彼女(1)
しおりを挟むガシャン――という大きな音で、ハッと目が覚めた。
隣にあるはずの姿がなく、慌ててベッドから飛び起きる。
「希々花!」
LDKにつながるドアを勢いよく開けた瞬間、目に飛び込んできたのはキッチンに立ち尽くす彼女。手にはフライパン。瞳には今にもこぼれ落ちそうなほど涙が盛り上がっていた。
「どうした! やけど⁉」
足早に彼女に近づいて訊ねると、希々花は首を左右に振る。
ひとまず怪我がないことがわかりほっとしたところで、コンロに置かれたフライパンが目に入った。
「これ……」
ぐずぐずと鼻を鳴らした彼女の視線を追い、足元へ。
床の上にべちゃりと張りつく黄色い物体──おそらく玉子料理は、なにがどうなったのか分からないが、 “なれの果て”と呼ぶにふさわしい無残な姿だ。
「ごめんなさいぃ……」
か細い声に顔を向けると、潤んだ瞳に見上げられた。
うっ、と唸りそうになるのをすんでのところでこらえられたのは、八歳上の男の矜持。年下の恋人にみっともない姿なんて見せられない。
彼女の頭にポンと手を乗せ、「怪我がないならいい」と言って頭を撫でてやったら、「ん」と小さくうなずいた。
それにしてもこんなに朝早くどうしたというのだろう。腹が減ったのだろうか……。
昨夜は結構食べたよな、と首をひねる。
仕事上がりに行ったのは、石窯ピザが人気のイタリアン。
評判通りの美味しいピザと豊富なサイドメニューに、ふたりでうなりながら舌鼓を打った。
店を出るときには、ふたりで顔を見合わせながら『食べすぎたな』と笑い合ったはず。
だけどよく考えれば、あれから十時間が経つのだ。若い彼女のお腹が空くのは、なにもおかしいことじゃない。
けれどせっかくふたりそろっての公休日に、もう少し一緒にベッドにいたかったと思っているのは俺だけなのだろうか。
そんなことを考えながら、黄色い物体Xを片付けた。
「朝食がてら、あのカフェに行くんじゃなかったのか?」
希々花が前々から近所のカフェが気になっていることは知っていた。それもあって、イタリアンからの帰り道に『明日行くか?』と誘ったのだ。
あの時はとても喜んでいたのに、いったいどうしたというのだろう。
「カフェはぁまた今度にしますぅ……」
顔を背けながらそう口にした彼女に焦った。
やっぱり彼女は怒っていたのかもしれない。
食事に行こうと誘っておきながら、十日も先送りにしてしまった俺のことを。
十日前、俺は突然舞い込んできたクレームのため、客先に商品を届けなければならなくなった。
そのせいで少し遅くなるものの、希々花との食事には予定通り行くつもりだった。この機を逃したくなかったのだ。
絶対に捕まえる。そしてその暁には、嫌と言うほど抱いてやる。
腕の中で眠る彼女を見ながらそう誓った。
そしてその決意は、無事に実を結んだのだった。
晴れて恋人同士になったことに喜んだのもつかの間。
年度末、春休み、連休――その要素だけでも十分すぎるほど忙しいと言うのに、それに加え、通常業務とは別の仕事までが舞い込んできた結果、俺は多忙を極めた。
あまりの忙しさに、『ボンボンの呪いか⁉』と言いたくなったが、黒田製菓からのクレームは今のところ来ていない。もちろん本社からの呼び出しも。
おそらく俺たちは、坊々部長の趣味に付き合わされたのだろう。
黒田製菓の一族には“重度のお節介”と言う遺伝があるということは、この界隈では有名な話らしい。
結局、三月も残すところあと二日というところでようやく目途が立ち、食事の約束をやっと果たすことができた――というわけだ。
そんな中で、ディナーから立て続けにカフェのブランチに誘ったのは、有り体に言えば、『希々花の機嫌を取りたいから』。
付き合い始めて早々、仕事ばかりでデートの一回にも連れて行ってもらえないとなれば、『あたしと仕事どっちの方が大事⁉』だなんて言われかねない。
だけど、本当はそれだけじゃない。
自分が彼女と“恋人らしいこと”をしたいのだ――俺が。
好きな子と付き合うのは十代のとき以来。今までのカノジョたちをどうやってデートに誘っていたのか、あまりよく覚えていない。
希々花の髪を撫でる。なめらかな触感を味わうようにゆっくりと。
肩甲骨のあたりまで下りたあと、小さな肩を抱き寄せようとしたら、小さな声が聞こえた。
「あきとさんは卵焼きぃ、お好きですかぁ?」
「は?」
突然の質問に目を見張ると、どうなの? とばかりに上目遣いでじっと見つめられる。
くそっ、なんだその目は。誘っているのか…!?
ぐらっと滾りかけたものをなんとか押し留め、欲の上に笑顔を貼りつけて口を開く。
「ん? 卵焼き? 好きだけど?」
特別好きかと訊かれたらそうでもないけれど、とりあえず今は「好き」と答えておく方がいい気がする。
すると彼女は、一度下唇をきゅっと噛んでから口を開いた。
「今朝はぁのんが卵焼きをぉ作りますぅ!」
もう一度目を見張った俺に、彼女は続ける。
『自分が卵焼きを作るから、カフェはまた今度にする』――と。
「さっきのぉはぁ、ちょっと火加減を間違えただけですからぁ!」
どうやらあれの正体は、卵焼きだったらしい。
しかもどう火加減を間違えたら、中身が床に落ちるんだ?
まったく謎すぎる。
もっと謎なのは、いったいどうして彼女がそれを作る気になったのかということ。
これまで彼女が台所に立つことはなかったのに――。
「IHは使い慣れてへんのですぅ」と言う彼女に、一応うなずいておく。
「じゃあさっそく!」
「その前に――希々花」
急に呼ばれて目を丸くする彼女に告げる。
「先にすべきことがあるだろう」
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