60 / 76
最後の賭け
最後の賭け(2)
しおりを挟む
***
【トーマビール関西工場】の見学ツアー会場には、小さな売店がある。
ツアーに参加されたお客様がお土産や記念品を購入するためのものなので、来客数はそこまで多くないけれど、ツアー終了後はいつも賑わっている。
あたしが以前発注ミスをしたウィスキーボンボンもここで売っているものだ。
その売店で人気を集めているのが、『出来たてビール』という商品。
見学に来られたお客様が、うちの工場で出来たばかりの缶ビールをご購入することができる、というもの。
缶でも出来立ては鮮度が高く風味も味も良い。二十四缶ひとケースから配送もするので、ご自宅用だけでなくご贈答としてひそかに人気のある商品なのだ。
その『出来たてビール』をご購入いただいたお客様が、『到着指定日になったのにまだ届かないがどうなっているのか』――という問い合わせが発端だったそう。
聞けばどうやらそのお客様は、明日そのビールをご入用で(町内会に使うらしい)、今日中に手元に届かないと困るのだとか。
急いで調べたところ、配送伝票の日付指定は『明日』。
そのことを売店担当のパートさんが電話口で説明したそうだけれど、それがかえってお客様の怒りに油を注いでしまったみたい。
『今日の日付でお願いしました!そちらのミスをこっちのせいにしはるんですかぁ!?』とお客様はかなりご立腹されたという。
結局パートさんの手には負えないクレーム案件となり、主任の指示を仰ごうと事務所に電話が回ってきたのだ。
パートのフォローは社員であるあたしたちの役目。特にこういうクレーム案件のリカバリーは主任である静さんの仕事だ。
そういうわけで、静さんが直接お客様のところに商品をお届けすることとなった。
幸いなことにお客様のご自宅はそんなに遠い場所じゃない。電車を使っても一時間かからずに行くことができる場所のようだけれど、さすがに二十四缶入りをふた箱も一人で抱えて電車に乗るのは難しい。
(これはぁ、のんも一緒に行った方がええやつですよねぇ……)
それを口にしようとした直前、頭をよぎった “今夜の約束”
あたしは思わず口を閉じてしまった。
でもやっぱり――そう思った時。
「俺が車を出そう」
聞こえた声に振り向くと、上着を羽織りながら課長がやってきた。
「その方が早く行けるだろう」
静さんがうなずくと、今度はあたしに視線を移した。
「森」
ドクンと心臓が大きく波打つ音。
あたしは何を言われるのか悟った。
彼の口が開きかけたのが見えた瞬間、あたしは咄嗟に言っていた。
「あのっ、なんやちょっと頭痛がぁ! そぉいうわけでぇ、今日はもう上がらせていただきまぁすぅっ!」
「頭痛……大丈夫なのか?」
「大丈夫ですぅっ」
あたしはそれだけ返すと、脱兎のごとく事務所を後にした。
勢いのままに更衣室で制服を脱ぎ工場を出て、駅までの道のりを全速力で歩く。
追ってくるわけないと分かっているのに、少しでも早く、少しでも遠く、あの場から遠ざかりたかった。
『頭痛がする』なんてバレバレのウソをついてまであの場から逃げ出したのは、彼の口から『今夜はキャンセルだ』と聞きたくなかったせい。
喜び浮かれた直後のそれは、打撃が大きすぎる。
だけどそれだけじゃない。
もう見たくなかったのだ。彼が彼女のためにあたしに背を向けるところを――。
誰が悪いわけじゃない。
クレームなんだから仕方ない。
部下のフォローは上司の役目。
デートなんてしている場合じゃない。
頭の中で必死に言葉を並べてみるのに、“あの場面”が頭から出て行ってくれない。
一本の電話であたしに背を向けた彼の後ろ姿。
一人取り残されたベッドからみるみる消えていく温もり。
あの時ドアの向こうに消えていった彼の背中を、今でも鮮明に思い出せる。
今日はタイミングが悪かっただけ。
あたしより静さんを選んだわけじゃない。
だけど――。
「馬鹿やなかろうか……」
そんなふうに考えている時点で、あたしはそれを確信しているんだ。
どんなにあたしのことを『好き』だと言ってくれても、それは“二番目”。
やっぱり彼の“一番”は、静さんなんだ。
「“二番手以下”から昇格できたけんよかろうもん」
口に出した途端、目の縁に留まっていたしずくがぽたぽたとこぼれ落ちた。
化粧が落ちることも気にせず、手の甲で乱雑に目元を拭う。
いつの間にか止まっていた足を踏み出そうとした時、背後から軽いクラクション音。
振り返ったと同時に、白い車があたしの横に停車した。
【トーマビール関西工場】の見学ツアー会場には、小さな売店がある。
ツアーに参加されたお客様がお土産や記念品を購入するためのものなので、来客数はそこまで多くないけれど、ツアー終了後はいつも賑わっている。
あたしが以前発注ミスをしたウィスキーボンボンもここで売っているものだ。
その売店で人気を集めているのが、『出来たてビール』という商品。
見学に来られたお客様が、うちの工場で出来たばかりの缶ビールをご購入することができる、というもの。
缶でも出来立ては鮮度が高く風味も味も良い。二十四缶ひとケースから配送もするので、ご自宅用だけでなくご贈答としてひそかに人気のある商品なのだ。
その『出来たてビール』をご購入いただいたお客様が、『到着指定日になったのにまだ届かないがどうなっているのか』――という問い合わせが発端だったそう。
聞けばどうやらそのお客様は、明日そのビールをご入用で(町内会に使うらしい)、今日中に手元に届かないと困るのだとか。
急いで調べたところ、配送伝票の日付指定は『明日』。
そのことを売店担当のパートさんが電話口で説明したそうだけれど、それがかえってお客様の怒りに油を注いでしまったみたい。
『今日の日付でお願いしました!そちらのミスをこっちのせいにしはるんですかぁ!?』とお客様はかなりご立腹されたという。
結局パートさんの手には負えないクレーム案件となり、主任の指示を仰ごうと事務所に電話が回ってきたのだ。
パートのフォローは社員であるあたしたちの役目。特にこういうクレーム案件のリカバリーは主任である静さんの仕事だ。
そういうわけで、静さんが直接お客様のところに商品をお届けすることとなった。
幸いなことにお客様のご自宅はそんなに遠い場所じゃない。電車を使っても一時間かからずに行くことができる場所のようだけれど、さすがに二十四缶入りをふた箱も一人で抱えて電車に乗るのは難しい。
(これはぁ、のんも一緒に行った方がええやつですよねぇ……)
それを口にしようとした直前、頭をよぎった “今夜の約束”
あたしは思わず口を閉じてしまった。
でもやっぱり――そう思った時。
「俺が車を出そう」
聞こえた声に振り向くと、上着を羽織りながら課長がやってきた。
「その方が早く行けるだろう」
静さんがうなずくと、今度はあたしに視線を移した。
「森」
ドクンと心臓が大きく波打つ音。
あたしは何を言われるのか悟った。
彼の口が開きかけたのが見えた瞬間、あたしは咄嗟に言っていた。
「あのっ、なんやちょっと頭痛がぁ! そぉいうわけでぇ、今日はもう上がらせていただきまぁすぅっ!」
「頭痛……大丈夫なのか?」
「大丈夫ですぅっ」
あたしはそれだけ返すと、脱兎のごとく事務所を後にした。
勢いのままに更衣室で制服を脱ぎ工場を出て、駅までの道のりを全速力で歩く。
追ってくるわけないと分かっているのに、少しでも早く、少しでも遠く、あの場から遠ざかりたかった。
『頭痛がする』なんてバレバレのウソをついてまであの場から逃げ出したのは、彼の口から『今夜はキャンセルだ』と聞きたくなかったせい。
喜び浮かれた直後のそれは、打撃が大きすぎる。
だけどそれだけじゃない。
もう見たくなかったのだ。彼が彼女のためにあたしに背を向けるところを――。
誰が悪いわけじゃない。
クレームなんだから仕方ない。
部下のフォローは上司の役目。
デートなんてしている場合じゃない。
頭の中で必死に言葉を並べてみるのに、“あの場面”が頭から出て行ってくれない。
一本の電話であたしに背を向けた彼の後ろ姿。
一人取り残されたベッドからみるみる消えていく温もり。
あの時ドアの向こうに消えていった彼の背中を、今でも鮮明に思い出せる。
今日はタイミングが悪かっただけ。
あたしより静さんを選んだわけじゃない。
だけど――。
「馬鹿やなかろうか……」
そんなふうに考えている時点で、あたしはそれを確信しているんだ。
どんなにあたしのことを『好き』だと言ってくれても、それは“二番目”。
やっぱり彼の“一番”は、静さんなんだ。
「“二番手以下”から昇格できたけんよかろうもん」
口に出した途端、目の縁に留まっていたしずくがぽたぽたとこぼれ落ちた。
化粧が落ちることも気にせず、手の甲で乱雑に目元を拭う。
いつの間にか止まっていた足を踏み出そうとした時、背後から軽いクラクション音。
振り返ったと同時に、白い車があたしの横に停車した。
0
お気に入りに追加
104
あなたにおすすめの小説
恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
誘惑の延長線上、君を囲う。
桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には
"恋"も"愛"も存在しない。
高校の同級生が上司となって
私の前に現れただけの話。
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
Иatural+ 企画開発部部長
日下部 郁弥(30)
×
転職したてのエリアマネージャー
佐藤 琴葉(30)
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の
貴方を見つけて…
高校時代の面影がない私は…
弱っていそうな貴方を誘惑した。
:
:
♡o。+..:*
:
「本当は大好きだった……」
───そんな気持ちを隠したままに
欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。
【誘惑の延長線上、君を囲う。】
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる