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最後の賭け
最後の賭け(1)
しおりを挟む「やっぱ夢かも……」
カップを洗う手を止めたあたしの口から、自然とそんな言葉が転がり出る。幸い給湯室にはあたし以外誰もいない。
朝起きた時からずっと、同じことばかり考えていた。
夢の中で目が覚めるけど、それもやっぱり夢で。
もしくはいつのまにか宇宙人が課長に成りすましている――みたいな。
そんなバカげたことを考えてしまうのは、今までとは百八十度ちがう彼に全然慣れそうにないせいだ。
課長は最初に宣言した通り、昨日ひと晩あたしに『不埒な真似』をしなかった。
それは夜が明けてからも同じ。
おかげであたしは、目を覚ました時に自分の状況をすぐには呑み込めなかった。
だってこれまでとは全然ちがうから。
少しも乱れていないシーツの上で、服を着たまま彼の腕に包まれているなんて、夢の中以外あるわけない。
半信半疑のまま固まっているうち彼が目を覚まし、あたしの頭を優しく撫でてからあっさりベッドから起き出していった。
それから一緒に朝食を食べて、彼の車であたしは家に帰った。
だけどそれだけじゃない。
彼はあたしが出勤準備をするのを待って、そのまま一緒に職場まで連れて行ってくれたのだ。
こんなこと初めて。
あたしは今までにない”特別扱い”に戸惑ってばかり。
だけど、それも良かったような良くなかったような。
あたしは始終ひやひやドキドキしっぱなし。職場に着いた時は挙動不審MAXだ。
誰かに見られるのではないかとそればかりが気になって、駐車場で車のギアがパーキングに入った瞬間、シートベルトを外し車から降りて猛ダッシュで更衣室へと向かったのだった。
「どうしよう……」
口を開けばさっきの呟きかこれしか言葉が出てこない。それくらい頭も心もごちゃごちゃ。舞い上がったり急降下したり、とにかく忙しい。
あの時――課長に『好きだ』と言われたとき。
うそだと思った。夢みたいだって。
それなのにあたしは彼に同じセリフを返せなかった。あんなに長い間待ち焦がれていたはずの言葉だったのに。
あたしだって本当は彼のことが好き。苦しいくらいに好き。好きすぎる。
だったらそれを言葉にして伝えればいい。そうすれば今度こそ、彼と“本物の”恋人同士になれるのに。
頭ではそう分かっているのだけれど――。
出来なかった。
怖かったのだ。
彼の気持ちは本当に本物? 本当にあたしと同じ『好き』?
それを期待して舞い上がって喜んで。
その喜びが大きければ大きいほど、叶えられなかったときの悲しみや苦しみはもっと大きい。
もうこれ以上奈落に突き落とされるのはイヤ。
あんな思いはもうしたくない。
ジャーと音立てて流れていく水道水を見ながら、あたしは胸の底に溜まる重く澱んだ息をそっと吐き出した。
――とその時、カチャリと給湯室のドアが開く音が。
そろそろ終礼が始まる時間だから、静さんか誰かが呼びに来てくれたんだろうな。
そう思ったあたしはドアのほうを振り向かずに口を開いた。
「もぉ行きまぁ」
「森」
「すっ…!」
肩が大きく跳ねたせいで、手からカップが落ちてカシャンと音を立てた。
「おい、なんだか音がしたけど大丈夫か」
そう言いながら彼の足音が近づいてきたと思ってすぐ、斜め後ろから伸びてきた手がひょいっとカップを持ち上げた。
「割れてはいないな。次から気を付けるように」
「は、はいぃ……」
もとはと言えば課長が驚かすから。そう思わないでもないけれど、驚き固まってしまったあたしは素直に頷くだけ。
「怪我をしたらいけないからな」と言いながらシンクの中にカップを戻した彼は、「そろそろ終礼だぞ」と言い添えた。
ドキドキとうるさい心音を誤魔化すように「もう行きますぅ」と口にして、カップを洗ってしまおうと手を伸ばしたら。
「ちゃんと覚えているのか?」
「へっ!?」
反射的に振り仰ぐと、思ったよりも近いところに彼の顔があった。目が合ってドキッと鼓動が跳ねる。
その一瞬の間に長い腕が伸びてきて、あたしの体を挟み込むようにシンクの縁に手のひらをついた。
「あ、あのっ…!」
なにこの体勢…!
ただの上司と部下にしては近すぎる。いくらドアが閉まっているとはいえ、給湯室でこの距離なんて。誰か来たらどうするつもり!?
「ちょっ…離れ」
「約束、忘れていないよな?」
「えっ、約束…!?」
何のことか分からずに首をひねると、彼が「はぁ~」とため息をついて「やっぱり」と呟いた。
「今日、仕事が終わったら一緒にメシに行こうって言っただろ」
「えっ…!」
「朝、車を駐めた時に言ったはずだけど」
「………あぁっ!」
そう言われたら、駐車場に着いた時に彼が何か言っていた気がする。
誰かに見られないうちに早く行かなきゃということで頭がいっぱいで、上の空のまま返事をしたような、していないような……。
「今夜こそ美味いものを一緒に食べよう。昨日のリベンジだ」
どうやら彼はまだ、昨日あたしに“レトルトカレー”を出したことを気にしていたらしい。
そんなの全然気にしなくていいのに。
あんなに美味しいレトルトカレー初めてだったから、心の底から『やっぱぁトーマのエリートはちゃいますねぇ!』って言ったのに。
そんなふうに考えていたらドアの外がガヤガヤと賑やかになった。終礼が始まるからみんなが事務所に集まってきてるんだ。
「わっ分かってますぅ、分かってますから、もぉ離れてっ…!」
いつ開くか分からないドアに肝が冷えて、あたしは必死に声をひそめて叫んだ。
すると――。
「楽しみにしてるな――希々花」
耳のすぐ横――耳の縁に触れそうで触れない場所であたしの名を囁いた彼は、入って来た時と同じように颯爽と出て行った。
ひとり給湯室に残されたあたしは、熱くなった耳を手で押さえたまましばらく固まっていたけれど、ふと思いついて頬をつねってみた。
「痛っ~~たぁ……」
地味に痛くて我に返る。
「現実…? 本当に本当で…?」
今夜。どうやらあたしは彼と“食事デート”をするらしい。
しかも以前とは違う。静さんのおまけでついていくわけでも、待ち伏せたわけでも、アリバイ作りのためでもない。
正真正銘本物のデート。
それも彼のほうから誘われて…!
胸の底から歓喜が湧き上がって、心臓がバクバクと激しく鳴り出した。
ついさっきまで胸の底に溜まっていたどんよりとした何かが、まるで強い風に吹きとばされたかのようにどこかに行ってしまう。
小難しく考えることなんてないのかもしれない。そんなのあたしには向かないし。
たとえ気持ちの重さは違っていても、ベクトルの向きが同じなら、そこから“本当に”好きになってもらえるように頑張ればいい。
今夜もし。彼がもう一度あたしに「好き」と、「付き合ってほしい」と言ってくれたら――。
素直に「YES」って頷いてみよう。
そう決めた瞬間、目の前がパーッとひらけたような気がして、あたしは上機嫌で片付けを終わらせ、ウキウキと給湯室を出た。
今日のコーデは確か、フリルブラウスに小花柄スカート。
よし!ディナーデートでも全然いける!今朝ののん、でかしたぞぉ!
──なんて、ふわふわと雲の上を歩くような足取りでデスクに戻るその途中。
あたしは事務所に漂う不穏な騒がしさに気が付いた。
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