【完結】kiss and cry

汐埼ゆたか

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交換条件の行方

交換条件の行方(5)

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固まった。停止した。真っ白だ。

視力以外のすべてが動作を止めたのではないかと思うほど、何もかもが動かなくなった。
息を吸うのすらしばらく忘れて、このままだと心臓まで止まってしまうのではないかという頃。

「希々花、聞こえてるのか……?」

呼びかけられてやっと息をはき出した。あまりに長く息を止めていたから、急に送り込まれた酸素に心臓が慌てて動きを速めていく。

「聞こえなかったならもう一度言う。俺はおまえが」
「うそっ!」
「希々、」
「そんなんうそたい・・! うそに決まっとる!」
「嘘じゃない。俺はおまえのことを、」
「そんなわけなかっ…! だって課長は静さんのことをずっと」
「好きだった・・・! 確かに俺は長い間あいつのことを好きだった。だけど、今はちがう。俺が好きなのは希々のの

「やめて…! そんなん信じきれん…! そげんことあるわけなかたい…!」
〈やめて…! そんなの信じられない! そんなことあるわけないでしょ!〉

あたしの剣幕に押されたのか、彼は口をつぐんだ。

『付き合おう』の次は『好き』――?

この人はどれだけあたしをもてあそんだら気が済むのだろう。
そんな嘘までついてくれなくても、あたしは別にあなたを恨んだりしないのに。

「そっかぁ……あたしが信じられとらん・・・・・のたいね……」
「希々花……」

あたしは大きく顔を左右に振った。もう何も聞きたくもないとばかりに。

彼がこんなに必死になってあたしを繋ぎ止めようとするのも、もとはと言えばあたしの行いのせい。まさに『身から出た錆』。

「上司と遊びで寝るような女やけん、そんなん信じきれんくて当たり前くさ」
〈上司と遊びで寝るような女だから、そんなの信じられなくて当たり前よね〉

口に出した言葉が音となって耳から入って腑に落ちて、その途端足から力が抜けた。
その場にストンと座り込む。「希々花!」と焦ったように呼ばれたけれど、あたしはきつく奥歯を噛んでうつむいたまま。口を開けば嗚咽がもれるだけだから。

だらりと垂れた両腕を持ち上げることもできず、次々に涙が頬を次々と滑り落ちていく。

「希々花、ちょっとだけ……今だけ許して」

彼が突然そう言ってすぐ、こちらに腕が伸ばされた。
何をするかと思いきや、彼は自分のシャツの袖であたしの頬を拭ったのだ。

「直接触ってないからセーフ、にしてくれないか?」

ぐいぐいとあたしの顔を袖で拭きながら、彼はそんなことを言う。
ひと通り拭き終えると、あたしの顔を覗き込んで言った。

「自分のことをそんなふうに言うな。俺はおまえのことを信用に足る人間だと思っているよ」
「っ、」
「そりゃそうだろう? 一年も付き合ってきたんだ。正しい関係じゃなかったけど、でもだからこそそんな関係を一年も続けられたのは、おまえが俺とのことを一切表に出さなかったおかげだ。職場では見事なほど『無関係』に徹していたもんな」
「………」
「だから『バラされたら困る』なんて考えてもない。……恨まれても仕方ない、とは思っているが」

眉根を寄せて視線を下げた顔がひどくせつなげで、あたしは思わず口を開いていた。

「恨ん、でなんか…なかっちゃもん……」
「希々花……」
「一緒にりたいって、セフレでもよか・・って決めたんは自分なんよ…? あたしが自分で決めて“共犯者”になったと!」
「共犯者か……そうだな、俺たちは確かに“共犯者”だった」
「そうたい!だからやけんフラれたからって逆恨みするほど器の小さいこまか女じゃなかたい・・・・っ」
「そうか……そうだよな、おまえはそういうヤツじゃなかったな。悪かった、恨まれるなんて思ってしまって」

優しい謝罪がじわりと胸に沁む。そのせいでまた涙がほろほろとこぼれ落ちた。

「希々花……俺はおまえに泣かれると弱いんだよな……」

そうこぼした彼は、再びシャツの袖であたしの頬を拭いながら言った。

「おまえが俺のことを信じられるようになるまでいくらでも待つし、訊かれたことにはちゃんと答える。だからもう一度俺のことを考えてみてほしい」
「もういちど……」
「ああ。嫌われているのは分かっているが、挽回のチャンスをくれないか?」
「嫌われて――あっ、」

そうだあの時。あたしは彼に向かって『大っ嫌い』と言い捨てて逃げたんだった。
それからずっと彼のことを避け続けていたせいで、彼はそう思ったのかも。

だけどそれを真っ先に訂正するには、あたしはまだ彼の言い分・・・を信じきれていなくて。
だからなのか、『信じてもらうために訊かれたことにはきちんと答える』という彼の言葉を試してみたくなった。

真実、ずっと気になっていたことがあるのだから。

なんでなして……あのとき………」
「ん? なに、希々花。言いたいことがあれば、遠慮なく言ってくれてかまわないよ」

穏やかな声に背中を押されて、あたしは口を開いた。

「あの残業のとき……、なして急にやめてしもうたんかなって。……やっぱ、あたしの気持ちに気付いて『しまった』って思ったんですよね?」

あたしがそう言うと、それまでじっとあたしを見ていた視線が急に泳ぎ出した。
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