52 / 76
交換条件の行方
交換条件の行方(3)
しおりを挟む
***
「おまたせ」
そう言った課長は、あたしの前にコトンとマグカップを置いた。シンプルな白いカップからは、湯気と一緒に特有の香りが立ちのぼる。
「ありがとうございますぅ……」
あたしがそう言うと、彼はあたしの斜め前の床、グレーのラグの上に腰をおろした。
ソファーの上から見下ろすような形で視界に入る彼に、目を向けることが出来ない。
視界の端で感じる視線から逃れるように目の前のカップに手を伸ばすと――。
「本当に良かったのか?」
「え?」
「コーヒー。ミルクは切らしているが、牛乳と砂糖はあるんだぞ?」
「このままで大丈夫ですぅ……」
なんだ、コーヒーのことか。
てっきり『話し合いの場所』のことかと思っちゃった。
あたしが甘いコーヒーを飲むのは、残業かデートの時だけ。
こんな意味不明な話し合いの時にまで、あんな甘ったるいもの飲まなくても結構。あたし、コーヒーはブラック派なんですぅ。
あたしがカップに口をつけると、彼は「そうか……」と呟いて自分のカップに手を伸ばした。
黒田製菓を出たあたしが連れて来られたのは、まさかの“課長の自宅”だった。
『黒田製菓に連れていく代わりに、俺の話を聞いて欲しい』
彼が出したその“交換条件”を呑んだおかげで、あたしは無事に阿部さんの定年退職に間に合ったのだ。
だから、今度は彼の要望を呑まなければならないのは致し方ない。
途中で『大事な用事があるのを忘れとりましたぁっ!』とか言って、なんとか逃れられないものかと考えていたのだけれど、彼に先手を打たれた。『約束通り、このあと話をさせてもらうぞ』と。
観念して頷くと、『じっくり落ち着いて話が出来るところに行こう』と彼は言った。
落ち着いて話が出来るところって?居酒屋の個室?
まさかホテルなんてこと――そう思った時。
『うちでいいか?』
『えっ!』
『誓って手を出したりはしない』
あの課長が……?
『手を出さない』なんてことある!?
そういう付き合いだけは長いせいでにわかには信じがたくて、すぐに返事ができずにいると。
『俺はそんなに信用な――いのも当たり前だよな……』
『べっ、別に疑ってるわけや……』
これまで聞いたことのないしょぼくれた声に思わずそう言ったものの、疑ったことはバレバレ。
『いや……身から出た錆だな。――もし万が一、許可なくおまえに触れるようなことがあったら、殴っても蹴ってもいいし、その上で会社にセクハラとして通報してくれていい』
『はぁ?』
『その時は煮るなり焼くなりおまえの好きにしていいから……だから頼む、俺の話を最後まで聞いてくれないか――希々花』
『っ、』
彼の家に行けば、また傷つくことになるかもしれない。
そんな不安に駆られているのに、乞われるように名前を呼ばれただけで『NO』と言えなくなるあたし。
気が付いたら了承してしまっていた。
そんな経緯で再び訪れた彼のマンション。
『誓って手は出さない』と言った通り彼は、“あの夜”あんなに激しくあたしを揺さぶった玄関ではすばやく靴を脱ぎ、すぐ脇のドアを素通りして、廊下のつきあたりにあるドアの向こう側へとあたしを招き入れた。
そうしてあたしは、“あの夜”ついぞ足を踏み入れることのなかった場所――リビングに辿り着いたのだった。
「おまたせ」
そう言った課長は、あたしの前にコトンとマグカップを置いた。シンプルな白いカップからは、湯気と一緒に特有の香りが立ちのぼる。
「ありがとうございますぅ……」
あたしがそう言うと、彼はあたしの斜め前の床、グレーのラグの上に腰をおろした。
ソファーの上から見下ろすような形で視界に入る彼に、目を向けることが出来ない。
視界の端で感じる視線から逃れるように目の前のカップに手を伸ばすと――。
「本当に良かったのか?」
「え?」
「コーヒー。ミルクは切らしているが、牛乳と砂糖はあるんだぞ?」
「このままで大丈夫ですぅ……」
なんだ、コーヒーのことか。
てっきり『話し合いの場所』のことかと思っちゃった。
あたしが甘いコーヒーを飲むのは、残業かデートの時だけ。
こんな意味不明な話し合いの時にまで、あんな甘ったるいもの飲まなくても結構。あたし、コーヒーはブラック派なんですぅ。
あたしがカップに口をつけると、彼は「そうか……」と呟いて自分のカップに手を伸ばした。
黒田製菓を出たあたしが連れて来られたのは、まさかの“課長の自宅”だった。
『黒田製菓に連れていく代わりに、俺の話を聞いて欲しい』
彼が出したその“交換条件”を呑んだおかげで、あたしは無事に阿部さんの定年退職に間に合ったのだ。
だから、今度は彼の要望を呑まなければならないのは致し方ない。
途中で『大事な用事があるのを忘れとりましたぁっ!』とか言って、なんとか逃れられないものかと考えていたのだけれど、彼に先手を打たれた。『約束通り、このあと話をさせてもらうぞ』と。
観念して頷くと、『じっくり落ち着いて話が出来るところに行こう』と彼は言った。
落ち着いて話が出来るところって?居酒屋の個室?
まさかホテルなんてこと――そう思った時。
『うちでいいか?』
『えっ!』
『誓って手を出したりはしない』
あの課長が……?
『手を出さない』なんてことある!?
そういう付き合いだけは長いせいでにわかには信じがたくて、すぐに返事ができずにいると。
『俺はそんなに信用な――いのも当たり前だよな……』
『べっ、別に疑ってるわけや……』
これまで聞いたことのないしょぼくれた声に思わずそう言ったものの、疑ったことはバレバレ。
『いや……身から出た錆だな。――もし万が一、許可なくおまえに触れるようなことがあったら、殴っても蹴ってもいいし、その上で会社にセクハラとして通報してくれていい』
『はぁ?』
『その時は煮るなり焼くなりおまえの好きにしていいから……だから頼む、俺の話を最後まで聞いてくれないか――希々花』
『っ、』
彼の家に行けば、また傷つくことになるかもしれない。
そんな不安に駆られているのに、乞われるように名前を呼ばれただけで『NO』と言えなくなるあたし。
気が付いたら了承してしまっていた。
そんな経緯で再び訪れた彼のマンション。
『誓って手は出さない』と言った通り彼は、“あの夜”あんなに激しくあたしを揺さぶった玄関ではすばやく靴を脱ぎ、すぐ脇のドアを素通りして、廊下のつきあたりにあるドアの向こう側へとあたしを招き入れた。
そうしてあたしは、“あの夜”ついぞ足を踏み入れることのなかった場所――リビングに辿り着いたのだった。
0
お気に入りに追加
104
あなたにおすすめの小説

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる