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残業事変***
残業事変(1)
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定時後の事務所は好きじゃない。
ほんの少し息をついただけでもやたら大きく聞こえるし、小さな物音でも変に気になってしまうから。
それなのにあたしは、つい大きな声を上げてしまった。
「やっ! ダメぇ…っ!」
案の定、事務所中に大きく響いた声にグッと息を詰める。しばらくしてから一気に「ふ~っ」と吐き出した。
「セ~~~フっ!」
保存が出来ていることを確認してから、デスクの上にバタンと突っ伏した。
定時後から一人二人と帰って行った事務所は、今はもうすっかり貸し切り状態。あたしの頭上だけにLEDのシーリングライトが煌々と灯っている。
明るさだけで味もそっけもない天井照明が寒々しく感じるのは、ぼっち残業のせいだろうか。
――ていうか!
こんなところ独占さしてもろぉても、全然嬉しくありまっせぇんっ…!
びっくりなのは、あの仕事中毒な静さんが定時で上がったってこと。あれは間違いなくアレやわ。――“王子とデート”。
本人はいたって普通を装っていたけれど、あたしから見たらバレバレ。顔に『今日はデートです』と書いてあった。
きっと今頃三ツ星レストランでお高い料理を食べながら、王子と仲良くビールを飲んでいるにちがいない。
「んもぉぉっ! 肩こったし目ぇ乾いたしお腹空いたぁぁあっ!」
「キリのいいところまで」と思っていたら、あっという間に二時間が過ぎていたのだ。
それなのに、その二時間分のデータを危うくまるっと白紙にしそうになっただなんて、どこぞの口やかましい先輩に知られたら、またお小言を喰らうの間違いなしだ。
「はうぅっ……今日はもう帰ろっかなぁ……」
ワーカホリックな先輩が美味しそうにビールを呷る姿を思い浮かべたら、なんだか自分一人で必死に仕事をしているのがバカバカしくなってきた。
コンビニでご飯買って帰って、お気に入りのバスボム入れたお風呂につかりながら、久々に乙ゲーでもしよっかなぁ……。
そう言えばどこまでやったっけ……。最近全然手をつけていなかったからパッと思い出せない。
デスクにベッタリと伸びたままで顔だけ上げたら、パソコンの横に置いてある卓上カレンダーが目に入った。
三月も今日で十日目。
今まではカレンダーなんてスマホやウェブで見ればいいと思っていたけれど、やっぱり一瞬で目視出来る紙は便利だと思う。
これをくれたのは、かの有能なお仕事マンな先輩。
そんな彼女に、あたしは結構な無茶振りをした。
『十四日にお休みを下さい』という。
アテンダントのシフトを組むのは主任である静さんの仕事。あたしと彼女以外のアテンダントは、皆さんパートタイマーや契約社員さんだから。
二週間を切っているのにそんなことを頼むなんて、さすがのあたしもどうかと思ったのだけど、どうしてもホワイトデーに休みが欲しかったのだ。
『この忙しい時に希望休だと!? しかもこんなにギリギリに!』
そう叱られることを覚悟していたけれど、なんとふたつ返事で「OK」。
拍子抜けだ。
『ほんまにえぇんですかぁ?』と訊いたら、『悪いと思うなら次からはもう少し早く言ってちょうだい』と睨むフリをされたけれど、そのすぐに『今回だけ特別ね。森にはたくさんお世話になったから』と言って自分とあたしの休みを交換してくれた。
静さんサンキュー! マジ女神!
恋人同士のイベントの日だ。王子と付き合い出したばかりの静さんだって、休みたいにちがいないのに。
そんな静さんを裏切らないようにするためもあるけれど、それよりも心置きなく四日後の休みを迎えたいという気持ちのほうが大きかった。
寒さの底を抜けたせいで増えてきた工場見学ツアーに加え、年度末の事務処理でデスクワークもある。
あたしはこれまでこつこつと溜めてきたツケを、必死に払っている真っ最中なのだ。
「……もぉちょっと頑張らんばね」
そう呟いて体を起こそうとした時、後ろから「カツっ」という物音が。
弾かれたように振り向くとそこには──。
「どうかしたのか、森」
「課長っ! なんでっ…!?」
事務所の入り口から結城課長が入ってくるところだった。
たしか今日は昼過ぎから関西支社の会議に出席して、そのまま直帰になっていたはずなのに。
「あっちの会議のあとで、近統本部長から仕事が降って来てな。今週末締めだからとりあえず資料だけでも揃えておくかと戻ってきたんだ――って俺のことはいい。おまえこそ、どうしたんだ。何かミスでもしたのか?それともデータを飛ばした?」
そう喋りながらやってきた彼は、あたしのデスクに「トンっ」と片手をつくと、隣からパソコンモニターをのぞき込んでくる。
「べっ……別にミスなんてしてませんし、データも飛ばしとりませぇんっ」
「そうか。――てことは、」
言いながら彼があたしの額にペタリと手を当てた。
「っ…!」
一瞬で体がカッと熱くなる。
な、な、何ばしよっと!?
「……熱はないな」
そんなもんあるわけなか…!希々花は昔から元気だけが取り柄たい!
「森」
動揺するあたしの額から手を退けた彼に低く呼ばれて、一瞬でさっきとは逆の汗が拭き出そうになった。ひょっとして何かやらかした…!?
パブロフの犬のように反射的に肩を竦ませた瞬間、頭の上にポンと手を乗せられた。
「最近ちょっと頑張りすぎていないか?」
「え、」
「真面目に頑張るのはいいことだが、無理のしすぎは良くないな」
「べ、別に無理やなんてなんも、」
「何か食ったのか?」
「え?」
「もう八時をとっくに過ぎていることだし、何か少しくらい腹に入れたんだよな?」
「え…ぇっとぉ……」
そう言われてみれば、定時後何も口にしていないことに気付いた。いつもなら甘いカフェオレとかチョコレートとかつまむのに。
口ごもったあたしに、課長は渋い顔をして「は~~っ」と長い溜め息をついた。
ほんの少し息をついただけでもやたら大きく聞こえるし、小さな物音でも変に気になってしまうから。
それなのにあたしは、つい大きな声を上げてしまった。
「やっ! ダメぇ…っ!」
案の定、事務所中に大きく響いた声にグッと息を詰める。しばらくしてから一気に「ふ~っ」と吐き出した。
「セ~~~フっ!」
保存が出来ていることを確認してから、デスクの上にバタンと突っ伏した。
定時後から一人二人と帰って行った事務所は、今はもうすっかり貸し切り状態。あたしの頭上だけにLEDのシーリングライトが煌々と灯っている。
明るさだけで味もそっけもない天井照明が寒々しく感じるのは、ぼっち残業のせいだろうか。
――ていうか!
こんなところ独占さしてもろぉても、全然嬉しくありまっせぇんっ…!
びっくりなのは、あの仕事中毒な静さんが定時で上がったってこと。あれは間違いなくアレやわ。――“王子とデート”。
本人はいたって普通を装っていたけれど、あたしから見たらバレバレ。顔に『今日はデートです』と書いてあった。
きっと今頃三ツ星レストランでお高い料理を食べながら、王子と仲良くビールを飲んでいるにちがいない。
「んもぉぉっ! 肩こったし目ぇ乾いたしお腹空いたぁぁあっ!」
「キリのいいところまで」と思っていたら、あっという間に二時間が過ぎていたのだ。
それなのに、その二時間分のデータを危うくまるっと白紙にしそうになっただなんて、どこぞの口やかましい先輩に知られたら、またお小言を喰らうの間違いなしだ。
「はうぅっ……今日はもう帰ろっかなぁ……」
ワーカホリックな先輩が美味しそうにビールを呷る姿を思い浮かべたら、なんだか自分一人で必死に仕事をしているのがバカバカしくなってきた。
コンビニでご飯買って帰って、お気に入りのバスボム入れたお風呂につかりながら、久々に乙ゲーでもしよっかなぁ……。
そう言えばどこまでやったっけ……。最近全然手をつけていなかったからパッと思い出せない。
デスクにベッタリと伸びたままで顔だけ上げたら、パソコンの横に置いてある卓上カレンダーが目に入った。
三月も今日で十日目。
今まではカレンダーなんてスマホやウェブで見ればいいと思っていたけれど、やっぱり一瞬で目視出来る紙は便利だと思う。
これをくれたのは、かの有能なお仕事マンな先輩。
そんな彼女に、あたしは結構な無茶振りをした。
『十四日にお休みを下さい』という。
アテンダントのシフトを組むのは主任である静さんの仕事。あたしと彼女以外のアテンダントは、皆さんパートタイマーや契約社員さんだから。
二週間を切っているのにそんなことを頼むなんて、さすがのあたしもどうかと思ったのだけど、どうしてもホワイトデーに休みが欲しかったのだ。
『この忙しい時に希望休だと!? しかもこんなにギリギリに!』
そう叱られることを覚悟していたけれど、なんとふたつ返事で「OK」。
拍子抜けだ。
『ほんまにえぇんですかぁ?』と訊いたら、『悪いと思うなら次からはもう少し早く言ってちょうだい』と睨むフリをされたけれど、そのすぐに『今回だけ特別ね。森にはたくさんお世話になったから』と言って自分とあたしの休みを交換してくれた。
静さんサンキュー! マジ女神!
恋人同士のイベントの日だ。王子と付き合い出したばかりの静さんだって、休みたいにちがいないのに。
そんな静さんを裏切らないようにするためもあるけれど、それよりも心置きなく四日後の休みを迎えたいという気持ちのほうが大きかった。
寒さの底を抜けたせいで増えてきた工場見学ツアーに加え、年度末の事務処理でデスクワークもある。
あたしはこれまでこつこつと溜めてきたツケを、必死に払っている真っ最中なのだ。
「……もぉちょっと頑張らんばね」
そう呟いて体を起こそうとした時、後ろから「カツっ」という物音が。
弾かれたように振り向くとそこには──。
「どうかしたのか、森」
「課長っ! なんでっ…!?」
事務所の入り口から結城課長が入ってくるところだった。
たしか今日は昼過ぎから関西支社の会議に出席して、そのまま直帰になっていたはずなのに。
「あっちの会議のあとで、近統本部長から仕事が降って来てな。今週末締めだからとりあえず資料だけでも揃えておくかと戻ってきたんだ――って俺のことはいい。おまえこそ、どうしたんだ。何かミスでもしたのか?それともデータを飛ばした?」
そう喋りながらやってきた彼は、あたしのデスクに「トンっ」と片手をつくと、隣からパソコンモニターをのぞき込んでくる。
「べっ……別にミスなんてしてませんし、データも飛ばしとりませぇんっ」
「そうか。――てことは、」
言いながら彼があたしの額にペタリと手を当てた。
「っ…!」
一瞬で体がカッと熱くなる。
な、な、何ばしよっと!?
「……熱はないな」
そんなもんあるわけなか…!希々花は昔から元気だけが取り柄たい!
「森」
動揺するあたしの額から手を退けた彼に低く呼ばれて、一瞬でさっきとは逆の汗が拭き出そうになった。ひょっとして何かやらかした…!?
パブロフの犬のように反射的に肩を竦ませた瞬間、頭の上にポンと手を乗せられた。
「最近ちょっと頑張りすぎていないか?」
「え、」
「真面目に頑張るのはいいことだが、無理のしすぎは良くないな」
「べ、別に無理やなんてなんも、」
「何か食ったのか?」
「え?」
「もう八時をとっくに過ぎていることだし、何か少しくらい腹に入れたんだよな?」
「え…ぇっとぉ……」
そう言われてみれば、定時後何も口にしていないことに気付いた。いつもなら甘いカフェオレとかチョコレートとかつまむのに。
口ごもったあたしに、課長は渋い顔をして「は~~っ」と長い溜め息をついた。
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