【完結】kiss and cry

汐埼ゆたか

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観察対象と発注ミス

観察対象と発注ミス(1)

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「あっ、やんっ……」

我慢できずに思わず出してしまった声が、定時後の事務所の中でやけに大きく響く。
しばらく息を止めて固まったあと、あたしは一気に脱力した。

「もぉぉぉっ、あとちょっとやったのにぃっ…!」

せっかくパソコンで入力したデータを、操作ミスで消去してしまったのだ。
しかも最悪なことに、ずいぶん長い間上書き保存をしていなかった。
小姑みたいな先輩に、しょっちゅう『上書き保存しなさい』と言われていたのに…!

バレンタインから二週間経つ、二月最後の金曜日。

大昔はこういう日のことを『ハナキン』って言ってたらしい。それを教えてくれた先輩は、今ここにはいない。東京のグループ本社でのコンペ大会最終プレゼンに参加するため、出張中だ。

なにが悲しくて、ハナノキンヨウビにぼっち残業なんてやってるんだろう、あたし。

――なぁんて。少し前のあたしならそう思ってただろうな。あ、そもそも残業なんてしようともしなかったか。

アテンダントの仲間はみんな、相変わらず定時で上がっていった。
先輩たちからの『プレミアムフライデーやし飲みに行かへん?』というお誘いは、すっぱり断った。明日も仕事だし、なにより今日中にやっておきたいことがあったから。

発注ミスで売らないといけなくなった“ウィスキーボンボン”。
七十個もあるそれを、二か月以内に売り切らないといけなくなった。

その為に販売計画を立てたのに、全然思った通りに動かない。この一週間で実績と計画の間にどんどん開きが出来てきたから、土日に備えて今日中にその見直しをしようと思ったのだ。

「う~ん……とはいってもぉ、肝心のお客様がぉへんことにはなぁ~……」

一年で一番寒いと言われる今時期は、工場見学のお客さまはそんなに多くない。なんだかんだでやっぱりビールは暑い季節の飲み物だから。

真冬でもあんなにビールを美味しそうに飲むのは、ハッキリ言って静さんくらいやわぁ。

なんて思いながら、あたしは隣の席をチラリと見た。当たり前だけどそこは空。
彼女は今、結城課長と東京出張だ。


バレンタイン前夜イヴの“報告会”のとき、結局あたしは課長に何も言えなかった。

『可愛い部下で大事な協力者』

その言葉があまりにも胸の奥深く刺さって、言おうとしていたことがすべて飛んで行った。

込み上げた涙をこぼすところも拭うところも見られたくなくて、おどけたふりをして彼の体に抱き着いて。勢いで押倒すような形になったそのまま、彼の萎えたそれを口に含んで――。


「あたし……、一体なにをなんばしてるんだろうねしよっちゃろね……」

あの時、言えばよかったのだ。

自分の気持ちも静さんのこともみんな彼に伝えて、『協力者はもうやめます』って。

その勇気が自分になかっただけのくせに、あたしはバレンタインの翌日に静さんに八つ当たりまでしてしまった。

出勤して制服に着替えようといつものように更衣室に行った時、先に来ていた静さんの目が真っ赤なことに気が付いた。

何かあったってことは一目瞭然。しかも絶対『王子』と。あたしの勘がそう告げる。

静さんはあたしにとってみたら恋敵ライバル
だけど、どうやってもあたしは彼女のことを嫌いになれなかった。

仕事が出来て面倒見が良くて、サバサバして男前。
なのに、恋愛ごとには鈍くて臆病。

なにより彼女には裏表がない。

あたしとも課長とも正反対。

だからきっとあたしたちは、彼女のことが好きなんだ。

そんな静さんに何かあったと気付いて、見て見ぬふりなんて出来っこない。
何かあったのかと心配するあたしに、彼女は『大丈夫』『コンタクトの調子が悪いだけ』だなんて、下手な言い訳ばっかり。コンタクトなんてしたことないくせになかろうもん

そのくせ『バレンタインの前の日、あれからどうしたの?』なんて先輩ぶって訊いてきた。

はぁ!?それ、今のあたしに訊かはりますぅ!?

出来たばかりの傷口に、思いっきり爪を立てられたような気分になった。
それがあたしの勝手な都合だって分かってる。たぶん静さんに悪気なんてないことも。

だけどあの時のあたしは、彼女に言わずにいられなかったのだ。彼女と王子のデートを見たことを。

それを目撃してからずいぶん日にちが経つというのに、今までそのことを本人に確認しなかったのは、知ってしまえば彼に報告しないといけなくなるから。

『静さんが恋愛に前向きになったとき、あたしはそれを彼に報告する』

それがあたしたちの間に結ばれた“協定事項”。


見なかったことにすればいい。

何も見ていなければ、何も知らない。何も知らなければ、何も言わなくてもいい。

相変わらずずるくてヘタレなあたしは、そんなふうに考えていた――この時までは。

だけどこの時、前夜のショックからあたしは自棄ヤケになっていた。

いっそのこと、静さんの口からハッキリ『王子と付き合っている』と聞いてしまえばいい。
そしたらあたしは、それを課長に報告せざるを得なくなる。

彼が静さんのことを大人しく諦めるかどうかは分からないけれど、少なくとも今の関係からは抜け出せるにちがいない。

彼が告白して上手く行けば、あたしはこの役目を降りられるし、反対に彼が失恋したとしたら、あたしにはチャンス到来だ。

瞬時にそんな計算をはじき出したあたしは、思い切って静さんに『王子とどういう関係なのか』と訊いてみた。

だけど返ってきた答えは、


『森には関係ない』


なにそれ。

ひとが親切に心配してるのに、『関係ない』って…!

王子のことなんて興味ないって言ってたくせに。
課長の気持ちにひとつも気付かないくせに。
彼にあんなに大事に想われているくせに。

だいたい静さんは鈍感にもほどある。
あんなに一途に想っている課長があんまりにも可哀そうじゃない。

腹の底からそんな想いがいっぺんに噴き出してきた。

課長の“一番”を長い間独占していて、そのうえ御曹司にも構ってもらって……。

『自分は男にガツガツせんいう顔して……そげん女が一番ヤバかと。気付かんば男を手玉に取るったい』

あたしなんて――、

『静さんばっかり――ずるか・・・っちゃ!』

あたしが投げつけた言葉に、静さんが一瞬泣き出しそうに顔を歪めた。

それを見た瞬間、自分が何かとんでもない間違いをした気がしたけれど、それを確かめるゆとりは、あの時のあたしは持ち合わせていなかった。

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