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第一章 異世界に来たけど、自分はモブらしいので帰りたいです。
第一話
しおりを挟む「暑い」
20XX年8月、某所。今日は特に暑い日だった。夏真っ盛りのこの季節。こんな暑い日に長袖、長ズボンのスーツを身に纏いながら都内を彷徨い歩いていた。
道行く人はみな涼し気な格好をしている。体温並の暑さなのに、スーツをきっちり着込んでいるのは自分くらいだ。道行く人達の姿を羨ましそうに、恨めしそうに見ながら、桜樹 海はへたりそうな気分にげんなりと肩を落とした。
「なんでこんな事してんだか。ほんと嫌んなるな」
はぁ、と重い一息を吐く。ため息は海の癖の一つだ。
ことある事にため息を零していて、また、海の気分もため息によって落ちていた。それは海自身だけでなく、ため息を聞いてしまった見知らぬ人にも影響しているらしい。ため息を零した直後、海のすぐ横を通り過ぎて行ったOLに嫌な顔をされるということはそういうことだろう。
彼女は、海を暑苦しそうに見て、大きな舌打ちを漏らして足早に去っていった。
子供の頃に祖母から、ため息は幸せが逃げるという迷信を聞かされた記憶がある。だから、ため息をつくのはダメよ。と言われていたが、もう既に海は人生の殆どの幸せが逃げるくらいのため息をついていた。祖母から聞いたことはないが、まさか、ため息を聞いてしまった人も『ため息の呪い』の効果が出てしまうわけではないだろう。
なのに海のついたため息を聞いた途端、彼女は眉をひそめてしまった。お前のせいで今日一日が不幸になったらどうしてくれるんだとでも言いたげな顔で。彼女が今日一日不幸にあったら自分のせいになるのか。もし、そうなってしまっては申し訳ない。海は、彼女が歩いて行った先に向けて心の中で謝った。
ため息をつくのも嫌がられるこの世界はなんて生きづらいんだろうか。思わずため息をつきそうになって、海は慌てて口元を手で押えた。
「それにしても本当に暑いな。この時間に出てきたのが間違いだったか」
じりじりと太陽に焦がされているような感覚。拭っても拭っても汗は額を伝い落ちていった。これが顔面偏差値高いイケメンだったら、女性たちは頬を赤く染めるのだろうか。流れ落ちる汗を爽やかに腕で拭う姿にカッコイイと。
そこまで想像したところで、海はかぶりを振った。考えるだけ損だ。普通顔に生まれてきてしまった時点でそれは叶わない夢なのだから。
可愛いは作れる!ではなく、顔面は作れる!という時代だ。整形すれば多少は良くなると言うけれど、そうなるまでにどれだけのお金が必要になることやら。お金を出した後は手術の痛みに耐えなくてはいけない。それを全部我慢した上で得られる綺麗な顔面。
いや、無理だ。自分には無理だ。手術台であれやこれやをされるのを想像しただけで鳥肌が立って顔が青ざめていく。予防接種の注射でさえガタガタ震えながら受けるというのに、顔を良くするためにと、顔を切ったり縫ったりされるなんてとんでもない。
しかも、その後は術後の腫れにまで悩まされるのだ。考えただけで恐ろしい。いい、自分はこのままでいい。そんな怖い思いするくらいなら平凡顔でいい。
「と、とりあえず汗だけでも拭いておくか。電車乗るなら使っておかないと」
整形の恐ろしさに青ざめた顔のまま大通りから離れて、ビルとビルの隙間にある路地へと逃げ込んだ。
日陰に入れば太陽の暑苦しい陽射しから逃げられる。路地に入ったおかげで、人混みの熱気からも離れることが出来た。
ほっと一息をつきながら海は背負っていたリュックを地面へと下ろす。リュックで蒸れていた背中にささやかながらの風が吹く。それだけでもだいぶ心地よかった。チャックを開けて中から汗ふきシートを取り出す。残り少ない汗ふきシートは本と本の間に挟まれて潰れていた。幸い、シートの液は漏れてはいなかったが、次からは別の場所にしまわないとダメかもしれない。
「あー……涼しい……」
ひんやりタイプのシートでまず首元を拭う。風が吹くたびに首元がひやんりとして気持ちがいい。スーツを着込んでいるせいで、首元しか拭くことは出来ないが、首元だけでもこんなに涼しくなれるのだからこの汗ふきシートの効果はすごいと思う。これを作り出した人は天才だ。
汗ふきシート一つで幸せを感じている最中、どこからか人の声が聞こえた。別におかしなことでは無い。ここの路地を出れば、そこはまた人の往来のある場所。人の声なんていくらでもある。だが、今聞こえた声はそれとは少し違う。言うなれば。
「……助けて?」
悲痛な叫びに近かったと思う。あんな声色の助けては初めて耳にする。あれはガチめの助けてだ。どうしたらいいか逡巡し、海は地面に置いていたリュックを手にして声にした方へと歩き出した。
声的に女性だったような気がする。もしかしたら暴漢に襲われているのかもしれない。それなら早く助けてあげなければ、と思う反面、自分なんかで助けてあげられるのか。女性を逃がすことが出来たとしても、狙った女性を襲えなかった暴漢が海に対して腹いせで何かをしてくるかもしれない。
最近では自分の欲求の為だけに殺人を起こす人も少なからずいる。そんな荒れた世の中なのだ。
「一応見るだけ……もし覗いて見て俺だけじゃ無理そうなら通報しよう。今通報してるって声かければ逃げるかもしれないし」
逃げてくれれば女性も自分も助かる。海はいつでも通報出来るようにとスマホを手に持って、声のした路地裏へと一歩足を踏み入れた。
怖い思いをして泣いているであろう女性と、今にも襲いかかろうとしている暴漢をイメージしながら。
「……うん?」
路地裏へと顔を出してみたが、そこには暴漢も襲われているであろう女性もいなくて拍子抜けした。想像していた状況とは全く違う、静かな路地裏に海は呆然としていた。
緊張で高鳴っていた胸の鼓動も段々と落ち着いてくる。海は慌てて周りを見渡して見たが、ここの路地裏はそんなに広くはない。嫌がる女性を連れて逃げ隠れ出来るような場所など無いに等しい。それに、悲鳴が聞こえてからすぐに海は動き出した。逃げようとしていてもその姿を海に見られるはず。ならば彼女らはどこへ消えたというのか。
「もしかして俺の気のせいか? 風の音が悲鳴に聞こえたとか?」
それだとしたらとても恥ずかしい。空耳でこんな所まで慌てて来てしまった。誰かに見られていたりしたらもっと恥ずかしい。
「でもそれじゃ、あの助けてはなんだったんだ?」
悲鳴は空耳としても、はっきりと聞こえた助けてという単語。空耳というにはあまりにも鮮明だった。
「だ、誰かいますか……?」
とりあえずというように路地裏の奥へと声をかけた。
ここで帰ってもいいのだが、帰ったあとで事件になっていましたなんてシャレにならないだろう。一応、やるだけの事はやっておこう。
声をかけてみるも、当然のことながら返事など返ってくることはない。それでも海は何度か声をかけた。4度目にしてやはりここには誰もいなかったのかと胸を撫で下ろした。誰も襲われていないのであれば、それはそれでいい。
「俺も疲れてんのかな。あんな空耳聞くなんて。今日は早めに帰って寝よう」
連日の猛暑と寝不足が体調を悪くさせているのかもしれない。帰ったら水分を取り、なにか栄養のあるものでも食べよう。夏バテ気味で食欲が落ちているが、こんな事があった後では、食欲がないなんて言っていられない。無理にでも何か食べないと今度は倒れてしまうだろう。
本日何度目かの深いため息をこぼしてから海は踵を返す。
路地の出口へと歩き出そうとした瞬間、後ろから物音が聞こえた。だが、また空耳か風の音だろうと気にしなかった。
出口へとまた一歩踏み出した時、その物音は激しくなった。何かを壁に叩きつけているような音。先程、路地裏を見た時には何も無かった。壁に何かがぶつかるようなものも。
「まさか……!」
嫌な予感がしてすぐさま振り返る。路地裏へと再度戻ると、そこには女性がいた。否、女性の下半身が壁から生えていた。
「……は?」
ビルの壁から生えている下半身は忙しなく動き回っている。何度も何度も壁を蹴りつけては、痛そうに足を振っていた。
「まさかの壁尻をこんな所で見るなんて……」
壁尻。
普通に暮らしている分には聞くことの無い単語だ。同人誌やちょっとマニアックな性癖を持つ人との関わりがなければ聞くことの無いもの。海も壁尻をリアルで見るのは初めてだった。海がよく世話になっている漫画やアニメなら何度か見たことはあるが。
「って、そんな事言ってる場合じゃないか」
壁にはまっている女性は何とか抜け出そうともがいている。ということは、自分ではまったわけではない。誰かにはめられたのだろう。
いや、深い意味は無いけど。断じて二つの意味で言った訳では無いけど。
己の胸中でボケとツッコミを繰り返しながら、海は女性へと近づいた。
「大丈夫ですか!? 今、助けるので待ってください!」
相手を怯えさせないように声をかける。だが、その声は彼女に届いていないのか、海が近づいていもなお足をばたつかせていた。
その足を避けながら彼女を壁から引っこ抜こうと手を伸ばす。よく見れば、彼女は制服らしきものを着ているではないか。
スカートを履いているから女性なのだろうと思っていたが、まさか学生さんだったとは。未成年がこんな事に巻き込まれるなんて世も末だ。
「ほんとに、嫌なんなるなぁ」
相手に聞こえているかどうかは分からないが、一言謝罪をしてから彼女の腰へと手をそえた。
途端に彼女の足の動きが荒くなる。そりゃそうだろう。誰かに触られているなんて怖すぎる。何度も心の中でごめんね、ごめんねと繰り返しながら彼女をこちら側へと引っ張った。
そう。路地裏の方へと引っ張ったはずだった。なのに、海は彼女もろとも壁の方へと引っ張られた。引っ張られた後の記憶はない。ただ、その時思ったのは。
「俺に壁尻の趣味はない! 見る派なんだよ!!」
自分も壁尻の被害に合うのかと恐怖したことだった。
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