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第二章 N+捜査官
9. 告白
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綾乃の告白は支えていた物を一つ一つ取り出すような、そんな声から始まった。青砥の気付きは完全に綾乃を追い詰めてはいない。だが綾乃にとってそれはどうでもよいことだった。
「どんなに犯人を恨んでも娘が返ってくることはない。娘がいなくなるという空白は、私の人生を飲み込んで無にしました。一日中娘の遺骨の前に座り、心を動かすことも無く、時折頬や衣服が濡れることもありましたがそれが涙だという認識もない程、ただ息をしておりました。そんな私に愛想をつかして夫は去りましたが、それすら気にならなかった」
綾乃が声を絞り出すようにして言葉を紡いでいく。言葉たちが零れれば零れるほど、綾乃の呼吸は落ち着き、しっかりと太い声になった。
「そんな私がちゃんと生きなくてはと思ったのは娘が亡くなって1年が過ぎた頃でした」
その日、二階の娘の部屋で物音がしたような気がしたのです、と綾乃は目を細めた。その音の正体が娘ではないと分かっていながら、綾乃はその音の正体を確かめずにはいられなかった。すがるようにしてエレベーターに乗り二階で降りる。娘を失ってから初めて入る娘の部屋だった。
誰もいない空間、人の気配すらない。陽が燦々と降り注ぎ、娘が大事にしていた植物は枯れ果てていた。
「そこにあったのは娘がいないという事実と、かつては生きていたという事実でした」
その場所で綾乃はもう一度失望を味わった。物音の正体は娘ではないと知りながらも期待せずにはいられなかったからだ。
光を失ったまま、よろりとエレベーターに乗った時、綾乃はそれを発見した。壁と床の隅っこにあったのは娘が大事にしていたペンだ。ペンには以前書いたものを呼び出せるという機能がある。
「娘が亡くなってから、私は娘を思い出すことをやめていました。自分の中にある娘の記憶を消してしまおうと……そんなこと出来るはずもないのにね」
綾乃はそう言って悲しく笑う。
「だから、ペンの記録を呼び出したのはほんの気まぐれのようなもの。でも、そこには……っ……」
声を詰まらせて、息を大きく吸ってゆっくり吐いてから綾乃は言葉を続けた。
「なりたいもの、というタイトル。その下には、かんごふさん、緑さいばい士、ゆうえんちの人」
それは娘が将来になりたいと言っていた職業だった。
「あぁ、この子は生きたかったんだ。生きたかったんだ……と思いました」
それに気が付いた時、綾乃は初めて声を上げて泣いた。体の奥底から震えて、震えが振動となって叫びになり、悔しくて悔しくて床を叩いた。なぜあの時娘と手を繋がなかったのか、なぜ私が先に家を出なかったのか、買い物に行くことをやめていれば……。
「泣き喚いてもう涙が出なくなった時、思ったのです。ちゃんと生きようと。娘が失くしてしまった命を私はまだ持っている。それならば最後までちゃんと生きようと。こうして家政婦協会に登録して大黒寺様と出会ったのです」
綾乃がふと顔を上げ、庭を眺める。そよいだ風に花が揺れ、太陽の光が筋なって降り注いでいた。それはさながら地上から天への道筋のようで、見る者の心を柔らかくした。綾乃は庭を眺めたまま目を細めて話を続けた。
「大黒寺様にはとても良くしていただきました。仕事を始めたばかりで至らない私に怒ることも無く、誕生日にはプレゼントを下さり食事にお誘い頂いたこともあります。でも一つだけ、私にはどうしても引っ掛かってしまう言葉がありました」
黙って綾乃の話を聞いていた木島は何かを察したかのようだった。木島でなくても、樹にも想像がつく。綾乃の境遇を思えば、決して聞きたくはない言葉であろう。
「私は長く生き過ぎた、いつ死んでもいい、奥様は事あるごとにそうおっしゃいました。食遊会でも、お友達とのティータイムでも、毎回、何度も。そのくせ食事は健康に気を遣った一流食材ばかり。高額のクローン臓器維持費も毎年ちゃんと支払っている。矛盾する言葉と行動に私の心は次第にかき乱されるようになりました」
生きたかったのにそれが叶わなかった娘。お金があれば助かった命。それなのに、クローン臓器もあって健康にもお金を使えるこの人が、もう生きなくてもいいと言う。気にしない様にしようと思っても、離れた場所にいたとしても誰かとの会話をこの耳は拾ってしまう。
“もうすぐ誕生日ですね、大黒寺さん”
“えぇ、また歳をとってしまうわ。もういつ死んでもいいと思っているのに……。こう人生が長いと飽きちゃうわよねぇ”
繰り返し聞かされる言葉はまるで呪文のようだった。無かったことにしたくとも綾乃の中に積もっていくばかり。そんな時、行先を失った綾乃の心の中、真っ暗な暗闇にぼうっとその言葉が浮かび上がった。
『そんなに死にたいのならお前が殺してやればいい』
言葉は綾乃の中にすっと落ちた。そうだ、そうすればいいんだ。
あの言葉をもう聞きたくはなかった。娘の生きたかった気持ちを冒涜するようなあの言葉。
綾乃が青砥に顔を向けた時、誰もが次の言葉を想像していた。
「私が奥様を殺しました」
綾乃が言葉を言い終えた瞬間、木島が天を仰いだ。大きく見開いていた目を閉じると木島の頬を涙が伝う。リビングはしばしの間、沈黙に閉ざされていた。
「どんなに犯人を恨んでも娘が返ってくることはない。娘がいなくなるという空白は、私の人生を飲み込んで無にしました。一日中娘の遺骨の前に座り、心を動かすことも無く、時折頬や衣服が濡れることもありましたがそれが涙だという認識もない程、ただ息をしておりました。そんな私に愛想をつかして夫は去りましたが、それすら気にならなかった」
綾乃が声を絞り出すようにして言葉を紡いでいく。言葉たちが零れれば零れるほど、綾乃の呼吸は落ち着き、しっかりと太い声になった。
「そんな私がちゃんと生きなくてはと思ったのは娘が亡くなって1年が過ぎた頃でした」
その日、二階の娘の部屋で物音がしたような気がしたのです、と綾乃は目を細めた。その音の正体が娘ではないと分かっていながら、綾乃はその音の正体を確かめずにはいられなかった。すがるようにしてエレベーターに乗り二階で降りる。娘を失ってから初めて入る娘の部屋だった。
誰もいない空間、人の気配すらない。陽が燦々と降り注ぎ、娘が大事にしていた植物は枯れ果てていた。
「そこにあったのは娘がいないという事実と、かつては生きていたという事実でした」
その場所で綾乃はもう一度失望を味わった。物音の正体は娘ではないと知りながらも期待せずにはいられなかったからだ。
光を失ったまま、よろりとエレベーターに乗った時、綾乃はそれを発見した。壁と床の隅っこにあったのは娘が大事にしていたペンだ。ペンには以前書いたものを呼び出せるという機能がある。
「娘が亡くなってから、私は娘を思い出すことをやめていました。自分の中にある娘の記憶を消してしまおうと……そんなこと出来るはずもないのにね」
綾乃はそう言って悲しく笑う。
「だから、ペンの記録を呼び出したのはほんの気まぐれのようなもの。でも、そこには……っ……」
声を詰まらせて、息を大きく吸ってゆっくり吐いてから綾乃は言葉を続けた。
「なりたいもの、というタイトル。その下には、かんごふさん、緑さいばい士、ゆうえんちの人」
それは娘が将来になりたいと言っていた職業だった。
「あぁ、この子は生きたかったんだ。生きたかったんだ……と思いました」
それに気が付いた時、綾乃は初めて声を上げて泣いた。体の奥底から震えて、震えが振動となって叫びになり、悔しくて悔しくて床を叩いた。なぜあの時娘と手を繋がなかったのか、なぜ私が先に家を出なかったのか、買い物に行くことをやめていれば……。
「泣き喚いてもう涙が出なくなった時、思ったのです。ちゃんと生きようと。娘が失くしてしまった命を私はまだ持っている。それならば最後までちゃんと生きようと。こうして家政婦協会に登録して大黒寺様と出会ったのです」
綾乃がふと顔を上げ、庭を眺める。そよいだ風に花が揺れ、太陽の光が筋なって降り注いでいた。それはさながら地上から天への道筋のようで、見る者の心を柔らかくした。綾乃は庭を眺めたまま目を細めて話を続けた。
「大黒寺様にはとても良くしていただきました。仕事を始めたばかりで至らない私に怒ることも無く、誕生日にはプレゼントを下さり食事にお誘い頂いたこともあります。でも一つだけ、私にはどうしても引っ掛かってしまう言葉がありました」
黙って綾乃の話を聞いていた木島は何かを察したかのようだった。木島でなくても、樹にも想像がつく。綾乃の境遇を思えば、決して聞きたくはない言葉であろう。
「私は長く生き過ぎた、いつ死んでもいい、奥様は事あるごとにそうおっしゃいました。食遊会でも、お友達とのティータイムでも、毎回、何度も。そのくせ食事は健康に気を遣った一流食材ばかり。高額のクローン臓器維持費も毎年ちゃんと支払っている。矛盾する言葉と行動に私の心は次第にかき乱されるようになりました」
生きたかったのにそれが叶わなかった娘。お金があれば助かった命。それなのに、クローン臓器もあって健康にもお金を使えるこの人が、もう生きなくてもいいと言う。気にしない様にしようと思っても、離れた場所にいたとしても誰かとの会話をこの耳は拾ってしまう。
“もうすぐ誕生日ですね、大黒寺さん”
“えぇ、また歳をとってしまうわ。もういつ死んでもいいと思っているのに……。こう人生が長いと飽きちゃうわよねぇ”
繰り返し聞かされる言葉はまるで呪文のようだった。無かったことにしたくとも綾乃の中に積もっていくばかり。そんな時、行先を失った綾乃の心の中、真っ暗な暗闇にぼうっとその言葉が浮かび上がった。
『そんなに死にたいのならお前が殺してやればいい』
言葉は綾乃の中にすっと落ちた。そうだ、そうすればいいんだ。
あの言葉をもう聞きたくはなかった。娘の生きたかった気持ちを冒涜するようなあの言葉。
綾乃が青砥に顔を向けた時、誰もが次の言葉を想像していた。
「私が奥様を殺しました」
綾乃が言葉を言い終えた瞬間、木島が天を仰いだ。大きく見開いていた目を閉じると木島の頬を涙が伝う。リビングはしばしの間、沈黙に閉ざされていた。
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