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第一章 もう一つの世界
11. 夢
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「お邪魔していいですか」
「どうぞ」
結局、樹が青砥の部屋を訪ねたのは22時前だった。樹同様、青砥も風呂は終えたようで石鹸の良い香りがしている。何となく気まずさを覚えながら、何か話さなくてはと気を回していると青砥が先に口を開いた。
「義手出来たんだって?」
「うん、桂木さんが頑張ってくれて凄いやつ作ってくれた」
「で、装着してトレーニングしすぎて炎症を起こした、と」
「げ、なんで知って」
「食堂で山口さんに会って聞いた。それで薬を預かってきたんだ」
青砥は紫色のチューブを樹の目線まで上げて軽く振った。
「風呂入ってきたんだろ。塗ってやるよ。服脱いで」
「え、いえ、大丈夫です」
若干後退りをしながら手を振って拒否すると青砥の手が樹の腕をつかんだ。
「俺相手に恥ずかしがってんの?」
恥ずかしいかどうか。
それはそうだ。
お風呂でもなくトレーニングルームでもなく部屋にいる。こんな状況では人前で服を脱ぐことに慣れていない樹は恥ずかしい。だが青砥の「俺相手に」という言葉が樹に引っかかった。
「恥ずかしくない。脱ぎます、今、脱ぎますから」
樹が勢いよく服を脱ぎ捨てるのを見て青砥の口角が上がる。完全に面白がっているのだが当の樹はそれに気が付かず、ドーンと青砥の前に座った。
「さぁ、どうぞ」
薬を塗ってもらうのに、どうぞというのもおかしい。それに気が付かない程、樹は勢いに任せていた。青砥の左手が樹の腕を支え、右の人差し指が金属と腕の境目をゆっくりと辿る。
「痛いか?」
「大丈夫です」
乱暴にぺぺっと塗るだけかと思っていたが、青砥は樹が思っていたよりずっと優しい手つきで薬を塗った。ここもと言いながら青砥が移動して樹の鎖骨に触れる。
「ハーネスが擦れたんだろうな」
青砥の瞼が下がって俯き加減になると、樹はその視線から逃れたまま青砥を見ていた。目の鋭さが消えれば浮き上がるのは唇だ。この唇で彼女に愛を囁いたりするのだろうか。
愛……。
それは樹が無意識に一番求めているもので、一番不可解なものだ。
本来なら生まれてから、いや、生まれる前から両親から与えられるもので、なんとなくそこにあるものだったに違いない。薬を塗る指の優しい動きが妙な切なさを呼び起こして、樹は青砥を見つめ続けていた。
「傷、結構あるのな」
青砥の視線が動く。同時に樹が視線を反らすと、青砥の指が樹の体にあるいくつかの小さな傷に伸びるのを感じた。
樹はさっと立ち上がって服を掴んだ。
触られたくないよりも探られたくない。
「俺、結構ヤンチャな子供だったんで」
誤魔化せただろうか。不自然じゃなかっただろうか。背中を向けて服を着ているとガサガサと背後で袋を破る音が聞えた。
「ってペロンタ!」
「あ、うん。そろそろ摂取しないと。樹も食べるか?」
断りづらくて受け取ったペロンタは外国土産で貰うチョコレートのように甘くて、確かに一日の疲れを癒していくかのようだった。
23時。青砥に合わせて早い時間に布団に入った眠りの淵で、樹は古びたアパートにいた。まだ優愛が生まれるずっと前のことだ。
母親は男とお酒を飲んでおり、女をチラつかせて男にしなだれかかっていた。唐揚げのいい匂いがする。樹はお腹が鳴らない様に腹に力を入れ、両手でお腹を押さえるようにして部屋の隅にいた。
「ちょっと、ビール冷蔵庫から持ってきてよ」
樹は駆け足で冷蔵庫にビールを取りに行く。急いでビールを持っていけば母親が褒めてくれるかもしれない。
気持ちが焦っていた。
だから敷きっぱなしだった布団のことを忘れて、盛大に足をとられ近くの柱に頭から突っ込んだ。
ビールをママに届けなくちゃ。
瞼がゆっくりと落ちていく。なんか変だ。こわい。
「あたしのビール、落ちちゃったじゃんよー。さいあくー」
「ちょっと、コイツ、動かねぇよ。ヤバイんじゃね?」
「えー、いいよ別に。自業自得じゃん。これで死んでくれるならラッキー。面倒見なくていいし」
「ひでぇ女」
笑い声が部屋に響いていた。
「要らないんだよねー。なんで産んだんだろ」
要らない。
イラナイ。
必要とされない。
イラナイコ。
言葉は樹の中に深く沈んで樹の体も深く沈める。浮上することなんてできない。あらゆる負の感情が絡みついて体中の酸素を奪われたかのようだ。
苦しい。
苦しい。
助けて、優愛っ!
急にパッと視界が開けて樹は体を起こした。口を大きく開けて、ゼイゼイと肩で息をする。
「大丈夫、大丈夫だ。ここはアパートじゃない」
小さく呟きながら力み過ぎて震える体を樹は必死に抱えた。
「樹? どうした?」
青砥が動く気配がする。電気をつけようとしているのだと気が付いて、考えるよりも先に点けるなと叫んでいた。
「すみ……ません、でも、ほん、とに、大丈夫なんで」
自分の声が震えていることに樹は気が付いていたが自分ではどうする事も出来ない。このまま何事もなかったかのように青砥が寝てくれればいいとそればかり願っているのに、青砥は樹の布団までやってきて隣に座った。
「起こしてしまいました、よね? すみません、おれ」
「起きたというよりもまだ寝てなかったから」
うなされていた全てを青砥は知っているのだと思うと、樹はどうしたらよいか分からなくて口元だけで笑った。
樹を見ていた青砥の手がゆっくりと樹に触れる。そのままぎゅっと抱きしめられると、その温もりと窮屈さに樹の目がうるんだ。
自分より大きな体に抱きしめられるのは初めてだった。
「大丈夫だから」
青砥の声が音としてではなく体の内部を伝って振動で響く。
あたたかい……
このままずっとこうしていたい。
ゆるゆると目が閉じ始めると、樹を覚醒へと導く感覚が内に生まれた。
義手製作所の帰り、ムカデの中で感じた青砥の温もりだ。
俺、何して……。
抱きしめられているという状況に落ち着かなくなって身じろぎする。
「お前が必要かといわれたら今はそうでもないんだけど、樹がいる生活は結構楽しいと俺は思っているよ」
「……必要かといわれたらそうでもないって酷くないですか?」
青砥の体を押すと、くっつきすぎていた部分が離れて至近距離になった。そうかな? と言いながら青砥が笑う。つられて樹も笑うと青砥の顔がそのままゆっくりと近づいてきた。
青砥の唇の直線状には樹の唇がある。
え?
樹の頭が真っ白になった瞬間、青砥の唇は樹に触れることなく離れていった。
「悪い。流された」
はっ?
固まった樹を置いてふらっと自分のベッドに戻っていく青砥の背中を、樹はただ見つめていた。
「どうぞ」
結局、樹が青砥の部屋を訪ねたのは22時前だった。樹同様、青砥も風呂は終えたようで石鹸の良い香りがしている。何となく気まずさを覚えながら、何か話さなくてはと気を回していると青砥が先に口を開いた。
「義手出来たんだって?」
「うん、桂木さんが頑張ってくれて凄いやつ作ってくれた」
「で、装着してトレーニングしすぎて炎症を起こした、と」
「げ、なんで知って」
「食堂で山口さんに会って聞いた。それで薬を預かってきたんだ」
青砥は紫色のチューブを樹の目線まで上げて軽く振った。
「風呂入ってきたんだろ。塗ってやるよ。服脱いで」
「え、いえ、大丈夫です」
若干後退りをしながら手を振って拒否すると青砥の手が樹の腕をつかんだ。
「俺相手に恥ずかしがってんの?」
恥ずかしいかどうか。
それはそうだ。
お風呂でもなくトレーニングルームでもなく部屋にいる。こんな状況では人前で服を脱ぐことに慣れていない樹は恥ずかしい。だが青砥の「俺相手に」という言葉が樹に引っかかった。
「恥ずかしくない。脱ぎます、今、脱ぎますから」
樹が勢いよく服を脱ぎ捨てるのを見て青砥の口角が上がる。完全に面白がっているのだが当の樹はそれに気が付かず、ドーンと青砥の前に座った。
「さぁ、どうぞ」
薬を塗ってもらうのに、どうぞというのもおかしい。それに気が付かない程、樹は勢いに任せていた。青砥の左手が樹の腕を支え、右の人差し指が金属と腕の境目をゆっくりと辿る。
「痛いか?」
「大丈夫です」
乱暴にぺぺっと塗るだけかと思っていたが、青砥は樹が思っていたよりずっと優しい手つきで薬を塗った。ここもと言いながら青砥が移動して樹の鎖骨に触れる。
「ハーネスが擦れたんだろうな」
青砥の瞼が下がって俯き加減になると、樹はその視線から逃れたまま青砥を見ていた。目の鋭さが消えれば浮き上がるのは唇だ。この唇で彼女に愛を囁いたりするのだろうか。
愛……。
それは樹が無意識に一番求めているもので、一番不可解なものだ。
本来なら生まれてから、いや、生まれる前から両親から与えられるもので、なんとなくそこにあるものだったに違いない。薬を塗る指の優しい動きが妙な切なさを呼び起こして、樹は青砥を見つめ続けていた。
「傷、結構あるのな」
青砥の視線が動く。同時に樹が視線を反らすと、青砥の指が樹の体にあるいくつかの小さな傷に伸びるのを感じた。
樹はさっと立ち上がって服を掴んだ。
触られたくないよりも探られたくない。
「俺、結構ヤンチャな子供だったんで」
誤魔化せただろうか。不自然じゃなかっただろうか。背中を向けて服を着ているとガサガサと背後で袋を破る音が聞えた。
「ってペロンタ!」
「あ、うん。そろそろ摂取しないと。樹も食べるか?」
断りづらくて受け取ったペロンタは外国土産で貰うチョコレートのように甘くて、確かに一日の疲れを癒していくかのようだった。
23時。青砥に合わせて早い時間に布団に入った眠りの淵で、樹は古びたアパートにいた。まだ優愛が生まれるずっと前のことだ。
母親は男とお酒を飲んでおり、女をチラつかせて男にしなだれかかっていた。唐揚げのいい匂いがする。樹はお腹が鳴らない様に腹に力を入れ、両手でお腹を押さえるようにして部屋の隅にいた。
「ちょっと、ビール冷蔵庫から持ってきてよ」
樹は駆け足で冷蔵庫にビールを取りに行く。急いでビールを持っていけば母親が褒めてくれるかもしれない。
気持ちが焦っていた。
だから敷きっぱなしだった布団のことを忘れて、盛大に足をとられ近くの柱に頭から突っ込んだ。
ビールをママに届けなくちゃ。
瞼がゆっくりと落ちていく。なんか変だ。こわい。
「あたしのビール、落ちちゃったじゃんよー。さいあくー」
「ちょっと、コイツ、動かねぇよ。ヤバイんじゃね?」
「えー、いいよ別に。自業自得じゃん。これで死んでくれるならラッキー。面倒見なくていいし」
「ひでぇ女」
笑い声が部屋に響いていた。
「要らないんだよねー。なんで産んだんだろ」
要らない。
イラナイ。
必要とされない。
イラナイコ。
言葉は樹の中に深く沈んで樹の体も深く沈める。浮上することなんてできない。あらゆる負の感情が絡みついて体中の酸素を奪われたかのようだ。
苦しい。
苦しい。
助けて、優愛っ!
急にパッと視界が開けて樹は体を起こした。口を大きく開けて、ゼイゼイと肩で息をする。
「大丈夫、大丈夫だ。ここはアパートじゃない」
小さく呟きながら力み過ぎて震える体を樹は必死に抱えた。
「樹? どうした?」
青砥が動く気配がする。電気をつけようとしているのだと気が付いて、考えるよりも先に点けるなと叫んでいた。
「すみ……ません、でも、ほん、とに、大丈夫なんで」
自分の声が震えていることに樹は気が付いていたが自分ではどうする事も出来ない。このまま何事もなかったかのように青砥が寝てくれればいいとそればかり願っているのに、青砥は樹の布団までやってきて隣に座った。
「起こしてしまいました、よね? すみません、おれ」
「起きたというよりもまだ寝てなかったから」
うなされていた全てを青砥は知っているのだと思うと、樹はどうしたらよいか分からなくて口元だけで笑った。
樹を見ていた青砥の手がゆっくりと樹に触れる。そのままぎゅっと抱きしめられると、その温もりと窮屈さに樹の目がうるんだ。
自分より大きな体に抱きしめられるのは初めてだった。
「大丈夫だから」
青砥の声が音としてではなく体の内部を伝って振動で響く。
あたたかい……
このままずっとこうしていたい。
ゆるゆると目が閉じ始めると、樹を覚醒へと導く感覚が内に生まれた。
義手製作所の帰り、ムカデの中で感じた青砥の温もりだ。
俺、何して……。
抱きしめられているという状況に落ち着かなくなって身じろぎする。
「お前が必要かといわれたら今はそうでもないんだけど、樹がいる生活は結構楽しいと俺は思っているよ」
「……必要かといわれたらそうでもないって酷くないですか?」
青砥の体を押すと、くっつきすぎていた部分が離れて至近距離になった。そうかな? と言いながら青砥が笑う。つられて樹も笑うと青砥の顔がそのままゆっくりと近づいてきた。
青砥の唇の直線状には樹の唇がある。
え?
樹の頭が真っ白になった瞬間、青砥の唇は樹に触れることなく離れていった。
「悪い。流された」
はっ?
固まった樹を置いてふらっと自分のベッドに戻っていく青砥の背中を、樹はただ見つめていた。
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