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第三章 蝶よ花よ

ニイナ社長は転生できませんでした 09

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 ニイナは起き上がれなかった。手の中に落ちてきたオニキスを握り締め、布団にくるまって咽び泣いている。
 どうして、どうしてこんなことになったんだ。実の娘に殺されるなど。それほどのことを俺がしてきたというのか。それほどだったのか……?
 二人の娘にルリとアオイと名付けたニイナは、娘たちを名前の通り蝶よ花よと育ててきたつもりだった。自分の目が届く範囲で、何も不安も不満も無い、女として安定した幸せな人生を送らせてやるつもりだったのだ。
 それなのに、長女のルリはあっという間に自分の元を離れ、理想通り育ったと思っていた次女のアオイには怒濤の勢いで批判され、挙げ句の果てには花瓶で殴り殺された。一度だけでは無い。何度も何度も花瓶は振り下ろされたのだ。ニイナの視界が真っ赤に染まり、手も足も動かせなくなるまで、何度も。
 それほどに憎まれていたのか? 恨まれていたのか。実の娘に。それほどまでに……。
 そのとき、ベッドの端に置かれたスマートフォンがブルブルと震えた。アラームでは無い。着信だ。
 恐る恐るそれを手に取ると、妻の名前が表示されている。六回目で初めて、こんな早朝に、妻からの電話があった。
「……モリエ、モリエなのか!?」
「あなた……いえ、クラタカさん、お久しぶりです。朝早くに、すみません」
「いや、いいんだ。今どこに……ああ、何から、話せば……」
「クラタカさん、おかしなことを聞くかもしれませんが、あなたの周りで不思議なことが起きていませんか」
「あ、ああ? な、何だって」
「例えば、同じ一日を何度もループしてやり直している……とか」


第三章 蝶よ花よ


「どうして……それを知っているんだ!? やっぱりお前が何か関与しているんだな!? あのブレスレットは何なんだ!?」
「ブレスレット? 何のことですか」
「お前が新婚当時に俺にくれた、オニキスのブレスレットだ!」
「あれを今、使っているんですか? 贈ったときは興味無さそうにして、すぐにクローゼットの中にしまったのに」
「そ、それは。お前が出て行った後、探しものをしているときに見つけたから、その……」
「急に身につける気になったってことですか。そうですか、それで……」
 電話の向こうでモリエが考え込んでいる。ニイナはモリエが知っている情報を早く引き出したくて急かした。
「頼む、何か知っているなら教えてくれ。もう六回目なんだ! 死んではまた同じ一日をやり直している。気が狂いそうだ……!」
「つまりクラタカさんは、五回も死んでいるんですか?」
 純粋な驚きの声が上がる。
「どうして?」
 ニイナはしどろもどろではあったが、今まで自分の身に起きたことを伝えた。モリエは驚きながら相づちを打っていたが、やがてニイナが話し終えると、長く深呼吸をする。
「クラタカさん。私もあなたと同じように、一日をループしています。でも、そのタイミングが毎回突然やって来るから、何が原因なのか分からなかった。きっかけとなっていたのは、あなたが死ぬことだったのね……」
「お前も繰り返していたのか? 俺と同じタイミングで……?」
「あのブレスレットは、私の母が作ったものです。母は私が高校生だったころに病気で亡くなりましたが、入院中にあのオニキスのブレスレットを作ってくれていたんです。将来結婚する相手の方に渡しなさいって……。母は不思議なちからがある人で、時々未来のことを見てきたように話すことがありました。今から思うと、母は私が結婚相手と上手くいかないことも、分かっていたのかもしれない……」
「君の母親がそんな人だなんて、初めて聞いたが……!?」
「いえ、何回か話しましたよ。あなたは最初からオカルト臭いって馬鹿にして、まともに聞いていませんでしたけど」
「そ、そうだったか」
「そうですよ」
 声の響きに、どこかひんやりとした冷たさがある。ニイナは手の中のオニキスを見つめ、必死に離れていった妻に縋った。
「とにかく、話したとおりなんだ。助けてくれ。何もしなければサクマの妻が俺を殺しに来るし、アオイも死ぬ。それに、アオイも俺をまた……殺そうとするのかもしれない。お前から、何か言ってやってくれ」
「そうですね。……貴方が死ぬと、いつも朝の四時に戻るんですね?」
「ああ、そうだ。何十年も前に戻るならともかく、たった一日だ。たった一日戻っただけじゃ、どうにもならない!」
 会社の人間関係も、親子関係も、たった一日で何をどう変えられるというのだろう。
 サクマもイツホもアリマチもアオイも、ずっとずっと昔から、ニイナに思うことがあったのだ。
 その歪みが今日爆発したとして、たった一日やり直して全てを上手く解消出来るはずが無い。
「クラタカさん。大きな声を出さずに、聞いて下さいね」
「あ、ああ、なんだ?」
「アオイと話をしなくてはいけないのは、あなたです。私は今、東京のルリのところにいますから、午前中の新幹線に乗ることにします。三人で話しましょう。そうしたらクラタカさん、離婚届にサインして頂けますか? まだテーブルの上に置いたままでしょう」
「……っ」
 ニイナは息を呑んだ。ここで完全に、縁を断ち切るつもりなのだ。
「モリエ。……どうか、俺にやり直すチャンスをくれないか。きっと、生まれ変わる。心を入れ替えて、いい男に、いい夫に、いい父親に、生まれ変わってみせるから……っ!」
「いいえ、生まれ変わることなんて出来ないわ」
 モリエは静かに言い切った。
「人は今までの自分の言動を足跡にして生きていくことしか出来ない。ある日突然まったく違う別の自分になることなんて出来ないし、今まで持っていた性質を手放すことも出来ない。逆に今まで持っていなかった能力を急に身につけることも、出来ないのよ」
「男の俺が、頭を下げているんだぞ!?」
「ほらね。あなたは何も変わってはいない」
「……感情的になることは誰だってある!」
「そうね。でもあなたと話し合いが出来たこと、もう何十年も無いわ。娘や家のこと、会社の今後のことで話がしたくても、いつもあなたが一方的に怒鳴って終わり。私が食い下がったり反論したりすると、本を投げつけてきたこともあったし」
「そ、そんなこと、覚えてない」
「そうね。あなたっていつも、都合の悪いことは忘れちゃう」
 哀しげな声がスマートフォン越しに響く。どこかアリマチを思い出す声音。
「ループの原因は分かりました。今回で終わりにしましょう。この一日も、あなたと私の、夫婦生活も」
 モリエの言葉は、どこまでも無慈悲だった。
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