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第二章 ナシマチ アキラ

ニイナ社長は転生できませんでした 07

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「……お久しぶりです。その節は、どうも」
 かつての義理の息子であり、部下でもあったその男は、静かに頭を下げた。
 顔を上げると、胸元のポケットから落ちそうだったのか、そこに入っていた無骨な形のペンを押し込める。
 アリマチはニイナよりは背が低いが、体格の良い男だった。眼鏡をかけており姿勢が良く、知的で清潔感があるビジュアルをしている。
 ニイナの後継として働いていたときに常に目の下に作られていた隈も今は無く、ニイナに向ける眼差しも冷静で、それがニイナを逆に苛立たせた。俺はお前のせいで、こんなにも悲惨な目に遭っているというのに。
「お……!」
「今日のこと、アオイさんから聞いていたんですか?」
「あ、アオイ?」
 怒鳴ろうとしたところを先手を取られて、ニイナが戸惑う。
「今日、アオイさんから家に来るように言われていたんです。サユリの誕生日パーティをやり直すって」
「アオイ? サユリの誕生日パーティ……? 何のことだ。今朝アオイに電話したときは、きみと会う予定は無いと言っていたぞ」
「じゃあ、アオイさんの独断ですか。先週俺のところに来たのも」
「先週……きみは今、どこで暮らしているんだ」
「Y市です。古くからの友人がカフェを経営しているので、そこで働かせてもらってます」
 ETCを使ったのは娘のアオイで確定した。別れた夫に会い行く為に、高速道路を使ったのだ。
「改めてお伺いしますが、先週アオイさんが俺を訪ねて来たことに、社長は関与していないんですね?」
「あ、ああ。初耳だ」
「今度の週末にはサユリと二人で会う約束を元々していましたし、誕生日はそのときに祝うつもりでした。でもアオイさんが突然店にやって来て、当日に娘の誕生日を祝わなかったくせに、何故他の女にヘラヘラ笑っていられるのかと怒鳴り散らして」
「な……アオイがそんなことをするわけないだろう!」
「店の監視カメラに映像が残っていますよ。お見せしましょうか? 俺はもう突然店に来るのも、お客さんの前で大声を出すのも止めてほしいと伝えに来たんです。厚意で俺を雇ってくれている友人にも、迷惑がかかりますし……」
 ニイナは愕然としていた。娘のアオイは確かに突然泣き出したりする気分屋なところはあったが、基本的には父に従順で大人しく、男を立てる女に育ったと思っていたのだ。
 それが別れた夫の職場に乗り込み、怒鳴り散らしたとは。
「約束の時間より早く行くと誤解させてしまいそうなので、俺は時間を潰してから行きます。社長はこれからアオイさんのところに?」
「あ、ああ……」
「俺のことで、お騒がせしてしまったことは申し訳ございませんでした。でも、あのときの行動は間違っていなかったと、今でも思っています」
「お前が急にいなくなったことで、どれだけ会社に迷惑がかかったと思っているんだ!?」
「そうですね。俺もそう考えていたから、ただ耐えるしかないと思って……思い詰めて、頭がおかしくなりそうでした。俺は会社の報連相が上手くいかない環境を変えたかったし、若手が次々離職していく現状を改善したかった。でも、俺が他の人と話し合ってまとめた提案書はろくに目を通されることも無く、全て社長に否定されて終わりでした。余計なことをするな、俺のやり方に文句があるのかと二時間怒鳴られたことは今でも忘れていませんよ」
 言われてニイナは、わずかに思い出した。アリマチがいなくなる数ヶ月前に提案書を出されたこと。社内環境を変えたい、新人教育を見直したいと言われ、一から会社を立ち上げて今までやって来た自分のやり方を批判されたようで、頭に血が上ったことを。
「会社では貴方に、お前なんて脳みそナシマチでじゅうぶんだと詰られて、家に帰ってからもアオイさんにどうしてお父さんの機嫌を上手に取らないのかと詰められて、夢にまで貴方が出てくるんです。会社にも家にも居たくなくて、帰りの車の中で咽び泣いたことも何度もありました。あのまま会社に、あの家にいたら、俺はサユリのことまで愛せなくなりそうだった」
「ナ、ナシマチなんて、ただの……冗談だろう、ただ俺は、お前にもっと、しっかりしてほしくてだな」
「俺のためだったって言うんですね。貴方たち親子は本当にそっくりだ。俺がこれが辛い、こういうことを言われたくないと口にすれば、貴方のためにやっているのにって、より責め立ててくる。貴方たち親子はただ毎日、俺の今までの人生や人格を侮辱し続けていたのに」
「それはお前の考えすぎだろう……! ただの気にしすぎだ! どいつもこいつも、ちょっとしたことで大げさに! お前がだた弱いから、悪い方へ悪い方へ受け取っていただけだ!」
「そうですね。俺もずっと、俺が弱いから、俺が頭が悪くてお義父さんの期待に応えられてないからだって、ずっと考えていました。だから……最悪の結末になる前に、逃げ出して良かったって思います」
 アリマチは晴れ晴れとした、それでいて少し寂しいような顔をしていた。
「貴方から離れた生活は、一気に心が軽くなりました。多くのものを手放したけれど……もう前の生活には戻りたくありません。俺だって、普通に仲の良い家庭を築きたかったし、サユリの前では愛し合う両親でいたかったけれど、貴方の支配下ではそれも出来なかったから」
「支配下!? いい大人の男が、何を言っているんだ。本当に、大げさな」
「そうですね。貴方はきっとそう言うだろうなと思いました。アオイさんも、貴方から逃げられたら良かったのに」
「アオイが!? どうして娘が父親から逃げる必要があるんだ!」
「でも、お義母さ……モリエさんは逃げることを選びましたよね」
 どうしてそれを知っているのかと、ニイナは驚愕する。モリエがイツホにそうしたように、アリマチの前にも現れたのだろうか。
「社長。会社には今、二十代の若手がいませんよね。俺が辞めた後、会社の将来に失望して次々辞めていったはずです。二十代で残っているのは事務のタケナガさんくらいでは? アルバイトはともかく、内勤者には一人もいない。新たに採用しても数年で辞めてしまう。最近ではアルバイトさえすぐに辞めていくんじゃないですか?」
「な、な……」
「今の時代、若い人ほど貴方のような人からは離れていく。会社に残っているのはもう行き場の無い老人たちだけだ。その人たちも、会社の中で極力貴方と関わらないようにしているでしょう? 貴方のように自分の感情のコントロールが出来ない人は、これからますます敬遠されていくと思います。貴方は俺がいなくなっても、モリエさんがいなくなっても、結局変わらなかったようだから……」

 アリマチは頭を下げて、ニイナとイツホが話していたコーヒーチェーン店へと入っていった。
 めまいのする頭で歩道橋の階段を上り、前回自分が死んだ場所で立ち尽くす。
 周囲には、誰も居ない。歩道橋を下りた先に、アオイの姿も無い。

 孤独な老人が、震える指で手すりを必死に掴み、一歩一歩、階段を下りていく。
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