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第一章 ヌケサク夫妻
ニイナ社長は転生できませんでした 01
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※この作品には暴言・暴力・死の描写がありますのでご注意下さい
カン!と額に何かがぶつかり、ニイナは痛みで目を覚ました。
いつも通り自宅の寝室、ベッドで寝ていただけだというのに、何かが落ちてきたのだ。
一体何が、と体を起こして周囲を見渡すと、枕元に小さな黒い玉が落ちていた。
指で摘まんで拾い上げれば、妻から貰ったパワーストーンの一部だと気づく。元はブレスレットだったものが、千切れて散らばってしまったのだ。
「そうだ、千切れて……?」
いつ千切れたのだろうか。千切れた瞬間を見た筈なのだが思い出せない。
ブレスレットを入れて保管していたベロア調の巾着袋が確かクローゼットの引き出しにしまってあった筈で、それを取りに行く為にベッドを下りた。
ちらりとベッドサイドのデジタル時計を見ると、日付は4月17日、時刻は朝の四時となっている。
巾着袋は確かにあったが、ブレスレットを形成していた筈の他の黒い玉は見当たらない。ベッドの上にも床にも落ちてはいない。額に落ちてきた一粒だけだ。
「……?」
そもそも何故、上から落ちてきたのか。早朝から不可解な出来事に見舞われて、ふつふつと怒りが沸いてくる。
勢いよく寝室のドアを開いて洗面所に向かおうとして、妻の寝室の前で立ち止まった。しばらく佇んでみたが、何の物音もしない。静かなものだ。
洗面所で顔を洗い、口をゆすいで、トイレで用を足し、リビングのポットで湯を沸かす。
リビングにあるリモートワーク用のデスクに座りノートパソコンを開くと、会社の監視カメラの画面を開いた。朝の四時だが、事務所には夜勤の者が二名勤務している。
ニイナは約三十年前に清掃会社を立ち上げており、今も現役で社長を勤めている。
六十五歳という年齢になっても創業当時のエネルギッシュさを無くさず、元よりの長身と学生時代の柔道部で培った体力、そして剛毅な性格で今では従業員数三百人を超えた会社をまとめ上げていた。
今日も素早くメールをチェックし、シフト管理を担当している夜勤の者がコーヒーを片手に談笑しているのを社内監視カメラの映像で把握すると、すぐさま会社へ電話をかける。会社の固定電話には登録されている番号ならば使用者の名前が出るので、すぐに自分からの電話だと判ったのだろう。一人が慌てて受話器を取った。
「何を呑気にコーヒーなんか飲んでるんだ!? お前は清掃会社の人間だぞ! 暇があるなら事務所の掃除をしろ! 給料分働け!!」
相手が名乗るのも待たずに怒鳴りつけると、そのまま通話を切る。監視カメラの映像も切ると、目覚めが悪かったことの怒りが多少収まったような気分になる。
丁度ポットの湯が沸いたので、インスタント味噌汁のカップに注ぐ。ゴミ箱に不要になったインスタントの外袋を入れようと蓋を開けると、昨日食べた甘すぎるプリンの容器があった。
フンと鼻を鳴らして、今度は冷蔵庫を開ける。昨日ラップに巻いて入れておいたご飯の残りを温めて、海苔を巻いてモソモソと食べる。四時の朝食は静かだった。
ニイナの目覚めは早いが、出勤自体は十時過ぎだ。ニイナは仕事とプライベートの境界線が曖昧なので、メールの返事や取引先社長への電話、売り上げやシフトの確認など、家でも出来ることはあらかた片付けてから会社に向かう。
ニイナが経営するニイナホワイトクリーン株式会社は従業員の総数こそ三百人を超えているが、ほとんどがホテルや商業施設といった現場の清掃員なので、事務所に常時勤務しているのは事務方や営業、シフト管理に従事する二十名ほど。
管理業務は日勤夜勤の交代制で、今朝自分が怒鳴りつけた夜勤の人間にニイナが直接会うことはほとんど無い。
オフィスビルの八階にある事務所のドアを開くと、短い通路があり、右手側にはパーテーションを挟んで社員達のデスクがある。左側にはちょっとした応接スペースと、社長室へ続くドア。
ニイナが歩くと、中にいた従業員達が一斉におはようございますと挨拶をする。ニイナは無言で廊下を進み、パーテーションを抜けて、部長のデスクへと向かった。
「サクマはどうした?」
「部長はいま会議室で面談中です。退職の相談に来られている方がいるので」
席が近い女性事務員のタケナガが素早く答えた。ピリピリした空気が事務所に漂い、周囲にいる中年の男性社員たちはそれとなくニイナから目線を外している。
「昨日渡した書類がそのままだぞ!? もう俺がやった方が早い!」
サクマ部長のデスクに積み上げられていた書類を荒し、必要なものだけ手にして社長室に向かう。
社長室と事務所の境には大きな窓があり、そこからは下の道路と並木道がよく見える。行き交う車を見下ろし、フッと息を吐いてから、ドアを勢いよく開けた。
「ヌケサクが戻ってきたら、俺が呼んでいたと伝えておけ!」
「あ、はい。あの……」
「なんだ!?」
「いえ、何でも無いです。すみません」
タケナガが目線を逸らしたのを見て、バンッと大きな音を立ててドアを閉じる。
ドアの向こうで小さなざわめきが波打っているのが分かる。あいつらは俺がいないとよく喋るなと、ニイナは苛立ちとともに社長椅子に深く腰掛けた。
社長デスクのノートパソコンを起動させ、また監視カメラの画面を開く。今度は会議室の映像だ。
広い室内に置かれた長テーブルに、男二人が向き合って座っている。片方は若いがひょろりとした猫背の男で、もう一人は熊のように体格がよく、頭頂部の薄い中年の男。後者が部長のサクマである。
退職を願い出したという猫背の男に見覚えは無く、恐らくアルバイトだろうと予想する。最近の若い人間は金をかけて採用してもすぐに辞めるので、求人誌や転職サイトに使っている費用が無駄になるばかりだ。
ニイナは二十代の頃に田舎を飛び出し都会に出て、大手清掃会社にアルバイトとして入った。景気も良く懸命に働けば評価される時代だったのでわりとすぐに正社員になり、アルバイトの後輩だったサクマのことを正社員に推薦し、仕事終わりはよく二人で飲みに行くようになった。
やがてニイナは独立を決意し、サクマを片腕にすることにした。それからたった二人で始めた会社、ニイナホワイトクリーンは少しずつ従業員を増やし、事務所を移転し、今ではこの地域でそれなりに大きな清掃会社となった。しかし自分も年を取ったが、年下のサクマのほうが衰えは酷く、年々精彩を欠いている。
剣道で鍛えていたはずの体は脂肪の塊となり、頭髪も無惨なもの。何より顔だ。最近では目元のたるみが酷く、頬も垂れ下がっている。
そして判断の遅さは目に余るものがある。昨日渡しておいた書類は白紙で、他の仕事も溜め込んでいるだろうに、退職希望者との話し合いは一向に終わらない。元より話は長いほうだったが、引き留めようとでもしているのか、ニイナには無駄に時間を使っているようにしか思えない。
苛々しながら画面を見つめていると、やがて猫背の男が立ち上がり頭を下げ、そそくさと会議室を出て行った。サクマも立ち上がり、のそのそとテーブルの上の書類をまとめると、電気を消して会議室を出る。
足元のゴミ箱を蹴りつけながら書類を記入し待っていると、ようやく社長室のドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
「失礼します。社長、お呼びでしょうか」
ニイナも立ち上がり、ソファの方へと移動する。テーブルを挟んで向かい合って座れば、サクマとも目線が合わない。
「退職希望者との面談か?」
「はい、先月入ったアルバイトの子です。商業施設のチームに入れていたんですが、チームリーダーからキツイことを言われるのが耐えられないと……」
「それだけのことで!? なってないな、全く」
「毎日ちょっとしたことで思い切り怒鳴られるそうで」
「だからなんだ!?」
問題の商業施設のチームリーダーは、元はアルバイトで入ってきた男だった。当初は一週間で辞めたいと言い出したのをニイナが直々に叱咤して立ち直させた経緯があり、今では正社員として現場のリーダーを任せている。彼にはニイナが指導した内容をよく守っているという信頼があった。
「退職日が決まっているなら制服の回収を忘れるなよ! それより、この書類の話だ」
「あ、ああ、それは……」
「一定期間出勤が無いアルバイトの追跡調査報告書だな? 昨日俺がまとめておけと言って渡したな? 何故やっていない?」
「すみません、昨日は遅くまで、この退職者の件でチームリーダーにも話を聞いており……」
「話が長いのが原因じゃないのか!? 素早く要点を聞き出して、早く報告書にまとめて終わらせろ! そんなだから仕事一つがいつまで経っても終わらないんだ! このヌケサクが!!」
「申し訳ありません」
「俺はお前が憎くてこんなことを言っているんじゃないぞ! お前のためを思って、愛があって言っているんだからな!!」
「はい、その通りです。申し訳ありません」
俯いて謝罪の言葉を繰り返され、ニイナは深々とため息をつく。
「もういい。今日は新規の取引先と打ち合わせがあったな? 一人で行くのか?」
「いえ、本来はアリマチくんの案件でしたので、代わりの者を連れて行こうかと」
「ああ……そうだな」
不意に忘れていた男の名前を出され、ニイナが苦々しい顔つきになる。
「約束の時間に遅れないように、早く行けよ」
「はい、失礼致します」
サクマが立ち上がると、でっぷりとした腹の脂肪が揺れるのが見えた。自分もサクマほどではないとはいえ、年を取って腹がだんだん出てくるようになってしまったので、筋トレを増やそうと決意する。足腰を鍛えておいたほうがいい、と脳裏に警告のようなものが過ぎった。
「警告……。警告?」
ふと頭に浮かんだ不穏な言葉に、ニイナは首をかしげた。何となくズボンのポケットに手を入れると、中には手触りのいい巾着袋が入っている。巾着袋の中身は黒いパワーストーン一粒だけだ。
急に社長室のドアの向こうから大きな声が響いてきた。こそこそとした話し声ではなく、誰かが大きな声で喋っている。
飛び込みのセールスでも来たのだろうかと思い、怒鳴って追い払ってやろうとドアを開けると、そこにいたのは小柄な老婦人だった。その向こうで、事務のタケナガが引きつった顔をしている。
「? なんだ……?」
まじまじと老婦人を見つめると、向こうもドアが開いたことに気づいてニイナと目を合わせた。老婦人は肩から提げたトートバックの紐をぎゅっと握り締めている。その目が異様に見開かれ、ひび割れた唇がぱくぱくと何度か開く。
やつれた顔、目元には隈、艶のない白髪混じりの乾いた髪。どこかで見たことがある――と思い出そうとして、ニイナはようやく、その老婦人の右手に包丁が握られていることに気づいた。
「……お前のせいだ」
声と同時に、見開かれた目から、ぶわっと涙が溢れてくる。
「お前の、お前のせいだ!!」
「な、なん……!?」
「社長、逃げて下さい!」
タケナガが叫んでいる。ニイナは自分に向かって突進してくる老女の手首を掴み、包丁を落とそうとしたが、唐突にこの不審者が誰なのかを思い出した。
サクマの妻だ。最後に会ったときよりだいぶ年老いていたから、一瞬判らなかった。
枯れ木のように細い手首を握り締めると折れてしまいそうで、よく見るとあちこちに痛々しい痣がある。下手に突き飛ばすことも出来ず、揉み合うかたちになってしまった。
……そうだ。ブレスレットはこの時に千切れた。黒いパワーストーンが床に落ちて、散らばったのを俺は見た。
突然そんな記憶が蘇ってくる。脳みそが切断されるような頭痛がして、ニイナはサクマの妻から手を離し、よろめいて後退した。その隙に彼女は包丁を持ち直し、再度ニイナに向かってくる。
ああ、そうだ。これは二度目の光景だ。
包丁が腹に突き刺さる。頭痛よりももっと酷い痛みが訪れる。そして――。
――カンッ!!
額に何かがぶつかり、ニイナは痛みで目を覚ました。いつも通り自宅の寝室、ベッドで寝ていただけだというのに、何かが落ちてきたのだ。
体を起こして周囲を見渡すと、枕元に小さな黒い玉が落ちていた。妻から貰ったパワーストーンの一部。
ベッドサイドに置かれたデジタル時計は4月17日の午前四時を表示していた。
……そうだ、これは二度目の目覚め。
いや、三度目の、朝だった。
第一章 ヌケサク夫妻
カン!と額に何かがぶつかり、ニイナは痛みで目を覚ました。
いつも通り自宅の寝室、ベッドで寝ていただけだというのに、何かが落ちてきたのだ。
一体何が、と体を起こして周囲を見渡すと、枕元に小さな黒い玉が落ちていた。
指で摘まんで拾い上げれば、妻から貰ったパワーストーンの一部だと気づく。元はブレスレットだったものが、千切れて散らばってしまったのだ。
「そうだ、千切れて……?」
いつ千切れたのだろうか。千切れた瞬間を見た筈なのだが思い出せない。
ブレスレットを入れて保管していたベロア調の巾着袋が確かクローゼットの引き出しにしまってあった筈で、それを取りに行く為にベッドを下りた。
ちらりとベッドサイドのデジタル時計を見ると、日付は4月17日、時刻は朝の四時となっている。
巾着袋は確かにあったが、ブレスレットを形成していた筈の他の黒い玉は見当たらない。ベッドの上にも床にも落ちてはいない。額に落ちてきた一粒だけだ。
「……?」
そもそも何故、上から落ちてきたのか。早朝から不可解な出来事に見舞われて、ふつふつと怒りが沸いてくる。
勢いよく寝室のドアを開いて洗面所に向かおうとして、妻の寝室の前で立ち止まった。しばらく佇んでみたが、何の物音もしない。静かなものだ。
洗面所で顔を洗い、口をゆすいで、トイレで用を足し、リビングのポットで湯を沸かす。
リビングにあるリモートワーク用のデスクに座りノートパソコンを開くと、会社の監視カメラの画面を開いた。朝の四時だが、事務所には夜勤の者が二名勤務している。
ニイナは約三十年前に清掃会社を立ち上げており、今も現役で社長を勤めている。
六十五歳という年齢になっても創業当時のエネルギッシュさを無くさず、元よりの長身と学生時代の柔道部で培った体力、そして剛毅な性格で今では従業員数三百人を超えた会社をまとめ上げていた。
今日も素早くメールをチェックし、シフト管理を担当している夜勤の者がコーヒーを片手に談笑しているのを社内監視カメラの映像で把握すると、すぐさま会社へ電話をかける。会社の固定電話には登録されている番号ならば使用者の名前が出るので、すぐに自分からの電話だと判ったのだろう。一人が慌てて受話器を取った。
「何を呑気にコーヒーなんか飲んでるんだ!? お前は清掃会社の人間だぞ! 暇があるなら事務所の掃除をしろ! 給料分働け!!」
相手が名乗るのも待たずに怒鳴りつけると、そのまま通話を切る。監視カメラの映像も切ると、目覚めが悪かったことの怒りが多少収まったような気分になる。
丁度ポットの湯が沸いたので、インスタント味噌汁のカップに注ぐ。ゴミ箱に不要になったインスタントの外袋を入れようと蓋を開けると、昨日食べた甘すぎるプリンの容器があった。
フンと鼻を鳴らして、今度は冷蔵庫を開ける。昨日ラップに巻いて入れておいたご飯の残りを温めて、海苔を巻いてモソモソと食べる。四時の朝食は静かだった。
ニイナの目覚めは早いが、出勤自体は十時過ぎだ。ニイナは仕事とプライベートの境界線が曖昧なので、メールの返事や取引先社長への電話、売り上げやシフトの確認など、家でも出来ることはあらかた片付けてから会社に向かう。
ニイナが経営するニイナホワイトクリーン株式会社は従業員の総数こそ三百人を超えているが、ほとんどがホテルや商業施設といった現場の清掃員なので、事務所に常時勤務しているのは事務方や営業、シフト管理に従事する二十名ほど。
管理業務は日勤夜勤の交代制で、今朝自分が怒鳴りつけた夜勤の人間にニイナが直接会うことはほとんど無い。
オフィスビルの八階にある事務所のドアを開くと、短い通路があり、右手側にはパーテーションを挟んで社員達のデスクがある。左側にはちょっとした応接スペースと、社長室へ続くドア。
ニイナが歩くと、中にいた従業員達が一斉におはようございますと挨拶をする。ニイナは無言で廊下を進み、パーテーションを抜けて、部長のデスクへと向かった。
「サクマはどうした?」
「部長はいま会議室で面談中です。退職の相談に来られている方がいるので」
席が近い女性事務員のタケナガが素早く答えた。ピリピリした空気が事務所に漂い、周囲にいる中年の男性社員たちはそれとなくニイナから目線を外している。
「昨日渡した書類がそのままだぞ!? もう俺がやった方が早い!」
サクマ部長のデスクに積み上げられていた書類を荒し、必要なものだけ手にして社長室に向かう。
社長室と事務所の境には大きな窓があり、そこからは下の道路と並木道がよく見える。行き交う車を見下ろし、フッと息を吐いてから、ドアを勢いよく開けた。
「ヌケサクが戻ってきたら、俺が呼んでいたと伝えておけ!」
「あ、はい。あの……」
「なんだ!?」
「いえ、何でも無いです。すみません」
タケナガが目線を逸らしたのを見て、バンッと大きな音を立ててドアを閉じる。
ドアの向こうで小さなざわめきが波打っているのが分かる。あいつらは俺がいないとよく喋るなと、ニイナは苛立ちとともに社長椅子に深く腰掛けた。
社長デスクのノートパソコンを起動させ、また監視カメラの画面を開く。今度は会議室の映像だ。
広い室内に置かれた長テーブルに、男二人が向き合って座っている。片方は若いがひょろりとした猫背の男で、もう一人は熊のように体格がよく、頭頂部の薄い中年の男。後者が部長のサクマである。
退職を願い出したという猫背の男に見覚えは無く、恐らくアルバイトだろうと予想する。最近の若い人間は金をかけて採用してもすぐに辞めるので、求人誌や転職サイトに使っている費用が無駄になるばかりだ。
ニイナは二十代の頃に田舎を飛び出し都会に出て、大手清掃会社にアルバイトとして入った。景気も良く懸命に働けば評価される時代だったのでわりとすぐに正社員になり、アルバイトの後輩だったサクマのことを正社員に推薦し、仕事終わりはよく二人で飲みに行くようになった。
やがてニイナは独立を決意し、サクマを片腕にすることにした。それからたった二人で始めた会社、ニイナホワイトクリーンは少しずつ従業員を増やし、事務所を移転し、今ではこの地域でそれなりに大きな清掃会社となった。しかし自分も年を取ったが、年下のサクマのほうが衰えは酷く、年々精彩を欠いている。
剣道で鍛えていたはずの体は脂肪の塊となり、頭髪も無惨なもの。何より顔だ。最近では目元のたるみが酷く、頬も垂れ下がっている。
そして判断の遅さは目に余るものがある。昨日渡しておいた書類は白紙で、他の仕事も溜め込んでいるだろうに、退職希望者との話し合いは一向に終わらない。元より話は長いほうだったが、引き留めようとでもしているのか、ニイナには無駄に時間を使っているようにしか思えない。
苛々しながら画面を見つめていると、やがて猫背の男が立ち上がり頭を下げ、そそくさと会議室を出て行った。サクマも立ち上がり、のそのそとテーブルの上の書類をまとめると、電気を消して会議室を出る。
足元のゴミ箱を蹴りつけながら書類を記入し待っていると、ようやく社長室のドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
「失礼します。社長、お呼びでしょうか」
ニイナも立ち上がり、ソファの方へと移動する。テーブルを挟んで向かい合って座れば、サクマとも目線が合わない。
「退職希望者との面談か?」
「はい、先月入ったアルバイトの子です。商業施設のチームに入れていたんですが、チームリーダーからキツイことを言われるのが耐えられないと……」
「それだけのことで!? なってないな、全く」
「毎日ちょっとしたことで思い切り怒鳴られるそうで」
「だからなんだ!?」
問題の商業施設のチームリーダーは、元はアルバイトで入ってきた男だった。当初は一週間で辞めたいと言い出したのをニイナが直々に叱咤して立ち直させた経緯があり、今では正社員として現場のリーダーを任せている。彼にはニイナが指導した内容をよく守っているという信頼があった。
「退職日が決まっているなら制服の回収を忘れるなよ! それより、この書類の話だ」
「あ、ああ、それは……」
「一定期間出勤が無いアルバイトの追跡調査報告書だな? 昨日俺がまとめておけと言って渡したな? 何故やっていない?」
「すみません、昨日は遅くまで、この退職者の件でチームリーダーにも話を聞いており……」
「話が長いのが原因じゃないのか!? 素早く要点を聞き出して、早く報告書にまとめて終わらせろ! そんなだから仕事一つがいつまで経っても終わらないんだ! このヌケサクが!!」
「申し訳ありません」
「俺はお前が憎くてこんなことを言っているんじゃないぞ! お前のためを思って、愛があって言っているんだからな!!」
「はい、その通りです。申し訳ありません」
俯いて謝罪の言葉を繰り返され、ニイナは深々とため息をつく。
「もういい。今日は新規の取引先と打ち合わせがあったな? 一人で行くのか?」
「いえ、本来はアリマチくんの案件でしたので、代わりの者を連れて行こうかと」
「ああ……そうだな」
不意に忘れていた男の名前を出され、ニイナが苦々しい顔つきになる。
「約束の時間に遅れないように、早く行けよ」
「はい、失礼致します」
サクマが立ち上がると、でっぷりとした腹の脂肪が揺れるのが見えた。自分もサクマほどではないとはいえ、年を取って腹がだんだん出てくるようになってしまったので、筋トレを増やそうと決意する。足腰を鍛えておいたほうがいい、と脳裏に警告のようなものが過ぎった。
「警告……。警告?」
ふと頭に浮かんだ不穏な言葉に、ニイナは首をかしげた。何となくズボンのポケットに手を入れると、中には手触りのいい巾着袋が入っている。巾着袋の中身は黒いパワーストーン一粒だけだ。
急に社長室のドアの向こうから大きな声が響いてきた。こそこそとした話し声ではなく、誰かが大きな声で喋っている。
飛び込みのセールスでも来たのだろうかと思い、怒鳴って追い払ってやろうとドアを開けると、そこにいたのは小柄な老婦人だった。その向こうで、事務のタケナガが引きつった顔をしている。
「? なんだ……?」
まじまじと老婦人を見つめると、向こうもドアが開いたことに気づいてニイナと目を合わせた。老婦人は肩から提げたトートバックの紐をぎゅっと握り締めている。その目が異様に見開かれ、ひび割れた唇がぱくぱくと何度か開く。
やつれた顔、目元には隈、艶のない白髪混じりの乾いた髪。どこかで見たことがある――と思い出そうとして、ニイナはようやく、その老婦人の右手に包丁が握られていることに気づいた。
「……お前のせいだ」
声と同時に、見開かれた目から、ぶわっと涙が溢れてくる。
「お前の、お前のせいだ!!」
「な、なん……!?」
「社長、逃げて下さい!」
タケナガが叫んでいる。ニイナは自分に向かって突進してくる老女の手首を掴み、包丁を落とそうとしたが、唐突にこの不審者が誰なのかを思い出した。
サクマの妻だ。最後に会ったときよりだいぶ年老いていたから、一瞬判らなかった。
枯れ木のように細い手首を握り締めると折れてしまいそうで、よく見るとあちこちに痛々しい痣がある。下手に突き飛ばすことも出来ず、揉み合うかたちになってしまった。
……そうだ。ブレスレットはこの時に千切れた。黒いパワーストーンが床に落ちて、散らばったのを俺は見た。
突然そんな記憶が蘇ってくる。脳みそが切断されるような頭痛がして、ニイナはサクマの妻から手を離し、よろめいて後退した。その隙に彼女は包丁を持ち直し、再度ニイナに向かってくる。
ああ、そうだ。これは二度目の光景だ。
包丁が腹に突き刺さる。頭痛よりももっと酷い痛みが訪れる。そして――。
――カンッ!!
額に何かがぶつかり、ニイナは痛みで目を覚ました。いつも通り自宅の寝室、ベッドで寝ていただけだというのに、何かが落ちてきたのだ。
体を起こして周囲を見渡すと、枕元に小さな黒い玉が落ちていた。妻から貰ったパワーストーンの一部。
ベッドサイドに置かれたデジタル時計は4月17日の午前四時を表示していた。
……そうだ、これは二度目の目覚め。
いや、三度目の、朝だった。
第一章 ヌケサク夫妻
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