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第1章 民間伝承研究部編
観測少女の修学旅行5
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わたしの両親は仲が悪くてな。父は早くに出ていった。わたしが覚えていられるような時間になる前に。
気にすることはない。父の顔は思い出さなくていいんだ。わたしが鏡を見れば、彼のそっくりさんが写っているのだからな。
それに引き換え母の面影の無さときたら、腹を痛めて産んだ記憶が無ければわたしが自分の娘かどうかも怪しんでいただろう。
どうした成? 暴力を振るわれなかったか、だって?
安心しろ。わたしは一度たりとも母に殴られたり蹴られたりしたことはない。世の中には傷を見られないように服で隠れる場所を殴る輩がいるらしいが、母は彼らよりもっと慎重なのだろう。
ひょっとしたら優しさのかけらでも見せているつもりかもしれないが、わたしとしては単なる臆病者と言われた方が助かるな。心置きなく嫌えるのだから。
さて、そろそろお前たちが通報されないとわたしが推測する理由を説明しようか。
実を言うと、わたしが母から逃げたのはこれが初めてではないんだ。おいおいそう怖い顔をするな。心配しなくてもちゃんと帰っているさ。残念ながらこの世界は子どもだけで生きていくには少し難しすぎるからな。少なくともわたしにとっては。
話を戻すとだな、そうやってこれまで何度も家出を繰り返したわたしだが、母がわたしを探すときに人を頼ったことは一度も無いんだ。そう、ただの一度も。
あの女のことだ。どうせ大事になって普段のウチの様子がバレるのが怖いんだろう。だから今も1人で血相変えてあちこち探し回っていることだろうさ。ましてや警察なんかには絶対頼らないだろう。
「――そういう訳だ。安心してわたしを連れていけ。母の元には頃合いを見て戻る」
カンナが話し終えた後、バスの中は二酸化炭素の中に沈められたかのようにどんよりとしていた。動作をしようとしてもいつもより抵抗が大きいように思えてしまう。
正午を過ぎてから夕方になるまでの気持ちの悪い温かな時間。それを彩る日の光がバスの中に入り込み、頬杖をつくカンナを照らしていた。
「……ねえ、カンナちゃん」
「どうした? 微」
カンナはすぐ隣に座る少女を見返した。制服のスカートをぎゅっと握りしめており、心做しかさっきよりツインテールがしなびているように見える。
「どうしてなの」
「言葉足らずだ。補え」
「カンナちゃんのお家、多分だけど、幸せじゃないよね」
「ああ、全くもってその通りだ。皮肉ではない」
文章の後半に向かうにつれて声が小さくなる微。全てを変えずに言葉を完遂するカンナ。
「じゃあ何でなの。どうしてカンナちゃんは――」
「お、着いたようだな」
バスの停車を告げるアナウンスが流れた。
大荷物を抱えながらホテルの部屋の鍵を開けるのはいくらか面倒だ。しかもやっとの思いでドアを開けたと思ったら、閉まろうとするそのドアを押さえつつ自分と荷物を部屋の中に搬入しなければならない。
「ほいほいほいっ、おっじゃまっしまーす!」
「微、荷物を雑に扱うな。気持ち悪い」
「さあさあカンナちゃんも入って! とっても広いよこのお部屋。着替えは先生が用意してくれるって言ってたから安心してね」
「……お邪魔します」
靴が雑に脱ぎ捨てられる。ベッドへと一目散に向かったカンナは布団の上で横になり、膝と額が触れそうなほどに丸くなった。その姿は猫や犬というよりもサナギのようだ。微の立っている場所からは背中だけが見えている。
「あ、そうだカンナちゃん。外から帰ってきたら手を洗わなくちゃ」
「後でやる」
「ダメだよ。汚い手のままでご飯食べたら病気になっちゃうんだから。病気って怖いよ?」
カンナは微の顔を見ることなく返事をした。
「ああそうか。じゃあ私が病気になったらまじないのひとつでもかけてくれ」
「ダメダメダメ! 私魔法は専門外だから。ほらこっち。はーやーくー」
「ええい離せ。何なんだその馬鹿力は!」
布団にしがみつこうとするサナギを無理矢理引き剥がした微が「そういえば洗面台どこ?」と部屋中を彷徨く羽目になるのはまた別のお話である。
「お姉様、夜分遅くにごめんなさい。はい、元気です」
ていりに電話する傍ら、成は机にノートを広げていた。ていりがいつも持ち歩いている異世界語の翻訳ノートとは色違いで、表紙には「平方成」の文字が油性ペンで書かれている。ちなみに成の字ではない。
「そっちはどうです? ご飯はもう食べましたか? 冷蔵庫の作り置き、後先考えず消費してはダメですよ。約束破ったらククハジメのアイス禁止ですからね」
携帯電話の向こうから騒がしい声が聞こえていた。どうやらていりの家族は自分のことをえらく心配してくれているらしい。成としては自分よりもていりのことを見ていてほしいのだが、いつもと変わらない声を聞くと思わずクスリとしてしまった。
「ああ、いえ。皆さんが変わらなくてちょっと安心しただけです。へ……い、いえ! 決してそういうわけでは!」
今度はていりの笑う声が聞こえてきた。やはり彼女にはどう足掻いても勝てない。成にとってそれは公理だった。
「むぅ……それより報告始めますよ」
リュックの中を漁り、ペンケースを取り出すと器用にファスナーを開け鉛筆を取り出した。今は消しゴムはいらない。
「実は予定が変わりまして。明日から先輩と私と先生で別行動なんです。あ、いえ。例の橋はちゃんと行けると思います」
利き手の方では鉛筆をノートの上に走らせる。内容は主にその日の出来事と次の日の予定だ。ていりから頼みがあればそれも記録している。ちなみに日本語ではない。それどころかこの世の言語ではない。おまけにシーザー暗号も混ざっている。
「それで予定が変わった理由なんですけど、先輩が女児を拾ってきたんです。母親と仲が悪いらしく、家出も今回が初めてじゃないと本人が」
今日出会った少女の話題が始まると成は声を潜めた。その視線はノートにあらず。壁とドアを行ったり来たりしている。
「それでその子の名前なんですけど、どこかで聞いた気がするんです。まあ大して珍しい名前でもないんですけど」
電話を押し当てていない方の耳をすます。足音は聞こえない。
「お姉様、カンナという名前に心当たりはありませんか」
5秒ほどだろうか。電話の向こうの声が止まった。ていりも、その家族も、誰も聞こえなかった。
――――シジヲダス。
やっとの思いで帰ってきたていりの声。成は精一杯だった。ドアと壁に向けていた注意を彼女の声に奪われてしまわないことに。
再びていりの声が止まったとき、成は決まりきった返事をした。
「分かりました。ちょっと会ってきます」
気にすることはない。父の顔は思い出さなくていいんだ。わたしが鏡を見れば、彼のそっくりさんが写っているのだからな。
それに引き換え母の面影の無さときたら、腹を痛めて産んだ記憶が無ければわたしが自分の娘かどうかも怪しんでいただろう。
どうした成? 暴力を振るわれなかったか、だって?
安心しろ。わたしは一度たりとも母に殴られたり蹴られたりしたことはない。世の中には傷を見られないように服で隠れる場所を殴る輩がいるらしいが、母は彼らよりもっと慎重なのだろう。
ひょっとしたら優しさのかけらでも見せているつもりかもしれないが、わたしとしては単なる臆病者と言われた方が助かるな。心置きなく嫌えるのだから。
さて、そろそろお前たちが通報されないとわたしが推測する理由を説明しようか。
実を言うと、わたしが母から逃げたのはこれが初めてではないんだ。おいおいそう怖い顔をするな。心配しなくてもちゃんと帰っているさ。残念ながらこの世界は子どもだけで生きていくには少し難しすぎるからな。少なくともわたしにとっては。
話を戻すとだな、そうやってこれまで何度も家出を繰り返したわたしだが、母がわたしを探すときに人を頼ったことは一度も無いんだ。そう、ただの一度も。
あの女のことだ。どうせ大事になって普段のウチの様子がバレるのが怖いんだろう。だから今も1人で血相変えてあちこち探し回っていることだろうさ。ましてや警察なんかには絶対頼らないだろう。
「――そういう訳だ。安心してわたしを連れていけ。母の元には頃合いを見て戻る」
カンナが話し終えた後、バスの中は二酸化炭素の中に沈められたかのようにどんよりとしていた。動作をしようとしてもいつもより抵抗が大きいように思えてしまう。
正午を過ぎてから夕方になるまでの気持ちの悪い温かな時間。それを彩る日の光がバスの中に入り込み、頬杖をつくカンナを照らしていた。
「……ねえ、カンナちゃん」
「どうした? 微」
カンナはすぐ隣に座る少女を見返した。制服のスカートをぎゅっと握りしめており、心做しかさっきよりツインテールがしなびているように見える。
「どうしてなの」
「言葉足らずだ。補え」
「カンナちゃんのお家、多分だけど、幸せじゃないよね」
「ああ、全くもってその通りだ。皮肉ではない」
文章の後半に向かうにつれて声が小さくなる微。全てを変えずに言葉を完遂するカンナ。
「じゃあ何でなの。どうしてカンナちゃんは――」
「お、着いたようだな」
バスの停車を告げるアナウンスが流れた。
大荷物を抱えながらホテルの部屋の鍵を開けるのはいくらか面倒だ。しかもやっとの思いでドアを開けたと思ったら、閉まろうとするそのドアを押さえつつ自分と荷物を部屋の中に搬入しなければならない。
「ほいほいほいっ、おっじゃまっしまーす!」
「微、荷物を雑に扱うな。気持ち悪い」
「さあさあカンナちゃんも入って! とっても広いよこのお部屋。着替えは先生が用意してくれるって言ってたから安心してね」
「……お邪魔します」
靴が雑に脱ぎ捨てられる。ベッドへと一目散に向かったカンナは布団の上で横になり、膝と額が触れそうなほどに丸くなった。その姿は猫や犬というよりもサナギのようだ。微の立っている場所からは背中だけが見えている。
「あ、そうだカンナちゃん。外から帰ってきたら手を洗わなくちゃ」
「後でやる」
「ダメだよ。汚い手のままでご飯食べたら病気になっちゃうんだから。病気って怖いよ?」
カンナは微の顔を見ることなく返事をした。
「ああそうか。じゃあ私が病気になったらまじないのひとつでもかけてくれ」
「ダメダメダメ! 私魔法は専門外だから。ほらこっち。はーやーくー」
「ええい離せ。何なんだその馬鹿力は!」
布団にしがみつこうとするサナギを無理矢理引き剥がした微が「そういえば洗面台どこ?」と部屋中を彷徨く羽目になるのはまた別のお話である。
「お姉様、夜分遅くにごめんなさい。はい、元気です」
ていりに電話する傍ら、成は机にノートを広げていた。ていりがいつも持ち歩いている異世界語の翻訳ノートとは色違いで、表紙には「平方成」の文字が油性ペンで書かれている。ちなみに成の字ではない。
「そっちはどうです? ご飯はもう食べましたか? 冷蔵庫の作り置き、後先考えず消費してはダメですよ。約束破ったらククハジメのアイス禁止ですからね」
携帯電話の向こうから騒がしい声が聞こえていた。どうやらていりの家族は自分のことをえらく心配してくれているらしい。成としては自分よりもていりのことを見ていてほしいのだが、いつもと変わらない声を聞くと思わずクスリとしてしまった。
「ああ、いえ。皆さんが変わらなくてちょっと安心しただけです。へ……い、いえ! 決してそういうわけでは!」
今度はていりの笑う声が聞こえてきた。やはり彼女にはどう足掻いても勝てない。成にとってそれは公理だった。
「むぅ……それより報告始めますよ」
リュックの中を漁り、ペンケースを取り出すと器用にファスナーを開け鉛筆を取り出した。今は消しゴムはいらない。
「実は予定が変わりまして。明日から先輩と私と先生で別行動なんです。あ、いえ。例の橋はちゃんと行けると思います」
利き手の方では鉛筆をノートの上に走らせる。内容は主にその日の出来事と次の日の予定だ。ていりから頼みがあればそれも記録している。ちなみに日本語ではない。それどころかこの世の言語ではない。おまけにシーザー暗号も混ざっている。
「それで予定が変わった理由なんですけど、先輩が女児を拾ってきたんです。母親と仲が悪いらしく、家出も今回が初めてじゃないと本人が」
今日出会った少女の話題が始まると成は声を潜めた。その視線はノートにあらず。壁とドアを行ったり来たりしている。
「それでその子の名前なんですけど、どこかで聞いた気がするんです。まあ大して珍しい名前でもないんですけど」
電話を押し当てていない方の耳をすます。足音は聞こえない。
「お姉様、カンナという名前に心当たりはありませんか」
5秒ほどだろうか。電話の向こうの声が止まった。ていりも、その家族も、誰も聞こえなかった。
――――シジヲダス。
やっとの思いで帰ってきたていりの声。成は精一杯だった。ドアと壁に向けていた注意を彼女の声に奪われてしまわないことに。
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