聖女の母と呼ばないで

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アパートのドアの鍵を開け、家の中に入る。黒のパンプスを脱いで、何気なく靴を揃えようと下を見て、いつもは隣に並んでいた靴が「ない」ことに改めて気づく。

前を向けば、薄いカーテンから差し込む夕日で部屋は朱色に染まっている。

たった5ヶ月。

式を挙げ、二人で暮らす日々を作っていたこの部屋。
はじめの頃の気恥ずかしさから、「お帰り」「ただいま」の当たり前に変わって、愛おしい家族の空間になっていったこの部屋。

遙香(はるか)は部屋の入り口で、真っ黒な喪服に身を包んだまま、動けないでいた。

これまでの当たり前だった日常が、浮かんでは消える。
まだ新しいソファーに並んで座る自分と夫の姿。床に敷かれたラグは先週二人で選んで買ってきたばかりだ。「これから寒くなるから」と。




気が付いたときには、部屋はすっかりと暗くなっていた。

色の識別が出来なくなり、ようやく「これまでの日常」が溢れてこなくなった。

電気をつけると、青白く無機質な明かりに照らされただけのただの部屋になった。まるで自分と同じようだと自嘲する。




**************************************
夫は、面倒見の良い人だった。職場の部署異動先で、仕事を教えてくれたのが出会いのきっかけだった。

入社して4年。仕事にも慣れ、新人の教育も担当し、ようやく一人前かと自信を持ち始めた時に、異動の内示が出た。

担当していたほとんどの仕事を、同僚にお願いし謝りながら引き継ぎ、難しい案件は深夜まで残業しながら何とか異動の日までにこなしていった。

異動の前日、遙香は、

「これまでお世話になりました。沢山学ばせていただきありがとうございました。」

と、上司にお辞儀をした。

「お疲れさん。新しい部署でも頑張ってくれ。こっちは女が一人いなくなったところで何も影響しない。引き抜かれたと思っていい気になるなよ。」

思いがけない言葉に唖然とすると、

「早く行け。」

と、目で促された。

礼をして部屋を出る。
廊下を進んだ先で、一人苦笑した。上司のほぼツンしかないツンデレも見納めか、と。






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