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第二章 悪魔のカナリア
*悪魔のカナリア
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* 翌朝、俺は久々にアリスと一緒に目を覚ました。此処は四ヶ月もアリスを置き去りにしていた俺の自室だった。
部屋は一人部屋にしては広く、二人部屋にしたら狭い面積だった。飼われているカナリアには一人一人、働きによって敷地を与えられるが俺はカナリアのデスゲームで、今回を合わせて二回も勝利をおさめているのでこの部屋の他に研究の為の部屋を一つ持っていた。
飼われているカナリアは寮のように決められた寝室で眠るのだが、俺は他のメンバーから気に入られていない為、二つ部屋をもらい、一つの部屋を寝泊まりする為に使っていた。
空にしている寮の自室には沢山の資料を置き、今では書庫と化している。
俺はマザーからも良く思われていない為、マザーは俺の部屋に入る事はなかった。
マザーの代わりにアリスが俺を監視する役目で付いていてくれる。それは俺にとってもマザーにとっても気が楽なので、一石二鳥という訳だ。
最初のうちはマザーも俺とアリスを引き離そうとしていたが、俺達の圧に負け、今回のカナリアのデスゲームに勝利することを条件に今まで俺達を縛っていた時間制限を無くす許可を出してくれた。
こうして一緒に過ごせるようになった事を心から幸せだと感じている。
「おはよう咎愛、よく眠れたか?」
アリスは色味のない唇を動かして俺に問い掛けてくる。俺はアリスの髪を撫でながらゆっくりと頷いた。
「アリスと一緒が一番よく眠れるよ、一人だとあの夢を見てしまうし、安眠出来ないんだ」
「僕もだ、幼い頃の夢に魘されて眠れない日が多かった…」
アリスと俺は過去に大きな心の傷を負っている。
アリスは心だけではなく、身体中に今も治る事のない生々しい傷跡が残されている。
アリスと俺は過去の所為でこうやって此処に居る。運命とは、皮肉なもので、もし互いがカナリア(罪人)になっていなければ俺とアリスは出会う事はなかったのだろう。
「咎愛、今日はマザーに呼ばれてるんだろう?僕も同行してはダメかな?」
俺はアリスの提案に首を横に振った。グランドマザー…ロゼッタ・アルティメリア、きっと俺を呼びつけて何か適当な仕事を押し付けようとしているに違いない。今日もまた、あの女の言うところの雑草処理かもしれない。
俺はアリスを安心させる為に抱きしめた。きっとアリスは俺の事が心配で気が気ではないのだろう。普段は強く見せているけれど本当は誰よりも繊細で傷つきやすいのはアリスなのだから。
「大丈夫だよ、一人で行ってくる、それよりアリスは僕のペット達に餌をあげておいてよ、それと新しく闘魚を飼育しようと思ってるんだ、ちょうど海月の水槽が空いてるしね」
適当に思い付いた事を口走って誤魔化そうとしていたがアリスには全てお見通しだったらしい、美しい顔を険しい表情を浮かべてこちらを強く睨んでいる。
「僕は咎愛一人で話しに行くのは大丈夫だとは思えない、それにマザーのところに行くっていうのが気に食わないな…だってその間、二人きりの空間になるんだろう…そんなの嫌だ…」
側からこの会話を聞かれると朝から何を惚気ているんだ…と、勘違いされそうなのだが、実際アリスが気にしているのは嫉妬心もあるのだろうけど、マザーという恐ろしいカナリア(罪人)と俺を二人にしておいて、俺が無事で帰って来れるのかも危惧しているのだ。
「本当に大丈夫さ、アリスは余計な心配するなって、お腹の子に悪いだろ、それにあの女の前での俺の姿をアリスに見せたくない…あの女を前にすると殺意しか湧かないから」
アリスは大きな溜息を吐くと、俺の方へ近付いて抱き着いた。
「本当に早く戻って来いよ…」
俺はアリスの頭を撫でてから頷いた。
こうしてあのデスゲームから一日が経ち、俺達の生活は元の生活に戻ろうとしていた。
午前九時を回る頃、執行官用の漆黒の制服を身に纏い、俺とアリスは互いの仕事の為、部屋から出ると別々の方向に足を動かした。アリスは俺の研究室に、俺はブラッドマザーの居る看守室へと進んでいた。
看守室は俺達が住んでいる棟の最上階に位置していて、ホテルのスイートルームの様な造りになっている。それはあの女の趣味でそういているのだろうが、俺には気持ちが悪かった。
コンコンコン…。
最上階、悪魔の元締めの部屋。
俺は深呼吸をしてからあの女の合図を待った。
「入って頂戴」
何度聞いても吐き気を催す甘ったるい声を耳に入れ、俺はドアノブに手を掛ける。
右に三回左に四回、そうやって回してからではないと入れない仕様になっているマザーの部屋に足を進めた。
「あら、猫ちゃん、久しぶりね…お元気そうで何よりだわ」
俺は扉を閉めてマザーの元にゆっくりと重たい足を進めると部屋中から漂う、異様な甘い香りを吸い込まない様に息を浅く吸う様に努力した。この異様な甘い匂いの正体は部屋の隅々に置かれているお香の様なものから発せられていた。
この匂いには媚薬の効能が含まれていて、気を許してしまうとこの女の餌食になってしまう。
「もうっ、警戒心が強いんだから、貴方がアリス以外の女に興味がない事くらい痛いくらい分かっているわよ、だから私は貴方が嫌いなんだけれどね…もっと貴方が私に従順で素直になれば手厚い加護を与えてあげるのに…」
俺はチッと舌打ちをしてから口を開いた。
「あんたのいいなりになるなんてごめんだね、それより無駄口叩いている暇があるんだったら、早く俺を呼び出した要件を言ってほしいな」
怒りを露わにした態度でそう告げると、マザーはやれやれと首を横に振ってから鮮やかな紅で飾られた、厚い唇を動かす。
「もうっ猫ちゃんったら、せっかちさんなんだから、もうちょっとゆっくりしていけばいいのに…アリスみたいなお堅い女とずっと一緒にいると息がつまるんじゃないの…?」
俺はアリスを侮辱された事への怒りで我を忘れそうになった。だけどこれもマザーの作戦だ、決してマザーの思い通りになってはいけない。
「いえ、アリスが俺の全てですから、それより早く要件をお願いします」
マザーは俺の怒りを誘って、少しでも呼吸を荒くしてこの媚薬に酔わせる気でいるのだろう。そうすれば俺の持っている隠し事を全て曝け出させる事が出来るからだ。マザーは俺の顔を見てから怒りとともに溜息を吐いた。
「はぁ…猫ちゃんって本当に退屈な男の子よね、まぁいいわ、今日私が貴方を呼び出したのは今回のゲームの勝利のお祝いと、少しだけ聞きたい事があってね…」
「聞きたい事?」
俺は背筋に冷汗が伝うのを感じた。表情には出さないように努力しているものも、もし。マザーが俺達の何かを勘付いてしまっていたらと考えると吐き気さえ込み上げてくる。
「えぇそうよ、貴方に聞きたい事…貴方、アリスの纏めた報告書によると愛美平という男の子と随分、親しくしていたようね…そして最終日の深夜、愛美平の端末の死体メールが流されてないのはたまたまなのか、それとも私の目を盗んで外部に逃がしたなんて事、ないわよね?」
俺は顔色を変えずに頷いた。
「あいつを殺した後、すぐに教会共々、あの大型施設を燃やして処分したんだ、端末の体温センサーが狂ってしまったんじゃないのか…?確かにあの時俺は愛美平を拳銃で始末した、それは紛れも無い事実だ、そもそもあのゲームに参加した奴等、全員を殺す事が俺達の時間共有を認めて貰う条件だったんだ、俺はその為には手段を選ばないさ」
マザーは目を細めてから納得したように頷いた。そして鮮やかな紅を舐めとるように舌で唇を妖艶になぞると、吐き気を覚えるほどの艶かしい声で言葉を放つ。
「そう、そうならいいけれど…あの施設は直接的に外部と繋がっていたから、心配だったのだけれど、貴方の表情から嘘はなさそうね…正直、疑っていたのよ、愛美平の死体の写真の鮮血の少なさとか…端末の事とか、まぁ二人の話を信じる事にするわ、第一、貴方がアリスの事以外に意識を向けるなんて有り得ない話だものね、心のない貴方が…まさか十七人も犠牲者を出した恐ろしいカナリアと仲良くしてくれる良心的なカナリアなんているわけがないもの」
俺はギリっと歯を噛み締めた。そして重たい口をゆっくりと開く。
「もう要件は済んだのかな?」
マザーは不気味な笑みを浮かべると一枚の紙を手渡してきた。
「それは今日からの貴方の一ヶ月分の仕事のスケジュール、ジルとジンの零した雑草の始末も貴方に頼むわ、後、アリスの仕事も貴方に割り振ってあるから頑張ってね…まぁその分の賃金は弾むわ、私の要件はこれでお終い、じゃあね猫ちゃん」
俺は最後にチッと舌打ちを響かせると恐ろしいあの女から身を離していく。
ドアノブに手を掛けて外へ出ると、大きく深呼吸をした。
室内に居た時に浅くしか呼吸出来ていなかった所為で軽く酸欠になりかけていた。
俺はマザーから渡された紙に目を通して溜息をついた。
雑草…マザーの言う雑草とはカナリアの成れの果てと言うべきなのか、精神的におかしくなってしまった保護対象や家族や行き場もなく、此処に入れられてしまった高齢者の事を指していた。
俺はそういった仕事が大嫌いだった。何の為に倫理観を持ち合わせているカナリアを始末しないといけないのか、その意味が分からなかったからだ。
「チッ、あの女、今すぐにでも始末したいのに、歯痒いってこう言う気持ちなんだな」
俺は怒り任せに近くにあった植木を派手に蹴り、廊下に土を撒き散らした。あの女が居なければこんな意味のない死刑を執行する事は無くなるのに…。
今はまだ、それを実現する術が俺にはない。
きっと何年掛かっても俺はあの女を殺さないといけない、絶対に。
そんな事を考えながら俺は研究室に足を進めた。雑草処理の仕事は午後に予定されているからそれまでの時間は自由に使える。
俺は大概、自由な時間が設けられると、研究室で様々な生き物の観察に勤しんでいた。観察が趣味というよりは、自身の研究を外部の機関に提供して外部の人間の役に立ててもらう事が一番の目的だった。
午後十時半、俺は研究室の扉の鍵を開けて中に足を踏み入れた。
「遅かったな…何もされなかったか…?」
研究室の中に居たのは複数人の白衣を纏ったカナリアと、細身の美しい女性だった。この白衣を纏ったカナリアは俺とアリスの管理下にあるカナリアで、各国で色々な研究や医療機関に携わっていた保護対象のカナリア達だった。
細身の女性、釘井アリスは俺を視界に入れると、頬を緩ませてゆっくりと黒いブーツの音を響かせて近付いて来る俺はアリスに向き直って笑みを浮かべる。
「あぁ、心配要らないよ、要件は平の事、それと今後のスケジュールだった、今後はアリスの仕事と雑草処理、それから我儘ボーイズのお仕事を手伝えってさ」
はぁ…、と溜息混じりに言葉を話した俺をアリスは優しく抱きしめた。
「咎愛に全部背負わせてごめん…愛美の事は上手くかわせたか…?」
俺はアリスの言葉に頷いた。
毎日の光景に室内のカナリアは動じる事なく、コンピュータに向き合ったままテキパキとキーボードを打ち込んだり、書類を細々とファイリングしたりしていた。俺はそんな室内でアリスのシルバーの十字架のピアスを吐息で揺らしながら耳元で囁く程度に声を出した。
「大丈夫、平の事は上手く逃れた、仕事の件はアリスが気にする事はないよ…」
アリスは俺からそっと身体を離すと囁き声で俺に返答した。
「このまま上手くいけば僕達の願いは叶う…それまで僕等に出来る事は全部済ませておかないとな」
俺は頷いた。アリスの言葉には恐ろしい位の重さがあった。
俺は室内の革張りのソファにドスンと腰掛けて、手で合図をして隣にアリスを招いた。アリスは備え付けの小さな台所から湯気の立つミルクココアの入ったマグカップを手に持って、俺の元へ歩いてやって来た。
俺はソファの前にあるガラス張りの小さな丸テーブルにアリスから受け取ったマグカップをコトンと音を立てて置いて、湯気が去るのを眺めていた。
アリスはそんな俺を見てふふっと笑みを零した。
「相変わらずの猫舌さんだなっ、僕は先にいただくぞ」
そう言うと、アリスはマグカップを小さな唇に当てがってミルクココアを喉に流していった。
「俺の猫舌は一生治らないよ、直す気もないしね」
そういうと俺は徐に立ち上がって、近くのコンピュータに向き合っている研究員の見ている画面を背後から観察した。画面にはクローン研究のレポート、人工的に作り上げた胎内についてのレポートがびっしりと画面を黒に染める様に広がっていた。
俺は背後から近寄って若い男性の研究員に声を掛けた。
「このレポートもうすぐ上がりそう?」
俺の問い掛けに研究員は顔色を変えずに頷いた。
「今週中には纏めて提出が可能ですね、松雪様が急ぎなら明日までには上げますが…」
俺は研究員の言葉に首を横に振った。
「ううん、今すぐに欲しい訳じゃないんだけれど、このレポートを外部の持ち出して、不妊治療に役立てたり出来る日が来るのかな、って考えてただけなんだ、まぁ早いに越した事はないど、適度に休憩入れて体壊さないようにしてよ」
俺の言葉に研究員は頭を下げて再びコンピュータに向き直った。
俺は再びソファに腰掛けると、先程より湯気の勢いが消えたマグカップに指を掛け、一口、口内に注いでみる。
甘くて優しい温かさが俺の中に広がっていく。
「はぁ…美味しい…さぁて一時間くらいしたら仕事しないとね」
俺の言葉にアリスは申し訳なさそうな表情を浮かべると、ワインレッドのネイルをした長い爪を丁寧に磨き始めた。
出会ったばかりの頃を思い出すと今のアリスの行動は嘘のように思える。
初めてアリスと出会った時は今のような美しい巻き髪もとても短いショートヘアだった、爪も手入れされておらず、化粧なんてほぼ無縁というような地味な女性だった。
俺と出会って間もなくして、アリスは自身の美しさに気が付いたかのように化粧やネイル、髪の毛に気を遣うようになり、今のような女性に変わっていった。その背後には榊栞の存在があったとアリスから聞かされていた。
俺の知らないアリスを知っている榊の事を俺は良く思う事は最後までなかったが、アリスにとって彼女は忘れられない存在だという事は俺も良く分かっていた。
アリスは事あるごとに榊に対しての感謝の言葉を口にする。
「栞が僕にお洒落をするように言ってくれたんだ、そんなんじゃ咎愛に嫌われるぞって…だから栞には感謝しないと」
なんて、俺は別に釘井アリスという人間を愛しているのだから、見た目なんて気にしていないのに…。そう思うと榊に対する小さな嫉妬心が芽生えてくる。これはカナリアのデスゲームが始まる前からそうだった。
そんな事を考えながら爪を磨くアリスの方を眺めている、アリスの透き通る藍色の美しい右目と視線が絡んだ。アリスは俺を見つめて悪戯っぽく微笑むと薄桃色の光るグロスを塗った唇を動かした。
「咎愛の考えている事を当ててやる…その顔は栞に嫉妬してる顔だ…当たってるか?」
俺はアリスの巻き髪に指を絡めてから口を開いた。
「御名答…全部お見通しか…俺って顔に出やすい?」
俺の問いにアリスは頷いた。
「仕事中以外は、顔に全部書いてある…そういうところも咎愛の良いところだ」
俺は首を傾げる。アリスの言う良いところの意味が分からなかったからだ。
「どうしてそれが良いところなんだ?」
アリスは唇を動かす。
「咎愛は飼われているカナリアになりきれないって意味さ、ちゃんと感情がある…ジルとジンとは違う…だから僕も咎愛を好きになったんだろうな…僕も咎愛に会わなければああなっていたかもしれない」
アリスの言葉を聞いて俺はジルとジンの事を考える。
クレイジージェミニ…ジル・ベンダーとジン・ベンダー、彼等は俺より二つ歳上の金髪碧眼のイギリス国籍のカナリアだ。
彼等の死刑の仕方は彼等が双子であるが故に成り立つものだった。
人間の想像力、滑稽さ、人間の儚さを詰め合わせたようなそんな死刑方…。彼等は死刑を楽しみ、そして何よりもマザーに愛を捧げている。
俺はそんな彼等を見ていると寒気を催す。彼等もまた、マザーに反抗的な意思を見せる俺とアリスに嫌悪感を抱いており、仕事以外ではまともに話をした事がなかった。
最後に会話したのはいつだろう。
思い出す限りでは一年以上前のような気がする。
『茶トラ…不気味な生き物』『茶トラ…僕等と違う』
そんな様な事を二人に言われて返答もせずにいたままかもしれない。
そんなこんなで俺とアリスを彼等は良く思っていない。俺達もまた彼等を良く思っていないのと同じ…相手の気持ちは合わせ鏡…。どこかで聞いた様な謳い文句が俺達の関係をそっくりそのまま表している。
そんな考えに耽っていた俺にアリスは笑みを向けるとお腹に右手を添えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「咎愛、僕はそろそろあっちの部屋で休むよ…今日は固形物を食べられたから点滴は少なくて済みそう…仕事が終わったら一緒にもう一人の赤ちゃんを見に行こう、早く戻って来いよ」
俺は歩き去るアリスの背中を部屋からアリスの体温が消えるまで見つめていた。
「今日は点滴が少なくて済みそう…か…アリス…本当に良かったのかな…」
俺はソファの上に横になった。背中に先程まで座っていたアリスの体温を受けながら、アリスの事を頭に思い浮かべる。
初めて出会ってから今日までの事、そして迫る約束の時の事。
アリスの妊娠が分かった日、俺は喜びと共に、本当にこれでいいのか…。という思いに駆られていた。アリスは迷う事なく、この子を産むと言ったけれど、アリス身体の事を思えば…。なんて、時に頭を抱える日もあった。
だけど、日に日に母の顔をするアリスを見ているとそんな不安も少しずつ消えていくような気がした。それに心友の平に言われた『良いパパになれよ』と言う言葉が思い返されて頬が緩んだ。
「平の奴…覚えておけよ…平こそ…良いパパになれよ…」
俺は小さく呟くと、考えに耽っていた頭を左右にふるふると振って、ゆっくりと重い腰を上げて伸びをした。
漆黒の執行服の袖から覗く悍ましい痣に目を向けると、部屋の外へと歩いて行く。
ガチャ…。と、扉を締めると、執行服の内側から茶トラと呼ばれる理由の一つの仮面を身に付ける。
そして今日も、こうやって松雪咎愛は仕事を熟すのだ。
向かう先は十人程の身寄りのない高齢者が押し込められた中庭風の作りの執行場所だった。此処には確か、精神統一期間として牢にいた四ヶ月前の俺が五人程殺した場所だった。
俺は中庭の扉に手を掛けた。
中には二人の刑務官がおり、俺に向かって敬礼をする。
「五十二番様、本日の死刑執行、宜しくお願い致します」
『五十二番、承りました…』
自分でも驚くくらいに冷たい声で呟いた俺を見つめるカナリア達の視線を感じる。
そして俺は思うんだ、こんなの間違っていると…本当に。
警察が犯罪者に敬礼なんて…馬鹿げた世界だ…。
俺の内心なんて知らずに目の前の高齢者のカナリア達は悲鳴を上げたり、覚悟を決めたように手を合わせ目を閉じている者も確認出来た。
本当の俺は仮面の下では泣いているんだ。
例え涙が出なくても…。
こんな無意味な死刑に意味がないと分かっていても、何も出来ない自分に対して憤慨しているんだ。
だけど…だけど。
皆、皆、知らないんだ。
俺の本心なんか…。知る余地もないんだ…。
一人の刑務官が俺に大きめの拳銃を差し出した。俺はそれを受け取ると、カナリア達に構えた。
銃の重みよりも何よりも…。
両手じゃ支えられない命の重みを感じながら。
パンっ。
簡単に放たれた銃弾が一人のカナリアの脳天に命中し、血飛沫を飛ばしながら地面にばたりと倒れる。
それを見た他のカナリアが空を劈くような金切り声を上げる。
俺は悲鳴を上げたカナリアに照準を合わせトリガーを弾いた。
ばたり…。ばたり…。
まるでマネキンが地面に転がっているようだ…。
ただ違うのは、さっきまで此処にいるマンキンには血が通い、心臓が動き、体温があったという事、言葉も発せられれば、思考もあり、感情もあったという事…。
そして、誰かの大切な人だったという事…。
誰かと誰かが愛し合って出来た…そんな奇跡に近い存在だったという事…。
「お疲れ様でした」
そんな軽い挨拶が俺に向かって飛んで来た。俺はそれを軽い会釈で返すと、手に持っていた重たい拳銃を刑務官に返した。
『五十二番、死刑執行完了致しました、退場致します、お疲れ様でした』
俺は中庭から廊下に続く扉に手を掛けて、その場を後にした。
「何がお疲れ様でした…なんだよ」
俺の呟きは誰の耳に入る事もなく虚空へと消えて行く。吸い込まれるように消えて行くんだ…。
雑草処理が完了した事を示す、書類を作成し、データを転送し終えて、この日の仕事は一段楽着いた。
俺がアリスと再会出来たのは午後九時の事だった。
アリスの言うもう一人の赤ちゃんに会いに俺は研究室ではない寝室にしている部屋に足を進めていた。
指紋認証で鍵を開けると、扉の前にはアリスが待ち伏せしていたように待っていた。執行服ではない普段着に着替えている様子を見るに、入浴はもう済ませているようだ。
「お帰り」
「ただ今」
俺はそう言うと、部屋の中に足を進めた。アリスは俺の後を子犬のようについて来る。俺は部屋の奥の物置に見えるスペースの扉を開けた。
そこには子供一人分くらいのガラス張りの円柱の機械とその中にはまだ人の形を形成する途中の俺たちの子供が存在していた。
「ほら、パパが帰って来たぞ、よかったね」
アリスは機械の中の子供に向かって声を掛けた。俺も機械の中の我が子に笑みを向けた。
「ただ今、帰って来たよ」
分かってるんだ…。血に染まった犯罪者(カナリア)の俺達が子供を授かって、こんな風に幸せを味わってはいけない事も…。
だけど、俺とアリスは自分の家族を求めていた。
俺は母を失ったあの日から…。アリスは父親に裏切られたあの日から…。
俺は背後に立っていたアリスを思い切り抱きしめた。
「ん?どうした?咎愛?」
突然の出来事に驚きを隠せないアリスに幼子のようにただ抱き着いてアリスの細い肩に顔を埋めた。鼻腔に広がるアリスのボディークリームの柔らかな甘い香りに心を擽られるような感覚に陥る。
「咎愛…?大丈夫か?」
俺は心配そうに問いかけるアリスの首筋に唇を当て、撫でるように動かす。
「どうしたんだ…?」
僕の行動に驚いたアリスの声は少しだけ甘いものに変わっている。俺はアリスの首筋から唇を離すと、アリスの手を握って寝室の方へと歩いて連れ出した。
「今日は疲れて、甘えたくなったんだ…平に良いパパになれよ…なんて言われたのに俺はまだまだアリスに甘えないと生きていけないみたい…はぁ、リフレッシュしにシャワー浴びて来るよ、眠かったら先に寝てて」
俺はそう言うと浴室の方へ足を運んだ。アリスは優しい笑みを俺に向けた。
アリスといると自分の立場を忘れてしまいそうになる。カナリア(罪人)、父親、俺には背負いきれないような責任感を忘れて本能が働いてしまう自分に失望しかない。
こんな事、平に相談できたらよかったのにな…。平はこんな俺を笑ってくれるのかな…。意外と変態なんだなとか言って茶化してくれたのかな…。もっと早く会えればよかったのに、アリスにも平にも…。
俺は蛇口を捻って素肌にお湯を浴びせた。今日の悍ましい汚れを洗い流すために。
シャワーから出ると、アリスがベットに横になり左目を鏡で熱心に見つめていた。
「何してるの?」
「咎愛、上がったのか、いや…このなくなってしまった左目でも自分の赤ちゃんを見れたらよかったのにって思ってたんだ、まぁそんな事思ってもしょうがないんだけどな」
俺は思わず涙が込み上げそうになるのを必死で堪えた。どうしてアリスばかりこんな事…。
俺はアリスにゆっくり近付いて抱きしめた。
細くて柔らかい女性の身体…。俺の大切な人。
「大丈夫だよ、僕は咎愛が居てくれればそれだけで良い…こうやってこんな身分なのに赤ちゃんも授かったんだ、これ以上、高望みはいけないよ…」
「アリス…愛してる」
俺達はどうしても抗えない運命に飲まれていく。
今日も明日も、こうやって逃げ出せない苦しみを抱えて生きていくしかないんだ。
俺は暫くアリスを抱きしめていた、すると、胸元からスースーと愛らしい寝息が聞こえてきて、ゆっくりとその身を離して布団に寝かしつけた。
「俺より四つも歳上なのにまだまだ可愛いな…本当に」
俺はアリスを起こさないようにそっとアリスの横に身体を収めた。俺の隣のアリスが無邪気な寝顔を曝け出しているのを横目に、俺もそっと目を閉じた。
翌朝、アラームの音で夢見心地が覚めると、隣で眠るアリスの横顔を意味もなく、暫く観察していた。アリスは午前六時半になると体内のリズムなのか自然と目を開く。今日も六時三十分を回るとアリスの藍色の瞳に俺の窶れたような顔がはっきりと写されていた。
「おはよう、よく眠れた?」
俺の問い掛けにアリスは頷く。
「おはよう、咎愛、今朝は咎愛の方が早く起きたんだな…僕は懐かしい夢を見ていたよ」
「あの夢?」
俺の言うあの夢とは決していいものではない…。アリスがいつも魘されているあの恐ろしい櫓櫂順一に寄生虫を放された時の夢だった。
だけど、俺の言葉にアリスは首を横に振った。
「ううん、あの夢じゃないよ…僕が見たのは咎愛と初めて会った日の夢…あの日の事は僕にとって大切な思い出なんだ、一生の宝物だ」
俺はアリスの髪を優しく指で掬った。柔らかいシルクのような感触が俺の指をすり抜けていく。
「あの日は凄い大雪だったろ?正直、ジルとジンのお零れの仕事だから乗り気じゃなかったんだ…それにマザーの手に負えないなんて言われたら余計にやる気は失せてたよ」
アリスは苦笑しながら俺の頬を指で摘んで遊び始める。俺はそんなアリスの指を捕まえて自分の指に無理矢理絡めて優しく握り締めた。
「懐かしいね、俺は一目惚れだったよ」
冗談っぽく言って見せた俺にアリスは恥ずかしそうに俯いた。こんな初々しい反応も俺には愛おしくて仕方がない。
俺はあの日の事を目を閉じて思い返していった。
*これは今から四年前…。十五歳で連続殺人犯として収監された少年松雪咎愛は少年院ではなく悪魔の鳥籠へと身柄を搬送された。
彼は全身血塗れの状態で搬送され、取り調べにも淡々と答えていた。
世間には精神疾患を患っていた為、事件の恐ろしさが判断できなかったという風に発表されていたが、本当は彼の精神状態は恐ろしい程、異常がなく、鳥籠内でも顔色一つ変えずに平然としていた。
そんな彼、松雪咎愛は刑務官達の話し合いの結果、死刑囚として四百九十番のカナリアとして牢に入れられた。
手、足を壁に繋がれ話も出来ないように移動や、食事中以外は口に猿轡をかまされ、彼は意志のない人形に成り果てたように見えた。
そんな彼は、一日に三食の食事の時間、運ばれた食事を摂る為に刑務官達が手錠や足枷、猿轡を外そうと近寄ると、物凄い勢いで身体を動かして暴れ、刑務官達が近付くのを避けていた。暴れた反動で手、足首は金属で抉られ、爛れ落ちた真っ赤な皮膚は刑務官達を狂わす程に悍ましいものと化していた。
そんな彼の様子を見ていた刑務官は報告書を提出。収監されてから一週間もしないうちに死刑の予定が組まれたのだった。
彼の死刑を最初に担当したのはクレイジージェミニと呼ばれる双子の悪魔のカナリアだった。彼等はお得意の洗脳術で彼を死の世界へと誘おうとしていた。
彼は不気味な石造りの部屋へと案内され、一脚のパイプ椅子に座らされた。
彼の目にはアイマスクが当てがわれ、真っ暗な閉鎖空間に一人で居るような錯覚に見舞われるように洗脳されていく。
まず最初に兄のジルが彼の前に立ちはだかり、耳元の吐息がかかる距離で不気味な声で言葉を放つ。
「松雪咎愛君…ようこそ…いらっしゃいました…此処は数々のカナリアが死の世界へ旅立った部屋…トリックルームです…我々ジルとジンが松雪君を死の世界へと案内致します…今日、貴方を殺す方法を話しておきましょう…貴方の手首を刃物で切ってじわじわと死の世界へとお連れ致します…それでは、死の恐怖をご堪能ください…」
そう言うとジルが耳元から離れたのか、石を蹴る革靴の音だけが室内に響いていた。
暫くすると、彼の手首には何やら冷たい物が当てがわれ、彼の抉れ落ちた皮膚にキリキリとした痛みが走る。
先程と同じ声の主、ジルが彼の耳元に再びやって来ては、冷たい声で囁く。その声はまるで本物の悪魔が現世に現れたような、そんな不気味な声だった。
「さぁ…今貴方の左手首は、私の弟のジル・ベンダーによって刃物でゆっくりと切られております…痛みが消えるのも時間の問題でしょう…何故なら、貴方の左手首からは真っ赤な鮮血が大量に滴り落ちているのですから…」
彼が手首の痛みを堪えて、周囲の音に意識を向けると、ポタっポタっと生暖かい感触と共に、水滴が滴り落ちる感触と音を感じた。
彼はそれでも意識を手首に集中させ続けた。ジルの言葉を耳に入れないように精一杯の努力をした。
何時間が経過したのだろうか、手首にあった痛みは消え失せ、ジルの言葉も発せられる事がなくなった。彼は不思議に首を傾げた。
「くそっなんでだよっ!!!なんなんだよこいつ!!」
「兄さん落ち着いて、僕等の仕事の時間を過ぎたんだ、これ以上やっても意味はないよ…これはマザーか釘井行きのカナリアだ、十七人を一気に殺ったって聞いていたけど、やっぱり伊達じゃないよ」
彼はクレイジージェミニが何を言っているのか分からず、ただその場に座っている事しか出来なかった。暫くそのままで居ると、乱暴に彼の手錠を掴まれて椅子から立ち上がらされた。そして、彼の視界に光が戻る頃には彼は再び元いた牢に戻されていたのであった。
彼は光に慣れない目をゆっくりと閉じた。
手首の状態を見ると、彼等は刃物を押し当てていたような目立った切り傷はなかった。
目を閉じて十分程、彼はクレイジージェミニの死刑について意識を巡らせていた。
そして松雪咎愛は一つの結論に到達する。
『そうか…彼等が二人いるいる意味、閉鎖空間の中で、一人が虚言で洗脳して、もう一人が虚言を再現する振りをする、きっと手首に当てがわれていたのは刃物ではなく、体温で溶けて水が滴るようになる様な何か…そうか…氷…』
松雪咎愛が行き着いた答えは、彼等の死刑のトリックだった。
閉鎖空間で視界を奪い、極度の緊張状態を作り出し、パニック状態に陥らせて、虚言で洗脳させる。その虚言に合わせる様に、もう一人が氷を当てがい手首を滑らせ、氷が皮膚に伝わる痛みを刃物を滑らされていると錯覚し、体温で溶けた氷が生暖かな水と共に滴る感触を血液が滴っていると錯覚させて、ショック死を煽っている。
これが、彼等のトリックだ。
錯覚…。洗脳…。様々な現象も含めて、あの場所はトリックルームと呼ばれているに違いない。
気を抜いたら死んでいただろう。
彼が死ななかったのには理由があった。それは彼自身が傷付けた手首と足首の傷…。氷を当てがわれている痛みで正気を保つ事が出来ていたのが大きな要因だった。
死なないといけないのに…。死ねなかった…。
彼は後悔の念に苛まれて壊れた人形の様に項垂れた。
翌朝、彼の牢の前に一人の美しい女性が現れた。女性は甘ったるい香りとハイヒールを響かせ牢に近付くと項垂れたままの彼に鮮やかな紅を塗った唇を艶めかしく動かして甘ったるい声を発した。
「初めまして…茶色の猫さん…私は、ロゼッタ・アルティメリア、貴方、ジルとジンの死刑を耐え抜いたみたいね…だから、私が直接、貴方に手を下そうと思ったんだけれど…それより先に私達の仲間の釘井アリスが貴方の死刑を執行するわ…今日の午後、貴方に死というプレゼントを授けるわ、楽しみにしていてね」
それだけ告げると女性は踵を返して歩き去って行った。彼は思っていた、倫理観を失ってしまった以上、誰に殺されても悔いはないし、寧ろ一日でも早く殺して欲しい。
女性の宣言の通り、正午を回るとすぐに牢の外に連れ出された。数日の間食事を摂っていないせいか彼の身体はボロボロだった。まともに歩く事すら出来ず、よろよろと眩む視界の中、刑務官に連れられて歩き続ける。
次に生き延びられてもきっと断食の効果が功を為してそのうち死ぬだろう…。
彼の頭に浮かんでいたのはそんな恐ろしい考えだった。
彼は壁一面、真っ白な小さな部屋に連れ込まれた。室内には彼の他に細身のショートヘアの女性が立っているのが見える。女性は真っ黒な衣服に身を包み、背中に何かを背負っているのが窺える、下半身は太腿までのロングブーツを履いて、耳にはチラチラと揺れる十字架のピアス、顔は真っ黒な仮面で鼻まで覆われていて、その表情は窺えなかった。仮面の外に出ている小さな唇は水気を失いカサカサと乾燥していた。
細身の女性は彼を視界に入れると小さな唇を動かした。
「少年、松雪咎愛、私、釘井アリスが死刑を執行致します」
女性はそういうと一歩、一歩、彼に歩み寄って来た。彼女は背中の方に手を伸ばして、小型のチェンソーを取り出して、電源を起動させた。
グウィーン…。と不気味な音を響かせて彼女は彼に近寄ってくる。
あぁ、これで首を刎ねられて死ねるんだ…。これで…。
そう思っていた、目を閉じて覚悟を決めようとしたその時、彼は見てしまった。
彼女の仮面の下からキラキラと光る雫が零れ落ちてくる瞬間を、初めは見間違いだと思っていた、見ず知らずの犯罪者を殺すのに死刑の執行人が涙を流すなんて、そんな事があるはずはないと思っていた。
だけどそれは紛れもなく彼女の流した涙だった。きらり、きらりとダイヤモンドの様に煌くそれは、彼の凍った心を溶かす様に心の傷口に染み込んでいった。
「泣いているのか…?」
彼は思わず口に出して呟いていた。彼の目前まで迫っていた彼女は彼の呟きを耳にしてその足をピタリと止めた。
この場を支配しているのは、チェンソーの起動音のみだった。
「あんた泣いているの…?」
彼は再び彼女に問い掛けた。彼女は彼の問いに答える事なくただ顔を隠す様に俯いた。
「あんた泣いているの…?」
彼は彼女に問いかける、彼女はチェンソーの電源を切り、彼の方を仮面越しに強い眼差しで見つめた。
二人の間に不思議な空気が漂った。
彼女は再び地面に視線を落とした。彼はその視線を自分に合わせる為に手錠の付いた手で彼女の細い顎を捉えて自身に視線を定めさせた。
「ねぇ、なんで泣いているの…?」
彼女はなおも答えなかった。
彼は彼女の仮面にそっと手を伸ばした。彼女は抵抗する事なく、彼の前に美しい素顔を曝け出した。仮面の下の彼女の素顔は、色白で精巧に作られた人形と見紛う程の美しいものだった。左目には黒い眼帯を着け、右目は深い藍色をしていた。その右目には窶れた松雪咎愛が写っている。
「なんで…泣いているの…?」
彼はそう呟くと、彼女の目から溢れる大量の涙を上手く動かない腕を動かして、そっと拭って見せた。
「もう、泣かなくていい…」
彼はそう呟いた。どうしてそんな事を言ったのか、自分でもよく分かっていなかった。だけど、彼は今、彼女を守りたいという強い思いに駆られていた。
彼は彼女に近寄ると、人形の様な彼女の顔に自分の顔を近付けた。そうして、そっと、二人の唇が重なった。
どうしてなのだろう…。
二人にはよく分かっていなかった、どうしてこんなにも安心している自分が居るのか、どうしてこんなにも初めて会った人に惹かれているのか、よく分からなかった。
そして、彼女は彼を殺せずに部屋からゆっくりと歩き去った。彼にありがとうと呟いて。
*あの日の夢の話をアリスが終えると、アリスは思い出した様に苦笑しながら口を動かした。
「あの後、大変だったんだぞ、マザーに酷く叱られて、それから咎愛を生かす為にカナリアのデスゲームに参加してもらったり、色々あったよ…まぁ今はこうして咎愛と入れる事が僕を活かしているんだけどな」
俺はアリスの言葉に笑みを浮かべた。
「俺はアリスの泣き顔を見て確信したんだ、この人は殺す事に対してちゃんと後悔の念を持っていると…躊躇いなく殺しが出来る人じゃない事に安心したんだよ」
アリスは恥ずかしそうに俯いて顔を隠した。
「もうっ!この話はお終いにするぞっ!さぁ、起きて仕事しないと」
そんな事を言いながらアリスは着ている衣服を淡々と脱ぎ捨てて、執行服に身を包んでいった。俺もその光景を眺めながら、自分も執行服に…執行人へと姿を変えていく。
「さぁて、今日も働きますか…」
俺は伸びを一つすると、ボサボサの髪を手で整えてから、今日の予定に目を通した。
「今日はジルとジンのお零れか…あいつらの殺り方は個人差が激しいからな…厄介なカナリアじゃなきゃいいけれど」
ジルとジンの死刑の方法は俺の様にトリックを見破ってしまえば、上手く逃れられる可能性が高く、こうやって失敗した死刑は俺やアリスへと回されていた。
俺は溜息を一つ吐くと備え付けの台所に向かって歩き出した。朝食はセキュリティハンターが運んできてくれるが、朝一番は栄養ゼリーを飲むのが毎日のルーティンとなっていた。だから、俺はカナリアのデスゲームの最終日に栄養ゼリーを注文したのだ。
「本当にそれ好きだよな、ゲームの始まる直前の日に咎愛の朝食に出すように命令したんだけど気が付いていたか?」
アリスの言葉に俺は笑顔で頷いた。カナリアのデスゲームが始まる直前の日の食事に栄養ゼリーが出されていて、深層心理を作り出す精神統一に励んでいたのにも関わらず、アリスの事を思い出して頬が緩んだのをはっきりと覚えていた。
「お陰で一日中にやけそうになっちゃったよ、本当に罪作りな女なんだから」
俺は軽口を叩いてから栄養ゼリーのキャップを開けて、冷たいそれをぎゅっと握りしめた。
「最高に美味しい」
俺の言葉を聞いたアリスは呆れた様に笑って見せると、医療室に行くと言って手を振りながら部屋を後にした。アリスはその日の体調によって食事内容を変える為、こうして毎日、医療室へと足を運んでバイタルチェックをしてもらい、その日の体調に合わせた食事を食事を摂ることになっていた、体調が優れない日は朝から激しく嘔吐したり、吐血する日も目にして来た。
愛する人のそんな姿を見るのは俺にとって心臓が裂けるような、苦しい光景だった。
アリスは大丈夫と俺を安心させる為に笑顔でその度に囁くが、俺には全部分かっていた。
きっともう俺達に残された時間は少ないと言う事を。
俺は一人になった部屋で目を閉じて考えた。
「後、六年…六年しかないんだ…」
俺は目を開けてアリスの出て行った扉をみつめた。
「アリス…」
俺の呟きは誰にも届く事がなく虚空に吸い込まれていく。
俺達悪魔のカナリアの一日がこうして始まった。
また今日も誰かが誰かの手で殺される。
抗う事も出来ずに…。
* 「はぁっ………はぁ……っはぁ…何とか此処まで帰って来れたけど、急所外してくれたにしても、怪我人には変わんねーんだから…全く…心友にこんな痛い事してんじゃねーぞ…あいつ」
一人の青年は息も荒く、マンションの一室で腕に響く痛みと、銃弾で傷付いた腕が化膿した事で、起こっている酷い熱に魘されていた。
「本当、笑えない奴だぜ」
そう言いながらも青年の表情には笑みが含まれていた。
青年は重たい身体をゆっくりと動かして起き上がると、ベット傍の小さな木目調のチェストを開き、心友から受け取ったグシャグシャの白い紙を広げて見つめた。紙には丁寧な字でこう書き記されていた。
『君に全てを託したい、生きて此処から出て欲しい…。
アリスは今年の十二月に出産予定、赤ちゃんは帝王切開で取り上げる。
赤ちゃんが産まれたら萩野目家の長男を通じて君に赤ちゃんを預けたい…。
心友の君に託したいんだ…。十二月に入ったら午後五時にこの監獄の前にある公園に毎日足を運んで欲しい…。最後の僕の我儘なんだ、許してくれ…。
松雪咎愛 』
青年は笑みを浮かべて紙を大事そうに胸元に当てがった。
「松雪じゃなくて萩野目の間違いだろ、今度会ったら怒ってやらなきゃな」
青年、愛美平はまだ高熱のある身体をベットから起き上がらせると、寝室の窓を開ける為によたよたと歩き出した。覚束ない足取りで窓まで辿り着くと、カーテンを開けてガラス窓を思い切り開いて外の空気を肺に送り込んだ。
「本当にもう一度本物の日光を浴びれるなんてな、あいつに感謝しねーと…はぁ…でも、結婚するより先にパパになるなんて思ってもなかったな、本当にあいつのアイデアはぶっ飛んでるぜ」
平は朝の風を熱の帯びた身体に浴びせながら、一人佇む部屋の中をぐるっと見渡した。此処にはもう灯の姿はない。あるのは灯との思い出と、新しく始まった彼の人生だけだ。
「はぁ…、まずは貯金が切れる前に職探ししねーとな、愛美なんて名前使ってたら採用してもらえないかな…色々小細工しないとな…この先、何が待ってるか分かんねーけど、取り敢えず生きてくしかねーよな…なっ咎愛」
平は自身の心友を思いながら独りでに呟いた。
彼の人生はまだまだ始まったばかり…。この先に何が待っているのかなんて神様しか知らない。彼は死のリスクを背負いながら自身を逃してくれた心友に思いを馳せる。
いつの日も、どんな時も…。
部屋は一人部屋にしては広く、二人部屋にしたら狭い面積だった。飼われているカナリアには一人一人、働きによって敷地を与えられるが俺はカナリアのデスゲームで、今回を合わせて二回も勝利をおさめているのでこの部屋の他に研究の為の部屋を一つ持っていた。
飼われているカナリアは寮のように決められた寝室で眠るのだが、俺は他のメンバーから気に入られていない為、二つ部屋をもらい、一つの部屋を寝泊まりする為に使っていた。
空にしている寮の自室には沢山の資料を置き、今では書庫と化している。
俺はマザーからも良く思われていない為、マザーは俺の部屋に入る事はなかった。
マザーの代わりにアリスが俺を監視する役目で付いていてくれる。それは俺にとってもマザーにとっても気が楽なので、一石二鳥という訳だ。
最初のうちはマザーも俺とアリスを引き離そうとしていたが、俺達の圧に負け、今回のカナリアのデスゲームに勝利することを条件に今まで俺達を縛っていた時間制限を無くす許可を出してくれた。
こうして一緒に過ごせるようになった事を心から幸せだと感じている。
「おはよう咎愛、よく眠れたか?」
アリスは色味のない唇を動かして俺に問い掛けてくる。俺はアリスの髪を撫でながらゆっくりと頷いた。
「アリスと一緒が一番よく眠れるよ、一人だとあの夢を見てしまうし、安眠出来ないんだ」
「僕もだ、幼い頃の夢に魘されて眠れない日が多かった…」
アリスと俺は過去に大きな心の傷を負っている。
アリスは心だけではなく、身体中に今も治る事のない生々しい傷跡が残されている。
アリスと俺は過去の所為でこうやって此処に居る。運命とは、皮肉なもので、もし互いがカナリア(罪人)になっていなければ俺とアリスは出会う事はなかったのだろう。
「咎愛、今日はマザーに呼ばれてるんだろう?僕も同行してはダメかな?」
俺はアリスの提案に首を横に振った。グランドマザー…ロゼッタ・アルティメリア、きっと俺を呼びつけて何か適当な仕事を押し付けようとしているに違いない。今日もまた、あの女の言うところの雑草処理かもしれない。
俺はアリスを安心させる為に抱きしめた。きっとアリスは俺の事が心配で気が気ではないのだろう。普段は強く見せているけれど本当は誰よりも繊細で傷つきやすいのはアリスなのだから。
「大丈夫だよ、一人で行ってくる、それよりアリスは僕のペット達に餌をあげておいてよ、それと新しく闘魚を飼育しようと思ってるんだ、ちょうど海月の水槽が空いてるしね」
適当に思い付いた事を口走って誤魔化そうとしていたがアリスには全てお見通しだったらしい、美しい顔を険しい表情を浮かべてこちらを強く睨んでいる。
「僕は咎愛一人で話しに行くのは大丈夫だとは思えない、それにマザーのところに行くっていうのが気に食わないな…だってその間、二人きりの空間になるんだろう…そんなの嫌だ…」
側からこの会話を聞かれると朝から何を惚気ているんだ…と、勘違いされそうなのだが、実際アリスが気にしているのは嫉妬心もあるのだろうけど、マザーという恐ろしいカナリア(罪人)と俺を二人にしておいて、俺が無事で帰って来れるのかも危惧しているのだ。
「本当に大丈夫さ、アリスは余計な心配するなって、お腹の子に悪いだろ、それにあの女の前での俺の姿をアリスに見せたくない…あの女を前にすると殺意しか湧かないから」
アリスは大きな溜息を吐くと、俺の方へ近付いて抱き着いた。
「本当に早く戻って来いよ…」
俺はアリスの頭を撫でてから頷いた。
こうしてあのデスゲームから一日が経ち、俺達の生活は元の生活に戻ろうとしていた。
午前九時を回る頃、執行官用の漆黒の制服を身に纏い、俺とアリスは互いの仕事の為、部屋から出ると別々の方向に足を動かした。アリスは俺の研究室に、俺はブラッドマザーの居る看守室へと進んでいた。
看守室は俺達が住んでいる棟の最上階に位置していて、ホテルのスイートルームの様な造りになっている。それはあの女の趣味でそういているのだろうが、俺には気持ちが悪かった。
コンコンコン…。
最上階、悪魔の元締めの部屋。
俺は深呼吸をしてからあの女の合図を待った。
「入って頂戴」
何度聞いても吐き気を催す甘ったるい声を耳に入れ、俺はドアノブに手を掛ける。
右に三回左に四回、そうやって回してからではないと入れない仕様になっているマザーの部屋に足を進めた。
「あら、猫ちゃん、久しぶりね…お元気そうで何よりだわ」
俺は扉を閉めてマザーの元にゆっくりと重たい足を進めると部屋中から漂う、異様な甘い香りを吸い込まない様に息を浅く吸う様に努力した。この異様な甘い匂いの正体は部屋の隅々に置かれているお香の様なものから発せられていた。
この匂いには媚薬の効能が含まれていて、気を許してしまうとこの女の餌食になってしまう。
「もうっ、警戒心が強いんだから、貴方がアリス以外の女に興味がない事くらい痛いくらい分かっているわよ、だから私は貴方が嫌いなんだけれどね…もっと貴方が私に従順で素直になれば手厚い加護を与えてあげるのに…」
俺はチッと舌打ちをしてから口を開いた。
「あんたのいいなりになるなんてごめんだね、それより無駄口叩いている暇があるんだったら、早く俺を呼び出した要件を言ってほしいな」
怒りを露わにした態度でそう告げると、マザーはやれやれと首を横に振ってから鮮やかな紅で飾られた、厚い唇を動かす。
「もうっ猫ちゃんったら、せっかちさんなんだから、もうちょっとゆっくりしていけばいいのに…アリスみたいなお堅い女とずっと一緒にいると息がつまるんじゃないの…?」
俺はアリスを侮辱された事への怒りで我を忘れそうになった。だけどこれもマザーの作戦だ、決してマザーの思い通りになってはいけない。
「いえ、アリスが俺の全てですから、それより早く要件をお願いします」
マザーは俺の怒りを誘って、少しでも呼吸を荒くしてこの媚薬に酔わせる気でいるのだろう。そうすれば俺の持っている隠し事を全て曝け出させる事が出来るからだ。マザーは俺の顔を見てから怒りとともに溜息を吐いた。
「はぁ…猫ちゃんって本当に退屈な男の子よね、まぁいいわ、今日私が貴方を呼び出したのは今回のゲームの勝利のお祝いと、少しだけ聞きたい事があってね…」
「聞きたい事?」
俺は背筋に冷汗が伝うのを感じた。表情には出さないように努力しているものも、もし。マザーが俺達の何かを勘付いてしまっていたらと考えると吐き気さえ込み上げてくる。
「えぇそうよ、貴方に聞きたい事…貴方、アリスの纏めた報告書によると愛美平という男の子と随分、親しくしていたようね…そして最終日の深夜、愛美平の端末の死体メールが流されてないのはたまたまなのか、それとも私の目を盗んで外部に逃がしたなんて事、ないわよね?」
俺は顔色を変えずに頷いた。
「あいつを殺した後、すぐに教会共々、あの大型施設を燃やして処分したんだ、端末の体温センサーが狂ってしまったんじゃないのか…?確かにあの時俺は愛美平を拳銃で始末した、それは紛れも無い事実だ、そもそもあのゲームに参加した奴等、全員を殺す事が俺達の時間共有を認めて貰う条件だったんだ、俺はその為には手段を選ばないさ」
マザーは目を細めてから納得したように頷いた。そして鮮やかな紅を舐めとるように舌で唇を妖艶になぞると、吐き気を覚えるほどの艶かしい声で言葉を放つ。
「そう、そうならいいけれど…あの施設は直接的に外部と繋がっていたから、心配だったのだけれど、貴方の表情から嘘はなさそうね…正直、疑っていたのよ、愛美平の死体の写真の鮮血の少なさとか…端末の事とか、まぁ二人の話を信じる事にするわ、第一、貴方がアリスの事以外に意識を向けるなんて有り得ない話だものね、心のない貴方が…まさか十七人も犠牲者を出した恐ろしいカナリアと仲良くしてくれる良心的なカナリアなんているわけがないもの」
俺はギリっと歯を噛み締めた。そして重たい口をゆっくりと開く。
「もう要件は済んだのかな?」
マザーは不気味な笑みを浮かべると一枚の紙を手渡してきた。
「それは今日からの貴方の一ヶ月分の仕事のスケジュール、ジルとジンの零した雑草の始末も貴方に頼むわ、後、アリスの仕事も貴方に割り振ってあるから頑張ってね…まぁその分の賃金は弾むわ、私の要件はこれでお終い、じゃあね猫ちゃん」
俺は最後にチッと舌打ちを響かせると恐ろしいあの女から身を離していく。
ドアノブに手を掛けて外へ出ると、大きく深呼吸をした。
室内に居た時に浅くしか呼吸出来ていなかった所為で軽く酸欠になりかけていた。
俺はマザーから渡された紙に目を通して溜息をついた。
雑草…マザーの言う雑草とはカナリアの成れの果てと言うべきなのか、精神的におかしくなってしまった保護対象や家族や行き場もなく、此処に入れられてしまった高齢者の事を指していた。
俺はそういった仕事が大嫌いだった。何の為に倫理観を持ち合わせているカナリアを始末しないといけないのか、その意味が分からなかったからだ。
「チッ、あの女、今すぐにでも始末したいのに、歯痒いってこう言う気持ちなんだな」
俺は怒り任せに近くにあった植木を派手に蹴り、廊下に土を撒き散らした。あの女が居なければこんな意味のない死刑を執行する事は無くなるのに…。
今はまだ、それを実現する術が俺にはない。
きっと何年掛かっても俺はあの女を殺さないといけない、絶対に。
そんな事を考えながら俺は研究室に足を進めた。雑草処理の仕事は午後に予定されているからそれまでの時間は自由に使える。
俺は大概、自由な時間が設けられると、研究室で様々な生き物の観察に勤しんでいた。観察が趣味というよりは、自身の研究を外部の機関に提供して外部の人間の役に立ててもらう事が一番の目的だった。
午後十時半、俺は研究室の扉の鍵を開けて中に足を踏み入れた。
「遅かったな…何もされなかったか…?」
研究室の中に居たのは複数人の白衣を纏ったカナリアと、細身の美しい女性だった。この白衣を纏ったカナリアは俺とアリスの管理下にあるカナリアで、各国で色々な研究や医療機関に携わっていた保護対象のカナリア達だった。
細身の女性、釘井アリスは俺を視界に入れると、頬を緩ませてゆっくりと黒いブーツの音を響かせて近付いて来る俺はアリスに向き直って笑みを浮かべる。
「あぁ、心配要らないよ、要件は平の事、それと今後のスケジュールだった、今後はアリスの仕事と雑草処理、それから我儘ボーイズのお仕事を手伝えってさ」
はぁ…、と溜息混じりに言葉を話した俺をアリスは優しく抱きしめた。
「咎愛に全部背負わせてごめん…愛美の事は上手くかわせたか…?」
俺はアリスの言葉に頷いた。
毎日の光景に室内のカナリアは動じる事なく、コンピュータに向き合ったままテキパキとキーボードを打ち込んだり、書類を細々とファイリングしたりしていた。俺はそんな室内でアリスのシルバーの十字架のピアスを吐息で揺らしながら耳元で囁く程度に声を出した。
「大丈夫、平の事は上手く逃れた、仕事の件はアリスが気にする事はないよ…」
アリスは俺からそっと身体を離すと囁き声で俺に返答した。
「このまま上手くいけば僕達の願いは叶う…それまで僕等に出来る事は全部済ませておかないとな」
俺は頷いた。アリスの言葉には恐ろしい位の重さがあった。
俺は室内の革張りのソファにドスンと腰掛けて、手で合図をして隣にアリスを招いた。アリスは備え付けの小さな台所から湯気の立つミルクココアの入ったマグカップを手に持って、俺の元へ歩いてやって来た。
俺はソファの前にあるガラス張りの小さな丸テーブルにアリスから受け取ったマグカップをコトンと音を立てて置いて、湯気が去るのを眺めていた。
アリスはそんな俺を見てふふっと笑みを零した。
「相変わらずの猫舌さんだなっ、僕は先にいただくぞ」
そう言うと、アリスはマグカップを小さな唇に当てがってミルクココアを喉に流していった。
「俺の猫舌は一生治らないよ、直す気もないしね」
そういうと俺は徐に立ち上がって、近くのコンピュータに向き合っている研究員の見ている画面を背後から観察した。画面にはクローン研究のレポート、人工的に作り上げた胎内についてのレポートがびっしりと画面を黒に染める様に広がっていた。
俺は背後から近寄って若い男性の研究員に声を掛けた。
「このレポートもうすぐ上がりそう?」
俺の問い掛けに研究員は顔色を変えずに頷いた。
「今週中には纏めて提出が可能ですね、松雪様が急ぎなら明日までには上げますが…」
俺は研究員の言葉に首を横に振った。
「ううん、今すぐに欲しい訳じゃないんだけれど、このレポートを外部の持ち出して、不妊治療に役立てたり出来る日が来るのかな、って考えてただけなんだ、まぁ早いに越した事はないど、適度に休憩入れて体壊さないようにしてよ」
俺の言葉に研究員は頭を下げて再びコンピュータに向き直った。
俺は再びソファに腰掛けると、先程より湯気の勢いが消えたマグカップに指を掛け、一口、口内に注いでみる。
甘くて優しい温かさが俺の中に広がっていく。
「はぁ…美味しい…さぁて一時間くらいしたら仕事しないとね」
俺の言葉にアリスは申し訳なさそうな表情を浮かべると、ワインレッドのネイルをした長い爪を丁寧に磨き始めた。
出会ったばかりの頃を思い出すと今のアリスの行動は嘘のように思える。
初めてアリスと出会った時は今のような美しい巻き髪もとても短いショートヘアだった、爪も手入れされておらず、化粧なんてほぼ無縁というような地味な女性だった。
俺と出会って間もなくして、アリスは自身の美しさに気が付いたかのように化粧やネイル、髪の毛に気を遣うようになり、今のような女性に変わっていった。その背後には榊栞の存在があったとアリスから聞かされていた。
俺の知らないアリスを知っている榊の事を俺は良く思う事は最後までなかったが、アリスにとって彼女は忘れられない存在だという事は俺も良く分かっていた。
アリスは事あるごとに榊に対しての感謝の言葉を口にする。
「栞が僕にお洒落をするように言ってくれたんだ、そんなんじゃ咎愛に嫌われるぞって…だから栞には感謝しないと」
なんて、俺は別に釘井アリスという人間を愛しているのだから、見た目なんて気にしていないのに…。そう思うと榊に対する小さな嫉妬心が芽生えてくる。これはカナリアのデスゲームが始まる前からそうだった。
そんな事を考えながら爪を磨くアリスの方を眺めている、アリスの透き通る藍色の美しい右目と視線が絡んだ。アリスは俺を見つめて悪戯っぽく微笑むと薄桃色の光るグロスを塗った唇を動かした。
「咎愛の考えている事を当ててやる…その顔は栞に嫉妬してる顔だ…当たってるか?」
俺はアリスの巻き髪に指を絡めてから口を開いた。
「御名答…全部お見通しか…俺って顔に出やすい?」
俺の問いにアリスは頷いた。
「仕事中以外は、顔に全部書いてある…そういうところも咎愛の良いところだ」
俺は首を傾げる。アリスの言う良いところの意味が分からなかったからだ。
「どうしてそれが良いところなんだ?」
アリスは唇を動かす。
「咎愛は飼われているカナリアになりきれないって意味さ、ちゃんと感情がある…ジルとジンとは違う…だから僕も咎愛を好きになったんだろうな…僕も咎愛に会わなければああなっていたかもしれない」
アリスの言葉を聞いて俺はジルとジンの事を考える。
クレイジージェミニ…ジル・ベンダーとジン・ベンダー、彼等は俺より二つ歳上の金髪碧眼のイギリス国籍のカナリアだ。
彼等の死刑の仕方は彼等が双子であるが故に成り立つものだった。
人間の想像力、滑稽さ、人間の儚さを詰め合わせたようなそんな死刑方…。彼等は死刑を楽しみ、そして何よりもマザーに愛を捧げている。
俺はそんな彼等を見ていると寒気を催す。彼等もまた、マザーに反抗的な意思を見せる俺とアリスに嫌悪感を抱いており、仕事以外ではまともに話をした事がなかった。
最後に会話したのはいつだろう。
思い出す限りでは一年以上前のような気がする。
『茶トラ…不気味な生き物』『茶トラ…僕等と違う』
そんな様な事を二人に言われて返答もせずにいたままかもしれない。
そんなこんなで俺とアリスを彼等は良く思っていない。俺達もまた彼等を良く思っていないのと同じ…相手の気持ちは合わせ鏡…。どこかで聞いた様な謳い文句が俺達の関係をそっくりそのまま表している。
そんな考えに耽っていた俺にアリスは笑みを向けるとお腹に右手を添えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「咎愛、僕はそろそろあっちの部屋で休むよ…今日は固形物を食べられたから点滴は少なくて済みそう…仕事が終わったら一緒にもう一人の赤ちゃんを見に行こう、早く戻って来いよ」
俺は歩き去るアリスの背中を部屋からアリスの体温が消えるまで見つめていた。
「今日は点滴が少なくて済みそう…か…アリス…本当に良かったのかな…」
俺はソファの上に横になった。背中に先程まで座っていたアリスの体温を受けながら、アリスの事を頭に思い浮かべる。
初めて出会ってから今日までの事、そして迫る約束の時の事。
アリスの妊娠が分かった日、俺は喜びと共に、本当にこれでいいのか…。という思いに駆られていた。アリスは迷う事なく、この子を産むと言ったけれど、アリス身体の事を思えば…。なんて、時に頭を抱える日もあった。
だけど、日に日に母の顔をするアリスを見ているとそんな不安も少しずつ消えていくような気がした。それに心友の平に言われた『良いパパになれよ』と言う言葉が思い返されて頬が緩んだ。
「平の奴…覚えておけよ…平こそ…良いパパになれよ…」
俺は小さく呟くと、考えに耽っていた頭を左右にふるふると振って、ゆっくりと重い腰を上げて伸びをした。
漆黒の執行服の袖から覗く悍ましい痣に目を向けると、部屋の外へと歩いて行く。
ガチャ…。と、扉を締めると、執行服の内側から茶トラと呼ばれる理由の一つの仮面を身に付ける。
そして今日も、こうやって松雪咎愛は仕事を熟すのだ。
向かう先は十人程の身寄りのない高齢者が押し込められた中庭風の作りの執行場所だった。此処には確か、精神統一期間として牢にいた四ヶ月前の俺が五人程殺した場所だった。
俺は中庭の扉に手を掛けた。
中には二人の刑務官がおり、俺に向かって敬礼をする。
「五十二番様、本日の死刑執行、宜しくお願い致します」
『五十二番、承りました…』
自分でも驚くくらいに冷たい声で呟いた俺を見つめるカナリア達の視線を感じる。
そして俺は思うんだ、こんなの間違っていると…本当に。
警察が犯罪者に敬礼なんて…馬鹿げた世界だ…。
俺の内心なんて知らずに目の前の高齢者のカナリア達は悲鳴を上げたり、覚悟を決めたように手を合わせ目を閉じている者も確認出来た。
本当の俺は仮面の下では泣いているんだ。
例え涙が出なくても…。
こんな無意味な死刑に意味がないと分かっていても、何も出来ない自分に対して憤慨しているんだ。
だけど…だけど。
皆、皆、知らないんだ。
俺の本心なんか…。知る余地もないんだ…。
一人の刑務官が俺に大きめの拳銃を差し出した。俺はそれを受け取ると、カナリア達に構えた。
銃の重みよりも何よりも…。
両手じゃ支えられない命の重みを感じながら。
パンっ。
簡単に放たれた銃弾が一人のカナリアの脳天に命中し、血飛沫を飛ばしながら地面にばたりと倒れる。
それを見た他のカナリアが空を劈くような金切り声を上げる。
俺は悲鳴を上げたカナリアに照準を合わせトリガーを弾いた。
ばたり…。ばたり…。
まるでマネキンが地面に転がっているようだ…。
ただ違うのは、さっきまで此処にいるマンキンには血が通い、心臓が動き、体温があったという事、言葉も発せられれば、思考もあり、感情もあったという事…。
そして、誰かの大切な人だったという事…。
誰かと誰かが愛し合って出来た…そんな奇跡に近い存在だったという事…。
「お疲れ様でした」
そんな軽い挨拶が俺に向かって飛んで来た。俺はそれを軽い会釈で返すと、手に持っていた重たい拳銃を刑務官に返した。
『五十二番、死刑執行完了致しました、退場致します、お疲れ様でした』
俺は中庭から廊下に続く扉に手を掛けて、その場を後にした。
「何がお疲れ様でした…なんだよ」
俺の呟きは誰の耳に入る事もなく虚空へと消えて行く。吸い込まれるように消えて行くんだ…。
雑草処理が完了した事を示す、書類を作成し、データを転送し終えて、この日の仕事は一段楽着いた。
俺がアリスと再会出来たのは午後九時の事だった。
アリスの言うもう一人の赤ちゃんに会いに俺は研究室ではない寝室にしている部屋に足を進めていた。
指紋認証で鍵を開けると、扉の前にはアリスが待ち伏せしていたように待っていた。執行服ではない普段着に着替えている様子を見るに、入浴はもう済ませているようだ。
「お帰り」
「ただ今」
俺はそう言うと、部屋の中に足を進めた。アリスは俺の後を子犬のようについて来る。俺は部屋の奥の物置に見えるスペースの扉を開けた。
そこには子供一人分くらいのガラス張りの円柱の機械とその中にはまだ人の形を形成する途中の俺たちの子供が存在していた。
「ほら、パパが帰って来たぞ、よかったね」
アリスは機械の中の子供に向かって声を掛けた。俺も機械の中の我が子に笑みを向けた。
「ただ今、帰って来たよ」
分かってるんだ…。血に染まった犯罪者(カナリア)の俺達が子供を授かって、こんな風に幸せを味わってはいけない事も…。
だけど、俺とアリスは自分の家族を求めていた。
俺は母を失ったあの日から…。アリスは父親に裏切られたあの日から…。
俺は背後に立っていたアリスを思い切り抱きしめた。
「ん?どうした?咎愛?」
突然の出来事に驚きを隠せないアリスに幼子のようにただ抱き着いてアリスの細い肩に顔を埋めた。鼻腔に広がるアリスのボディークリームの柔らかな甘い香りに心を擽られるような感覚に陥る。
「咎愛…?大丈夫か?」
俺は心配そうに問いかけるアリスの首筋に唇を当て、撫でるように動かす。
「どうしたんだ…?」
僕の行動に驚いたアリスの声は少しだけ甘いものに変わっている。俺はアリスの首筋から唇を離すと、アリスの手を握って寝室の方へと歩いて連れ出した。
「今日は疲れて、甘えたくなったんだ…平に良いパパになれよ…なんて言われたのに俺はまだまだアリスに甘えないと生きていけないみたい…はぁ、リフレッシュしにシャワー浴びて来るよ、眠かったら先に寝てて」
俺はそう言うと浴室の方へ足を運んだ。アリスは優しい笑みを俺に向けた。
アリスといると自分の立場を忘れてしまいそうになる。カナリア(罪人)、父親、俺には背負いきれないような責任感を忘れて本能が働いてしまう自分に失望しかない。
こんな事、平に相談できたらよかったのにな…。平はこんな俺を笑ってくれるのかな…。意外と変態なんだなとか言って茶化してくれたのかな…。もっと早く会えればよかったのに、アリスにも平にも…。
俺は蛇口を捻って素肌にお湯を浴びせた。今日の悍ましい汚れを洗い流すために。
シャワーから出ると、アリスがベットに横になり左目を鏡で熱心に見つめていた。
「何してるの?」
「咎愛、上がったのか、いや…このなくなってしまった左目でも自分の赤ちゃんを見れたらよかったのにって思ってたんだ、まぁそんな事思ってもしょうがないんだけどな」
俺は思わず涙が込み上げそうになるのを必死で堪えた。どうしてアリスばかりこんな事…。
俺はアリスにゆっくり近付いて抱きしめた。
細くて柔らかい女性の身体…。俺の大切な人。
「大丈夫だよ、僕は咎愛が居てくれればそれだけで良い…こうやってこんな身分なのに赤ちゃんも授かったんだ、これ以上、高望みはいけないよ…」
「アリス…愛してる」
俺達はどうしても抗えない運命に飲まれていく。
今日も明日も、こうやって逃げ出せない苦しみを抱えて生きていくしかないんだ。
俺は暫くアリスを抱きしめていた、すると、胸元からスースーと愛らしい寝息が聞こえてきて、ゆっくりとその身を離して布団に寝かしつけた。
「俺より四つも歳上なのにまだまだ可愛いな…本当に」
俺はアリスを起こさないようにそっとアリスの横に身体を収めた。俺の隣のアリスが無邪気な寝顔を曝け出しているのを横目に、俺もそっと目を閉じた。
翌朝、アラームの音で夢見心地が覚めると、隣で眠るアリスの横顔を意味もなく、暫く観察していた。アリスは午前六時半になると体内のリズムなのか自然と目を開く。今日も六時三十分を回るとアリスの藍色の瞳に俺の窶れたような顔がはっきりと写されていた。
「おはよう、よく眠れた?」
俺の問い掛けにアリスは頷く。
「おはよう、咎愛、今朝は咎愛の方が早く起きたんだな…僕は懐かしい夢を見ていたよ」
「あの夢?」
俺の言うあの夢とは決していいものではない…。アリスがいつも魘されているあの恐ろしい櫓櫂順一に寄生虫を放された時の夢だった。
だけど、俺の言葉にアリスは首を横に振った。
「ううん、あの夢じゃないよ…僕が見たのは咎愛と初めて会った日の夢…あの日の事は僕にとって大切な思い出なんだ、一生の宝物だ」
俺はアリスの髪を優しく指で掬った。柔らかいシルクのような感触が俺の指をすり抜けていく。
「あの日は凄い大雪だったろ?正直、ジルとジンのお零れの仕事だから乗り気じゃなかったんだ…それにマザーの手に負えないなんて言われたら余計にやる気は失せてたよ」
アリスは苦笑しながら俺の頬を指で摘んで遊び始める。俺はそんなアリスの指を捕まえて自分の指に無理矢理絡めて優しく握り締めた。
「懐かしいね、俺は一目惚れだったよ」
冗談っぽく言って見せた俺にアリスは恥ずかしそうに俯いた。こんな初々しい反応も俺には愛おしくて仕方がない。
俺はあの日の事を目を閉じて思い返していった。
*これは今から四年前…。十五歳で連続殺人犯として収監された少年松雪咎愛は少年院ではなく悪魔の鳥籠へと身柄を搬送された。
彼は全身血塗れの状態で搬送され、取り調べにも淡々と答えていた。
世間には精神疾患を患っていた為、事件の恐ろしさが判断できなかったという風に発表されていたが、本当は彼の精神状態は恐ろしい程、異常がなく、鳥籠内でも顔色一つ変えずに平然としていた。
そんな彼、松雪咎愛は刑務官達の話し合いの結果、死刑囚として四百九十番のカナリアとして牢に入れられた。
手、足を壁に繋がれ話も出来ないように移動や、食事中以外は口に猿轡をかまされ、彼は意志のない人形に成り果てたように見えた。
そんな彼は、一日に三食の食事の時間、運ばれた食事を摂る為に刑務官達が手錠や足枷、猿轡を外そうと近寄ると、物凄い勢いで身体を動かして暴れ、刑務官達が近付くのを避けていた。暴れた反動で手、足首は金属で抉られ、爛れ落ちた真っ赤な皮膚は刑務官達を狂わす程に悍ましいものと化していた。
そんな彼の様子を見ていた刑務官は報告書を提出。収監されてから一週間もしないうちに死刑の予定が組まれたのだった。
彼の死刑を最初に担当したのはクレイジージェミニと呼ばれる双子の悪魔のカナリアだった。彼等はお得意の洗脳術で彼を死の世界へと誘おうとしていた。
彼は不気味な石造りの部屋へと案内され、一脚のパイプ椅子に座らされた。
彼の目にはアイマスクが当てがわれ、真っ暗な閉鎖空間に一人で居るような錯覚に見舞われるように洗脳されていく。
まず最初に兄のジルが彼の前に立ちはだかり、耳元の吐息がかかる距離で不気味な声で言葉を放つ。
「松雪咎愛君…ようこそ…いらっしゃいました…此処は数々のカナリアが死の世界へ旅立った部屋…トリックルームです…我々ジルとジンが松雪君を死の世界へと案内致します…今日、貴方を殺す方法を話しておきましょう…貴方の手首を刃物で切ってじわじわと死の世界へとお連れ致します…それでは、死の恐怖をご堪能ください…」
そう言うとジルが耳元から離れたのか、石を蹴る革靴の音だけが室内に響いていた。
暫くすると、彼の手首には何やら冷たい物が当てがわれ、彼の抉れ落ちた皮膚にキリキリとした痛みが走る。
先程と同じ声の主、ジルが彼の耳元に再びやって来ては、冷たい声で囁く。その声はまるで本物の悪魔が現世に現れたような、そんな不気味な声だった。
「さぁ…今貴方の左手首は、私の弟のジル・ベンダーによって刃物でゆっくりと切られております…痛みが消えるのも時間の問題でしょう…何故なら、貴方の左手首からは真っ赤な鮮血が大量に滴り落ちているのですから…」
彼が手首の痛みを堪えて、周囲の音に意識を向けると、ポタっポタっと生暖かい感触と共に、水滴が滴り落ちる感触と音を感じた。
彼はそれでも意識を手首に集中させ続けた。ジルの言葉を耳に入れないように精一杯の努力をした。
何時間が経過したのだろうか、手首にあった痛みは消え失せ、ジルの言葉も発せられる事がなくなった。彼は不思議に首を傾げた。
「くそっなんでだよっ!!!なんなんだよこいつ!!」
「兄さん落ち着いて、僕等の仕事の時間を過ぎたんだ、これ以上やっても意味はないよ…これはマザーか釘井行きのカナリアだ、十七人を一気に殺ったって聞いていたけど、やっぱり伊達じゃないよ」
彼はクレイジージェミニが何を言っているのか分からず、ただその場に座っている事しか出来なかった。暫くそのままで居ると、乱暴に彼の手錠を掴まれて椅子から立ち上がらされた。そして、彼の視界に光が戻る頃には彼は再び元いた牢に戻されていたのであった。
彼は光に慣れない目をゆっくりと閉じた。
手首の状態を見ると、彼等は刃物を押し当てていたような目立った切り傷はなかった。
目を閉じて十分程、彼はクレイジージェミニの死刑について意識を巡らせていた。
そして松雪咎愛は一つの結論に到達する。
『そうか…彼等が二人いるいる意味、閉鎖空間の中で、一人が虚言で洗脳して、もう一人が虚言を再現する振りをする、きっと手首に当てがわれていたのは刃物ではなく、体温で溶けて水が滴るようになる様な何か…そうか…氷…』
松雪咎愛が行き着いた答えは、彼等の死刑のトリックだった。
閉鎖空間で視界を奪い、極度の緊張状態を作り出し、パニック状態に陥らせて、虚言で洗脳させる。その虚言に合わせる様に、もう一人が氷を当てがい手首を滑らせ、氷が皮膚に伝わる痛みを刃物を滑らされていると錯覚し、体温で溶けた氷が生暖かな水と共に滴る感触を血液が滴っていると錯覚させて、ショック死を煽っている。
これが、彼等のトリックだ。
錯覚…。洗脳…。様々な現象も含めて、あの場所はトリックルームと呼ばれているに違いない。
気を抜いたら死んでいただろう。
彼が死ななかったのには理由があった。それは彼自身が傷付けた手首と足首の傷…。氷を当てがわれている痛みで正気を保つ事が出来ていたのが大きな要因だった。
死なないといけないのに…。死ねなかった…。
彼は後悔の念に苛まれて壊れた人形の様に項垂れた。
翌朝、彼の牢の前に一人の美しい女性が現れた。女性は甘ったるい香りとハイヒールを響かせ牢に近付くと項垂れたままの彼に鮮やかな紅を塗った唇を艶めかしく動かして甘ったるい声を発した。
「初めまして…茶色の猫さん…私は、ロゼッタ・アルティメリア、貴方、ジルとジンの死刑を耐え抜いたみたいね…だから、私が直接、貴方に手を下そうと思ったんだけれど…それより先に私達の仲間の釘井アリスが貴方の死刑を執行するわ…今日の午後、貴方に死というプレゼントを授けるわ、楽しみにしていてね」
それだけ告げると女性は踵を返して歩き去って行った。彼は思っていた、倫理観を失ってしまった以上、誰に殺されても悔いはないし、寧ろ一日でも早く殺して欲しい。
女性の宣言の通り、正午を回るとすぐに牢の外に連れ出された。数日の間食事を摂っていないせいか彼の身体はボロボロだった。まともに歩く事すら出来ず、よろよろと眩む視界の中、刑務官に連れられて歩き続ける。
次に生き延びられてもきっと断食の効果が功を為してそのうち死ぬだろう…。
彼の頭に浮かんでいたのはそんな恐ろしい考えだった。
彼は壁一面、真っ白な小さな部屋に連れ込まれた。室内には彼の他に細身のショートヘアの女性が立っているのが見える。女性は真っ黒な衣服に身を包み、背中に何かを背負っているのが窺える、下半身は太腿までのロングブーツを履いて、耳にはチラチラと揺れる十字架のピアス、顔は真っ黒な仮面で鼻まで覆われていて、その表情は窺えなかった。仮面の外に出ている小さな唇は水気を失いカサカサと乾燥していた。
細身の女性は彼を視界に入れると小さな唇を動かした。
「少年、松雪咎愛、私、釘井アリスが死刑を執行致します」
女性はそういうと一歩、一歩、彼に歩み寄って来た。彼女は背中の方に手を伸ばして、小型のチェンソーを取り出して、電源を起動させた。
グウィーン…。と不気味な音を響かせて彼女は彼に近寄ってくる。
あぁ、これで首を刎ねられて死ねるんだ…。これで…。
そう思っていた、目を閉じて覚悟を決めようとしたその時、彼は見てしまった。
彼女の仮面の下からキラキラと光る雫が零れ落ちてくる瞬間を、初めは見間違いだと思っていた、見ず知らずの犯罪者を殺すのに死刑の執行人が涙を流すなんて、そんな事があるはずはないと思っていた。
だけどそれは紛れもなく彼女の流した涙だった。きらり、きらりとダイヤモンドの様に煌くそれは、彼の凍った心を溶かす様に心の傷口に染み込んでいった。
「泣いているのか…?」
彼は思わず口に出して呟いていた。彼の目前まで迫っていた彼女は彼の呟きを耳にしてその足をピタリと止めた。
この場を支配しているのは、チェンソーの起動音のみだった。
「あんた泣いているの…?」
彼は再び彼女に問い掛けた。彼女は彼の問いに答える事なくただ顔を隠す様に俯いた。
「あんた泣いているの…?」
彼は彼女に問いかける、彼女はチェンソーの電源を切り、彼の方を仮面越しに強い眼差しで見つめた。
二人の間に不思議な空気が漂った。
彼女は再び地面に視線を落とした。彼はその視線を自分に合わせる為に手錠の付いた手で彼女の細い顎を捉えて自身に視線を定めさせた。
「ねぇ、なんで泣いているの…?」
彼女はなおも答えなかった。
彼は彼女の仮面にそっと手を伸ばした。彼女は抵抗する事なく、彼の前に美しい素顔を曝け出した。仮面の下の彼女の素顔は、色白で精巧に作られた人形と見紛う程の美しいものだった。左目には黒い眼帯を着け、右目は深い藍色をしていた。その右目には窶れた松雪咎愛が写っている。
「なんで…泣いているの…?」
彼はそう呟くと、彼女の目から溢れる大量の涙を上手く動かない腕を動かして、そっと拭って見せた。
「もう、泣かなくていい…」
彼はそう呟いた。どうしてそんな事を言ったのか、自分でもよく分かっていなかった。だけど、彼は今、彼女を守りたいという強い思いに駆られていた。
彼は彼女に近寄ると、人形の様な彼女の顔に自分の顔を近付けた。そうして、そっと、二人の唇が重なった。
どうしてなのだろう…。
二人にはよく分かっていなかった、どうしてこんなにも安心している自分が居るのか、どうしてこんなにも初めて会った人に惹かれているのか、よく分からなかった。
そして、彼女は彼を殺せずに部屋からゆっくりと歩き去った。彼にありがとうと呟いて。
*あの日の夢の話をアリスが終えると、アリスは思い出した様に苦笑しながら口を動かした。
「あの後、大変だったんだぞ、マザーに酷く叱られて、それから咎愛を生かす為にカナリアのデスゲームに参加してもらったり、色々あったよ…まぁ今はこうして咎愛と入れる事が僕を活かしているんだけどな」
俺はアリスの言葉に笑みを浮かべた。
「俺はアリスの泣き顔を見て確信したんだ、この人は殺す事に対してちゃんと後悔の念を持っていると…躊躇いなく殺しが出来る人じゃない事に安心したんだよ」
アリスは恥ずかしそうに俯いて顔を隠した。
「もうっ!この話はお終いにするぞっ!さぁ、起きて仕事しないと」
そんな事を言いながらアリスは着ている衣服を淡々と脱ぎ捨てて、執行服に身を包んでいった。俺もその光景を眺めながら、自分も執行服に…執行人へと姿を変えていく。
「さぁて、今日も働きますか…」
俺は伸びを一つすると、ボサボサの髪を手で整えてから、今日の予定に目を通した。
「今日はジルとジンのお零れか…あいつらの殺り方は個人差が激しいからな…厄介なカナリアじゃなきゃいいけれど」
ジルとジンの死刑の方法は俺の様にトリックを見破ってしまえば、上手く逃れられる可能性が高く、こうやって失敗した死刑は俺やアリスへと回されていた。
俺は溜息を一つ吐くと備え付けの台所に向かって歩き出した。朝食はセキュリティハンターが運んできてくれるが、朝一番は栄養ゼリーを飲むのが毎日のルーティンとなっていた。だから、俺はカナリアのデスゲームの最終日に栄養ゼリーを注文したのだ。
「本当にそれ好きだよな、ゲームの始まる直前の日に咎愛の朝食に出すように命令したんだけど気が付いていたか?」
アリスの言葉に俺は笑顔で頷いた。カナリアのデスゲームが始まる直前の日の食事に栄養ゼリーが出されていて、深層心理を作り出す精神統一に励んでいたのにも関わらず、アリスの事を思い出して頬が緩んだのをはっきりと覚えていた。
「お陰で一日中にやけそうになっちゃったよ、本当に罪作りな女なんだから」
俺は軽口を叩いてから栄養ゼリーのキャップを開けて、冷たいそれをぎゅっと握りしめた。
「最高に美味しい」
俺の言葉を聞いたアリスは呆れた様に笑って見せると、医療室に行くと言って手を振りながら部屋を後にした。アリスはその日の体調によって食事内容を変える為、こうして毎日、医療室へと足を運んでバイタルチェックをしてもらい、その日の体調に合わせた食事を食事を摂ることになっていた、体調が優れない日は朝から激しく嘔吐したり、吐血する日も目にして来た。
愛する人のそんな姿を見るのは俺にとって心臓が裂けるような、苦しい光景だった。
アリスは大丈夫と俺を安心させる為に笑顔でその度に囁くが、俺には全部分かっていた。
きっともう俺達に残された時間は少ないと言う事を。
俺は一人になった部屋で目を閉じて考えた。
「後、六年…六年しかないんだ…」
俺は目を開けてアリスの出て行った扉をみつめた。
「アリス…」
俺の呟きは誰にも届く事がなく虚空に吸い込まれていく。
俺達悪魔のカナリアの一日がこうして始まった。
また今日も誰かが誰かの手で殺される。
抗う事も出来ずに…。
* 「はぁっ………はぁ……っはぁ…何とか此処まで帰って来れたけど、急所外してくれたにしても、怪我人には変わんねーんだから…全く…心友にこんな痛い事してんじゃねーぞ…あいつ」
一人の青年は息も荒く、マンションの一室で腕に響く痛みと、銃弾で傷付いた腕が化膿した事で、起こっている酷い熱に魘されていた。
「本当、笑えない奴だぜ」
そう言いながらも青年の表情には笑みが含まれていた。
青年は重たい身体をゆっくりと動かして起き上がると、ベット傍の小さな木目調のチェストを開き、心友から受け取ったグシャグシャの白い紙を広げて見つめた。紙には丁寧な字でこう書き記されていた。
『君に全てを託したい、生きて此処から出て欲しい…。
アリスは今年の十二月に出産予定、赤ちゃんは帝王切開で取り上げる。
赤ちゃんが産まれたら萩野目家の長男を通じて君に赤ちゃんを預けたい…。
心友の君に託したいんだ…。十二月に入ったら午後五時にこの監獄の前にある公園に毎日足を運んで欲しい…。最後の僕の我儘なんだ、許してくれ…。
松雪咎愛 』
青年は笑みを浮かべて紙を大事そうに胸元に当てがった。
「松雪じゃなくて萩野目の間違いだろ、今度会ったら怒ってやらなきゃな」
青年、愛美平はまだ高熱のある身体をベットから起き上がらせると、寝室の窓を開ける為によたよたと歩き出した。覚束ない足取りで窓まで辿り着くと、カーテンを開けてガラス窓を思い切り開いて外の空気を肺に送り込んだ。
「本当にもう一度本物の日光を浴びれるなんてな、あいつに感謝しねーと…はぁ…でも、結婚するより先にパパになるなんて思ってもなかったな、本当にあいつのアイデアはぶっ飛んでるぜ」
平は朝の風を熱の帯びた身体に浴びせながら、一人佇む部屋の中をぐるっと見渡した。此処にはもう灯の姿はない。あるのは灯との思い出と、新しく始まった彼の人生だけだ。
「はぁ…、まずは貯金が切れる前に職探ししねーとな、愛美なんて名前使ってたら採用してもらえないかな…色々小細工しないとな…この先、何が待ってるか分かんねーけど、取り敢えず生きてくしかねーよな…なっ咎愛」
平は自身の心友を思いながら独りでに呟いた。
彼の人生はまだまだ始まったばかり…。この先に何が待っているのかなんて神様しか知らない。彼は死のリスクを背負いながら自身を逃してくれた心友に思いを馳せる。
いつの日も、どんな時も…。
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