悪魔のカナリア

はるの すみれ

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第一章 カナリアのデスゲーム

四ページ 愛しい貴方に生贄を…

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      月華ちゃんと、芙蓉さんの死を知らせたメロディが頭に焼き付いて離れないまま、僕はメールを受信してから一時間も真っ白な天井を見つめ続けていた。


  まるで身体に付着した寄生虫を落とす為に水中に浮上し、水面に身体が打ち付けられ、己の行動で自らの死を招いてしまった。マンボウの様に僕はただ天井を見つめる事しか出来なかった。


  次は僕の番かもしれない…。


  また誰か死ぬかもしれない…。
 お互いで殺しあったり、或いは悪魔に殺される可能性も捨てられない。


  今日も生きている以上この恐怖を課せられているカナリアは僕を含め残り八名…。


  僕は震える声で呟いた。


  「僕は…今日…も…生きていかなきゃいけない」


  この時の僕は何も知らなかった。


  何も知らなかったんだ。


  僕は漸く重たい身体をベッドから起き上がらせると顔を洗うために洗面台を目指した。それに、今朝は何だかシャワーも浴びたい。
 自分でも意識しないところで、沈んでしまった重たい気分をリフレッシュさせようとしているのかもしれない。


  今朝は五時に目が覚めてしまったから普段、平と合流する九時までにはまだ時間がある。


  僕は虚ろな表情のまま、洗面台とシャワーのある浴室に入り、一枚ずつ服を脱いでいく。
 一枚、また一枚と裸体になるに連れ、僕の手首と足首に付いている生々しい痣が僕の視界を占拠していく。


  「これは…どうやって付いたんだろう?…触っても痛くないけど…」


  僕は独り言を呟きながらシャワーの蛇口を捻った。お湯になりきれない冷水が僕の頭から降り注いだ。


  「冷たいっ…!」

   あれっ…。


  僕は突然強い目眩に襲われて思わず地面にしゃがみ込んだ。


  目眩と共に僕は恐ろしい出来事を思い出した。
  中学生の頃だっただろうか、真冬の藻の浮いた汚いプール。


  昼休みにクラスメイトから強引に連れ出された僕は真冬の藻の浮いたプールの中に手足を縛られ、投げ込まれた。


  息も出来ない、泳ぐ事も出来ない。
  口に入るのは黴臭いとも、腐敗臭とも言い切れない吐き気を催す水の味。


  僕が無理にでも水面に顔を出そうとすると、クラスメイト達が僕の頭を再び水面へと沈める。体感では数分程、同じ行為が繰り返された時、プールの近くで話し声が聞こえ、クラスメイト達が僕から離れて行った。


    記憶はそこで途切れている。
  手足を縛られたままだった僕がどうやって助かったのか、僕がそんな事をされるようになったきっかけが何なのかまでは思い出せなかった。


  ただ僕が覚えているのは、あの時の肌を裂くような水の冷たさと、死ぬかもしれないという恐怖心だった。だから、僕は無意識のうちにプールを見て恐怖したのかもしれない。


  プールという、僕に死の恐怖を植え付けた場所。それは一生、僕に恐怖心を与え続けるのだろうか。


  僕の不安を安心感に変えるように、シャワーから出ていた冷水が温かいものに変わっていく。


  「はぁ…せっかく思い出せたのに、何か後味悪いな…」


  僕は独り言を呟きながら髪の毛から順番に身体を洗っていった。柔らかくて甘い石鹸の香りに包まれて、先程までの不安は和らぎ嫌な気持ちも泡と共に洗い流し終わった気分になった。


  「ふぅっ、何かさっぱりした!気持ちを切り替えるぞ!」


  シャワーの蛇口を閉めて、バスルームから湯気と共に出ると、バスタオルで簡単に身体の水気を拭き取っていく。髪の毛はタオルで適当に水気を取るだけでドライヤーを使用したりはした事がなかった。洒落っ気のある平ならちゃんと髪の毛の手入れもしているんだろうな何て考えていたら、自然と気分も前向きになっていた。


  「平が来るまで何しようかな…たまには二度寝もいいかも」


  僕はそんな事を考えながらベッドに横になった。


  *  「灯…」


  「灯はんと平はよく似てはるわ…灯はんも平の話ばかりしてはった…」


  「うん…」


  時刻は午前六時を回る頃、二人の男女が一途纏わぬ姿でベッドの上抱き合っていた。


  「栞さん…ごめん…いつも甘えちゃって…でも、あいつと居たら分からなくなるんだ…自分がどうしたいのか…」


  蝶番はベッドの脇の机から煙管を手に取り色味のない形のいい唇に加えて火を灯した。天井に向かう煙を身体中に纏うように煙管から出る煙を眺めながら口を開く。


  「平…何も考えんとき…灯はんが願ったのは平の幸せなんやで…平…おいで」


    平は何も言葉を発する事もなく、蝶番の美しい身体に身を寄せる。


  「えぇ子やな…こんなえぇ子残して逝ってしもうたんは勿体無いわ…」


  「…うん…俺は何をすれば正解に辿り着くんだろう…俺はあいつを殺そうと思ってたのに…何かもうどうでもよくなっちゃった…殺したところで灯にはもう会えないんだから…」


  蝶番は煙管を唇に当てがい煙を燻らせていた。化粧を施していない美しい透明感のある素顔が机上の鏡に写りこんでいるのを目にすると、白く細い指先で鏡を摘むようにして伏せて、鏡の中の己の顔を見えないように隠した。
  鏡の中の蝶番舞鶴は平の言葉を聞き、悲しそうな表情を浮かべていた。


  灯…。彼が求めているのは、ただ一人の女性なのだ、それも、もう手の届かない。
 それを知っている蝶番は平の事を放って置けなかった。その理由は彼女が、灯…愛美灯(あいびあかり)の事を…。彼女の最期を知っているからという事が一番大きかった。


「平…灯はんもアリスも、うちもあの時は生きるんに必死だったんや…助けられなかったうちが悪いんよ…」


   蝶番の言葉に平は首を横に振った。


  「そんな、栞さんが全部背負う必要はないよ…だってこれはそういうゲームなんだから…このゲームに選ばれた時点で誰にも死を背負う必要はないんだ」


  蝶番は煙管を机上にある灰皿に音も立てずに乗せると、平の髪を優しく撫でながら額にキスを落とした。


  「ははっ、灯に見られたら怒られちゃうかな、絶対浮気しないって言い張ってたのにさ、俺って最低だよ」


  「平もうちも同罪や…うちが死んだら灯はんに謝っとくわ…きっと笑いながら平手打ちしてきはるわ」


  蝶番の言葉に平は乾いた笑い声を上げた。


  「ははっ灯ならやりかねないな…ねぇ、栞さん…もうちょっとだけこうやって甘えててもいいかな?やっと気持ちの整理もついてきたからあいつとちゃんと向き合えそうな気がするんだ…だからたまに灯を思い出したら、こうやって甘える時間が欲しい…我儘なのは分かってるけど、今はまだこうしていたいから」


  「えぇよ…好きなだけ甘えとき…」


  平はこうして目を閉じた。目の前の蝶番が愛美灯ではない事を、灯の温もりはもう二度と感じられないと分かっていながら蝶番と灯を重ねては温もりに身を委ねた。 


      今はまだ愛しい人の思い出に縋りたかった。それは平だけではなく蝶番も同じだった。
 二人は偽りの愛に身を委ねる。二度と帰らぬ人を思いながら…。


*  「はい、今開けます」


  近くにあった水色の長袖のシャツを身に付けて扉を開けると、普段より早い時間に平がカメラと手紙を握りしめて慌ただしく部屋の中に駆け込んできた。何やら今日の平は様子がおかしいように感じた。


  「へっ?平!?そんなに急いでどうかしたの?」


  「咎愛!間に合ったんだよ!」


  「ん?何?」


  「今朝の知らせを聞いて寝過ごしたかと思って焦ったけど、ちゃんと証拠残せたんだ!写真とこれを回収してきた」


  「手紙?写真ってもしかして…」


  平が僕に見せてきた手紙には生々しい赤茶色の乾いた血痕がちらほら付着しており触ることを阻む何かを感じさせていた。


  そして、平の言う写真というのは…。


  「芙蓉さんの写真だよ、セキュリティハンターに回収される前に撮ってきたんだ」


  僕も平もカナリアという身分なのは充分理解しているつもりではいるが、今朝の平が嬉々と語る様子を見て僕はほんの少しだけ嫌悪感を抱いた。


  人が、仲間が死んだのに笑っていられるなんて…。


  「平…人が…死んだんだよ?なんでそんなに嬉しそうなんだよ…」


  僕の問いは平の心に突き刺さった。
  それは平の様子を見ていればすぐに感じ取れた。


  唇を震わせ、平は僕に呟く。


  小さいけれどちゃんと耳に響く声で。
 きっと鼓膜に響くより、僕の心に響いたのが先だったのかもしれない。


  「んなこと分かってるさ…だけど…俺だって生きるのに必死なんだ…咎愛だって制約に怯えて生きてるだろ?俺だって…好きでこんな写真撮ったりしねーよ…」


  「ごめん…平…僕、何も考えずに平を傷つけた…」


  愚問だった。
 僕だって平に全身を見せたりしないじゃないか…。
 生きるために仲間にこうやって隠し事をして生きてるじゃないか…。


 なのに…僕は平に何を言ってしまったんだ。 


    「なぁ咎愛、この話はもうよそうぜ…咎愛と空気悪くなるの嫌だからさ…」


  「うん…ごめん平…僕、言い過ぎた」


  「謝ることないぜ、よし!話の続きだ」


  平は僕を咎めることなく明るく話を再開させた。
  僕はそんな平に視線を移すことを申し訳なさから躊躇っていた。今朝の平は何だか様子が不自然な気がするのは僕の思い違いなのだろうか…。
そんな事を考えていた矢先、平にそれを悟られてしまったのか声を掛けられた。


  「咎愛!人の話聞くときはちゃんと目見ろよな!」


  「ごめん」


  「よしっ!じゃあ話すぜ!」


  平はカメラを操作して一枚の写真を僕に見せた。
 ピッピッという可愛らしい機械音とは相反して映し出された写真は冷たく、不気味なものだった。


  平は気にする事なく、淡々と語り始めた。


  「芙蓉さんは片目をくり抜かれて死んでたんだ…それもぐちゃぐちゃに無理矢理くり抜かれてた、机の上には手軽と桃色のチューリップ、それと目玉が二つ入った小瓶が置かれていた」


  「芙蓉さんのだけじゃなくて?」


  「芙蓉さんと月華ちゃんのだ…月華ちゃんの死体も側にあって、月華ちゃんも片目だけくり抜かれてた、それに月華ちゃんの目玉は丁寧に形を保ったままだった、そこから分かるのは芙蓉さんの目玉と月華ちゃんの目玉をくり抜いた人物は違うって事さ」


  「ん?それって?」


  平の言葉の意味が分からない僕は頭上にクエスチョンマークが見えそうなくらい間抜けな表情をしていた。鏡を見なくても自分の間抜け面が頭に浮かんで恥ずかしくなる。
 そんな僕を他所に、平は淡々と説明を続ける。


  「それはこれを読んだらすぐに分かったよ」


  平は次に僕に乾いた血痕のついた手紙を手渡してきた。恐る恐る血痕を避け指先で手紙を受け取った僕はゆっくりと中身を取り出した。中身は一枚の写真と丁寧な文字で書かれた手紙が一枚入っていた。


 僕は手紙の文面にゆっくりと目を走らせた。


  『そのちゃんへ


 久しぶりだね。


 あれから何年の月日が経ったのか、此処に来てから忘れてしまったよ。


 ずっと悔やんでいたんだ、あのクリスマスのプレゼントを君の両親の目なんかじゃなく、君自身を殺してあげるべきだったんじゃないかって。


 僕が此処から出たら真っ先に君に会って幸せな死をプレゼントするよ…。


   だからそれまではこの子が君を見守るから心配しないでね…。


  早く君に会いたいよ…。


  芙蓉 夏彦』


 手紙に添えられた写真に目を移すと仲睦まじく肩を並べて写る愛らしい幼い少女と芙蓉さんが笑顔で写真に残されていた。


 こんなにも幸せそうな写真なのに芙蓉さんがもし生きていたら被害者が増えていた、そう思うと複雑な心境に陥った。


  「後味悪りぃよな…芙蓉さんはカナリアだったんだ…こうなるしかなかったのかもな…ここに居るのは全員カナリアなんだ…油断したら命はない」


  今日の平の態度は違和感を感じる事が多かった。僕の知っている平より、言動や態度から気が立っているように見えた。
  僕は平の様子を探るように自分の意見を口にしてみた。


  「この手紙に書いてあるのは、芙蓉さんが月華ちゃんの眼球を誰かに、外界のそのちゃんって子に渡そうとしていたって事?」


  僕の意見を聞いた平は首を縦に振ると、僕の考察に更に言葉を付け足した。


  「この手紙と、現場にあった目玉から分かるのは月華ちゃんは芙蓉さんに殺されて、芙蓉さんは他のカナリアに殺されたんだ…それも、あの殺し方から見ると、芙蓉さんを殺ったのは茶トラだろうな…」


  茶トラ…。悪魔のカナリア…。


  その名前を聞いただけで、僕の心臓は掴まれたようにキュッと締め付けられるような感覚に陥った。


  「歯には歯を目には目を、あいつらしい殺り方だよ」


  僕は平の言葉に恐怖しながらも一つの疑問を胸に抱いた。真剣な表情をしたままの平に僕は抱いた疑問をぶつけてみた。


  「ねぇ平?茶トラが此処で殺してきたカナリアは他のカナリアを殺した後だったよね?日暮さんを殺した牡丹さんを、月華ちゃんを殺した芙蓉さんを…。だとしたら、茶トラは僕等が他者を殺して初めて動くんじゃないの?そうじゃない限り殺しは起きないのかな?」


  僕の疑問は平の口角を不気味に上げさせた。見たこともない平の表情に何故だか言い表せない恐怖を感じている僕がいた。


  「咎愛は甘ちゃんだな…そんなんで見逃してくれる奴じゃないさ…もしかして全部奴の計算かもしれない…俺達は奴の掌で踊らされているだけかもしれないんだ」 


    平の言葉に、声色に、僅かに怒りが滲んでいるように感じられた。今日の平はいつもと違うと感じていたけれど、そうではなくて、僕の知らない平の一面が垣間見えただけだったんだ。


  「甘ちゃんか、そうだよね…ごめん、僕…」


  平の言葉は僕の心に突き刺さって僕の不安を大きくしていった。だから僕には平に言葉を返す余裕もなくなっていた。


  平は不安を浮かべた僕の顔を見つめてからふっと笑うと、僕の頬を人差し指で強く突き刺した。


  「イテッ!何するんだよ」


  「ははっ、咎愛が俺の事怖がってんのなんか、バレバレだぜっ!まぁ、俺の言い方もきつかったししょうがねぇけど、まぁ話を戻すと、あいつ…茶トラはそんなに甘くはないさ、殺しが起きなければ起こるきっかけを作るか、自らがトリガーを引きにいくさ…だってその為に此処にカナリアが集められてるんだからな…」


  平は何か知っているんだ。この意味の無いデスゲームの裏側を、でなければここまではっきりと意見を言い切れるなんて思えない。


  「平、平は何か知ってるの…?」


  正直、この時の本心を吐露すると、平に対して少しの恐怖と不信感を抱いていた。


  「知らないから、知ろうとしてるんだ…今話したのは色々な観点から見た俺が纏めた答えに過ぎない…全部を知っているのはこのゲームの仕掛け人だけだよ、という訳でいい加減、警戒心を解いてくれないか?友達にそんな怖い顔で見つめられると胸が締め付けられて泣きたくなるからさ」


  平の眉根が下がった顔を見ていると、心から僕の警戒心を解いて欲しいと思っている事が伝わってきた。


  「う、うん…友達なのに、怖がってごめん…平が遠い存在に思えちゃってさ、僕の知らない平が居るみたいで少しだけ孤独感を感じたんだ」


  僕の本心を吐き出すと、平は僕を和ませる為に柔らかく笑って見せてから僕の頭を優しく撫でてくれた。


  「咎愛、これからは不安に思ったり、寂しく感じたり、違和感を感じたりしたら遠慮なく言って欲しい…それが友達ってもんだろう!!まぁ、簡単に言うと独りで悩むなよって事だな、忘れないで欲しいんだ、何があっても俺はお前の味方だからな」


  さっきまでの緊張感が嘘のように僕等を包み込む雰囲気は穏やかで、まるで女神様にでも守られているかの様に気持ちが安らいでいくのを感じたんだ。


      「本当に平には敵わないな…平の言葉だけでこんなに安心するなんて、僕ってば本当に甘ちゃんなのかもね…」


  僕の言葉に平は驚いたように目を丸くしていた。


  「咎愛はずっとこのままでいろよな、俺は咎愛を信じているから」


  「僕もだよ、僕は平しか頼れる人が居ないんだから」


  「何だよ、そんな事言われたら照れるだろ、お前って奴は!!」


  平は僕の側に近寄ると僕の頭を腕で挟み込んで乱暴に掻き回し始めた。


  「うわぁ、止めてよ、せっかく朝からシャワーを浴びたのに髪型が崩れちゃうよぉ」


  平の腕から逃れようとすればする程僕の髪はぐしゃぐしゃにされていくのであった。そうこうして暴れているうちに僕のお腹が情けなく空腹の知らせを響かせた。


  「ハハハッ!咎愛ってば腹減ってたんだな、そういえば俺も早起きしたから腹減ってんだった!咎愛のお陰で思い出せたぜ、よし、飯食いに行くか!!」


  平の腕から漸く解放されたものの、二人の空間を裂くように大きく鳴った空腹のシグナルが恥ずかしくて平に背中を向けた。


  「おいおい、そんな事一々気にすんなって!早く行こうぜ恥ずかしがってても腹は満たされないぜ」


  平は髪の毛を手首を気にしながら手櫛で整えている僕の肩に腕を回して強引に部屋の外へと連れ出した。


  ガチャリ。と僕の部屋の扉がゆっくりと閉まり施錠をしてから僕等は食堂へと歩き出した。先程の緊張感は嘘のように消え失せ、何事もなかったかのように平は軽快に口笛を響かせていた。


  「平、ご機嫌だね、その歌は何の歌?」


  「ん?この歌か、この歌は俺の先輩がよく歌ってた曲なんだタイトルは忘れちまったけど、フレーズが妙に頭に残っててさいつの間にか俺もよく口ずさむようになったんだよな」


  「へぇーそうなんだ!二人の思い出なんだね」


  僕の言葉に平は苦笑いを返すと再び口笛を口ずさみ始めた。長い廊下に優しく響く小鳥の歌声のようなメロディは聞いているだけでも僕に幸福感を与えてくれた。


  僕等が食堂に辿り着くと平の演奏も幕を閉じてしまった。もっと平の口笛を聴いていたかったのが本心だったが、僕がそれを口に出す前に食堂から響いて来た声に遮られてしまった。


    「お前らカナリア共が分かってるんだぞ!!!てめーらが俺の大事な手術具を盗んだんだ!!!返せ!!!」


  その声は誰が発しているものなのか状況を確認しなくとも僕等には分かってしまった。


  「何だっ?」「この声って櫓櫂さん!?」


  僕と平が顔を見合わせて食堂の状況を確認しに入室すると、僕等の目の前では、この時間帯になかなか姿を現さない櫓櫂さんが食事中の他のカナリアに怒鳴りつけているという不思議な光景が広がっていた。櫓櫂さんといえば、僕等を含めたカナリアとの交流を避ける為に食事の時間をずらしたり、夜間にしか行動していないとも噂が立てられていた。


  櫓櫂さんは大声で続ける。


  「お前らカナリアは殺人も窃盗も躊躇わずにするような屑の集まりだからな!誰が盗んだかは知らんが早く出せ!さもないと皆殺しにするぞ!」


   櫓櫂さんの脅しに食堂内にいたカナリア達は静まり返っていた。そんな中いち早く反応したのはボーイフレンドのアン・スリウムさんの膝の上でパンケーキを食べていた九条百合さんだった。


  「いやーん百合こわぁい!アン、早くこのおじさんを追い払って!」


  九条さんの態とらしく出した甘い声にアン・スリウムさんは男らしく反応し、九条さんを椅子に座り直させると、櫓櫂さんの前に立ちはだかった。
   アン・スリウムさんは櫓櫂さんに人差し指を突き立て対峙する構えを見せた。



  「まぁまぁミスター櫓櫂、落ち着いてください!レディーを泣かすのはいけないですよ?仲良しこよし、日本人なら当たり前デス」


  アン・スリウムさんの言葉に櫓櫂さんは怒りを露わにし、更に声を荒げる。


  「ちっクソ生意気な野郎だな!能天気な外国人め!!!よし決めたぞ、お前ら一人ずつ今晩から嬲り殺してやる!一人ずつ殺していけば誰がその血に汚れた汚い手で盗んだか分かるしな!」


 櫓櫂さんは不気味な笑みを浮かべるとカナリア達の顔を一人一人ゆっくりと眺めていく。
 僕は目が合った途端に視線を思い切り逸らしてしまった。


  「ふんっ!血に汚れたカナリア共が、覚悟しとけよ!」


  櫓櫂さんはそう云い捨てると凄い勢いで僕等の横を擦り抜け、食堂から立ち去った。 残されたカナリア達は不安げな表情を浮かべて立ち尽くしていた。


  静まり返っている食堂で、最初に声を上げたのは九条さんだった。


    「あーん、アンってば格好良かった!百合は絶対アンのお嫁さんになる!だけど、あのおじさん、本当に百合達を殺して回る気でいるのかしら…」


  気丈な九条さんも陽気に振舞ってはいるものの、愛らしいメイクを施された顔には、不安の色が広がっているのが窺えた。


  そんな九条さんを元気付ける為にアン・スリウムさんは明るい声を出しながら九条さんの桃色の髪を優しく撫で上げる。


  「百合と僕が結婚、おぉ!それはナイスアイディアですね!ミスター櫓櫂の事は忘れましょう…僕と百合が最初の被害者にならなければいいのデス…」


  平が僕にちらりと視線を寄越したのを感じた。きっといまのアン・スリウムさんの発言が気になったのだろう。『僕と百合が最初の被害者にならなければいい』この言葉にどんな意味が隠されているのか僕等には言葉にしなくても理解出来た。


  アン・スリウムさんの言葉を聞いて九条さんは安堵の表情を浮かべた。そして、九条さんはアン・スリウムさんにしがみつくように腕を回すと、食べかけのパンケーキをそのままに、抱きかかえられるようにして僕と平の横を擦り抜け食堂から去って行った。


  それに連れるようにして食道の奥の方に座っていた彼方さんも席を立ち僕等の居る入口まで歩み寄って来た。彼方さんは僕等に近付いて来ると、真剣な表情で口を開いた。


  「お前らも気を付けろよ、俺みたいに鍛えておけばどうにかなるけどよ、お前らの頼りない筋肉じゃあのおっさんの言う通りに容易く嬲り殺されるのは見え見えだからな、ただでさえ四人も死んでんだ…これ以上人数が減るのはもうごめんだぜ…じゃあな、また明日お前らの顔が見られる事を祈ってるぜ、祈るなんて柄じゃねーけどな」


  「ありがとうございます、彼方さんも無事で居て下さいね」


  平の言葉に合わせて僕は彼方さんに会釈をした。彼方さんは僕等にニカッと白い歯を見せながら笑みを浮かべると鍛えられた腕を振りながらその場を後にした。


  彼方さんが去った後に食堂に残されたカナリアは、僕等を含めた四人だった。


  僕等は食堂の中央部で怯えている黄瀬さんと、黄瀬さんの肩を抱いて慰めている蝶番さんに歩み寄った。

 
     黄瀬さん達に歩み寄るに連れ、黄瀬さんが酷く困惑して、震え上がっている様子が視界に入った。普段から僕等と交流を持たない櫓櫂さんのあんな宣言を聞いてしまっては、恐怖しないカナリアの方が少ないだろう。


  僕が声を掛ける前に平が黄瀬さんに歩み寄り蝶番さんと一緒に黄瀬さんを宥め始めた。


  「黄瀬さん大丈夫だよ、きっと何とかなるからさ」


  平の言葉を聞いた蝶番さんは柔らかい笑みを浮かべ平と同調して黄瀬さんに語り掛ける。


  「そうや、大丈夫やで…黄瀬はんはきにせんといつも通りにしていればえぇんやで…」


  蝶番さんの言葉には聞いているだけで不思議と安心感が湧いて来るような、そんな何かを感じられた。平と蝶番さんの言葉が黄瀬さんの恐怖心を和らげたのは確かだった。


  黄瀬さんは目尻に溜まった涙を女性らしいちいさな指の腹で拭うと、蝶番さんと平にもう大丈夫と震えの治りきらない唇を動かして呟いた。


  「本当に…?無理しないで、何かあっても俺達が居るから安心して」


  「ありがとう、もう大丈夫です、愛美君、蝶番さんに萩野目君も、皆のお陰でさっきより気持ちが軽くなったから」


  黄瀬さんは僕等一人一人に笑顔を作って見せると蝶番さんに支えられて立ち上がった。


  「すみません、舞鶴さん…」


  黄瀬さんの言葉に蝶番さんは紅を引いた唇をふわりと上げると、優しく包み込むように黄瀬さんの肩を抱いて答えた。


  「えぇんやで…たまには甘えとき…今日はうちが一緒に居たるわ…安心しぃや…」


  「ありがとうございます、今日は蝶番さんのお部屋に行ってもいいですか?私、今日は制約を守れていないんです…」


  黄瀬さんの制約が何か、この場で問う人は居なかった。


  「うちの部屋でえぇんやったら、幾らでも休んでいき…ほな、行こか…」


  蝶番さんは紅を引いた赤い形のいい唇を動かして僕等にしか分からないように合図を送ってきた。


  「黄瀬はんの事は、うちに任せときや…」


  僕等は蝶番さんの合図に首を縦に振って、二人の背中を見送った。 


    二人の背中が見えなくなると、平が安堵したように椅子に勢いを付けてどすんと腰掛けた。


  「ふぁぁ、大変な事になっちまったな」


  眉間に皺を寄せながら机に頬杖を付いている平に対して僕は気になっていた事を思い切って切り出した。


  「ねぇ平、櫓櫂さんが言っていた手術具って僕等の拾った注射器の事を言っていたのかな?だとしたら、注射器を返せば何とかなったりして…」


  「いや…俺は別の物のような気がする…、それにもし、櫓櫂さんが言っていた手術具が注射器を指していたにしても、俺等が返しに行ったらその時点で殺されると思うぜ、只でさえカナリアを嫌ってるんだ、そんな人に自らの意思で近付きたくはないね」


  「確かに…でもっ何か手段を考えないと、このまみじゃ僕等は…」


  そこまで口にして、何も出来ない自分に情けなくなった僕は目線を落として俯いた。


  「咎愛…アンさんと九条さんが言ってたよな、僕等が最初じゃなければ大丈夫だって、咎愛も何の事か分かってるだろう?ここには茶トラがいるんだ、この件の被害者は二人で済むんだよ、まぁ、それは最悪の展開だけどな」


  「二人…」


  平の言葉に僕は唇を強く噛んだ。
  二人…それが何を意味しているのかは考えなくても僕にも分かった。それは、櫓櫂さんに殺される人(カナリア)と被害者を出した時点で被害者になる事が決まる櫓櫂さん。


  「まぁ、俺も試行錯誤中してるところだ、物事っていうのはなるようにしかならねーから、肩の力抜いて、皆の無事を祈ろうぜ、勿論、櫓櫂さんの無事も」


  平は勢いを付けてから飛ぶようにして立ち上がると、俯いている僕を覗き混んで無理矢理に視線を合わせた。平の澄んだ瞳に僕の不安気な顔が映る。


  「咎愛君、安心したまえ、取り敢えずは何も考えずに過ごそうぜ!あっ!そうだ!俺等、飯食いに此処に来た事忘れてたぜ!腹が減っては戦は出来ぬって言うだろ、咎愛、食いたいもんあるか?」


  平に言われて、自分が空腹だった事を思い出す。それに重たい話を切り上げて、平が僕の不安を取り除いてくれた事で、緊張感が減退していくのを全身で感じていた。


  「そうだったね、僕、お腹空いているんだった!食べたい物は特には無いけど、洋食が続いているから和食にしようかな」


  僕の提案に、平は笑顔で同意を示してくれた。


  「いいねぇ、和食か!和食なら鯖味噌食べたいな」 


    「鯖味噌!僕も食べたい、味噌汁も飲みたいな」


  「よしっ!決まりだな!すいませーん!!!」


  平が食堂の厨房の方に向かって声を上げるとセキュリティハンターがやって来て注文を受けてから立ち去った。


  「まるでレストランだよな、食べたいもんが注文出来て、好きな時に食えるなんて、カナリアになったのを忘れちまいそうだぜ」


 「レストランかぁ、昔の僕も行った事あるのかなぁ…記憶がないって何だか虚しいね」


  平に対して笑って見せると、平は眉根を下げて悲し気な表情を見せて、僕の頭にポンっと暖かい掌を乗せた。髪の毛越しに伝わる平の体温は、僕の心を癒してくれた。


  「大丈夫だ咎愛、きっと思い出せる、そん時が必ず来るから」


  「ありがとう、なんだか元気が出たよ」


  僕が平に素直な気持ちを伝え終わると同じくらいのタイミングで平の左手首に付けられた端末がチロリンッと可愛らしい音を立てた。


  「この音はしお…じゃなかった蝶番さんだ」


  「しお?それより、どうして音で分かるの?」


  平がしお、という言葉を途中まで発して止めたことも気にはなったが、音だけで誰からの連絡を受信したか判断していることに驚きを隠せなかった。それに、僕の端末では聞いたことのない通知音だったのも気になった。


  僕の抱いた疑問に平はすぐさま返答をくれた。


  「ああ、これな!この間寝る前に端末を操作していたら以外と通知音とか沢山の種類が用意してあって暇潰しに一人一人に別々の通知音を設定してみたんだ、因みに咎愛のはこれ」


  平は端末を慣れた仕草で操作をして、僕等の空間に馴染みのある通知音が流れる。


  「これって…ゆうやけこやけ…」


  何でだろう…。この曲を聴くと気持ちが揺らいでいく、悲しくて、寂しくて…お母さん…。
  あれっ…僕、今お母さんって。


  「咎愛にこの曲がしっくり来るような気がしてさ、これをチョイスしてみたんだ」


  僕は平の言葉で我に帰り、慌てて頷いた。


  「そっか…僕も何だか自分にぴったりな気がするよ」


  「だろっ!」


  僕は思った、平がこの曲を僕に設定しているのなら、僕が平の近くで連絡を入れない限り、この曲を聞かなくて済むんだ。そう思うと言い表せないくらいの安心感が胸に広がっていった。


  それと共に新たな疑問が浮かんだ。 


    「ねぇ平?平は一人一人の通知音を全員分把握しているの?」


  僕の問いに平はぽかんとした表情で口を開いた。


  「何言ってんだ、そんなの一々覚えてられる訳ないだろ!俺はそんなに頭よくねーよ」


  ハハッと笑い出した平に対して僕の疑問は更に深くなっていく。


  「だけど、さっき蝶番さんから連絡が来た時にすぐに発信者が蝶番さんだって反応していたよね?」


  「それは…そのっ、別にお前に隠れてコソコソ連絡取り合ったり、密会したりしてる訳じゃねーからな!たまたま昨日連絡する機会があって覚えてただけだから、勝手に深読みして変な事考えてんじゃねーぞ!!」


  平の慌てぶりに僕は思わず吹き出してしまう。


  「ハハハっそんなに慌てなくても大丈夫だよ、僕といない間に平が何をしていても僕にはそれを咎める理由もないんだから、それに前々から、平と蝶番さんには他のカナリアにはない空気があるのは僕にも分かってるよ」


  僕の言葉を聞きながら、平は先程まで座っていた椅子に再び腰掛けた。椅子の背もたれに体重を預けて足でバランスを取りロッキングチェアのように身体を揺らしながら僕の顔色をチラチラと時折窺うように視線を泳がせている。それから、二十秒くらいの間があった後、平は少し難しい顔をしながら僕に向かって口を開いた。


  「なぁ咎愛…実は俺、お前に隠し事してるんだ、今はまだ話せないんだけど、いつか絶対、話そうと思っているからそれまで待っていて欲しいんだ」


  僕は尚も難しい顔を続けている平に微笑を浮かべながら言葉を返した。やっぱり平はどこまでも善人だ。そう思うと、自然と僕の口からは笑い声が飛び出していく。


  「ハハハっ、平ってば隠し事があるっ宣言した時点でそれはもう隠し事じゃないんじゃないかな、人は誰にでも話せないことや秘密があると思うんだ、僕だって記憶がないとはいえ平に話していない事だってあるんだから気にしなくていいよ、それに平が話せる時が来るのを僕はいつまででも待ってるからね」


  「はぁ…お前って奴は本当に憎めない奴だよな…咎愛、ありがとうな、お前と友達で良かったよ、後悔は微塵もないよ」


  平と僕がお互いに笑みを浮かべて見つめあっているとそこにセキュリティハンターが僕等の朝食の鯖味噌定食を運びにやって来た。


    「ご苦労さん!さぁ食うか!」


  平はセキュリティハンタにお礼を言いながら無機質な背中をパシパシと叩いてから笑みを零した。セキュリティハンターは僕等の前に鯖味噌と味噌汁、お漬物と白米の乗った黒を基調とした和風のトレイを丁寧に置くと平のスキンシップに一礼をしてから機械的な動きで立ち去っていった。その姿を見送りながら平がポツリと呟く。


  「結構頑丈作りなんだな、重心がしっかりしてるぜ!あいつらも元の施設にいるセキュリティハンターと同じ機械だって考えるとゾッとしちまうよな、ちょっとでも変なことしただけであらゆる手で殺されちまうもんな」


  僕は平の言葉に苦笑した。僕は今までそうやって居なくなってしまったカナリア達を見て来た。僕の周りの牢に居たカナリア達は脱走しようとして無機質なマシーンに灰に変えられたり、電撃で一瞬で冷たくなってしまった。そういうカナリア達を横目に僕はこうして生き延びている。未だにこのゲームに選ばれた理由は分からないままだけど、きっと僕もいつかはあのカナリア達のように冷たくなってしまうのだろう。


  そんな事を考えながら平にその事を伝えてみる。平も僕と同じようにセキュリティハンターに亡骸に変えられたカナリアを見て来たと思ったから。


  「平がセキュリティハンターに触れただけで僕はヒヤヒヤしてたよ、
あいつらのやる事は恐ろしいし、僕の周りの牢に居たカナリア達はあいつらに消されていったから…此処のマシーン相手でも正直、僕は触れたりする勇気はないよ」


  僕の言葉平はハッとしたような表情になったかと思うと、目の前の鯖味噌定食に手を合わせてから箸を握りしめた。そしてご飯の入った器を持ち上げながら僕の方に向き直り口を開いた。


  「俺は生でセキュリティハンターが執行している場面を見た事ねーな、きっと脱走する程精神的に狂っているカナリアだったんだろうな…冥福を祈るぜ…お前もそんな怖い事早く忘れて朝飯食えよ、朝から腹鳴らしてたのは誰だったっけ?」


  平に茶化されて僕は慌てて椅子に座り、箸を握った。


  「いただきます」


  そう呟いて鯖味噌に箸を入れて、中から上がる湯気を逃してから一口大に切って口に運んだ。口の中に広がる甘い味噌の味が僕の緊張していた脳を解していくように感じる。


  「咎愛の話聞いてたら、柄じゃねーけど何かあいつらの事怖くなってきちまったぜ」 


    平にも怖い事があるんだ、何て思ったら自然と頬が緩む、それを見た平はすぐさまぼくの頬を小さく摘んで引き伸ばした。


  「何するんだよ、平」


  いきなり平に摘まれた事によって口の中にあった食べ物を零しそうになって横目でキッと睨みつけた。平も僕の視線に負けじと僕の方じっと見つめていた。


  「お前今、俺にも怖いって思う事あるんだ…何て思ってたんだろ、顔にそう書いてあるぜ!言っておくけど、俺にだって怖いものの一つや二つあるんだからな!例えば高い所とか…」


  「僕そんなに分かりやすいかなぁ…平が高所恐怖症だったなんて思いもしなかった、僕も水辺が怖いからなんだか親近感湧いちゃうよ」


  僕も平も睨み合うのをやめて目尻を細めて笑い合った。平は僕にとって居心地の良い空間を作り出してくれる天才だ。僕と平は他愛もない話をしながら朝食を空っぽだったお腹に収めていった。


  僕が味噌汁の入った器を片手に飲み干そうとしている最中に平が思い出したように左手の端末を操作しているのが目に入った。


  「どれどれ…さっき蝶番さんから来たメールはっと…」


  端末を操作するピッピッという小さな操作音と平の呟きが合わさってから暫くの沈黙があった。その間に僕は目の前の食器に着いた朝食の欠片を箸で微塵も残らないように拾っては口に運んでいた。


  「はぁ…話したい…か…そんな事、話す前から分かってるよ…」


  「平?」


  端末から顔を上げた平の表情は先程までとの和やかな表情とは打って変わり、険しく深刻なものになっていた。


  「平、大丈夫?」


  「悪りぃ咎愛、俺、大丈夫じゃねーかも…」

  目の前の朝食を放ったままにして、平は橋を握ったまま額に手を当てて天を仰いでいる。蝶番さんからのメールに何が書かれていたのかは僕には分からない。知る術もないんだ…。


  「平、取り敢えずご飯食べちゃおうよ、腹が減ったは戦は出来ぬってさっき言っていたよね」


  僕の言葉に平は苦笑すると力の入り切らない様子の右手で箸を握り直して残っていた朝食を口に運び始めた。そして二分程で朝食を平らげると、力なく僕に向かって笑いかけてきた。


  「なぁ咎愛…神様はどうして不公平なんだろうな…」


  「へっ?」


  たじろいでいる僕に微笑した平は空になった食器に向かって手を合わせた。


    「ご馳走様…咎愛、俺今日は気分悪りぃから部屋に居るわ…なんかあったらすぐに俺んとこ来いよ、それと…櫓櫂さんの事はどうにかなりそうだ…安心してくれ」


  「どうにかなるってどういう…あっ!平…行っちゃった…」


  僕が平に色々聞こうと思っているうちに平は魂の抜けてしまったような顔をしてふらふらと覚束ない足取りで食堂から出て行ってしまった。


  「平…一体どうしてしまったんだろう…僕も部屋に戻ろう…ご馳走様でした」


 僕は平の後を追うようにして食堂の外へ出た。だけどそこにはもう平の姿は見えなくてがっくりと肩を落とした。僕は平に助けられてばかりいるのに僕は平に何もしてあげられない。今回も僕には何も出来ない。そう思うと心の底から自分の事が情けなくて崩れ落ちそうになる。


  僕は平も通ったであろうこの廊下をトボトボと歩き出した。今は平が元気になるのを待つ事しか僕には出来ない。下手に平に近付くのは今は辞めておこう、ずっとうじうじしてて平に笑われるのも嫌だから、今日は何も考えずに図鑑に没頭しよう。


  そんな事を考えながら歩いているといつの間にか僕は部屋へ辿り着いていた。


  「ただ今…さぁ嫌な事は忘れて楽しい事に集中するぞっ!!」


  僕は部屋に入ると施錠をして、机の上の図鑑を手に取りベットに俯せになって図鑑の表紙を開いた。


  この日は一日中、図鑑に目を走らせていた。平は今頃何をしているのだろう。頭を過るのはそんな事ばかりだった。


  *  「話がある…後で会いたい…我ながら平を虐めすぎやろか…灯はんに怒られてまうわ…怒ると涙目になって愛らしい人やったなぁ…」


  蝶番は黄瀬檸檬の寝顔を眺めながら一人でに呟いた。先程まで恐怖から涙を流し続けていた黄瀬も流石に疲れて眠りについた。多分この様子なら席を外しても眼を覚ます事はないだろう。そう思うのには訳があった。


  黄瀬が眠りに着いたのは泣き疲れたのだけが理由ではなくて、黄瀬がポケットから取り出した錠剤が理由の八割を占めているのは黄瀬の様子や話から分かっていた。


  「精神安定剤…これが無いと私はおかしくなっちゃうんです…鬱病になってからずっと服用してて、でもよくならなくて段々、強い薬に頼るようになっちゃって…これを飲んだら多分、今日はもう起きないかもしれません…。だけど部屋に一人でいるのは心細くて…」 


    黄瀬の言葉を聞いた蝶番は、彼女の金の柔らかい髪をそっと指で梳くように撫でた。黄瀬は涙を指の腹で拭うと蝶番に促され彼女の部屋のベットに横になった。


  「ありがとうございます舞鶴さん…」


  「えぇんやで…たまには甘えんとな…ほな、黄瀬はんが眠れるまで話でもしまひょか…黄瀬はんはいつからお薬飲んではるの?」


  蝶番は横になった黄瀬の側に腰を下ろし煙管を咥えながら話の返答を待った。煙を吐く色っぽい息遣いが部屋の中に広がるように響いている。


  暫く蝶番の息遣いだけが響いていた部屋に黄瀬の涙交じりの声が聞こえ始める。


  「大好きだったんです、彼も幼稚園教諭として働いていた職場の子供達も、病気になって全てを失いました、愛情も可能性も…それから私は鬱を患って…」


  「大きな病気やったんやな…」


  「私は病気で母になる資格を失ってしまったんです…私の婚約者は大きな会社の社長を務めている人でした、後継が産めない事が分かるとその途端に、ウェディングドレスも指輪も用意してあったのに全部、私から取り上げられて私に残ったのは職場の中で嘲笑を受ける日々と今も抱えている鬱病だけでした」


  「そんな事があったんやな…こんなに可愛い子やのに…苦労して…ほんま、神様は不公平やわぁ…」


  蝶番は煙管の灰を灰皿に落として黄瀬の話に耳を傾け直した。


  「それに私は許されない事をしてしまって此処に来ました。」


  「皆、そうやで…此処に居るんは皆、カナリアなんや…一人を除いて…」


  蝶番の一言は黄瀬の耳には届いていない。


  「私は…恐ろしい事をしました…だから、此処から生きて出る事は無いんです…」


  それだけ言って再び火が付いたように泣き出した黄瀬の背中を蝶番は何も言わずに優しく摩った。黄瀬が泣き止むのと眠りに付いたのは殆ど同じタイミングだったように思われた。


  そして数時間が経った今、黄瀬は深い眠りの中にいてすぐには起きる気配もなくなった。蝶番は眠る黄瀬の髪を優しく梳いてからゆっくりと立ち上げった。


  「ほな…うちも自分のした事にけじめを付けんとな…黄瀬はんはえぇ子やわぁ、ちゃんと自分の罪と向き合えるんやもんな…うちももっと早う向き合うべきやったわ…」


  それだけ呟いた彼女は黄瀬を起こさないようにそっと部屋から出て、施錠をした。 


    「これがうちの最期の仕事や…蛍…もうすぐ行くで…」


  彼女はそう呟くととある部屋を目指して歩き始めた。時刻は午後三時、今朝の出来事があった所為もなのか廊下にはカナリアの姿が一人も見当たらなかった。だけどそれは彼女にとって好都合だった、出来れば誰にも会わないまま目的地に辿り着きたかった。


  彼女の頭に浮かんでいたのは死の直前まで蝶番舞鶴という芸妓を愛してくれた愛らしい少女と、収監されてから出逢うべくして出会ってしまった二人の友の事だった。


  蛍…灯はん…釘井はん…あんたらに会えてうちは幸せやったで…。


  そんな事を考えているうちに此処に来るきっかけになった釘井との会話を思い出していた。


  『なんで死ぬんだ、栞は勝ったんだ、生きる権利を得たんだ!それなのにどうして…僕は反対だ』


  「ふふっ釘井はんは相変わらず優しいなぁ…なぁうちの最期は蛍と同じ殺り方で殺して欲しいんよ…」


  『そんな事僕には出来ないよ…栞を殺すなんて…』


  「そう言いはると思ったわ…釘井はんに出来ないんなら、出来る人に頼んで欲しいんや…」


  忘れられない。あの日に釘井アリスが蝶番という女の為に流した涙が、綺麗な藍色の瞳から溢れた涙が頭上のライトの光に煌めいて宝石のように溢れ落ちていくその様が。忘れられないくらいに美しかったのだ。


  『僕の知っている奴を紹介するよ…栞も知ってるだろう…僕と一緒に行動している奴の事…最初からその為にこの話を僕にしたんだろう…?』


  「御名答やな…こうでもしないと釘井はんはうちに紹介してくれへんのも分かってたで…釘井はんの恋人なんやろ…?最近の釘井はんは見た事もないくらいの女の顔してはるからバレバレやで…」


  あの時の恥じらう彼女の顔は今までに見たどんな表情よりも愛らしくて脳裏に焼き付いている。


  『じゃあ、栞に茶トラを紹介するよ…それと…これで栞と会うのも最期になるかもしれないから』


   そういうと彼女は左目を覆っていた包帯を外して見せた。外された包帯の中には黒い眼帯が更に左目を隠している。彼女は躊躇いもなく眼帯を外すとその下からは開かれることのない瞼と、長い睫毛が目に入った。左瞼の周りには虫が這ったような白い筋が幾つも浮かび上がり、彼女の美しい顔には不釣り合いな不気味さを漂わせていた。


    『最期だから見せておくよ…こんな僕を女として愛してくれる人が出来たんだ…栞にも分かって欲しくて…きっとあいつは栞をカナリアのデスゲームに参加させると思うよ…それに面白い獲物も見つけたって喜んでいたから…僕の話はここまでにするよ、最期にこれだけ言わせて欲しい、栞、本当にありがとう…』


  「何や水臭いわ、今更ありがとうなんて…うちの方こそほんまにおおきに…釘井はん、幸せになりぃや」


  それが彼女と交わした最期の言葉だった。正しく言うと最期の言葉になろうとしていた。蝶番はとあるカナリアの部屋の前までやって来た。美しい右手を丸めて拳を作ると悪魔の部屋の扉を三回軽くノックした。


  ガチャ…。


  悪魔がノックに反応して扉を開けるのに三秒の間もなかった。蝶番は緊張を隠す為に愛想笑いを顔に浮かべた。


  『入れば…急ぎなんでしょ』


  悪魔はまるで今から話す事が分かりきっているかのような態度で彼女を招き入れた。部屋に入り扉を閉めて蝶番が施錠をしようとすると悪魔は蝶番の腕を乱暴に引いて椅子に座らせた。


  『鍵はしなくていいよ、あんたが逃げたくなったら逃げればいい…俺はまだあんたを殺す事は考えてないから、まあ、俺が考えていなくてもあんたは違うみたいだけどね』


  悪魔は机上にあった鉛筆を指先でクルクル回すと冷たい瞳を蝶番に合わせて彼女の言葉を待った。


  蝶番は深呼吸をして不気味な沈黙を破った。


  「あんたはんとゆっくり話がしたいんや…大きい要件は急ぎなんやけど…最期やしあんたはんとゆっくり話したいんや…」


   悪魔は頭を乱暴をに掻きながら大きな溜息を吐いた。


  『先に要件を聞いておくよ、早く話して』


    悪魔の態度を見れば悪魔が苛立っている事がすぐに分かった。蝶番はそんな悪魔に怯える事もなく口を開く。蝶番が怯えない理由はただ一つ、×××は釘井アリスの恋人だからそれだけだった。


  『そんなにイライラしたらあかんで…カルシウム取らな…それじゃ話すわ、要件は櫓櫂順一を殺して欲しい、それが大きな要件や、その代償はうちの命で償いたいと思うてるんよ…』


    蝶番が要件を話し終えると悪魔は大きな溜息を吐いた。


  『それって二重にお願いされてるよね、櫓櫂を殺ったら、あんたも殺れって事でしょう?一日に何回も仕事するの嫌いなんだけど、特にあんたは櫓櫂の次に嫌いな人間だから殺るなら最期にしたかったんだけどな、榊栞(さかきしおり)』


  蝶番舞鶴…彼女の芸妓名ではなく悪魔が本名を知っていたのはきっと釘井アリスから前もって聞いていたからだろう。


  「御名答…うちの本当の目的はうちの処刑を執行してもらう事、だけどうちはもう自分の手を染めたくないんや…だから何かしらの理由を探しとったんやけど…タイミングよく転がって来た、これに縋らないと何に縋ればえぇんか分からなくなってしまうわ…」


  榊の言葉を聞いた悪魔は大きな舌打ちを一つ打つと、机に頬杖を付きながら口を開いた。


  『あんたと話せば話す程、嫌気がさしてくるよ…ただでさえ釘井さんと仲が良いってのが気に入らないのに、はぁ…今回はこの手段で行かないと面倒臭い事になりそうだから言う事聞いてあげるよ、それで俺と話したい事って何?手短にしてよね、仕事の用意もしないといけないから、後、あんたの殺し方は調査済みだから説明は不要です』


  「おおきにな×××これでうちも助かるんやな…そうや、色々最後やし話たいんや、いきなりやけどこのゲームの主導権は誰にあるんや?」


  悪魔は歪な笑みを浮かべながら口を開く。


  『あんたも知ってる人さ、ロゼッタ・アルティメリア、通称ブラッドマザー…俺の一番嫌いな女、このゲームを開いたのは俺が関係しているけど、主導権自体はあの女が一任しているよ』


  蝶番は胸元から煙管を取り出すと煙管に火を灯し煙を燻らせる。


  「マザーか…そんな気はしとったわ…うちもあの人の事は好きになれんかったわ…人を利用して人を狩る…悪魔のカナリアはあの人に飼われてるんや…」


  ふぅっと白い煙が美しい唇から吐き出されると天井に向かって消えていく。


  『俺はあの女からアリスを自分のものにする為に此処に居るんだ、これ以上はあんたに話す義理はないし、この話はもうお終い、他に聞きたい事は?』


     榊は悪魔に向けてニコリと笑みで返すと、次の質問を口にした。


  「もう一つ聞きたいんやけど…制約、これは何の意味もないんやろ?」


  『そうだよ、何の意味も持たない、一部のカナリアにとってはね、だけど何人かのカナリアには意味を成すものになる、例えば、体の一部を隠さないといけない、誰かと行動を共にしないといけない、とかそういう制約がある事によって精神的にダメージを与える事が出来る、まぁ特定のカナリア以外は最初の紙を配られた時点でランダムに割り振り当てられているんだけどね、あんたの制約もたまたま割り当てられたものだよ』


  「もし制約を破っても…」


  榊の口からか細く放たれた言葉は悪魔によって阻まれた。


  『あぁ、何も起きないよ』


  「なんや…滑稽やな…」


  ふふっと煙を吐きながら笑う榊に対して悪魔は冷たい視線を向けて口を開いた。


  『話が済んだならもういいかな?あんたも他に行くところがあるんだろ?あんたの執行は午前零時に行う、場所は火の手が分かりにくいプールの更衣室、それでいい?』


  「えぇよ…×××に任せるわ…おおきに、ほな行くわ」


  悪魔は榊が部屋を出て行くまで光のない瞳で見つめていた。


  『さぁて仕事しますか!その前に…』


 悪魔は自身の端末を操作すると連絡先の欄から一人の名前を見つけニヤリと笑った。


  『もしもし…頼みたい事があるんだけれど、執行の時の服を貸して欲しいんだ、出来ればマスクも…だって、俺よりその方が自分でけじめを付けているような気になれるだろう?えっ久しぶりに話したのに仕事の話は嫌だ…そんな事言わないで、今は許して、今晩は忙しいんだ、仕事が片付いたらゆっくり話をしよう…愛しているよ…』


  悪魔は普段は色味のない頬を赤く染めながらその時を待った。悪魔が電話越しに頼んだ物はセキュリティハンターによってすぐに彼の元に運ばれて来た。


  『ご苦労様、後ありがとうって伝えておいて』


  悪魔はセキュリティハンターの頭をまるで小動物に触れるように優しく撫でると、その無機質な背中が見えなくなるまで視線を送り続けた。


  『本当にありがとう釘井さん…アリス…』


  悪魔は小さく呟くと、身に着けていた下着以外の衣服をベットの上に脱ぎ捨てた。


  質素な部屋の中に目に見えないような小さな埃が雪のようにヒラヒラと滞留する。

 
    悪魔は先程、セキュリティハンターから届いた荷物を手に取り一枚一枚身に付けていく。履き慣れない短いスカートに左目を重点的に隠すように作られた黒を基調とした簡易素材のマスクを顔に着け、上着に付いているフードを頭から纏い、一見どこから見ても女性らしいシルエットに早変わりを果たした。


  『後は…』


  悪魔はベットの隙間から芙蓉の部屋で入手したヘリウムガスの缶を手に取るとノズルを口に加えてガスを口の中に噴射した。


  『さぁ始めよう…』


  悪魔は歪な笑みを浮かべて部屋を出た。悪魔の向かう先はとある男の部屋、悪魔が最も嫌うカナリアの部屋だった。悪魔は廊下に不気味な影を浮かび上がらせながら、一歩また一歩と男の部屋に近付いていく。


  漸く悪魔は目的の部屋に辿り着いた。部屋の鍵を簡単に開ける手段はあるにも関わらず敢えて重たい扉をノックスル。



 コンコンコン。


  人気のない廊下にノックの音が不気味に響き渡る。


  「誰だ!!!」


  数秒の間の後、勢いよく扉が開き、怒りに満ち溢れた声が悪魔に向かって降り注がれた。部屋の主、櫓櫂は悪魔を見ると眉間に刻まれた深い皺を更に深く刻んで悪魔に対して警戒心を露わにした。


  『すみません…ちょっとお話したいの…』


 悪魔は不気味に笑う。


  「誰だお前」


櫓櫂は悪魔の変装を見ても怪しまなかった。
 理由は釘井アリスの関係者しか知らない。
 茶トラと呼ばれる悪魔しか知らない。


  何も知らない櫓櫂は悪魔を部屋に招き入れた。


  「ちょうどいい、お前から殺してやる」


  悪魔は櫓櫂の言葉を聞いて不気味な笑みを零した。


  櫓櫂は安心しきっていた。殺されるのは自分ではなくこの狂ったカナリアの方だと、このカナリアは逝き急いで自分の元を訪ねて来たんだと。


  『ねぇ櫓櫂さん私の事覚えている…?』


  悪魔の甲高い声が静かな室内に響き渡って反響してくる。櫓櫂の部屋は不気味な程の静寂を纏っていて、物音一つ立てただけで部屋の中に澄み渡るように聞こえる。


  「覚えている…?お前みたいな奴、知ってる訳無いだろう…そもそもこの俺がお前らのような血に汚れた化け物とこんな閉鎖空間に押し込められている事実事態が俺の支援者に知られたら大事になるぞ!!」


  悪魔は笑う。歪に、そして不気味に。


    『ねぇパパ…どうして私の事忘れちゃったの…?それにまだ誰かが守ってくれると思っているの…?いつまでもそんな幻想に囚われいるなんて可哀想なパパ…』


  悪魔の声が冷たく響くと櫓櫂は白く染まった眉をピクリと動かし怪訝な表情を浮かべた。


  『私はパパの事忘れた事なかったよ…ずっとずっと今日だって、毎日思い出してゾッとするの身体中を虫が這う感覚も、パパに犯される恐怖も、誰も助けてくれない孤独も、全部全部、忘れた日なんてなかったよ…ねぇパパ、どうして私は覚えているのに、パパは忘れしまったの?聞かせて…ねぇ、私に分かるように聞かせて…』


  櫓櫂の顔は怒りから恐怖の色を浮かべ始める。
  さっきまで殺してやると意気込んでいた身体が悪魔の言葉を耳にしてから言うことを聞かない。
  漸く絞り出した櫓櫂の声は絶望感から震え混じりになっていた。


  「お前…まさか…」


  『なあにパパ』


  「お前…本当にアリスなのか…俺の実験で生き延びられたのはクウォーターであるお前だけなのは分かっていたが、今日まで生き延びているなんて、俺は信じないぞ!!」


  悪魔はニヤリと口角を上げて笑う。
  嘲笑にも似たその笑みは恐怖で震え始めた櫓櫂の瞳には映らない。


  『ねぇパパ…私、とっても怖かったの…だからね、パパにも同じ事したいんだけどいいかなぁ…?』


  悪魔は櫓櫂にジリジリと歩み寄る。
  櫓櫂は恐怖に目を見開いて大きく後退りをした。


  『どうして逃げるの…?私気が付いたの、パパと同じ方法でパパを嬲りたかったけど…此処にはパパの研究していた寄生虫はいないんだもんね…だからもっと面白い事、思いついちゃった!!』


  悪魔は狂気に満ちた笑みを浮かべ、声を漏らしながら櫓櫂に滲み寄って行く。


  遂に二人の距離が人一人分程になった時、櫓櫂は体勢を崩して尻餅をついてしまう。


   「来るなっ!!それ以上近付いたら殺すぞっ!お前なんか、俺の娘じゃない、馴れ馴れしくパパと呼ぶな!!!お前なんか、生まれた時から検体に過ぎないんだ!!!お前は産まれた瞬間に母親を殺したんだ!産まれながらにして人殺しだ、お前みたいな娘など最初から存在してないんだ、俺には娘なんていないんだ!」 


    悪魔は歪な笑みを浮かべて、一際大きな声で笑い始める。

  『ハハハッ、アハハハッ!!!』


  「何が可笑しい!!不快だ!今に殺してやる!」


  櫓櫂は白衣の懐から一本の注射器を手に立ち上がろうと体勢を立て直そうとした。その様子見た悪魔は笑い声を上げ続けながら、体重を支えるために着いた櫓櫂の皺だらけの手を容赦なく踏みつける。


  櫓櫂は痛みに顔を歪めながらもう片方の注射器を握った手を悪魔の足に目掛けて突き刺そうとした。


  『僕、知ってるよ…それで刺した後眠らせて性欲を解消した後、身体中に寄生虫を放すんだよね…アリスから聞いたんだ、あんたのやった事全部』


  悪魔は櫓櫂の手を踏む足の重心を櫓櫂の指に変え、痛みで力を抜いてしまった注射器を握る手からそれを素早く抜き取った。


「っ…!!ぐぁぁぁっ…やめろっ……」


  悪魔は奪い取った注射器を櫓櫂の首に突き刺した。



  『僕は知ってるよ…痛くて、痛くて、痛くて、怖くて、怖くて、怖くて、だけど、誰も助けてくれないんだ…』


  悪魔は笑う。
 釘井アリスの思いはちゃんと理解している。
 だって世界一愛しい人だから。


  『ねぇ、面白い事始めようか?そろそろ左手の指は折れる頃かな?』


  悪魔は歪に顔を歪めながら笑うと、櫓櫂の左手の指先を踏み足に全体重を注いだ。
 バキバキッと指の皮の中から外に漏れだす気色の悪い音に櫓櫂の悲鳴が響き渡る。


  「ぐぉぉぉぉぉぉぉっぁぉぉ…」


  『いいねぇ、最っ高にインモラルな悲鳴だ!!!』


  悪魔の声は低く歪な笑みを含んだものに変わった。


  『あれっ?もうガスが終わったのか?まぁいっか…それよりそろそろ始めようか、私、×××が櫓櫂順一の死刑を執行致します…』


  不気味に笑う悪魔の足首を櫓櫂は気力を振り絞って握りしめた。


  「お前、アリスじゃないな…何にせよふざけた事抜かしやがって、許さないぞ、俺はお前をぶっ殺してやる!!!」

  ギロギロと血眼になりながら飛び出しそうな目で足元から動けずに睨み付けてくる櫓櫂に対して、低く冷たい声が落とされた。


  『残念…不正解!死ぬのはあんただよ』


  悪魔は冷たく笑うと櫓櫂に近付いた。


    『神経麻酔薬…効いてきたでしょ?もう動けないよね?あんたが自分で作り上げた麻酔薬だ、苦情は自分に言うんだな、さぁて、今日は派手に汚れる支度は出来ているから遠慮はしないからね?それと、あんたが探してた手術具、ほらっ、後で返してあげる』


  悪魔はポケットなら銀の手術用ナイフを取り出すと悪魔に掲げて見せた。


  「お前…返せっ!!!」


  『言われなくても全部終わったら返すよ』



 悪魔は冷たく笑うと櫓櫂の上に跨った。
 櫓櫂の服を乱暴に剥ぎ床に叩きつける。


  『さて開腹手術は初めてです!痛かったらごめんなさい!あっ、麻酔効いてるから大丈夫か!』


  にこりと悪魔は愛らしい笑みを浮かべた。
  だが、それは櫓櫂の恐怖心を心底煽る表情だった。


  「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ」


  櫓櫂は気力を振り絞って必死に叫び続ける。


  『おや?元気な患者さんですね?どこか悪いのか診ていかないと分からないなぁ…まずはここからかな』


  悪魔が手を伸ばしたのは櫓櫂の局部だった。
 無造作に握りしめると懐から取り出したナイフの刃をゆっくりと当てて血を滲ませた。


  『もう要らないよね、何人もの幼女と遊んだんだから引退って事で…』


  音もなく、只々赤いシミを床に広げながら悪魔は手を動かしていく。慣れない手つきでナイフを動かし、悪魔の手に纏わりつく肉片を容赦なく弾いて床に落としていく。


  『はぁ…慣れない事は疲れちゃうね…あんたの研究してた寄生虫がいれば俺が手を汚す必要もなかったんだけどね…まぁ、あんたには簡単に死んでほしくないからもっと楽しませてもらわないとね』


  悪戯っぽく笑う悪魔を櫓櫂は必死の形相で見つめていた。このままでは殺される、そう分かっているのに身体は言うことを聞いてはくれない。
  それどころか悪魔の行動が目に入る度に、恐怖から意識を失いそうになっている自分がいる。


  意識を失ったらもう二度動けない事は分かりきっている。だが、悪魔に逆らう術は何一つ櫓櫂には無かった。


  櫓櫂は虚ろになる意識の中でひたすらに悪魔に呼び掛け続けた。


  「やめろっ!お前、こんな事をしてただで済むとは思うなよ!!!いいか、早く俺を解放しろっそうしたら見逃してやる!おいっ聞こえてるなら手を止めろ!!!」

 
    叫び声を上げ続ける櫓櫂に目をくれる事もなく、悪魔は身体から切り離した局部を床に投げつけるように捨てると櫓櫂の上半身にメスを入れた。


  「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ」


  尚も騒ぎ続ける櫓櫂に冷たい言葉を投げかける。


  『ねぇ?あんたそれしか言えないの?さぁ次はメインに移ろうか』


  悪魔はニヤリと口角を上げて笑うと、櫓櫂の真っ赤な腹わたを眺めて舌舐めずりをしてみせる。


  『あらあらまぁ生で見るのは初めてです!おっとこれは何かな?』


  悪魔は真っ赤に染まる長い臓器を取り出した。
 櫓櫂の顔は恐怖に歪み涙すら溢れ出している。悪魔は躊躇いもなく臓器を手に取るとナイフを横に走らせて千切っては床に投げ捨てる。それに合わせてグチャッという音と共に小さく血の雫も飛び散る。


  『今のが大腸?小腸?教えて櫓櫂さん?』


  「…もうやめてくれ…」


  『次はこれにしよう!』


  悪魔は息をするたびに収縮を繰り返す臓器を手に取りグチリとナイフを突き立てた。


  『片方あればまだ息はできるよね?櫓櫂さん?』


  「…やめろ、やめろ」


  悪魔は櫓櫂の肺を千切り掲げて見せた。


  『ねぇそれしか言えないの?今朝は俺等カナリアを皆殺しにするとか言ってたのにね』


  悪魔はそう言うと不気味な笑みを櫓櫂に浮かべて見せた。ナイフに着いた肉片と血液を赤い舌で舐め取ってゴクリと喉を鳴らす。


  「ひっ…やめろ!今ならまだ許してやる!俺を解放しろっ!」  櫓櫂の言葉を聞いた悪魔は浮かべていた笑顔を一瞬で消した。そして、誰しもが睨まれると冷たく震え上がりそうになる視線を櫓櫂に向けた。


  『なんで偉そうにしてんだ、執行される立場は誰だ?黙って死ねよ』


  悪魔はわざとらしくこほんと咳払いをすると新しい臓器に手を伸ばした。


  『はい、次はこれにします!五月蝿いから急いじゃった!』


  悪魔は気怠そうにとある臓器を櫓櫂の体内から取り出すと櫓櫂の視界に入るように掲げて見せた。櫓櫂の顔色はそれを見た途端顔色を真っ青に染め上げた。


「やめろ!お前やめろ!!!」


  『さよなら…お義父さん…』


  悪魔は櫓櫂の心臓を握りナイフで引き千切った。
 ブチリっという奇妙な音と共に目を見開かれピタリと動かなくなった櫓櫂の頭に回り左目にぐさりとナイフを突き立てた。


     『これはアリスの分…あんたのせいでアリスは此処に居るんだ、だから僕も此処に居るんだけどね…まあ皮肉っていうのはこう言うことなのかな、ナイフは芙蓉夏彦が盗んだらしいよ…僕らを疑うのが遅かったね櫓櫂さん…』


  悪魔は最後に冷たくなった櫓櫂を一瞥してから部屋を出た。



  『あーあ、執行服、かなり汚しちゃったな、アリスになんて報告しよう…怒られちゃうかな…』


  そう言いながら悪魔は血に汚れた手袋をポケットにしまい、端末を操作して愛しい人の声を求める。


  『もしもし、今終わったよ…執行服、かなり派手に汚しちゃった、身に付けた瞬間にアリスの匂いがして早く此処から出たくなったよ』


  電話口の相手は悪魔の言葉に甘い笑い声を返す。


  『もう少しだよ…それまで待ってて、必ず成し遂げて帰るから』


   悪魔は端末を指で操作して通話を終了させると、静寂に包まれる廊下に足音を響かせた。
 人、一人居ない不気味な静けさに頬を緩ませる。


  『本当はお楽しみに取っときたかったんだけどな…まぁどのみち殺すんだからまぁいっか…』


  悪魔は姿を眩ませた。
 一人のカナリアとしての存在に姿を変える。


 *  『やっと死んだのか…櫓櫂順一…ありがとう×××…本当にありがとう…』


  名残惜しそうに愛しい人の声が聞こえなくなった通話機器に視線を落としながら銀髪の長い髪の女性は呟いた。巻き髪に指を絡ませて窓辺から冬の星空を眺める。


  『早く戻って来いよ…×××…執行服なんて替えがあるから気にしなくていいのに、本当にあいつって奴は神経質なんだから…』


  女性、釘井アリスはうっすら浮かんだ目尻の涙をワインレッドのネイルが施された人差し指の腹でそっと拭った。


  『栞…こんな星が綺麗な日に死ななくてもいいのに…どうして、今日なんだろうな…』


  夜空に向かって呟いた声は霞んで消えて行く。
  寂しげなその声は誰にも届く事はなく、キラキラと煌めく星々だけが彼女を優しく見つめていた。


  『×××…早く会いたいよ…』


  最後に夜空に呟いて釘井はその姿を自室へと翻して行った。
  彼女は待つその時を…。
  彼が彼女の元へ戻り、二人が幸せに包まれる日を…。 


   *僕が平の連絡を受けたのは翌朝の十時頃だった。平は何やら蝶番さんと深夜まで語り合っていたらしい。昨日はあんなに意気消沈していた平が笑顔を取り戻してくれたのが嬉しくて僕は平からの連絡を受けてから平に会いたくてそわそわと部屋の中を歩き回っていた。


  そうしていると僕の端末は聞きたくないメロディを奏でて誰かの死を僕に知らせてくれた。僕は恐る恐る端末を操作してその内容に目を走らせた。


  『櫓櫂順一  六十二歳 囚人番号四百九十五


  制約、三ヶ月内に殺人を犯す事。


 彼は闇医者として世間の闇で働いていた。
 ある日治療中の患者に寄生していた寄生虫に魅入られ、自身の知識を活かし繁殖を試みた。


 彼のマウスになったのは彼の部下達の幼い少女達だった。 彼を神のように崇拝していた部下達は迷いもなく自らの娘や誘拐をして連行した幼児を差し出した。


 彼が何故幼女に拘ったのかその理由は彼の妻が亡くなった事が一番大きな要因になっていた。彼の妻は彼の娘を出産した際の大量出血による出血しで亡くなった。
  その為、彼は自身の娘に底知れぬ憎しみを抱き、娘と同じ年頃の女児を犯すことに快感を覚えるようになった。


 幼女達は彼に犯された後、容赦なく体内に寄生虫を放たれ死に絶える者も後を絶たなかった。


 彼の研究の被害者は死に絶えているが、僅かだが一命を取り留めた者もいた。


  彼の研究の内容を知った一部の部下達が彼の研究を警察に密告しカナリアとして収監された。』


  僕は端末を見た後、吐き気を覚え口元に手を当てて蹲った。


  「……後味悪いよ…こんなの」


  僕が端末を見つめながら一人で蹲っていると重ねた手から歪な痣が僕を見つめているような気がした。


 お前も犯罪者だ…。


 お前は犯罪者だ…。


 忘れるなお前はカナリアだ…!。


  「僕は…一体…僕は…」


  僕はベッドの上で蹲りじっと手首を見つめた。
  痣は生々しく僕を見つめ続けている。


 そんな僕を明るい声が現実に引き戻した。


  「おーい!!咎愛?いんのかー?開けろよな」


    「はい!今開けます!」


  袖を引き延ばし慌てて痣を隠し、扉に手を掛けた。
 扉の向こう側からは屈託のない笑みを浮かべる平が視界に映る。


  「おはよう、咎愛!おい、なんか顔色悪いな大丈夫か?」


  「えっ?!そうかな?気のせいだよ」


  「俺に隠し事してんならすぐばれるからやめとけよな!それに…」


  「隠し事なんかないよ!平…?どうかした?」


  いつもと同じ笑顔なのに、平との距離が離れている気がするのは何故なのだろう。
 平は一体何を言おうとしていたのだろうか…。


  「言いたいことがあるなら言ってよ、今日の平なんか変だよ?」


  「変?俺が?!何言ってんだよ!平常運転だよ!平だけに、なんてな」


  「親父ギャグ?」


  「おい!ちゃんと笑えよな、不発とか虚しいんだけど!」


  「ごめん、ごめん」


  「まぁ、咎愛らしいから許してやる!あっそうだ、櫓櫂さんの情報見たか?」


  「うん、見たよ…後味悪かった…ねえ、平、櫓櫂さんは誰かに返り討ちにされたのかな?」


  平が一瞬、緊張した表情を浮かべたのを僕はしっかり瞳に捉えた。
 僕らに歪な緊張感が芽生える。


  芽生え始めた緊張感を掻き消すように平がゆっくりと口を開いた。


  「さぁな、犯人は分からねーけど死体は写真に収めてきたぜ…なんというかお前には見せられたものじゃない…」


  「えっ?それってどういう事?」


  平は暫く唇を噛んでいたがゆっくりと僕に事実を告げた。


  「人間がやる事とはかけ離れてた…犯人は悪魔で間違い無いと思う…櫓櫂さんは生きたまま解剖されて死んでいたんだ」


  「生きたまま…?」


  平はゆっくり頷くと僕の目を真っ直ぐ見つめた。
 その目には僕には分からない感情が溢れているように見える。


  「今回は咎愛には見せないでおくよ…咎愛にはこのままでいて欲しいから」


  「平…?」


  「ああもう!寝不足が祟って調子でねー!取り敢えず本題は済んだから俺は部屋に帰って二度寝して来るぜ!心配すんなよ!本当に寝不足なだけだからな!!!」


  「分かったよ!だけど無理はしないでね」


  「サンキュー、じゃあまたな」


  笑顔で手を振る平を見送りながら僕は再び部屋に一人になった。 


   静寂の中、思い出すのは平の浮かべた一瞬の不気味な表情だった。


  「平…まさかね」


  僕は頭に浮かんだ考えを首を振りながら拭い去った。余計な詮索は無駄なストレスを生むだけだ、今はただ平を信じて普段通り過ごす他ないだろう。
  せっかく会えたのに急に帰ってしまうなんてきっと疲れてるんだ、なんて平に思いを馳せながら、僕は質素な作りの天井を見上げながら溜息を零した。


  「はぁ…悪魔…この中に悪魔がいるなんて…」


  残りのカナリアは七名、この中に悪魔がいると思うと背筋が凍りつきそうな程の恐怖に駆られる。


  僕はただ、何も出来ずにこの恐怖に縋るしかなかった。平の言葉の意味を理解する日まで。


  * 咎愛が天井を眺めている頃、平も一人部屋で暗闇に身を委ねていた。 思い出されるのは昨日を最期に別れた榊との会話だった。


 「本当に言ってるんですか?」


  「ほんまやで…」


  「なんでそこまでして」


  「うちも死にたくなったんや…」


  平は榊の言葉に唇を強く噛み締めていた。


  「ふふっ、可愛い顔が台無しや…最期になるんやからもっとえぇ顔しぃや…」


  「俺はもう…誰にも死んでほしくない…」


  平は榊の言葉に顔を歪めて感情を溢れさせた。本心を吐露すると、榊は苦笑して平を胸元に引き寄せた。


  「平は本当にえぇ子やな…もっと早く会いたかったわ…そしたら平と結婚して、今頃家庭もあったかも…なんてな」


  柔らかく笑う榊に対して平は涙声で続ける。


  「だって…分かってるんだ、栞さんが死んだって茶トラは他のカナリアを殺し続ける…そんな事考えなくても分かる」


  榊は平の頭を優しく撫でながら言葉を紡いだ。


  「そうやな…せやけど、あんたならあの子を助けられると思う…釘井はんも話せば分かる相手や…きっと助けてくれる」



  榊の言葉に平は唇を噛み締めていた。平はこれが最期だと分かっているのに、怯えたりしていないこの人が不思議でならなかった。それと同時に何も出来ない自分が情けなくて悔しかった。



  「俺は、俺は分からないです、ただ生き残ってここから出るの時に隣にいるのが誰なのか、一人なのか、分からないです」


  「えぇ子や皆、此処に居る子らは…」


  「だけど…俺はっ!!!」


  大声で榊に反論しようとした時、平の唇を榊の妖艶な唇がふわりと塞いだ。


  鼻腔をくすぐる香料の甘い花々の香りに気分が落ち着いてはすぐに昂りそうになる。


    「栞さん…」


  「内緒やで…後数時間の命やからな…うちかて本当はこわいんよ?」


  平は榊の唇に自分の唇を強く押し当てる。どう足掻いても変わりようのない現実は、平を嘲笑うように大切な者を奪い去っては移ろっていく。


  「平…灯はんは…」


  「分かってる…その先は言わなくても…」


  平は自分の瞳から涙が溢れていることに気が付いて慌てて手の甲でゴシゴシと乱暴にそれを拭い去った。


  「平…うちを最期に抱いて…」


  「俺なんかでいいのかよ…お互い浮気になっちまう…もう、今更なんだけど…さっきの続きなんだけど、灯が俺に依存してたのは分かってた、分かってて恋に溺れる振りをしていた…だけど、俺は本気で灯を好きだったんだ…だから、灯が此処に俺を引き寄せて社会から孤立させようとしてたのも、分かってて足を踏み入れたんだ」


  「平…ほんまに…うちらもっと早う会えたら…ううん、こうして会えたんや、文句言ったらあかんな…平、次に生まれ変わったら灯はんより早く恋しような」


  「ははっ、そっちこそ蛍ちゃんに怒られちゃうぜ、栞さん…好きになっちゃってた…向こうに行ったら灯に謝っといてくれ、俺、灯の感情から逃げてたって、本気で好きになって欲しいって言えなかったって謝っといてくれ…」


  平はそれだけ榊に告げると、彼女は柔らかく微笑んでから平の言葉にゆっくりと頷いた。


  平は榊の長い髪を優しく撫でると自分の方に引き寄せて唇をそっと重ねる。重なった唇からは甘い吐息が漏れて、二人の空間を柔らかく染め上げていった。


  二人は時を忘れお互いの愛を伝え合った。
  此処が何処でも、お互いが誰でも関係なかった。


  二人はお互いの命を確かめ合っているだけなのだから…。


  「灯はんは最期に笑ってはったわ…泣きながら笑ってはった…」


  二人は行為の後、お互いを見つめ合いながら最期の会話を交わしていた。


  「灯らしいな…」


  「うちら三人で生き残りたかったんが本音や…だけ灯はんは…うちらを残して」


  「そういう人だよ、昔から…頭より先に身体が動いちゃうんだ…だから栞さんは悪くない…釘井アリスも…俺は結局、誰も恨めない小心者なんだ…」 


    平は唇を噛み締めた。話しているうちに感じてしまったのだ。自分はあまりに無力で蝶番舞鶴…榊栞を救う事は叶わないと。


  「平…そんな顔せんとうちの最期を見届けてや…」


  「俺…また誰かを失うんだ…」


  「平…」


  「栞さん、本当にありがとう…」


  「そうや平…茶トラはんからえぇ事聞いたんや…うちの部屋の机の引き出しに髪飾りと一緒に入れたから見てみぃや」


  「本当に…最期の最期までお節介なんだから」


  平の目にはキラキラと光る雫が一筋溜まっては流れ落ちる。蝶番は長く美しい指で平の雫をそっと拭った。


  「ふふふっ歳取ると、こうなるんや…」


  「栞さん優し過ぎですよ…最期だってのに人の事ばっかり…」


  「最期やからやろ…」


  蝶番は平を優しく抱きしめた。
 柔らかな女性の香りが平を包む。


 平はただ身を委ねて蝶番の首に顔を埋

めた。


  「平…」


  「姉さんも死んでほしくなかった、栞さんだって、生きてて欲しい、死なないで欲しいのに…」


  平は溢れ出す涙を拭う事なく、蝶番に寄り添っていた。蝶番はそんな平に優しくキスをした。


  柔らかな吐息が混じり合いお互いの息遣いだけが部屋こだまする。


  「平…」


  「栞さん…俺…」


  榊は平に優しく微笑んだ。
 二人に言葉は要らなかった。



  暫く抱き合っていた二人は名残惜しさを残しながらも身体を離して見つめ合った。
  最期に重なった唇は二人分の涙の味がした。



  「平、生き延びて…うちの分まで…灯はんの分まで…ほな…そろそろ行きまひょ…」



  全てを知ってもなお生きる続けるために。
  榊はベッドから起き上がり平に笑顔を向けた。何の迷いもない清らかな笑顔だった。


  平はありがとうと小さく呟くと布団の中に潜り込んで微かに残る榊の体温を感じながら眠りについた。
 自分が目覚める頃にはもう榊はこの世には居ない。そう思うと胸が張り裂けそうになった。


  そんな平を置き去りにして夜は明けていく…。


  逃げられない明日は確実に足を伸ばしてカナリア達を誘う。


      櫓櫂が死んだ翌朝、平は端末から流れる不吉な音で目を覚ました。


 …栞さん…死んだのか…。


  「栞さん…姉さん……俺…生き残らなきゃな」


  平は唇を噛み締めた。
 ギュッと噛み締めた唇からは赤い雫が滴り落ちた。


  「…ありがとう…栞さん」


  平は静かに涙を流した。
 この涙を拭ってくれる暖かい指先はもう二度と戻ってくる事はない。


  平はゆっくり立ち上がった。
 彼の目は揺らぐ事のない決意が浮かんでいた。


  「ぜってぇ生き残ってやる」


  平の静かな決意表明は暗闇の中しっかりと空気を震わせた。


  * 聞きたくない音が耳に入った。
   誰かが死んだ音。
 ハッとして端末を見やるとそこに浮かんでいた文字に息を呑む。


  『蝶番舞鶴 『榊栞』三十三歳  囚人番号 三百六十九


  制約、一日に一回髪を梳く。


 芸妓として、美しい女性として人気の高かった彼女はある日一人の愛らしい少女と出会う。


  少女は榊に弟子入りを決め長い時間を彼女と共にしてきた。


  長い時間彼女と接しているうちに少女が榊に抱いたのは恋心だった。


  榊も次第に少女の純粋な部分に惹かれていく。
 お互いの気持ちが昂ぶるに連れて二人の関係はより深いものになっていく。


  榊は日に日に溢れる感情を抑えるために客人の男性と肉体関係を持つようになる。


  その事実を知った少女は榊に別れを告げる。
  榊は少女を遠ざけるためにしていた事なのに、事実を突きつけられ別れ話をされると少女を失う事に対して言い表せない恐怖に捕われた。


  恐怖に取り憑かれた彼女は愛する少女に手を掛けた。永遠に自分のものになるように、離れないように。


  榊はその後自首をしてカナリアとして収監される。』



  「蝶番さん…嘘でしょ…」


  僕は一人暗闇の中蹲った。
  僕も死ぬのかもしれない…。


   *これは昨晩のお話…。榊栞と悪魔は皆が寝息を立てている午前零時、約束した場所で対峙していた。


『ねぇ、本当に死ぬの?今ならまだ寿命伸ばしてあげてもいいよ?立て続けて仕事するのも気が向かないし…』


  「えぇんよ…」


  『まぁ、あんたに関してはアリスからの直々の頼みだから仕方ないか…はぁ、面倒くさいな…』


  「かんにんな…最期なんやから優しくしたってぇや」


  『はいはい、アリスからの頼みじゃなかったらあんたなんか別に気にしなかったのに』


  悪魔は溜息を吐き、悪態をついた。そんな様子を榊は笑顔で見守っている。
 彼女は覚悟が決まっていた。


  自身の最期を成し遂げる覚悟が。


  『ねぇなんであんたは飼われることを辞めたの?そのまま大人しくマザーのカナリアをしていれば生きていれたのに』


  榊は妖艶な笑みを浮かべてから赤い紅が引かれた形の良い唇を動かして言葉を紡いだ。


  「そうやなぁ…死刑されるカナリアを見てるうちにうちも死にとうなったんや…死んで蛍に会いたくなった…だから釘井はんに頼んだんや」


  『ふぅん、アリスも優しいからあんたの頼み事を聞いたって訳ね』


  「そうや…釘井はんには頭が上がりまへん…」


  『まぁ、訳も聞いたことだし、そろそろ始めるか』


  「よろしゅう頼んますわ…最期にもう一つだけ…うちが死んだのは明後日に知らせて欲しいんよ…櫓櫂の知らせは明日やろ?せやからうちは明後日に…少しでも元気付けてあげたいんや…」


  『はいはい、分かったよ…じゃあ始めるよ、私×××が、榊栞の死刑を執行致します』
  榊は目を閉じた。
  頭に浮かぶのは昨晩を共にした愛美平の姿と愛してやまなかった愛らしい少女、高橋蛍の姿だった。


  『蛍…会いにいくで…』


  悪魔は榊の最期の言葉を聞くと美しく細い首にゆっくりと両手をかけた。


  じわりじわりと両手に圧をかけていく。
  苦しみに悶えながらも榊は叫んだり暴れたりはしなかった。ただその美しい顔に涙の筋が一筋煌めいては地面に落ちていった。


  榊は最後に身体を小さく震わせた。
  彼女の息が止まった時だった。


  『はぁ…滑稽だね…さぁて…次は』


  悪魔は榊の死体に油を注いだ。


  『こうやるんだったよね…アリスの為だから頑張りますか…』


  悪魔は榊が用意した小さな蝋燭を一本灯して蝋を床に一滴垂らした。


 悪魔は溶けた蝋の上に蝋燭を置いてそっと部屋から離れた。


  支度は全て整った。


 後は蝋燭がが溶けて火が燃え広がれば事は終わる。


  小さな蝋燭が燃え尽きて榊が灰になるまでには時間を要さなかった。


  榊が燃えつき、部屋に火が移り始める頃にセキュリティハンター達によって消火された。


  美しい蝶は灰に姿を変え、蛍の夢を見る。
 きっと愛し合った二人に嘘はなく、再び同じ花の蜜を吸うために身を寄せ合うのだろう…。


  永遠の愛を求めて。

  

  


 










 



 


  


 


 


 






 
 
















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