恋するカラダはあなたの心を待っている

桔梗楓

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14.望月巽の人間性と噂の乖離

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コトを終え、真夜はシャワーを浴び直してハンガーに吊るしたスーツを着る。洗面室の鏡を見ながら髪を束ね、バレッタで留めた。
 カチャリとドアを開くと、ベッドに腰を下ろしてスーツの上着に袖を通す巽がいる。ネクタイは締めるのが面倒なのか、足元にあるビジネスバッグに突っ込まれて、端が少し垂れ下がっているのが見えた。

「忘れ物はない?」
「はい、大丈夫です」

真夜がベッドの脇に置いていたビジネスバッグを手に頷くと、巽も鞄を持ち、二人で部屋を後にする。無人のカウンターで会計をして外に出ると、人一人通らない寂しげな夜道に、防犯灯が寂しげにぽつぽつ続いていた。

「まだ電車あるよね」
「ええ、終電には間に合います」

話しながら駅に向かって歩く。巽のマンションはこの駅から一駅向こうにあり、真夜のアパートは会社方面の電車に乗って、三駅先だ。つまり、帰り道は反対方向になる。

「……最初はただの興味だったけど、セフレもいいものだね」
「そうですか?」

 コツコツ、カツカツ。
 最初に出会った日、二人が鳴らした靴音と同じ音。ただ、今は足並みを揃えて和音のように響いている。
 巽は見えない月を探しているのか、夜空を見上げながら静かに話した。

「明解っていうのかな。余計なこと考えなくていいのが、すごく楽なんだ。えっちがしたい、だからする。すごくシンプルで、判りやすいでしょ?」
「それはまぁ。でも普通は、そういうノリにしちゃいけないんでしょうけどね。……私が言う事じゃないですけど」
「判るよ。遊びでしていい行為じゃないって事だよね。俺もそう思う。だから今までセフレは作らなかった。……でも、別に今までだって、その子がムチャクチャ好きで付き合ってた訳じゃなかったよ」


 巽はどこか冷めた目をして夜空を見ている。
 その様子からして、彼は一度として、誰かに特別な想いを寄せたことがないのだろうと真夜は思った。

「それでも一応、ちゃんと『恋人』という契約を結ばないと、えっちはしたら駄目って思っていた」

巽の言い分は正しい。
セックスが動物の行動として何を示しているか、考えればすぐに判ることだ。本来は子を成すための行為。当然、愛がないといけない。
でも、真夜はその『当然』を諦めていた。自分の性格は女として愛されるに向いていないと思ったから。
 ……でも体は寂しかった。ひとときでもいいから女の幸せというものを感じてみたかった。
 だから、自分から足を踏み出して蹴破ったのだ。常識、倫理と言う名の壁を。
 そんな真夜の勝手な都合でセフレにされたというのに、巽は小さく笑った。

「真夜ちゃんを始めて抱いた時にね、楽しいなぁって思ったんだ」
「楽しい、ですか?」
「うん。心が凄く沸き立ってね。多分、相性が良かったのが大きいんだろうけど」

 巽の視線はまだ下りない。彼はずっと星空を見上げながら独白するように話し続ける。

「純粋に、無心に、ただ気持ち良いことだけをするのがすごく楽しかった。まぁ、言い方を悪くすれば気楽だからなんだと思うけど。でも、何だかすごく、ホッとしたんだよ」

 その言葉は確かに、穿った見方をすればとても無責任に聞こえる。恋人としての責任がないからこそ、彼は気楽に真夜を抱くことができるのだ。
 しかし真夜は、巽を責める気にはなれなかった。言い出したのは自分だからというのも勿論あるが、それ以外に、巽の柔らかな表情がとても、嬉しいと思ったから。

「なんだろ、うまく言えないなぁ。例えば風俗は、セフレよりもずっと責任がなくて、ドライでいられるのに、それは俺の欲しいものと違うんだ。けれど、じゃあ何が欲しいのかと言えば、俺にもわからなくて……」

 巽は、まるでジグソーパズルのピースを探してるような顔をして「むー…」と唸る。
腕を組み、しかめ面で歩いていたが、やがてパズル自体を放り投げるように「やっぱわかんないな」と両手を上げて笑った。

「とにかく真夜ちゃんは、俺が欲しかったものを、丁度いい具合にくれたって感じがしたんだよ。だから俺はこの関係を前向きに受け入れているんだ。仕方なくじゃない。嫌々でもない。そこんとこを、判ってもらいたいのかな」
「なるほど。望月さんは気にしてくれていたのですね。セフレは私が言い出した事ですから」
「いや、それは違う気がする。あ、でもできれば、望月はやめて巽って呼んで欲しいかな」

 真夜は巽を見上げた。彼の本当の気持ちがいまひとつ判らないのだが、本人もよく判っていないようだから当然の話かもしれない。

(でもおそらく、彼はもっと友達っぽく、砕けた態度で接して欲しいんだろうな)

 巽は前から真夜のことをちゃん付けで呼んでいるが、真夜はいまだに苗字呼びだ。さすがに友達としての距離は遠すぎるかもしれない。

「わかりました。じゃあ同い年ですし、巽くん、ですね」
「あははっ、君付け! まぁ、それが真夜ちゃんの味なのかもね、ふふ。じゃあこれからは本当に、一緒にセックスを楽しむ仲って事でよろしく。俺だけアレコレ頼むのも何だから、真夜ちゃんもしてみたい事があったら遠慮なく言ってね」
「……してみたい事、ですか」

 実を言うと、真夜の中でしてみたい事はすでに終えているのだ。処女を貰ってくれること、セックスの快感を身に刻むこと。そのふたつは完全に成し得てしまっている。
 だから他にと言われても正直困ってしまう。すると、巽が真夜の表情を見て不思議そうに首を傾げた。

「色々あるじゃん。コスプレとかエスエムとか。あ、でも俺アレだけはやだ。スカトロ」
「スカトロは私も嫌です……」
「ああ、わかるんだ。あと、アナルセックスも趣味じゃないなぁ。真夜ちゃん普通にナカ狭くて絞まりもよくて気持ち良いし。俺、中出しとか興味ないし」
「私も趣味じゃありませんっ! て、…そうだ! あの、巽、くん」

 真夜は重要な事を思い出して、もじもじと手を組み合わせて俯く。
 
「どうしたの?」

巽が歩きながら訊ねた。真夜は俯いたまま、ずっと頭の端で思っていた懸念を口にした。

「その。私、ピル、は飲んだほうがいいんでしょうか」
「ああ。でもあれ、病院で貰わなきゃいけないんでしょ? 診断受けたりさ」
「そうですね。でも、貰うのに難しいもの、ってわけでもないみたいですし」

 正直に言うと少し抵抗はある。あれは避妊目的というよりも、月経の辛さを緩和させたり、計画的に妊娠するために処方されるものだからだ。
だが、巽は将来を誓い合った仲ではない。もしもの事を考えると迷惑をかけてはいけないし、定期的に薬を服用していれば、巽も安心するのではないかと思ったのだ。
 それなのに、巽は眉を潜めると「うーん」と苦い顔をして顎に指を添える。

「巽くん?」
「……あのね、これはあくまで、個人的意見なんだけど」
「はい」
「できれば、飲まないで……欲しい、かな」

ぽつ、と呟く。

「え?」

真夜は呆けた声を出し、足も止めてしまう。巽は少し歩いた先で足を止め、後ろに振り返った。
 ……その表情は夜闇の陰に紛れていて、読めない。

「女性が様々な理由でピルを必要としているのは判ってる。どうしても真夜ちゃんが、それを飲まないと安心できないと言うのなら、俺は止めない。リスクは明らかにそっちの方が上だし、結局のところ俺は男だから、君に飲むなって命じる権利はない。……でもさ」

 こつ、こつ、と靴音を立てて巽が近づく。やがて真夜の目の前まで来ると、ようやく彼の表情が目に入った。
 それは、いつもニコニコしている気さくな笑顔とはまったく違って、とても真剣で。
 こんな顔もするんだと、真夜はどこか的外れなことを思った。

「こればかりはね。運命だと思うんだ」
「運命、ですか?」
「うん。変? でも、それが前にも言った共同責任だと思う。この最低限の責任だけは負う覚悟がないと、俺は……ううん、俺も真夜ちゃんも、セフレになっちゃいけないと思うんだ。だからといって腹を括れってわけじゃないんだけど、なんていうか」

 かしかしと頭を掻く。やがて、巽はフイと顔を背けて、駅の方角に足を向けた。

「ごめん、上手く言えない。ああでも、避妊を疎かにしていいってわけじゃないんだ。実際、俺はゴムなしでセックスしたことないし。ただ、俺のためにピルを飲む真夜ちゃんを想像すると、ちょっと嫌でさ。あーでも不安ならホント飲んでくれて構わないんだけど。うーん」

 ぶつぶつと呟きながら駅に向かって歩いていく巽。

 彼の後ろ姿を見て、真夜はずっと心に思っていた疑問を口にしてしまった。

「……巽くんって、本当はすごく優しくて気遣い屋さんですよね。どうして、ヤリ捨て君とか女性の入れ替わりが激しいとか、やらせてって言ったらすぐやらせてくれる、とか言われているんですか?」

まだ出会って日が浅いのに、どうしてこんなにも巽が気になるのだろう。
 体を重ねると、それだけ想いが深くなるのだろうか。学生時代、半年つきあった元彼よりも、ずっと強い気持ちが彼に向いている。
 真夜が巽の背中に向かって質問を投げかけると、彼はガクッとよろめいた。
 そしてグルッと振り返ると、怒った口調で言う。

「あのねぇ、俺はそんなつもりないって言ってるでしょ! 会社の女の子がそう言ってるだけなんだよ!」
「でも火のない所に煙は立たないといいます。何か噂の原因みたいなのがあるから、そう言われるんでしょう?」
「ぐっ、ま、まぁ……そうだけど。君は大人しそうな顔をして、意外とぐさぐさ言うよね……」

 巽はブツブツ呟いて、再び背中を向ける。
 コツコツ、カツカツ。
 二人の足音は和音から輪唱のように、追って重なるものに変わっていった。

「真夜ちゃんと同じだよ」

 ポツリとした声。顔を上げた真夜に、しかし巽は振り返らず、背中を向けたまま。

「君は、恋人としてのつきあいが苦手だって、言ってたでしょ。俺も似たような感じなんだ。でも、俺は顔がいいから君よりモテる。……違いはそれだけだよ」
「はぁ。巽くんは自分で顔が良くモテるって思っているんですね」
「そこつっこむの? でも事実だもーん。俺は顔が良くてモテモテさんなんです。真夜ちゃんだって、俺の顔が良いから声をかけてきたんでしょう?」

 確かに、それは正解だ。
 しかし巽は自分が顔がいいだのモテモテだの言うわりに、あまり嬉しそうな、自慢する感じがしない。むしろ皮肉げというか、自分自身に嫌味を言ってる感じだ。
 どうしてかな、と少し思ったものの、真夜はそれ以上を聞くことができない。

 でも、巽は自分が思っていたよりもずっと真面目な人なのかもしれない、と思った。

◆◆◆

巽とのメールは非常に滞りなく、スムーズに交わされた。
 
『来週は水、木なら早めに帰れます』
『水曜日はミーティングだから木曜日がいいかな』
『わかりました。前と同じ居酒屋でいいですか?』
『了解。仕事終わったら行くね』

友達相手にしても、あまりに……な内容かもしれない。絵文字も世間話も皆無である。
それは真夜も思うのだが、こういったメールが一番早く送れるので仕方が無い。
最初こそこんなにそっけなく、事務的でいいのかなとオドオドしながら送っていたのだが、巽からの返信も真夜と負けず劣らず簡潔だったので逆に安心した。
これでもいいんだ、と思うと心が軽くなる。メールに対する恐怖が少し薄まった気がした。
 とはいえ、あれこれと意味のないメールを送れるかと言えば、それは出来ないと言わざるを得ないのだが。
連絡事項のようなメールを送りあって、週に一度、夜に顔を合わせる。
夕飯を一緒に食べて、巽の愚痴と笑い話を聞いて、ホテルの広いお風呂を満喫してセックスに興じる。
 真夜は自分の話をするのが苦手だ。でも巽の話は楽しい。同じ会社とは思えない程、彼の職場――営業部は、バラエティーの豊かさに溢れていた。
 ちょっと羨ましいな、と思ってしまうくらいだ。
 実はカツラだった営業部長だって、セクハラをしがちな部分は眉をひそめてしまうが、お尻の形が好みな経理のお局さんにメロメロだとか、奥さんが物凄い恐妻だとか。話題に事欠かない。

「ああいうタイプは亭主関白を気取っていながら、実は尻に敷かれたいんだよね」

知った風に得意げな顔で言う巽がおかしくて、真夜はやっぱり笑ってしまった。
 愚痴を言いつつ、悪口を言いつつ、それでも馴染み良い気安さがある。
 他の部署に興味は無かったけれど、あの会社の営業部は割とほのぼのとしてるんだなぁと思った。
そして巽とのセックスも存外、いや、かなり楽しんでる自分がいた。
 倫理的にどうなのだろうと思う時もあるが、自分はきっと、世間一般の女性に比べて快楽主義なところがあるのだろう。
 あの蕩けるような快感を彼から与えられると、背徳感や罪悪感があっさり飛んでいく。
 気持ちが良い。もっと味わいたい。それだけで頭がいっぱいになって、心の中は幸福感に占められていく。
 体を繋げる行為は、まるで麻薬だ。味を知ってしまうと抗えない。知れば知るほどしたくなる。
 いつの間にか、巽と会う日を心待ちにしている自分がいる。
 巽とは刹那の関係だから、余計に貪欲になっているのかもしれない。
 この体に官能刻む為。素敵な思い出を心に降り積もらせるように。

(……でも、あの噂だけは違和感がある)

望月巽とセフレになってから、彼の噂が前以上に耳に入るようになった。
女と長続きしない。ヤリ捨てばかりの最低男。顔がいいだけが取り柄の遊び人。
噂好きな先輩秘書達の話題の中で、望月巽の名を聞かない日はない。
 先輩の多くは決して草食ではなく、むしろガッツリ肉食系だ。社内社外に限らず、めぼしい男に関する噂を仕入れるのに手間を惜しまない。ついでに言うと合コンや飲み会にも積極的に参加している。
 中にはそうでない先輩もいるが、稀だ。殆どは、圧倒的な美貌と秘書というステータスを武器に、いい男を狩りまくっているハンターである。
そんな女達の筆頭みたいな橘や桜とよく絡むだけに、真夜は「女って怖いなぁ……」と同性ながらに思ってしまう。

「そういえばさっき、望月巽がビンタ食らってたわよ」
「ええ? 会社でよくやるわねぇ。次はどこの課の女なの?」

 お昼休み。その日はカフェでなく秘書室内で社長の出張土産である温泉饅頭を皆で囲んでいた。その中で、真夜にとって今一番身近になっている友人の名が出てきて、思わず饅頭を喉に詰まらせかける。
 暖かいお茶を喉に流し、黙って話を聞いていると、噂を仕入れた先輩秘書が2つ目の温泉饅頭に手を伸ばしつつ「総務の派遣社員よ」と答えた。

「営業部のフロアに休憩所があるじゃない。自販機のあるところね。あそこでバチーンって。すごい迫力だったわ」
「まー、色男が台無しですねー。何やらかしたんでしょう」
「さぁね~? でも目立っていたわよ。なんせビンタでしょう? 周りの人、唖然って感じで見てたわ。で、女の方が『最低!』って怒鳴って走り去ったの」

 修羅場ですねぇ、と誰かが相槌を打つ。噂話を話した秘書は営業部長の担当だ。彼についていて偶然見かけたのだろう。

「どうせ、女の方がつきあって~って告白してつきあったらヤリ捨てられて、マジオコ! ってオチでしょ」
「庶務の子がそうなんだっけ。あの、2日だか3日だかで別れたやつ」
「声をかけられたら誰とでもつきあうのかしらねぇあの人。顔がよくても病気持ってそうで嫌だわ」
「あははっ、それは嫌ねー。でも、望月巽も一応、断る事があるみたいよ? 極稀だけど」
「えー! あの男が断るってよっぽどじゃない? 噂によると雑食なんでしょ。派手な女から大人しそうな子まで、全部ばっち来いって感じで」
「あの人の付き合う基準って何なのかしらね」

饅頭を食べながら話し、お茶を飲む先輩達。

(確かに、巽くんの付き合う基準って何なのかな)
 
真夜もお茶を飲みつつ考えた。
 相貌でないことは確かだろう。自分は恋人ではないが、巽は「真夜ちゃんも選んだ」と言っていた。なら性格だろうか。しかし先輩が言うには派手そうな人から大人しそうな人、色んなタイプとつきあっていたようだ。つまり、性格の統一性はないと思われる。
 では、スタイル? 確か巽は、だらしない体つきの女が好みと言っていた……。

「だらしないのが好きなんじゃないですかね」
「だ、だらしない!? 矢吹さん、それは女の子に失礼すぎるわよ!?」
「あっ、違うんです。そういう意味じゃなくて、だらしない、だらしない……からだ? じゃなくて、だらしない部位? うーん……」
「矢吹さん、あなたは望月巽の女性経歴を知らないでしょうけど、皆それなりに小綺麗な子ばっかりだったわよ。裏はどうだか知らないけど」
「そうですか。すみません……。ちょっと思いついただけなので、気にしないで下さい」

 真夜が笑ってごまかしつつお茶を飲むと、もう一人の先輩が「でも」と首をひねった。

「もしかしたら望月巽は特殊な性癖を持っているのかもしれませんよ。実はドSだとか」
「ああ~。それだと確かに、同じようなSっ気のある女はお断りするわよね」
「そうそう。だからそういうのを本能的に察知して、同属っぽいのは断るとか」

 なるほど~!と皆が納得したように頷く。
 真夜も一応は相槌を打って頷いていたが、「巽くんはそういう変な趣味はなさそうだけどなぁ」と心の内で呟いた。
 それにしてもビンタとは、一体何があったのだろう。
 幸い、今日は当の本人と会う約束をしている。機会があれば聞いてみようと思った。
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