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1巻
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しおりを挟む「ずっと、どうやって君に想いを告げようか悩んでいた。こんな俺では好きになってもらえないだろうと。しかし、ご両親が前向きに考えてくれるのなら、俺も考えを改めたい。七菜、どうか俺の気持ちを受け入れてほしい」
「う、受け入れろって言われても、こ、困ります。私が……好き、だなんて嘘でしょ? だって、入社してからずっと……」
私は困惑して俯いた。
稔さんは、基本的に誰に対しても厳しい人だけど、私はとにかく、なにかあるたび稔さんに怒られていた。
図面がちゃんと引けていないとか、ミーティングの議事録が不十分だとか。とにかく頻繁に注意されていて、いつも同僚や先輩になぐさめてもらっていた。だから私はずっと稔さんに嫌われているんだと思い込んで、落ち込んでいたのに。
なぜだ。どうして? ああもう、全然話についていけない!
「七菜、難しく考えなくていい」
「そう言われても」
私の手首を握ったまま、稔さんが言葉を続けた。
「この機会に、君も俺のことを考えてみてほしいんだ。試用期間だと思って、俺が君の夫にふさわしいかどうかを、試してくれ」
「そ、そんな、自分を試作品みたいに言わないでくださいよ~!」
私の絶叫にも似た非難の声は、儚くも初夏の風と共に流されたのだった……
◆ ◇ ◆
なんだかよくわからないうちに、えらいことに巻き込まれてしまった気がする。
ぼんやりと会社のデスクを見つめて、私は長いため息を吐いた。そうして、この一週間のことを思い出す――
私の両親への挨拶という大イベントが、台風のように過ぎ去った次の日、早速私の引っ越しが始まった。
そして私の私物は一切合切、あのモデルハウスのような家に移動させられて、心の準備もないままに稔さんとの共同生活が始まってしまったわけだけど……
「そうは言っても、いきなり夫婦らしくなんて、無理だよね」
ぽつりと呟き、仕事の続きを再開する。
――あれは、共同生活開始、一日目のことだった。
朝、実家ではない真新しいベッドで目覚めた時は、なんとも言えない違和感が満載だった。すべての事象が早送りのように進んでしまったせいで、自分の脳が、まだ現実を受け入れていなかった。
ボンヤリしながら一階に下りて、あくびをしつつリビングの扉を開けたら、そこではビシッと髪を整え、パリッとビジネススーツを着ている稔さんが、コーヒーを淹れていた。
『おはよう』
その一言で、急激に目が覚めた。
『朝食は和食にしたが。コーヒーは食前と食後、どちらに飲む?』
『あ、あ、あ……あ?』
語彙力が一瞬で破却された私は、自分のぼさぼさの髪とノーメイクの頬を交互に触った。
『君は寝る時、パジャマを着るんだな。いちご柄が、とても似合っている』
『い、ちご……』
私は髪を掴んだまま、自分の着ている服を見た。赤いいちごがたくさんプリントされた白いパジャマ。
『……! ちょっ、ちょ、ジャスト ア モーメントー!!』
私は瞬時に胸を腕で隠し、ばたばたとリビングから逃走した。
なんてことだ!
パジャマ姿を見られたのも、ノーブラなのも、メイク前のすっぴんなのも、髪をセットしていないのも、なにもかもが恥ずかしい。全日本羞恥心選手権があったら、間違いなくトップに躍り出るレベルだ。
ふたり暮らしっていうことは、そういうことなんだと、ようやく私は理解した。こういう姿を見られるのは、両親ならなんでもないことだけど、相手が稔さんなら話は別だ。
これはもう、朝からまったく気が抜けない。
ちなみに、稔さんが作ってくれた朝食はめちゃくちゃ美味しかった。温かいあさりの味噌汁に、ふわふわのだし巻き玉子。香ばしい焼き鯖に、サラダまで。文句なしの百点満点である。
それに比べて私は、朝から家事らしいことをなにもしていない。せいぜい食器を食洗機につっこんでボタンを押したくらいだ。
ハバタキユーズの社長子息で、仕事が完璧にできて、頼りがいがあって、お顔が素敵で、スタイルもよくて、料理が上手って、どんだけパーフェクト超人なのだろう。
ご飯が美味しすぎて、無言で食べきってしまったけど、ちゃんと『美味しい』って言えばよかった。言うタイミングを逃したまま出勤時間になってしまって、そんな日々をもう一週間も過ごしている。淡々と、淡々と、会話らしい会話もなく。
「このままじゃ、いけないよね……」
チラ、と横目で部長席を見る。今日、稔さんは会社にいない。朝礼を終えた後、製造工場のある地方に出張したのだ。日帰りで、帰りは駅から直帰するらしい。
このままではいけない。
ずっと思っていたことだ。このままだと、まったく仕事にならない。
私の仕事は、あの家にある生活用品について夫婦で使う想定でレビューすること。今週末には、ある程度の報告書を提出しないといけないし、そのためには、稔さんと夫婦として協力し、意見を出し合わないといけない。
いつまでも緊張していたらダメだし、怖がっていてもダメだ。
それに私は決めたじゃない。稔さんと一緒に暮らすことで、男性への恐怖心を克服しようって。
自分が変わりたいと思っているんだから、ちゃんと向き合わないと。
「そうだよ。ちゃんと話し合わなきゃ」
相手は鬼侍だし、見た目はすごく怖いけど、誠実そうだし、なにより真面目だ。
「それにすごく格好良いし、スーツ姿が似合って、家で上着を脱いだネクタイとワイシャツ姿とか、めちゃくちゃ色っぽくて……うぅっ」
稔さんの、あの姿を思い出すと、いつも胸の鼓動が激しくなる。慌てて首をぶんぶん横に振って、彼の姿を頭からかき消す。
会社でも家でも基本的にきっちりしている稔さんだけど、やっぱり家に帰ると少しは気持ちがリラックスするのか、心なしか表情がゆったりしている。その、ほんの少し疲れたような、気の抜けた顔には非常に色気があって、私は直視できないほどドキドキしてしまうのだ。
男性と一緒に暮らすというのが、こんなにも気が気じゃないなんて!
全然知らなかった……。一応これでも、過去に男性とつきあったことはあるのに、あの頃は全然そんな気持ちにならなかった。
ということは、やっぱり稔さんが特別なの?
そう考えた途端、冷めかけていた熱がふたたびぐんぐんと顔に上がって、デスクに肘をついて頭を抱えてしまう。
そんな。気のせいだ。だ、だって、まだ一緒に暮らして一週間だし!
でも、稔さんは……私が好き……なんだよね?
「いや、それが一番謎なんだけど!」
ぶつぶつ、ぶつぶつ。
今日はやけに独り言が多い。悩みが多いからだな、うん。
とにかく。いつも美味しい朝食を頂いているのだから、今日くらいは夕食は私が作ってお返ししよう。そして今後のことについて、ちゃんと相談しよう。
相手は鬼でもモンスターでもない。言葉が通じる人間なんだ。
我ながらすごい無理矢理な納得のしようだと思いつつ、私はいつも通りの雑務を片付けるのだった。
◆ ◇ ◆
終業時間のチャイムが鳴って、自分のデスク周りを片付ける。同じように帰り支度をし始める同僚や先輩に挨拶して、私は足早に会社を後にした。
うちの会社は基本的に私服で、制服はない。男性社員はビジネススーツが圧倒的に多いけど、女性社員は割と好きな服を着ている。さすがに奇抜な服の人は少ないが。
今、私が着ている服も、白い襟シャツに、ベージュのスキニーパンツというシンプルな装いである。こんな感じでも許されるのは、ハバタキユーズのいいところかもしれない。
まあ、噂によると、めちゃくちゃファッションチェックが厳しくて、女性同士のマウント争いが激しいという地獄みたいな部署もあるそうだけど……少なくとも開発部は平和である。きっと、そういう不毛な諍いを許さない雰囲気満載な稔さんが部長だからだろう。喧嘩するヒマがあるなら、企画のひとつでもあげてください。とか、冷徹に言いそうだ。
家に帰るのに、実家だったら一時間かかっていたけれど、今住んでいる家は電車に乗ってひと駅。会社に近いのは純粋に嬉しい。
家に帰る前に、駅前のスーパーに寄る。
そういえば、稔さんはなにが好きなのかな? あの調子だと好き嫌いなんてなさそうだけど。逆に、そんな可愛い弱点でもあったらいいのに。
ま、私の作れる料理なんて大したものではない。稔さんの作る朝食より大分グレードダウンしちゃうけど、そこは我慢してもらおう。
世の中には、私のようにあまり料理しない人間でも、なんとか人並みに作れる便利なものがたくさん売っている。
そのひとつがこれ! 炒めた野菜とお肉にかけるだけで本格中華料理ができあがる、魔法の液体! 調味料などが全部袋に入っているので、計る必要もない。パッケージの裏面に書いてある通りに作ればOKというしろもの。
お味噌汁くらいなら作れるので、オーソドックスにワカメと油揚げにしよう。それから副菜にはなにがいいかな。メインが中華だから、春雨サラダなんて合いそう。これも簡単だし、材料さえ買えば大丈夫だ。
必要なものを買い揃えて、家に向かう。すでに合鍵をもらっているので、私は玄関の鍵を開けて中に入った。
「ただいま……って言っても、誰もいないよね」
実家なら家族がいる。台所から美味しそうな匂いが漂って、お母さんが「おかえり~」って出迎えてくれる。でもここには、私と稔さんしかいない。
「う~、本当に大丈夫かな。やっぱり私、大変なことをしでかしている気がするよ……」
男性とふたり暮らしなんて初めてだし、どうしても緊張してしまう。
だ、だが。仕事だもん。頑張らないとね。
先日稔さんに言われた『七菜が好きだ』という爆弾発言は、後で本人に問い詰めるとして、まずは夕食を作ろう。
「そうだ。どうせだから、試作品や既製品も積極的に使ってみよう」
そもそも、そのために住んでいるんだしね。
キッチンには、ハバタキユーズ製の調理道具が揃っている。私は野菜のカットに自社のチョッパーを使ったり、新製品のフライパンやトングで料理を作った。
そして炊飯器が炊き上がりのアラームを鳴らした時――
「ただいま」
稔さんが帰ってきた。リビングの扉が開いて、ビジネススーツ姿の彼が現れる。
「おっ、おかえりなさいっ」
ぴっと背筋を伸ばして、緊張しつつ声をかけると、稔さんは私をジッと見て頷いた。
「夕食を作っていたのか」
「ハ、ハイ。たいしたものは……つ、つくってない、ですけど」
しゃもじを両手で持って、たじたじと答える。
――ああもう、怖がっちゃダメなのに。やっぱりコワイ。立ってるだけで無視できない威圧感があるし、顔は無表情だし、眼鏡をかけた目は余計に冷たく見えてしまう。
「着替えてくるから、少し待ってもらえるか?」
「だ、大丈夫です。はい」
ぎくしゃくと頷き、ふたり分のお茶碗を戸棚から取り出す。
――うう、緊張するなあ。ずっとこの調子だったら本当に困る。
私がお茶碗にごはんをよそい、お味噌汁を椀に入れた頃、二階で着替えを済ませた稔さんが戻ってきた。
「中華料理か。七菜の料理は凝っているんだな」
「ちがっ! ちがうんです……これはその、半分レトルトみたいなお料理で……」
エプロンの裾を握って説明する。
「私、料理はそんなに得意じゃなくて、稔さんの朝ごはんみたいな立派な料理は作れないんです。せいぜい、材料を切って炒めたり、混ぜたりするくらいなんです」
なんだか言ってて情けなくなってきた。もっとお母さんのお手伝い、積極的にするべきだったなあ。いや、もっと言えば料理教室でも通っとけばよかったかも。
私がへこんでいると、頭にぽん、となにかがのせられた。思わず顔を上げると、それは稔さんの大きな手だった。
どきん、と大きく胸が高鳴る。
乾いた手は、優しく私の頭を撫でて、それがあまりに気持ちがよかったせいか、緊張していた肩の力がゆっくりと抜けていった。
「そんな顔をするな。君は俺のワガママに巻き込まれているだけなんだから」
「稔さん……」
「夕食、頑張って作ってくれてありがとう。俺には、とても美味しそうに見える」
「は、はいっ! それはもう、絶対美味しいですよ! だって半分レトルトですから!」
レトルト食品の味に失敗はないのだ。多分。
私がこぶしを握って自信満々に言うと、稔さんの眼鏡の奥にあるつり上がった目尻が、ゆっくりと下がった。
そして、思わずといった様子で、口の端をくっと上げる。
「あれ……もしかして、今、笑いましたか?」
「ああ。七菜がとても可愛かったので、つい笑ってしまった」
かわっ……!?
今なんか稔さん、さらっとすごいこと言わなかった!?
自分の顔に、かーっと熱が上がっていく。
「と、と、と、とりあえず、冷めないうちに食べましょう。わ、私から、ちょっと、稔さんに相談したいこともありますし……」
「ああ、わかった」
大きなダイニングテーブルに、私と稔さんは向かい合わせになって座る。そしてお互いに手を合わせて「いただきます」と食べ始めた。
「うん、美味しい。この春雨のサラダは君の手作りなのか?」
「はい。それは混ぜるだけですし、野菜はハバタキユーズのみじん切りチョッパーを使って調理してみました」
「ああ、使ってくれたのか。使い勝手はどうだった?」
「切るのが早く済むのはとてもいいんですけど、刃の付け替えがちょっと面倒なのと、使い終わって刃を外す時、手が切れないように注意するところが気になりましたね」
「ああ、そこは開発当時から声が出ていたんだが、コストの問題で諦めざるを得なかったんだ。もう少し刃の着脱がスムーズになると使いやすいかな」
ふむふむと稔さんは頷きつつ、もぐもぐと春雨サラダを食べる。
「朝、キャベツをカットする時に同じチョッパーを使ったんだが、俺が使うのと、君が使うのでは、まったく感想が違う。やっぱり、七菜と一緒に住んでみてよかった」
満足そうに言って、次に味噌汁を飲む。
「美味しい。七菜は料理が上手だな」
「ええっ!? そ、そんなことないですよ。た、単なる味噌汁ですから」
唐突な褒め攻撃に焦りながら、私も味噌汁を飲んだ。……うん、なんの変哲もない味噌汁だ。褒め要素なんてひとつもない。出汁だって、粉末和風だしを使っているし。
「そんなことはない。七菜の料理には可愛げがある。味気ない俺の料理とは、まったく違うぞ」
「かわい……げ?」
可愛げがある料理なんて言われたのは初めてだ。それは褒めているのだろうか?
「更に言うなら、優しさや温もりもある。俺には縁のなかったものだから、新鮮で……、嬉しい。七菜の作った料理を食べられるなんて、世界で俺以上に幸せな者はいないだろう」
「へっ……」
ぽろりと箸が落ちた。
無表情で、淡々と、なにを仰っているのか!?
もぐもぐとおかずを咀嚼した稔さんは『どうかしたか?』と言いたげに首を傾げている。
――まっ、まさかだけど、稔さんって、もしかして天然さんなの?
自分が口にした言葉がどれほどの破壊力を持っているか、まったく自覚していないんだ。
私の顔は真っ赤になっているだろう。だって、私の料理が優しいとか、温もりとか、幸せだとか、う、嬉しいけど、嬉しいけど、こんな半分レトルト料理で、そんなこと言われても困る!
これがイヤミだったら、どれだけマシだろう。けれども、彼の誠実な性格から、そんなことを言うとは思えない……ということは、本心なんだ。
――うう、嬉しいけど、恥ずかしい。私、もっとお料理頑張らなきゃ……
「七菜は確か、辛い料理が苦手だろう。中華料理は大丈夫なのか?」
「あ、それは料理によります。今日作ったみたいな甘酢あんかけは大丈夫なんですけど、麻婆豆腐とか、担々麺とかは苦手なんです」
顔に上がった熱で、てんてこ舞いになっていた私は、慌てて答える。
「なるほど。甘党の七菜らしい答えだ。今朝、俺が作った卵焼きの味はよかったか?」
「はい! 甘めの味付けで、とっても美味しかったです。そうそう、私、ちゃんと稔さんに美味しいって言ってなかったので、今言えてよかったです」
私が笑顔で言うと、稔さんは目を細めて微笑んだ。
ドキン。
胸が大きく高鳴る。
稔さんの笑顔って、本当に素敵だ。優しくて、穏やかで、頭の中がほわほわ小春日和になってしまうような、癒やしがある。
会社では常に無表情だから知らなかった。こんな笑顔を隠し持っていたなんて、なんだかもったいない。でも、私しか知らない……と思うと、胸の鼓動がばくばくと、いっそう強く音を立て始めた。
息苦しいくらい。どうして? 私……稔さんの一挙一動に動揺している。
……ん、でも、ちょっと待って? どうして稔さん、私が辛いの苦手だとか、甘党ってことを知っているんだろう。そんなこと、話したことはないのに。
自分の心を落ち着かせるためにご飯を食べて、咀嚼する。
半分レトルトの中華あんかけを食べて、首を傾げた。
「どうかしたか?」
「あ、いえ、なんでもないです」
味噌汁を飲んで、首を横に振る。きっと、私の食の好みは、先輩や同僚から話を聞いたのだろう。
私達は滞りなく食事をして、一緒に片付けをした。自社製の食洗機もあるし、稔さんも手伝ってくれたので、あっという間だ。ついでにお風呂も掃除して、お湯を溜める。
さて、そろそろちゃんとお話をしなきゃ。
「み……稔さん!」
「なんだ。風呂は先にどうぞ」
「あ、ありがとうございます。じゃなくて! あの……ちょっと、相談があるんです!」
脱衣所で、ポンとバスタオルを渡された私は、慌てて話す。
「相談……。ああ、君が普段使っているシャンプーのことか? それなら、ある程度買い置きをしているぞ。確か、このメーカーを使っているんだったな?」
「そうです。このシャンプーとコンディショナーのセットが一番私の髪に合うんですよね~……でもなく! っていうか、なんで私が愛用しているシャンプーを知ってるんですかっ」
さすがにそんなことまで同僚や先輩には話していない。
すると稔さんは、少し困ったように目を伏せた。
「そうだな。さすがに気になるか。やはり説明するべきだな」
「いえ、それよりも先に私の相談を聞いてください。仕事のことなんですから」
仕事、と言うと、稔さんはスッと姿勢を正した。さすが仕事人間の部長である。纏う雰囲気もピリッと引き締まった。
「では、リビングで話そうか」
「はい」
稔さんの先導でリビングに戻ると、彼はキッチンに立って湯を沸かし始めた。
「ソファに座って待っていてくれ。紅茶を淹れよう」
「あ……お気遣いくださり、ありがとうございます」
リビングの南側には、ゆったり座れるソファがある。そこに腰掛けると、しばらくして稔さんが紅茶の入ったティーカップをふたつ、盆にのせてやってきた。
「熱いから気をつけるように」
「はい。……これって、もしかしてロイヤルミルクティーですか?」
「ああ。好きだろう? 角砂糖を三つ入れてあるが、もっと甘くしたいのなら、足すといい」
盆の上には角砂糖が入ったガラスボトルも置いてあった。
甘さはこれでちょうどいいけど、どうして私がロイヤルミルクティーが好きなことを知っているんだろう?
うーむ。なんだか稔さんって、めちゃくちゃ私のこと知っている気がする。できる部長は洞察力が半端ないのだろうか。私のデスクに、よくロイヤルミルクティーのペットボトルを置いてるところを見られていたのかな。
「それで、相談とは?」
「あ。えっと……どう言えばいいのか、自分でもよくわかっていないんですけど――」
頭の中で言葉を選びつつ、私は説明を始めた。
「なんだか勢いのままに始まってしまった共同生活も一週間が過ぎましたが、正直言って私達、夫婦って感じ、全然しないですよね? もっとも、そういう設定なだけですけど……。こんな状態で、きちんとテスターとしての役目を果たせるのか心配になっていまして」
甘いミルクティーを飲んで、俯く。
そう。私は、夫婦っていうのがどういうものか、まったくわからない。単なるシェアハウスと、夫婦として暮らすのは、どう違うんだろう?
「それに、実を言うと私、稔さんがちょっと怖いんです。あ、稔さんだけが怖いんじゃなくて、全体的に男性が苦手でして」
稔さんを傷つけないようにフォローしつつ、優しいベージュ色のロイヤルミルクティーを見つめた。
「あの、前にうちの実家で、稔さん、私のことが好き……とか、言ってましたよね?」
「ああ、言った」
「改めて聞きますけど、冗談……じゃないですよね?」
顔を上げると、隣に座る稔さんが、じっと私を見つめていた。
「冗談に聞こえたのなら申し訳ない。もっとしっかりと自分の想いを伝えるべきだったな」
「い、いえ、稔さんが冗談を言うような人だなんて思っていません。でも、理解が追いつかないと言いますかっ」
首を横に振って否定してから、私はゆっくりとロイヤルミルクティーを飲む。
甘い。私好みの甘さだからかな、少しだけ心が落ち着く。
「私、ずっと、稔さんには嫌われているって、思っていたんです」
好意を向けられているなんて、まったく感じなかった。同僚や先輩に慰められるくらい、稔さんは、いや、鷹沢部長は、私に容赦なかった。
「私がどんくさくて、仕事が遅くて、しかも満足な完成度にできないから、稔さんを苛立たせているんだって。開発部に向いてないのかな……って考えていたんです」
「七菜、それは違う。違うんだ」
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