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1巻
1-2
しおりを挟む「じゃあチューブのほう、ひとつください」
ウェットな練り餌の入ったチューブタイプのオヤツは、カリカリよりも割高だが、猫のウケは総じて良い。ライターもそれがわかっているのだろう。
チューブタイプのオヤツが貰える――!
その途端、ウバ、ジリン、モカ、キリマの目がギランと光る。
「ウニャアーッ!」
「ミャ~ン」
「ニャンニャッ!」
「ニャー!」
四匹全員が一斉に飛び上がって、ライターの下に駆け寄った。そして足元でぐるぐると回ったあと、それぞれが得意技を決めていく。
割高なチューブタイプのオヤツは、なかなか猫キャスト全員分は用意してもらえない。だからみんな必死だ。ウバはドッスンバッタンとその場でジャンプし、子猫たちがそのたび、ウバの背中でバウンドする。
ジリンは艶めかしく魅了するような声で「ナァ~ン」と鳴いて、ライターの頬に鼻チュッをしようとするし、モカはクルンと宙返り。キリマは二本足で立ってクルクルッと回ったあと、バク転する。
「ニャッ!」
「ニャー‼」
オヤツは俺のだ! いいや僕が貰う。あたしのものよ! おぬしら黙らんか。それはわらわのオヤツじゃ!
そんな声が聞こえてきそうなほど、必死に芸をする猫たち。
その光景を他の客も呆然と見て……
やがて、モカを構っていた女性客たちが血気盛んに立ち上がった。
「モカくんたら! そこまでオヤツが欲しかったのね。店員さん、あたしにもチューブのオヤツ一個ください!」
「キリマたん……! 君のためなら、僕の残り少ないお小遣いなんていくらでも払うよ。ほらおいで。店員さん、チューブタイプのオヤツ、二個!」
ビジネスマン風の男も手を上げる。次から次へと注文が来て、商売上手な花代子はニコニコと対応した。さりげなく猫ウケの良いオヤツを割高にしている辺り、相当なやり手だと美来は思う。
「なんか……今、明らかに猫っぽくない芸を見たような……?」
ライターが困惑の表情で首を傾げた。
猫は宙返りをするだろうか。バク転するだろうか。あからさまに媚びて鼻チュッをするだろうか?
美来はそっとライターに近づいて、囁く。
「げ、芸達者、なんです。えへへ……すごいでしょう。頑張って教えたんですよ」
本当は教えてなどいない。むしろ美来は『あんまり猫らしくない芸を見せないで』と毎回注意している立場だ。しかし化け猫たちはすぐ調子に乗るし、あのようにオヤツの争奪戦となれば、こぞって芸を競い合ってしまう。
(今夜も、注意しないとなあ)
そんなにオヤツが欲しいなら、閉店後にちょっとあげるよとフォローも入れておかないと。美来がそう考えていると、ライターは納得顔で頷いた。
「なるほど。猫に芸を教えられるなんて、すごいですね」
ニッコリと美来に微笑んで、花代子から購入したオヤツのパッケージを切り、ジリンに向かってペーストタイプのペットフードをひねり出す。
「ニャふっ、ニャウニャウ……」
上機嫌でぺろぺろと餌を舐めるジリンの姿に、ライターの疑念は消え失せたようだ。すっかり蕩けた顔で、ジリンを見つめている。
「ウニャッ! ニャー‼」
モカは女性客、キリマは男性客。それぞれオヤツを貰っている中、唯一食いっぱぐれてしまったウバは、必死にライターの背中をポスポス叩いていた。そんなウバの周りで、子猫たちがミャーミャーと鳴いている。
「ああ、ごめんね。あとであげるから、ちょっと待ってね」
「……ニャン」
その言葉に、ウバは渋々といった様子で返事をし、台座に戻っていった。三匹の子猫もついていく。
「――本当に、言葉が通じているみたいだなあ……」
ボソッと呟いたライターの一言で、美来の背中にサッと冷や汗が流れた。
インタビューは大切な宣伝になるが、本当にヒヤヒヤする。美来がチラとカウンターのほうを見たところ、源郎は頭痛がすると言わんばかりに、額を手で押さえていた。
○ ○ ○
閉店の時間になって、店の玄関に『CLOSE』の札がかけられる。
花代子と美来はフロアの掃除、源郎は調理場の片付けを始めた。
「今日はタウンマガジンのライターさんが来て緊張したけれど、概ね盛況でよかったわね~」
鼻歌を歌っていた花代子が、モップで床を拭きながらニコニコ顔で言う。花代子は基本的にいつも笑顔だ。
「最近は、足繁く通ってくれるお客さんも増えたね」
美来はテーブルにアルコールスプレーをかけて拭きつつ、答える。
「そうだな。モーニングタイムの常連客も増えたと思う。昔は高齢者ばかりだったが、最近は若い人やサラリーマンも多くなったな。ちょっと、メニューを検討し直そうと考えているんだ」
調理台を掃除している源郎が、相談を始めた。
「今は、トーストとゆで卵、サラダとヨーグルト、ドリンクのセットだけだっけ? 確かに、男性には物足りないかもしれないね。ガッツリ肉を食いたいとか、たまには朝カレーがいいとか、時々意見を貰うよ」
「そうね。選ぶ楽しみがあるのはいいと思うわ。ランチのカレーをモーニングメニューにも入れてみてはどうかしら」
美来や花代子が意見を出すと、源郎は「なるほど」と頷いた。
「となると、カレーの仕込み時間が今より早くなるわけか。うーむ」
「早めに寝たらいいじゃない。それか、夜のうちにやってしまってもいいわね」
花代子の提案を聞いた源郎が「確かにな」と呟く。
「わかった。とりあえず明日は、早起きして仕込みしてみるよ」
カフェの経営について気軽に会議ができるのは、家族経営ならではだからかもしれない。閉店後はいつもこうやって、後片付けをしながら反省会をしているのだ。
そして、反省会は人間だけがやるものではない。
「あ~もう、なんだよ~あの客は~。ここ最近、連日来るじゃねえか~‼」
カウンターの上でわめくのは、黒猫の姿をした猫鬼のキリマ。
「君はもう少し愛想を振りまくことを覚えたまえ。客を選ぶようでは、一流の猫キャストとは言えないぞ」
先端が二股に分かれた尻尾を交互に揺らしたモカが、静かに苦言を口にする。キャットタワーのカゴの中で寛ぐ彼を、キリマがギロリと睨みつけた。
「モカ! お前は女性客のところにしか行かねえじゃねえか! おかげで俺が、男性客を中心に媚び売るはめになっているんだぞ!」
ニャーッとキリマが怒り出すも、モカは素知らぬ顔をして、前足で顔を洗う。
「仕方がない。僕の本能は常に女性を求めているのだ」
「うわぁ~、そうやって開き直るところ、さすがは女をたらし込んでブイブイ言わせていた悪辣化け猫なだけのことはあるわね。元チャラ男っていうか~」
根元から二股に分かれた尻尾をユラユラ振るジリンは、カウンターの上でお行儀良く座り、モカを横目で見てニヤッと笑う。
「モカとて、そなたには言われたくないじゃろ。あの物書きがオヤツを買った時のジリンの甘えた声は、かつて武士どもをたらし込んだ艶声とそう変わらんかったぞ」
台座にのっしり座るウバが、呆れた声で言った。
ジリンは「にゃふっ」と笑って、尻尾を艶めかしく揺らす。すると、先端がポウとホタルを思わせる光を発した。
「あたしは接客のプロだもの。相手が男でも女でも、みぃんなあたしの魅力で骨抜きにしてあげているのよ。この店のお客は、ちょろすぎて術を使うまでもないけどね~」
「ぶっそうな術とか、絶対に使わないでね」
美来は、好き勝手に話す猫たちの輪に入り、グサッと釘を刺しておく。
「ジリン、そこをどいてよ。カウンターを拭くから」
アルコールスプレーを片手に近づくと、ジリンはあからさまに辟易とした表情になった。
「前から思ってたけど、そのあるこーる除菌って必要なの? すっごく嫌な臭いがするわ!」
「食べ物を扱うお店なんだから、除菌は必要でしょ。匂いが嫌なら家に戻っていなよ」
「そうね。そろそろご飯の時間だし。みんな、ご飯にするからおうちにいらっしゃい」
モップ掃除を終えた花代子が、パンパンと手を叩く。その途端、ジリンにモカ、ウバが一斉にピクピクッと耳を揺らし、起き上がった。
「は~い! 行く行くぅ!」
「今日のご飯は何かな。たまにはカリカリ以外も食べたいものだ」
「外側がカリッとして、中からトロリと柔らかいものが出てくる、あのきゃっとふーどがまた食べたいのう。ほれ、エメ、コナ、ブルー。参るぞ」
「みゃん!」
「みゃ~!」
「みゃう!」
ウバが台座から床に降りると、ドスンと豪快な音がする。そんな彼女の後ろに、名前を呼ばれた三匹の子猫がポテポテと着地した。
「ふぐぅっ……」
美来は思わず悶絶してしまい、額に手を当てて愛しさに耐える。
ウバの長毛に埋もれると、完全に同化してしまう白猫のコナ。ブリティッシュショートヘアの血が入っていそうな雰囲気を持つ、グレーの毛並みをした雑種のエメ。そして同じく雑種だが、マンチカンの血統が色濃く出ている、キュートな顔が特徴的な茶虎のブルー。
現在生後六ヶ月の彼らは、子猫らしい愛らしさがこれでもかというほど溢れ出ていて、美来は店の従業員でありながら、三匹の子猫にめろめろだ。
子猫たちは今年の四月ごろに『猫キャスト』として仲間入りを果たした。主にウバが面倒を見ているのだが、でっぷりした彼女の傍で団子になってじゃれ合う子猫の姿は、猫好きにはたまらない一景である。
美来だって、仕事を忘れて見入ってしまうくらいだ。客の反応が良いのは当然で、子猫目当てに来る客も多い。
「ウバが子猫の可愛さを一番わかってるところが、なんとも商売上手だよねえ。ひとしきり見せ終わったあとは、子猫を懐に隠して、お賽銭ねだるんだもん。しっかりしてるよ」
美来はブツブツ呟きつつ、アルコールスプレーをカウンターにシュッシュッとかけて、乾いた布巾で拭く。
食器を拭き終わった源郎は「そうだな」と頷いた。
「まあ、子猫どもは正真正銘の猫だし、可愛い反面、何をしでかすかわからねえ。人間の言葉が通じるはずもないから店に出すのは心配だったけど、ウバの面倒見が良くて助かったな」
ふぅ、と安堵したようなため息をつく源郎。
キッチン側に移動して源郎の手伝いをしながら、美来はクスクス笑った。
「お父さんも、すっかりウバたちに慣れたみたいだね」
「慣れざるを得ない……というやつだな」
ピカピカに磨いたコーヒーカップを戸棚に片付けて、源郎は力なく肩を落とす。
「悪いやつらじゃないのはわかってるんだが、ウバは常に偉そうな態度で命令してくるし、ジリンは何かにつけて俺をからかうし、あれだけはなんとかならんもんかね」
「あはは……。あれはあれで、親愛の証というか、みんなお父さんが大好きなんだよ」
ウバは神様だから偉そうなのだろう。ジリンのからかい癖は、もはや本能みたいなものだった。しかし、二匹とも他人には猫を被るので、本性を露わにしているということは、心を許しているのも同然なのだ。
四匹の『物の怪』猫と、自分と両親。なんとも奇妙な取り合わせだが、今のところ、仲良く暮らせていると美来は思っている。
「……そういえば、ウバたちが来て、もう一年半になるんだね」
美来がしみじみ言いながらお皿を片付けていると、洗いカゴに布巾を入れた源郎が「早いもんだな」と笑った。
「じゃ、俺も家に帰るよ。明日は早いから、さっさとメシを食いたいしな」
「うん。私はもうちょっと掃除したら行くね」
美来がそう言うと、源郎は頷き、裏口から外に出ていく。彼を見送った美来は裏口近くにあるロッカーから箒とちりとりを取り出し、玄関から外に出た。
「今日は半分……下弦の月か」
落ち着いた声色が、美来のすぐ傍から聞こえる。軽く振り向くと、夜に溶け込みそうなほど真っ黒な毛並みを持つキリマが、店の植え込み近くにちょこんと座っていた。
「キリマ。……そうだね」
目を細めて微笑んだあと、美来は『ねこのふカフェ』に面する歩道を箒で掃いた。
「ここも、ずいぶん騒がしくなったよな。俺が美来に拾われた頃は、静かなもんだったのに」
「あの頃は寂れた喫茶店だったからねえ。本当に、すっかり様変わりしたよ」
キリマを拾った時のことを思い出して、美来はクスクス笑う。
そう――すべての始まりは、彼との出会いからなのだろう。
今も美来の日課である毎朝の散歩。その道すがら、神社で見つけた捨て猫。
それがキリマだった。
喫茶店を営む父、源郎に嫌な顔をされながらも、半ば押し切る形でキリマを飼い始めて二年が経った。そして美来は、なんの因縁か、同じ神社で再び猫を拾ったのだ。
それがウバ――猫の神様である。
「ふふ、キリマが初めて私に話しかけてきた時はびっくりしたなあ」
それまではずっと、キリマは普通の猫だと思っていたのだ。正体は鬼で、猫ではなかったのだが、キリマは美来に嫌われるのを恐れて、単なる猫の振りをしていた。
……あの日、ウバが言葉を話した瞬間までは。
「まさか美来がウバを拾ってくるなんて夢にも思ってなかったよ」
「因縁の関係だったんだよね。神使……だっけ?」
「そうだ。俺もジリンもモカも、元は悪い『物の怪』だった。ウバはそんな俺たちを退治して、自分の手足として使役していたんだ。……ま、神様の力を失ったあとは、みんな逃げ出してしまったけどな」
キリマが昔を思い出すように、遠い目をして空を見上げる。
時代がめまぐるしく変わっても、星空と月の形だけは変わらない。平安時代からこの世に存在しているというキリマは、時々空を眺めて在りし日のことを思い出しているのかもしれない。
「流行らない喫茶店を猫カフェにリニューアルするってお父さんが言い出した時は、どうなることかと思ったけど、ウバが『ねこのふカフェ』の主人になるって言って、モカとジリンを呼び出してくれたから、あっという間に猫キャストが揃ったんだよね~」
「最初は渋ってたけど、雇用条件がよかったからな」
キリマが美来に顔を向けて、目を閉じて笑う。なめらかな尻尾がポンポンと地面を叩いた。
「ねこのふカフェを社に見立てた、お賽銭大作戦の始まりだったねえ」
ウバは、人からの信仰心をなくしたがゆえに、神としての力を失った。
つまり、人間の信仰心を再び集めることができたら、神の力も戻るのだ。
どうやら、賽銭というのは手っ取り早く信仰心を集めることができる方法らしく、台座と賽銭箱を用意し、ウバを奉る気持ちで賽銭を投げてもらうと、神の力が少しずつ取り戻せるのだとか。
キリマやジリン、モカは、かつてウバに退治された時、物の怪としての力をすべて奪われてしまった。
『わらわの力が戻れば、おぬしらから奪った力も戻せるだろう』
ウバの一言で、三匹の気持ちは決まった。自分の力を取り戻したい一心で、化け猫たちは気持ちをひとつにして、接客に励んだのだ。
空になったコップに一滴ずつ水を落としていくような毎日の積み重ねにより、ウバは力を取り戻していった。そしてキリマたちに力を返すことができて、彼らはかつての能力を使えるようになったのである。
猫又のジリンと仙狸のモカは、人間に変化し、魅了する力を。
猫鬼のキリマは、人間から病を吸い取る力を。
「力を取り戻した途端、ジリンがさらわれたり、黒い猫鬼が現れたり、大変な目に遭ったよねえ」
「……あれはもう、忘れてくれ。なんか、一から十まで思い出すと、恥ずかしさのあまり、ゴロゴロ転がりそうになってしまう」
キリマがぺたんと伏せの体勢になって、そっぽを向いた。
美来は思わずクスクスと笑う。
「キリマ、一生懸命だったもんね」
掃き掃除を終えた美来がしゃがみ込んでキリマの頭を撫でると、彼は三角の耳を寝かせて、気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
『ねこのふカフェ』が開店して、しばらく経った頃。街では野良猫や飼い猫が失踪するという事件が増えていた。
猫を集めていたのは、八百年もの間、ひとりの女性に取り憑いていた猫鬼。
己の存在を維持するために、猫鬼は猫を体に取り込んでいたのだ。美来たちはその事件に巻き込まれ、ジリンがさらわれたり、美来が死病の呪いを受けたり、それによってキリマが自分を犠牲にしようとしたりした。
結果的に、美来の機転によって呪いは解かれたのだが……
キリマとしては、体を張って美来を守ったにもかかわらず、逆に美来に救われてしまったので、嬉しいやら恥ずかしいやらと、なかなか複雑な心境らしい。だからあの時のことが話題に出ると、キリマはすぐに雲隠れしようとする。よほど思い出したくない過去のようだ。
あの事件があって、源郎や花代子もウバたちが『物の怪』であることを知った。
花代子は面白がったが、源郎は冗談みたいな現実をなかなか受け入れることができず、しばらくの間、頭を抱えていたものだ。
だが、ジリンとモカがしつこく源郎に構ったことで、ようやく現実を受け入れることができた様子。やや荒療治に近かったが、今ではすっかり受け入れているので、結果オーライかもしれない。
ちなみに、コナとエメ、ブルーの三匹は、件の猫鬼が取り込んでいた猫である。どうやら三匹とも野良猫だったらしく、引き取り先が見つからなかったのだ。
そんなわけで、美来は三匹の猫をペット兼猫キャストとして飼うことを決めたのである。
幸いと言っていいのか、ウバが世話役を自ら担い、子猫たちもウバを母猫のように慕っている。キリマが言うには『神様は基本的に面倒見がいい』のだそうだ。
「私はね、今がとても幸せだと思っているよ」
美来は柔らかく、手触りの良いキリマの小さな頭を撫でて、人差し指で喉をさする。
「うう……」
キリマが目を瞑ってゴロゴロと喉を鳴らす。彼は鬼であると同時に猫なので、気持ち良く撫でられると、本能的に喉を鳴らしてしまうのだ。
「キリマがいて、ウバがいて、ジリンとモカがいる。お父さんとお母さんと私で、仲良く猫カフェを経営している。この現実がね、夢みたいに幸せだなあって思っているんだ」
「……俺も、幸せだよ」
美来に抱き上げられたキリマがボソッと呟いた。そして夜空を仰ぎ、アイスブルーの瞳でどこか遠くを見つめる。
「永遠に続いてほしいくらいだ。でも時々、この幸せが怖くなる」
「え、怖いの?」
美来が尋ねると、腕の中でキリマはしゅんと頭を垂れた。
「ああ。物事には必ず終わりが来るからな。だから俺は、いずれ来る幸せの終焉に恐怖している。何よりも美来と離れることが……怖いんだ」
キリマは、いずれ来る別れを予感しているのかもしれない。
美来は、猫鬼の寿命を知らない。だが、前に出会った猫鬼は、八百年の時を生きていた。だから、美来が年を取って生涯を終えてもキリマは生き続けるのだと思う。
「そっか……。動物の猫と違うのは、ある意味では辛いことなんだね」
普通は、残される側は人間であるはずだ。猫の寿命は、人間よりも短い。
けれども、相手が猫鬼となれば立場が逆になるのだろう。
キリマを優しく撫でていた美来は、ぎゅっと彼の体を抱きしめる。
「私は、キリマのその気持ちにどう答えたらいいかわからないけれど……」
先に死んでしまう立場としては、どんな言葉をかけても無意味に思えた。
キリマをひとりぼっちにしたくない。
彼を置いて死にたくない。そんな気持ちは持っているけれど、できないことは口にしたくない。
だから美来は、ニッコリと笑顔になって、キリマを見つめた。
「今の私にできることは、キリマやみんなと、仲良く楽しく生きることだと思うよ。先のことを考えて……悲しみながら生きるのは、辛いことだから」
人差し指でキリマの鼻先をさすると、彼はくすぐったそうにプルプルと首を振る。
「……そうだよな。俺も、そう思う」
キリマは静かにそう言って、顔を上げた。
形の良い三角形の耳がぴるっと動いて、アイスブルーの瞳が美来に向けられる。
「ごめんな。俺、どうしても悲観的になってしまうみたいだ」
「キリマは私より長生きだもん、仕方ないよ」
クスクス笑って、美来はキリマの顔に頬を寄せた。猫独特の、ふわふわの匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくり目を閉じる。
「長生きだから仕方ないって……どういうことだ?」
美来の顔にすり寄りつつ、キリマが尋ねた。
「私のおばあちゃんも、時々悲観的だったの。年を取ると、物知りな分……なかなかポジティブ思考になれないんだろうねえ」
すでに故人となっている祖母を思い出しながら美来が言うと、ゴロゴロと喉を鳴らしていたキリマが、ピクッと耳を震わせた。
「ちょっ、ちょっと待て! 俺を年寄り扱いするな!」
「え、おじいちゃんじゃないの? だって平安時代の生まれなんでしょ?」
「おじいちゃんって言うなあ!」
夜の静寂に、キリマの切ない慟哭が響く。
「でも、平安時代から生きてるなんて、人間からしたらかなり長生きだし……」
「人間と一緒にするな! まったくもう」
キリマは憤然と三角の鼻を鳴らし、プイッとそっぽを向く。
翳っていたキリマの表情が幾分か明るくなって見え、美来は優しく目を細めた。
彼の小さな頭を撫でてから、箒とちりとりを片手に店へ戻る。
その間際、キリマはそっと横目で空を見上げた。
黒い空。ちらほらと瞬く星と、下弦の月。
「……今、この時が。俺の生涯において、一番の幸せなんだろうな」
まるで大切な宝物を守るように。おいしいごちそうを噛みしめるみたいに。
美来に抱かれたキリマは、静かに目を伏せた。
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